2020年2月28日金曜日

2020/02/27 研修第13日 ロスチャイルド邸宅

北イタリアでのコロナウイルス感染者の大量発覚で、われわれがこの前の日曜日に行ったマントンのレモン祭が中止になった。そして今週土曜が最終日だったニースのカーニバルの中止も今朝になって決まった。
ネットで見ると日本の状況はさらに凄まじいものになっていて、我々が出国した二週間前とはまったく異なる世界になってしまったかのようだ。人の集まるイベント類は雪崩をうって中止になっている。われわれはいわばぎりぎりのタイミングで日本を出国できたのかもしれない。研修の実施が一週間遅くなっていれば、もしかすると学校もわれわれの受け入れを躊躇していたかもしれないといったことを考える。

昨日はエズで「コロナ」と罵られた学生がいたそうだ。私にはいまのところ、そういう人とは遭遇していない。アジア人でも中年のおっさんとなると、そういった目にはあいにくくなるようだ。

学校の授業は今日と明日の午前中で終わりだ。私は今日の午前中は学会発表の要旨の執筆を家でやっていた。研修期間中、細切れ時間に少しずつ進めてきたがなんとか要旨は締め切りまでに書き上がりそうだ。やる気になれば細切れ時間でもなんとかなる。

学校のカフェテリアでの昼食は、先日、家の食事でも食べたかものコンフィを添えたカスレ。配膳のおばさんがソーセージを余分に一本おまけしてくれた。嬉しいけれど、これではダイエットできない。フランスでダイエットはやはり難しい。来週、アイルランドでは四旬節らしいものしか食べないようにしようと思う。
フランス人についてはなんのかんの悪口を言いたくなってしまうのだけれど、ニースの人たちはやはり気さくで開放的で愛嬌がある人が多いように思う。この6年、毎年里帰りのようにニースに来ていて知り合いも増えたが、歓迎の意を態度ではっきり示してくれるのはこちらも安心するし、嬉しい。食堂のおばちゃんとおじちゃんも私の「味方」だ。日本人の学生が笑顔で「メルシー」、「ボンジュール」とおじちゃん、おばちゃんに声をかけるのが、とても感じがいいと前に言っていた。

午後はミキオ企画で、フェラ岬にあるロスチャイルド家邸宅へ行った。これは任意参加で、私ともうひとりの付添のKさんを含め13名が参加した。6名は欠席。ロスチャイルド家邸宅にはバスでも行けるが、今回は列車を使った。最寄り駅は先日学校の遠足で行ったヴィラ・ケリロスと同じボーリュ駅だ。この2つの20世紀はじめの邸宅は近くにあって、セットの入場券もあるのだけれど、なぜかアジュールリングァの遠足ではヴィラ・ケリロスだけ行って、ロスチャイルド邸宅には足を運ばない。
駅からロスチャイルド邸宅まではけっこう遠かった。記憶ではもっと近かったように思ったのだが。グーグルマップで二キロちょっと。グーグルマップの指示通りの道を歩いていくと、行きはかなりの坂道を登ったり降りたりしなくてはならなくて体力を消耗した。また今日は天気が悪かった。風が強くて、途中から雨も降ってきた。

邸宅では1時間ほど過ごす。強風のため庭園の一部が閉鎖され、邸宅自体も補修工事で見られない部分があったのがちょっと残念だった。またこれまでは朝の開園直後にここに行っていたので、いつもガラガラの邸宅と庭園をじっくり見学できたのだが、今日は団体客がかなりいてざわざわして落ち着いて見られなかったもの残念。18世紀のロココ美術のマニアだったロスチャイルド家末裔のベアトリスが、使いたいだけのお金を使って自分の趣味を凝縮させた夢の邸宅であり、庭園だ。ヴィラ・ケリロス同様、ディテイルまで徹底的にこだわったその趣味のよさと贅沢さには驚嘆するしかない。金を使うのであれば、こんな使い方をしたいものだ。この楽園でベアトリスが過ごしたのはたしかごく数年間だったはずだが、それでも彼女は満足だっただろう。


その規模は、パリ近郊のヴェルサイユやヴォー・ル・ヴィコント、シャンティイなどの17世紀の王侯貴族の城に比べると小さいが、今回あらためてそれらの城とロスチャイルドの邸宅を見比べてみると、国王貴族の城館と庭園は壮麗で巨大ではあるものの、単調であまりに人工的に見える。ロスチャイルド邸宅は、作り手の思想や美学がぎゅっと凝縮されていて、華やかさと趣味の良さのなかに持ち主の人間を感じ取れるような気がした。

行きはグーグルマップに従い岬の山側の道を通ったが、帰りは海沿いの遊歩道を歩いて駅に戻った。帰り道で天気が回復し、海は青色を取り戻した。その風景の美しさと言ったら。寒かったし、歩き疲れたけれど、見に来てよかったと思った。

ニースに戻ったのは18時前でいつもより早い。私はさっさと家に戻って、学会の発表要旨の原稿を書いた。



2020年2月27日木曜日

2020/02/26 ニース研修第12日 エズ村とガリマール香水博物館

たくさん食べた日になってしまった。
研修二週目の中日である。学生も疲れている感じがあるが、私もちょっと疲れている。午前中は学生が授業が受けているあいだは、家で学会発表の要旨の執筆のための勉強をしていた。また学校の事務所で、授業最終日に交付される受講証明書の氏名確認の依頼(けっこう間違った氏名で登録されているのだ)と帰国日に各家庭に迎えに来る時間の確認をした。
「フランス人を信用していない」といったことを度々書いているが、それはフランス人と仕事をするとき、こちらが相手に期待したしかるべきことができていないことを想定し、先回りして確認する必要があるからだ。
例えば学校との関係だと、契約して受講料を振り込んでおけば、あとは向こうにすべて任せておけば万事うまくいくといったものでは必ずしもない。なにかトラブルがあった場合、向こうが責任をもって対処してくれるなんてことも期待しないほうがいい。向こう任せにしておくとかえってこちらが混乱し、振り回されてしまう。というような経験が何回かあった。この研修でも常にうまく行かない場合はどうするかは考えている。そしてトラブルがあっても最終的に帳尻が合えばOKみたいな考え方をしている。

いつもは学校そばのカフェテリアで学生たちと昼飯を食べるのだが、今日の昼は学校の校長にランチを誘われていた。その誘い方が先週末に授業の休み時間に偶然彼と学校の中庭であって、「今週の水曜日、ランチに行こう」と口頭で言われただけだったので、昨夜「明日、ランチに一緒に行くということでOKですね?」と確認のメールを出しておいた。しかしそのメールに返事がない。北イタリアのコロナウイルス騒動でキャンセルが大量に出て、その対応で私とランチどころではなくなったのかと思い、昼休みにも校長の姿がなかったので、学生たちといつものようにカフェテリアに行った。カフェテリアで並んでいると後から来た学校のスタッフが「ミキオは昼に校長とランチの約束してたでしょ? 校長、待っているよ」と言われ、学校に戻るがやはり校長の姿は見えない。受付の研修生に「校長はどこにいる?会う約束があるんだけど」と聞いたけれど、わからないという。入れ違いになったのかなと思っていたら、会議をやっていたらしく、昼休みがはじまって30分ほどしてから校長がようやく姿を現した。

学校の近くにあるニースの郷土料理の店に連れて行ってもらった。前菜はニースの郷土料理のおかず的なものの盛り合わせ。イカを揚げたものが美味しかった。主菜はタコの煮物を頼んだ。これはご飯と一緒に食べる。今日は灰の水曜日で、四旬節の始まりでもあるので、肉を選ばなかった。タコの煮物もご飯にとてもよく合う。ニース飯もうまい。

校長は日本からの受講生をもっと増やしたいと考えている。それで私に協力を求めてきた。私は今回で6年連続で15名ぐらいの学生をこの学校に連れてきて、二週間の研修を行っている実績がある。個人で受講する日本人はパラパラいるが、私のグループ以外で日本人の団体はいないとのこと。今回、研修の申込みをしたときに、学校の事務所から、私以外にこうした団体研修をやる人はいないかとか、日本人の研修生を探しているという依頼はあった。

私には日本人向けの広報書類のチェックと日本における代理店みたいなことを期待しているようだが、まだそのかたちははっきりしない。
アジュールリンガには世話になっているし、私としても協力できることは協力したいとは思っている。しかしどこまで、どのように関与できるかは、わからない。今の研修は、私自身のフランス語教育の実践の延長・総括のようなつもりでやっている。研修プログラムやステイ先については学校と綿密に打ち合わせをしているし、航空券の手配も私がやっている。準備のための作業量は膨大だし、実際に学生に付き添うということの身体的負担も大きいのだけれど、この研修の実施によって、私はフランス語の教員として大きな充実感を得ているし、学校側のスタッフ、ホームステイ先の人たち、学生たちとの交流のなかで、私自身の成長や発見があるということが重要なのだ。

代理店的な立場で完全にビジネスとして研修事業をやるというのは、自分としては違うような気がする。もちろん少ない労力と時間で多大な報酬を得られるというのであれば話しは違うが、ビジネスというのは相応の時間と労力をつぎ込む覚悟がないとうまくいかないように思う。しかし労力と時間を投入するのであれば、私には収益性は乏しくてもやりたい別のことがある。また現在私がやっている研修とほぼ同じ内容のものを、まったく自分とは関わりのない人たちを対象に企画・実施できるかといえば、それは不可能だ。

実は学校からこうした依頼があるのは今回がはじめてではなくて、これで三回目だ。ところが一回目、二回目も、思いつきのようにこちらに来たとき提案はされるけれど、それっきりでその後、本気で事業を進めていこうとする粘りがない。下手な鉄砲数打てば当たる、みたいな感じでとりあえず言ってみて、やっぱり面倒くさそうだからそのまま立ち消えという感じなんで、今回もその可能性があるのではないかと思っている。一回目のときは学校のウェブページの内容をすべて日本語訳して渡すという作業をしたけれども、結局それも生かされぬまま、立ち消えになってしまった。また骨折り損みたいなことになるのではという気もして、「まあできることがあれば協力します」みたいな返事をしておいた。

午後は学校主催の遠足で、バスでエズ村に行った。南仏にある鷹の巣村と言われる崖山の山頂付近に作られた石造りの密集村落のなかでは、最もよく知られた村だ。村の頂上にあるエキゾチック庭園からの展望では、地中海を見渡す素晴らしい景観を楽しむことができる。エキゾチック庭園に40分ほどいたあと、ふもとにあるガリマール社の香水博物館を見学した。最後に製品の販売がある。香水博物館の規模はごく小さいが、香水製造の歴史や過程がかなり詳しくかつわかりやすく説明される。

夕食は学生たちと西アフリカ料理を食べに行った。研修期間中、何回か外食する機会があるが、そのたびに違う学生を誘って食事をするようにしている。学生たちは学生たちだけで外食をしたりしているようなんで、私と飯を食べるのは窮屈で楽しくないかもしれないが、一回5、6人で一通り全員と会食する機会を設けている。食べるレストランは私が自分の食べたい場所を選ぶ。西アフリカ料理の店は、自分のステイ先のすぐそばにあり、かつて一度だけ入ったことがあった。そのときは子羊肉のヤッサを食べた。他にもいくつか料理があるが、一人では一回に一種類しか食べられない。そこで今回は学生たちを誘って一気に数種類の料理を試してみたかった。

西アフリカ料理は基本的に日本人の舌に合うものだと思う。私は今回はコートジボワールの料理であるケジェヌを注文した。シチューみたいな料理だ。副菜は色々選択肢があるのだが、この料理にはこの副菜とだいたい決まってるらしい。私はバナナが食べたかったのだが、店員の勧めでアチュケというクスクスのようなものを副菜に選んだ。
下町にある大衆食堂で、顧客は黒人客ばかりだ。そんな店に突然日本人7名が入ってきたのだが、店員はニコニコして実に気持ちよく迎えてくれた。感じのいい店だ。ケジュヌも美味しかった。唐辛子ベースのソースをつけるとさらに美味しい。この唐辛子ソースが欲しい。ボリュームもたっぷりで、お腹いっぱいになる。
学生たちもかなりのボリュームだったのに全員がほぼ完食していた。

2020年2月26日水曜日

2020/02/25 ニース研修第11日 ニース現代美術館

研修一週目は午後や週末の遠足等の行事をきちきちに詰め込んだが、二週目は緩やかなスケジュールにしている。今日は午前中はいつもどおり授業、午後はニース市内になるニース現代美術館に行った。これは学校主催の企画だ。学校主催の企画のときは学校のアクティビティ担当者が同行するのが原則だが、今日はニース市内で歩いていけるところで、私は毎年行っている場所なので、私が学校から美術館に見せる必要な書類をもらって引率することになった。

「Azurlinguaから来た。予約済みだと口頭で言えば、それで入れるはず」と言われたが、実際には美術館窓口の人は愛想が悪くて、学校から預かってきた書類を見せても「合計で学生が何人で、引率が何人か?」「ちゃんと予約してきたのか?」などと難癖をつけてくる。なんとなくだがフランスの公立美術館のスタッフというのは感じのいい人が少ないように思う。フランスではサービス業は全般にスタッフの態度がよくないところが多いのだけれど、業種によって感じのいいとこと悪いところがかなりはっきり分かれている感じする。公立劇場のスタッフ、薬局の薬剤師、医者は私の経験では、嫌な思いをすることはあまりない。あとケバブやクスクスなどのエスニック系大衆料理の店の人たちも。私がこの手の料理が好きなのは、そこで働いている人が相対的に感じがいいというのもあるかもしれない。逆に不愉快な思いをすることがちょくちょくあるのが、美術館の窓口、SNCFやメトロなどの公共交通機関の窓口、郵便局窓口など。パリやアヴィニョンの観光客向けのレストランやカフェの店員にもいやな思いをしたことは度々ある。ニースなど南仏のレストランやカフェではあまりない。

北部イタリアのコロナウイルス感染者のこともずっと頭にある。昨夜テレビのニュースを見ると、この問題についてはかなり詳しく報道していた。隣国で大量感染者ということで一気に緊張感が高まった感じだ。ニースはイタリア国境と近い町なので、イタリアとの往来は盛んだ。フランス人の多くは「フランスでも感染者がいないはずがない」と思っているだろう。

ニース現代美術館の目玉はこの町出身で、青色のモノクローム絵画で知られるイブ・クラインの作品なのだが、残念ながら今はイブ・クラインの展示室が工事のため閉鎖されていて、見ることができなかった。青色一色がべたっと塗っているだけの作品だが、現代美術館の白い壁面にゆったりとした間隔で展示されているイブ・クラインの「青」は、現代美術にそれほど関心のない者でもハッとさせるような鮮烈さ、そしてひきこまれてしまうような深さを感じさせるものだ。それこそ見せたかったものなのだけれど、仕方ない。現代美術館は、屋上庭園からの眺めも目玉と言える。ニースには高層の建物がないので、6階建てのビルぐらいの高さしかない現代美術館の屋上庭園からも見事な町のパノラマを楽しむことができる。

現代美術館のあとは、学生5名とネグレスコ・ホテルのバーにまた行った。先週行ったのとは別の学生だ。本当はここには全員連れてきたいのだけれど、十数人連れてぞろぞろ入るような場所ではない。バーだけでも風格があっていい感じなのだが、やはりこのホテルの見どころはバーの奥にある大広間だ。バーで何かを頼むと、この大広間を見ることができる。バーで飲むコーヒーは8ユーロ。ケーキも一緒に頼むと20ユーロを超えてしまうが、奥の大広間とその周囲に展示されている芸術作品の鑑賞料込と考えれば、これくらい支払う価値はあると思う。20世紀初頭のベル・エポックの贅沢さを堪能できると思えば。
個人的にはこここそニース観光の穴場であると思っている。

ネグレスコ・ホテルの大広間や他の広間を見学したあとは、近所にある私がいつもお土産を購入するチョコレート屋に寄る。妻のお土産のチョコを購入した。

コロナウイルスと発表要旨の執筆が進まないことに起因する憂鬱をのぞけば、平穏な日だった。

2020年2月25日火曜日

2020/02/24 ニース研修第10日 シャガール美術館

第二週目に入った。
イタリア北部のロンバルディア州で多数のコロナウイルス感染者が見つかり、いくつかの都市への交通が閉鎖された。これは私たちの研修を受け入れている語学学校にも大きな影響をもたらした。イタリアからやってくるはずだった受講生の大量キャンセルがあったのである。イタリアにほど近いニースにあるフランス語語学学校ということで、イタリアの高校生の団体はコート・ダジュールの語学学校にとっては最重要の顧客のはずだ。その多くがコロナウイルスのせいで研修を取りやめてしまったのだ。コロナウイルスの問題が長引くと、大学付属の語学学校はともかく、経営基盤の弱い私立の語学学校はこれからどんどん潰れていくだろう。

語学学校には中国人の研修生も多数いる。彼らは中国への帰国便がキャンセルになってしまったため、予定していた研修期間が終わったあとも引き続き残ることを余儀なくされているという。
われわれのグループの学生たちは次の日曜日にエミレーツ航空でドバイ経由で帰国の予定だが、もしかするとドバイ乗り継ぎの際、日本人ということでかなり厳しいチェックが入るかもしれない。

授業は二クラスのうち、一クラスの先生が変わった。先週担当していた教員が休暇に入ったからだ。今日は授業の様子は学生たちには聞かなかった。疲れは出てきているかもしれないがたぶん問題なくやっていると思う。

昼飯は豚の血のソーセージ、ブダンを選択。美味しかった。

午後は学校の企画はなく、私の企画で学校から20分ほど歩いたところにあるシャガール美術館に行った。参加は任意で希望者のみということにした。シャガール美術館はこじんまりした規模だが、シャガールの作品のなかでも名品が揃っている。美術館には一時間ほどいた。見終わってもまだ午後3時前だ。


まっすぐ家に帰ってもつまらない。数人の学生と旧市街までぶらぶら歩いて行った。旧市街に着くと、ばらけた。学生たちは買い物に行ったようだ。私はオペラ座のチケット売り場に行き、今週金曜に見るオペラの学生用チケットを引き取った。学生用チケットは一人5ユーロだ。学生チケットは公演の数日前にオペラ座のチケット窓口でしか普通は購入できないのだが、私のグループは毎年オペラ座の担当者と事前に連絡を取り、チケットの取り置きを特別にしてもらっている。ニース・オペラ座に毎年来る日本人団体観客はわれわれぐらいだろう。担当者の判断でこうした便宜を図ってくれるのがフランスのいいところだ。

オペラ企画は私の企画で自由参加だが例年ほぼ全員の学生が参加する。ニースのオペラ座でオペラ・デビューというのは悪くないと思う。

オペラ座でチケットを引き取った後は、海岸に行き、海をぼーっと一時間ほど眺めていた。ニースの海岸の風景は本当に美しい。何度来ても見飽きない。こんな美しい海岸に市街地から徒歩数分で行くことができるのがニースの素晴らしいところだ。

学会発表の要旨、まだ切り口が思い浮かばず、一字も書けていない。憂鬱だ。早く書き上げてこの憂鬱さから解放されたい。

毎日長距離歩いているので体はちょっと疲れている。でも健康。今年は夜遊びを控えて、体力を温存している。
穏やかで事件のない一日だった。

2020年2月24日月曜日

2020/02/23 ニース研修第9日 マントン

イタリアとの国境の町、マントンに遠足に行った。学校の企画ではなく、片山個人企画としての遠足だ。2名が不参加で、17名が参加。

マントンではニースのカーニバルと同時期にレモン祭というのをやっている。内容はパレードとオレンジとレモンを多数使った巨大なモニュメントの展示の二本立てだ。

マントンへはニースから列車で40分。まず観光案内所に赴いて、レモン祭のチケットを購入し、会場と町の地図を貰う。このレモン祭の日は大勢の観光客がやってくるので、町中のレストランが満員にならないうちに昼食の場所を確保するのが大事だ。17名を3組の班に分けて、パレードが始まる14時半までそれぞれの班で食事を取るということにした。

私の班は私を含めて6名。グーグルマップで検索して、評価が高くて近場にあるレストランを選んだ。旧市街のふもとの海岸沿いにあるフランス料理の店に入る。前菜+主菜+デザートで25ユーロ。日本の感覚だとかなりぜいたくなランチになるが、フランスの観光地のランチでフランス料理だとこんなものだろう。開店10分前に店に到着した。
予約がないとテラス席に案内できないと言われ、屋内の席に座る。私は前菜は骨髄、主菜は牛肉の蒸し煮(Daube)を頼んだ。観光地マントンのレストランのスタッフの応対は感じがいい。味はまあまあ。骨髄はドロッとしていて味がしつこい。ドーヴはボリュームに不満。フランス料理は何を注文してもそこそこ美味しいけれど、私は今ひとつものたりない。フランス料理ならもっとお金を出さないと美味しいものは食べられないのだろう。私は同じ値段ならやはりエスニックや大衆料理系のほうが好きだ。学生たちは満足した様子だった。

レモン祭のパレード見学は一時間ほどで切り上げる。なぜか今年は気分が今ひとつ乗らなくて、パレードをあまり楽しめない。ニースのカーニバルよりマントンのレモン祭のパレードのほうが好きだったのだけれど。毎日運動量が多くて身体的にちょっと疲れている。また研修の責任者として神経はずっと張り詰めているので、精神的な疲労も当然ある。疲労はあるけれど、生活自体は毎日早寝早起きをし、太陽を浴びているので健康的だ。学会発表の要旨の執筆の締め切りが来週末なのだが、発表の切り口をまだ見つけられておらず、終わりが見えないのでそれでちょっと憂鬱な気分になっている。

パレードを一時間ほど見たあとは、レモン・オレンジのモニュメントの展示会場に50分ほどいた。前までは午前中に展示を見ていたが、カーニバルのあとのほうが人が少なくて入場がスムーズだ。

マントンにはコクトー美術館があり、ここのコレクションはバレエ・リュスの舞台挿絵など個人的に非常に興味深いのだけど、5年前に一回行ったきり、足を運ぶ時間が取れない。今回も行けなかった。モニュメントの展示会場を出たのが4時過ぎ。このままマントン駅に行くと、レモン祭帰りの客で駅は大混雑になる。例年、帰りの大混雑で消耗していたので、今回はマントン駅よりも2キロほどイタリア側にあるマントン・ガラヴァン駅まで歩き、そこから列車に乘ってニースに帰ることにした。
ガラヴァン駅に行く途中にマントン旧市街のそばを通る。今回はマントン到着が遅かったのと、昼食に時間をかけてしまったので旧市街を散策する時間はなかった。コート・ダジュールの町の旧市街はどれも趣深いが、海を見下ろす坂道に形成されたマントン旧市街の味わいは格別で、私はとても好きな場所だ。聞くと私たちは別に食事を取った学生たちも旧市街を見ていないようだし、買い物もする時間がなかったと言う。
ニースに戻る時間が遅くなってしまうのが気になったが、40分の自由時間を取ってこの周囲を自由に散策ということにした。

旧市街からガラヴァン駅までは海沿いの道を歩く。景観が美しいので2キロほどの道のりは苦にならなかった。ニースには18時半ごろ着く。

ホームステイ先の今日の夕食は、マダガスカル料理だ。ホストファミリーのマダムのお母さんと妹が家に来た。マダガスカル郷土料理はお母さんが作った。この家族は25年前にマダガスカルからニースに移住したとのこと。この家の旦那はフランス人とマダガスカル人のハーフで、生まれはパリだけれど、マダガスカルで育っている。家族内の会話はマダガスカル語とフランス語の両方で行われている。
前菜もマダガスカルのものだが、名前を忘れてしまった。ひき肉といものハンバーグみたいな料理だ。メインは豚肉のルガイ。ご飯と一緒に食べる。実にうまい。特性の唐辛子ソースを少し加えるとさらにうまさが引き立つ。お腹がはち切れそうになるほど食べてしまった。ニースに来てから食べたもののなかで一番好きだ。日本人だったらたいていの人はこの料理は好きだと思う。
ステイ先ファミリーの夫婦二人、そのお母さんと妹、14歳の息子が、まるでけんかするみたいな勢いで早口でおしゃべりしている。14歳のエヴァンの言ってることはさっぱり理解できない。彼の言葉が理解できるくらいフランス語が上達したいものだ。



2020年2月23日日曜日

2020/02/22 ニース研修第8日

土曜日なので授業はないが、学校主催の遠足でカンヌに行った。Azurlinguaの遠足は基本的に鉄道を使う。午前9時半にニース駅で待ち合わせ。学校の遠足担当のレアがわれわれを引率する。
土曜日のカンヌへの一日遠足も6年前から毎年同じだ。カンヌはニースからローカル線で45分ほどのところにある。ニースよりこじんまりした町ではあるが、ブルジョワ度はニースよりはるかに高い。港には個人所有の高級大型クルーザーが多数停泊している。世の中にはこうした船を所有しているお金持ちがこれほど多いとは。
カンヌ駅に到着すると、海岸にある映画祭会場にまず向かった。あいにく「ゲーム・フェスティバル」というので映画祭会場は占拠されていて、レッドカーペットの階段で写真を取ることはできない。このあと、カンヌの町の一番古い地区である高台に上る。ここには12世紀の教会と古城がある。

高台からカンヌのマルシェまで降り、ここでいったん解散。昼食時間として2時間の自由時間となった。これまではカンヌの町でサンドイッチなどを購入して、カンヌ沖合のサント=マルグリット島に渡った後、野外で昼食というパターンだったのだが、今回はゆったり食事時間が設定されているのでサンドイッチの昼食ではもったいない。市場をブラブラしていたときに会った学生3人を誘って、レストランで昼飯を取ることにした。

学生のひとりが明日ホストファミリーのお母さんの誕生日なので何か買いたいと言うので、グーグルマップでチョコレート屋を探して、そこでまずプレゼント用のチョコレートを買うことにした。そのチョコレート屋まで歩いていると、「ミキオ」と呼ぶ声が聞こえる。ニースで知り合った友人で、月曜日夜に飯を一緒に食べたイザベルだった。彼女はカンヌのメガネ屋に勤務していて、「土曜日の遠足時に寄れたら寄る」とは言っていたものの店の場所をちゃんと確認していないかった。チョコレート屋までの道筋で偶然、彼女の店の前を通って、彼女が気づいて声をかけたのだサン=トノラ島 (Île Saint-Honorat)った。
イザベルの店に入って写真を撮る。

チョコレート屋でプレゼント用のチョコを買うのにつきあったあと、そのすぐそばにあったフランス料理屋に入り、昼食を取った。店の内容はシックで、店員も感じがよかったっが、メニューは典型的な大衆的フランス料理屋だった。値段も高くない。ランチはコーヒー付きで14ユーロ。私はフィッシュ・アンド・チップスを食べる。見た目通りの味。まあまあ。
昼食後は船で15分ほどのところにあるサント=マグリット島に渡る。ここは17世紀終わりに鉄仮面が収監されていた牢獄がある。鉄仮面の話はフランス人なら誰でも知っているけれど、日本では案外知られていない。という私も6年前にカンヌに来たときに、鉄仮面の話を聞いて、「そういえばそんな話を聞いたことがあるなあ」と思ったのだが。サント=マグリット島は、鉄仮面の牢獄がある博物館の周りに立ち並ぶ19世紀の兵舎が面白い景観を作り出している。海は澄んでいて美しい。島では2時間ほど過ごした。

サント=マルグリット島の沖合にあるサン=トノラ島はフランスで最古の修道院がある場所なのだけれど、ここにはまだ行ったことがない。

島からカンヌ市街に戻ったのが午後5時前。30分ほど映画祭会場のショップで時間を潰した後、ニースに列車で戻る。

平穏な一日だった。ひとり体調を崩して今日の遠足に参加できない学生がいた。研修一週目は詰め込みすぎぐらいいろんな行事を詰め込んでいる。ホームステイの慣れない環境での生活でストレスもあるだろう。これからまた体調を崩す学生が出るかもしれない。私は毎日歩くので肉体的には疲れているけれど、こちらでは早寝早起きの健全な生活なので体調はいい。今回はあんまりはしゃぎすぎないよう気をつけている。体力温存したいため、夜遊びもしていない。来週オペラを見に行く予定があるくらい。

体調を崩した学生の様子が気になったが、発熱はないみたいだということで、ちょっとほっとする。

2020年2月22日土曜日

2020/02/21 ニース研修第7日

普段の授業では学生とじっくり話をする機会はほとんどない。週に1、2コマの語学の授業で会うだけだし、授業のあとにごく短い時間、質問などを受け付けるぐらいだ。それも「あの、出席大丈夫でしょうか?」みたいなやりとりがほとんどだ。
ニース研修では二週間、同じ地ですごし、少なくとも週日の昼食は一緒に取るので、私にとっては若い学生たちに向き合って話を聞く貴重な機会となっている。話してみると「ああ、いろんなこと考えているんだなあ」と啓発されることは少なくない。

今日は金曜日だったので第一週目の授業の終了日だった。学生たちもこちらの学校の授業スタイルにだいぶ慣れてきたようだ。時間が立つのが早い。もう一週間たったということは、研修期間の半分が終わったのだ。

午後は学校主催の遠足でニースから列車で15分ほどのところにあるボリュ・シュール・メールとヴィルフランシュ・シュール・メールに行った。どちらもコート・ダジュールの町のなかでは小さな町で観光地として知られている場所ではない。しかし学校主催の遠足で行く場所では、私はこの小さな2つの海辺の町への遠足が一番好きだ。
「美しい場所」Beaulieuボリュという名前はナポレオンがつけたらしい。町が形成されたのは19世紀後半のベルエポック期で新しい町だ。小さい町ながらお金持ちの町でもあり、カジノもある。ボリュの見どころはヴィラ・ケリロスという20世紀初頭に考古学者テオドール・レナックが、紀元前4世紀の古代ギリシャの貴族の邸宅をモデルに建設したゴージャスな別荘だ。古代ギリシャ文明の愛好者であった彼は、持てる知識と莫大な金額を投入して、海辺に贅を凝らした、そして驚くほど趣味がいい別荘を建築した。この付近は20世紀初頭に建てられた豪華で趣味のよさが凝縮された別荘が他にもある。そのなかでもヴィラ・ケリロスの美学が突出して洗練されたものだと思う。
6年前にはじめてニースの研修を行って以来、毎回ヴィラ・ケリロスは訪問していて、来るたびにその壮麗さとシックな趣味のよさに驚嘆している。コート・ダジュールはベル・エポック期のブルジョワ文化の精髄ともいえる建造物がいくつもあるが、ヴィラ・ケリロス、ロスチャイルド家別荘、ネグレスコ・ホテルの大広間はその代表だろう。破格の贅沢というのものの素晴らしさを味わい知ることができる場所だ。

ボリュでヴィラ・ケリロスを見学したあとは、列車で一駅先にあるヴィルフランシュ・シュール・メールに移動し、城塞と旧市街を見学した。この町は岬を挟んでニースのとなりにある小さな海沿いの町だ。崖が海のすぐそばまで迫っていて、その崖の斜面のようなところに細長く旧市街が形成されている。街路の一部が建物の下のトンネルになっているのが特徴的だ。ブルジョワの別荘地だが、第二次世界大戦中は多数のユダヤ人の芸術家がナチス・ドイツを逃れ、この町に避難したと言う。ニース近辺がムッソリーニが指揮するイタリア・ファシズムの支配下にあった時代は、この地に亡命したユダヤ人は迫害を逃れることができたようだ。イタリア・ファシズムが撤退し、ナチス・ドイツがフランスを掌握すると、この地にいたユダヤ人は収容所送りとなった。

夏はバカンス客で賑わうが冬のヴィルフランシュはひっそりしている。城塞まで上って旧市街に戻ったあと、30分ほど自由時間とした。私はカフェでお茶を飲んだ。独特の景観の旧市街と美しい海、そして城塞がコンパクトにまとまっている。地味な町だけれど、私はこの町の雰囲気が好きだ。

今日は学生と引率Kさんと6名で、ニース駅南側にあるモロッコ料理屋で夕食を取った。この店のクスクスが私は大好きなのだ。昨年は店が休業していて、食べに来ることができなかったので二年ぶりの来店だ。店主は私を覚えていた。
学生たちははじめてのクスクスだったが、美味しそうに食べてくれたので、私も満足。私は子羊肉のクスクスを食べた。

2020年2月21日金曜日

2020/02/20 ニース研修第6日目

コロナウイルスがらみのアジア人差別には遭遇していない、と昨日書いたが、学生たちはそうでもないようで、昨日のカーニバル花祭りのときや道を歩いているときに「コロナ」と言われたり、「中国人」と呼ばれたりなどをしていることが、今日になってわかった。若い女性に対して通りがかりに言ったりするのだ。さすが差別者はやることが卑小かつ卑怯だ。どうせなら私にそういった言葉を投げつければいいのにと思う。時間の余裕があれば相手をする用意はあるのに。

一組、ホストファミリーを変わることになった。いろいろ細かい生活上のルールを威圧的に命じられ、学生がそのストレスに耐えがたくなったのだ。その生活上のルール自体は、シャワーの制限時間やトイレットペーパーの使用量が多いすぎるだの、ケチ臭いフランス人がいかにも言いそうなことで、フランス人的感覚からすると「常識」の範囲内ということなのかもしれないが、その言い方には問題があったのだろう。だいたい日本人の女子学生というのは、この学校に多いイタリア人などに比べるとはるかにおとなしくて行儀がいいはずなのだ。彼女たちの話を聞くと「でもこちらも至らないところあると思うし」とステイ先を変えることを躊躇している。彼女たちが「至らないところがある」のがステイ先で問題なら、他の人間は至らないところだらけだ。高圧的な大家のまえで萎縮したままあと一週間以上過ごさせるわけにはいかないと思い、ホームステイの担当者に新しいステイ先を探すように頼んだ。午前中に新しいステイ先の確認が取れ、午後の遠足のあといったん元の家に戻り荷造りを終えてから、新しい家に移ることになった。ステイ先の変更自体、彼女たちにとっては大きなストレスだが、ずっと居心地の悪いところに居続けるよりはずっといいはずだ。

午前中は学生たちが授業を受けているあいだは、自分の研究発表の準備をしていたけどはかどらず。
昼食はシュークルトだった。これは美味しかった。


午後はニースから列車で25分くらいのところにあるアンティーブに学校主催の遠足にいった。今日はニース市内のバスとトラムがストで動いていなかった。アンティーブにはSNCFで行くが、SNCFもストで間引き運転をしていてニース駅を出たのが午後3時半すぎになってしまった。アンティーブではピカソ美術館に一時間滞在しただけになってしまった。こじんまりした美しい町で、個性的な商店も多く、ピカソ美術館だけ見てさっさと帰るのはもったいないところなのだが。ピカソは中世には司教館だった石造りの城館に、1946年以降住んだそうだ。アンティーブのピカソ美術館に収蔵されているのは、ピカソがプリミティブアートに関心を持つようになって以降の作品であり、子供の落書きのような平面的なデッサンが多い。


ニースに戻ったのは午後7時前になった。ステイ先を変更する学生に同行して、トラブルがあった家まで行く。学生たちが荷造りをしているあいだ、家のマダムと話をする。陽気で快活で、まあ普通の南仏のおばあさんという感じだ。意地悪な感じはしなかったけれど、私に対する態度と学生たちに対する態度が違うというのは十分あり得ることだ。やたらと細かい生活上の指示をいちいちしていて学生を萎縮させていたわけだが、謙虚な日本人学生とは違い、「私にも至らないところがあったかもしれない」などということは微塵も言わない。聞きたいこと、頼みたいことがあるなら、google 翻訳を使うなどして、ちゃんと伝えてほしいけど、ニコッとわらってOK、Ouiしか言わないから。みたいなことを言っていた。また彼女に対して愛想よく接してくれていたのに、今日になってステイ先の変更を申し入れられてびっくりした、とも。それはわかる気がする。しかし学生たちの立場に立つと、向こうの家に住まわせて「もらっている」、生活上のルールは向こうに従うのが当然、フランス語でコミュニケーションを取らなくてはならない、となると権力関係では大家のほうが上なわけで、自分の意志や要望を伝えるのは難しいだろう。なまじ学生が「いい子ちゃん」タイプだったので、過剰に相手の要求に応えようとしたのが逆にストレスになったのかもしれない。あと人には愛想よくしなくてはならない、という身体化された観念に、相手が外国人、権力関係上ということで、縛られすぎたということもあるか。

おっさんの私はいろんな面で図々しくなっているし、基本的にフランス人というのを心の底では信用していないというのがあって、こういった過剰な気の使い方を他人にすることはない。特に今回のように学生たちを引率する場合は、フランス人の都合を学生たちの都合より優先させてはならないというのを、原則としている。それでもやはり、自分はフランス人に対してはかなりのいい子ちゃんを演じてるという感じはある。
若い日本人女性だとなおさらに違いない。若い日本人女性でいるというのは、大変なことだなあと思った。わたしがまずやることのないような気苦労を彼女たちはしているに違いない。


新しいステイ先は、私たちが到着する日に家にいなかったため、急遽キャンセルになった家だった。すっぽかしたのだ。家を移る学生たちは不安そうだ。そりゃそうだ。私も大丈夫かなあと思うが、急な変更だったので彼女しか引き受けてがなかったようだ。

オンボロの自動車で新しいステイ先のマダムが迎えにきた。場所は前の家より町の中心部に近いところだ。旧市街のすぐそばでロケーションはいい。受け入れ先は建物の外観は古びたボロアパートだったが、中は古いながらもきれいに掃除されていて、何部屋もある大きなアパルトマンだった。複数の学校から数組の滞在を受け入れているとのこと。

「なんで先週の土曜、われわれが到着したときにいなかったのか?」と聞くと、「時間を勘違いしていてイタリアに買い物に行っていた。ごめん」との返事。
今度のマダムは下町のおばちゃんという感じで、ダミ声でよくしゃべる。学生たちの夕食だけでなく、私の夕食も用意があったので、私もそこで夕食を食べて帰った。親切そうなマダムだが、過剰なおしゃべりにつきあってちょっと疲れた。学生たちが懸念していたフロ・シャワーも前の家とは違いいつ入ってもいいし、時間の制限もないということで、学生たちはほっとした顔をしていた。ここではトラブルなく、うまくいくといいなと心から願う。

あと列車で定期入れをすられたと学生から連絡あり。SUICAや学生証などが入っていたらしい。現金、クレジットカードの類は大丈夫だったとのこと。定期入れは残念だが、これは警察に届けても戻ってくる可能性はほぼないし、海外旅行保険の補償の対象にもならないだろう。盗難でいやな思いはしただろうが、これはあきらめるしかない。

飯を食って家に戻ると、22時を過ぎていた。

2020年2月20日木曜日

2020/02/19 ニース研修第5日目

学校がはじまって三日目。特に大きな問題はない平穏な日だった。
私たちが日本から出国するちょっと前から、日本国内におけるコロナウイルスの感染が大きく報道されるようになり、これがフランス人が潜在的に持っているアジア人に対する差別意識と結びついていやな思いをするのではないかと懸念していたのだけれど、実際にはアジア人を露骨に避けるみたいな事態には遭遇していない。学校やステイ先はもちろん、遠足で町中を集団で歩いているのだけれど、こちらを避けたり、嫌悪するような視線は感じたことはない。昨日モナコに遠足に行ったとき、ヨーロッパ人観光客がわれわれを見て、手で口と鼻を覆って足早に通り過た、と学生が言っていたが、私はそれを確認していない。

2003年にSARSが流行ったときに私はパリに留学中だった。このときはフランスのメディアではセンセーショナルな報道がされ、パリでアジア人が警戒されるみたいな空気を感じたのだけれど、ニースではそんな感じはない。町中の店でもあの南仏特有のオープンで人懐っこい感じそのままだ。

フランスにあるフランス語の語学学校は基本的に外国人学生を対象としていて、その外国人にはもちろん中国人も含まれる。今、われわれが通っているAzurlinguaにも中国、韓国からの留学生が何人か通っている。休み時間に彼らのうち数人と話をした。フランスの語学学校でアジア系の人がいると、見た目が似ているというだけで私はなんとなく親しみを感じる。フランス語・フランス文化を学ぶ東洋人という共通点で、なんとなく共有できるものがあるような気がするし、実際に話しかけてみても感じの悪い中国・韓国人にはこれまで私は会ったことがない。Azurlinguaの若い中国人学生も感じがいい。ただコロナウイルスを話題としては出さなかった。


今日の午後は学校主催の遠足はない。ニースのカーニバルのプログラムのひとつである花合戦を学生たちと見に行った。全員参加ではなく希望者のみ。17人の学生のうち、14人が参加した。花合戦は要は山車のパレードで、ニースの春の花であるミモザをその山車にのった美女たちが観客たちに投げるという趣向がある。ニースのカーニバルは1876年にはじまり、今年が第136回だ。断食の時期である四旬節がはじまる前日の「脂の火曜日」にそれまで貯蔵してた肉類を食べ尽くし、どんちゃん騒ぎをするという風習は中世から確認されているが、大規模なパレードを主体としたカーニバルがはじまったのは19世紀の終わりだ。ニースは19世紀には避寒地としてロシアやイギリスの金持ちたちが冬に滞在するリゾートだったが、1870年の普仏戦争のあとにリゾート客が一気に減ってしまった。それで落ち込んだ観光客を取り戻すためにカーニバルを始めたそうだ。ちなみに今ではニースをはるかに凌駕する規模のリオのカーニバルは、ニースのカーニバルを見たブラジル皇帝がそれを模倣して始めたそうだ。

「カーニバルを見られるよ」ということで学生を集めているところもあるので、ニース研修では毎年カーニバルを見に行く。私は6回目ということになる。正直に言うと、食傷している。ニースのカーニバルは有料であるため、お祭りといっても地元の人々が楽しむのではなく、ほぼ完全に観光客向きのイベントとなっているのも、興をそがれるところだ。「大頭」と呼ばれるはりぼての巨大な「ねぶた」のような人形の行進など、民俗的な風習とのつながりを感じさせる要素もないわけではないけれど、祭りとしての無秩序なエネルギーの爆発は乏しいのが残念だ。昨年は公的なカーニバルのほかに、Lou QueernavalというニースのLGBTたちによる自主企画のカーニバルがあって、それが公式よりはるかにアナーキーで面白かったのだが、今年は残念ながらQueernavalは開催されなかった。

カーニバル花合戦のパレードは2時間ほどで終わる。カーニバル終了後は、学生二人と同行教員のKさんと一緒にイギリス人遊歩道沿いにあるニース随一の高級ホテル、ネグレスコ・ホテルのバーに行った。このホテルのバーと大広間には毎年行くことにしている。私としてはこここそがカーニバルよりはるかにニース観光の目玉だ。ただ場所が場所だけに、学生を十数人ぞろぞろ連れて行くような場所ではない。毎回、数名ずつ希望者を募って、連れて行く。

ネグレスコ・ホテルのバーでお茶を飲めば、ネグレスコの客としてその奥にある大広間を見学することができる。コーヒーの値段は8ユーロでそれほど高くはない。この大広間の空間設計とその周囲の廊下に展示された美術品が素晴らしいのだ。ネグレスコ・ホテルの大広間は、ニースにあるベル・エポック期の壮麗さを代表するものの一つだろう。


バーに入って、窓際の広めの席に座ろうとすると、若いウェイターが「そこは予約席なので、こちらに座ってくれ」と狭い丸テーブルの席に案内された。案内されて一度座ったものの、「バーに予約席?そんなもんほんまにあるのかな?」と思う。別のウェイターがわれわれの席にやってきて、「4人でしたらもっと広い、あの窓際の席にどうぞ」と案内してくれた。案の定、予約席などなかったのだ。こういうことをされると、かっと頭に血が昇る。注文をしたあと、最初のウエイターが横を通り過ぎるときに呼び止めて、「ここのテーブル、誰かが我々のために予約してくれていたんだね」と皮肉を言うと、ごにょごにょとなんか言い訳していた。こういうことをするウエイターはちょくちょくいる。

カフェでお茶を飲んだ後、サロンを見学。女性三人にはトイレに行くことも勧める。このホテルのトイレの装飾がとても豪華でかつユニークだからぜひ見てほしかったのだ。

ネグレスコ・ホテルを出た後、その近所にある私がいつもニースでお土産を買うチーズ屋とチョコレート屋に彼女たちを案内した。チーズ屋さんは残念ながら臨時休業、チョコレート屋はやっていたが、スタッフが前と変わっていた。ただおいてある定番の商品は前と同じものだ。聞くと昨年の10月にこの店を買い取って新しいオーナーになったとのことだた。ニースにある数件のチョコ屋でチョコをお土産に購入したことがあるが、妻曰く、この店のチョコが特に独特の風味があって美味しい、ということだ。

今日はあまり歩かなかったので元気だ。
夕食は鮭のソテーにバジルの入ったソースを絡めたものに、ネギのクリーム煮とご飯。やはりすこぶる美味しい。私の家族関係、夫婦関係が食事のときの話題になる。「なんでミキオばっかり一人でいろんなところに行っているんだ? 妻と一緒に旅行したりはしないのか?」とか。「妻は働いていて、長期の休みが取りにくい。休暇をとっても彼女は旅行よりも、家で休む方を望む」と言うと、サプライズで航空券をプレゼントして旅行に誘ってはどうか?と言う。私自身の旅行は自分の研究の演劇かフランス語が必ず絡むものなんで、純粋にバカンスとしての旅行は実はまったくする金銭的・時間的な余裕がないのだけど、向こうにすると家族でバカンスを取らないというのはどうかしているんじゃないか、という感じのようだ。私の滞在先のマダガスカル人一家は、裕福ではないだろうけれど、それでも年に一度は家族4人で海外にバカンスに出かけている。今、書きながら思ったのだが、彼らは生活におけるバカンスに対するプライオリティが極めて高いのだ。

あとは妻にとっては私より子供二人のことのほうがはるかに優先度が高い、私は私、妻は妻の世界をそれぞれ別個に持っていて、目下、二人の共通の世界といえばそれは子供のことになる、と話すと、「いずれ子供は独立していなくなる。そうなると夫婦だけの生活になる。二人で人生をどう過ごすかを考えることは必要だろう?」と至極まっとうな忠告をされる。全くそのとおりだ。私自身もそうは思うのだけれど、妻にはそういうことを優先して考える余裕が今はない、みたいな答えをした。

フランス人とだと、私がつたないフランス語しか話せないがゆえにいっそう、こういったことを率直に議論できるのが面白い。日本人とはこういう議論はなかなかできないだろう。ホームステイってのはしてみるもんだなと思う。

2020年2月19日水曜日

2020/02/18 ニース研修第4日

研修期間中は日中のスケジュールが決まっているし、ホームステイで他人の家での暮らしなるため、必然的に規則正しい生活になる。23時に寝て、朝6時に起きる。日本にいるときは午前2時、3時まで起きていることが多かった。睡眠時間が4−5時間になることが多く、昼ごはんを食べたあとや夕方に猛烈な眠気に襲われる。一日7時間連続してきっちり睡眠を取ると、日中に眠気に襲われることはない。

到着日やその翌日、そして学校初日の昨日はバタバタしたが、二日目となる今日以降はある程度ルーチンができてくるので、こちらの気分もだいぶ落ち着いてきた。週日は、午前中は学校で授業、昼ごはんをカフェテリアで一緒に取って、午後は学校と私が企画した遠足などのイベントという流れになる。

午前中に語学学校で学生たちが授業を受けているあいだは、私は滞在先で自分の勉強をしていた。エントリーした学会発表の準備をこのニース滞在中にしなくてはならないのだ。本当は私も語学学校の授業に出たいのだけれど。出れば自分のフランス語の訓練になるだけなく、こちらの学校の講師の教授法を知るという点でもいろいろ得るものがあることは過去の体験からわかっている。この学校は一週間単位で登録可能で、毎週月曜に授業がはじまる。毎週受講生が入れ替わるので、固定した教科書を進めていくのではなく、その受講生のレベルやニーズに合わせて教える側が教材を用意し、一週間で一つのテーマを完結させるようにプログラムを作る。

初日沈黙に陥りがちだったクラスは、今日は学生たちも徐々に講師のやり方に慣れてきて、昨日よりはよい雰囲気だったみたいだ。このクラスの講師が研究熱心で意欲的なことは、私は数年前に彼女から映画を使ったフランス語授業の研修を受けたのでよく知っている。受け身で反応がはっきりしない日本人学生とよい関係を作り、授業を活性化させるのは、彼女にとってもやりがいのある挑戦だと思う。日本人とは逆にイタリア人、スペイン人とかだと、それぞれが好き勝手にわれもわれもとぎゃあぎゃあ話すので、それをコントロールして学習に向き合うための秩序を作るのがけっこう大変だと聞いた。

もう一つのクラスは学生たちが意欲的に発言しようとしている感じだが、授業の雰囲気になじめなくてつらい思いをしている学生もいるようだ。本当はいろいろな国と地域の人が混じったクラスのほうがそれぞれの文化的な違いが作用して面白いのだけれど、今回は学校側の都合か、この時期に他の国・地域から来ている受講生のレベルが高いためか、混成クラスにならなかったのは残念だ。

午後は学校主催の遠足でモナコに行った。われわれのグループを引率するのは、昨日に引き続き遠足担当のレアだ。「14時集合にする?」と聞かれたのだけど、早めにニースに戻りたかったので13時半集合にしてもらった。
モナコはニースから電車で30分ほど東に行ったところにある。急斜面が迫る海岸沿いに細長く伸びる町だ。モナコ公国という立憲君主制の独立国であり、フランス共和国の一部ではない。F1グランプリレース、カジノとモナコ大公の宮殿で有名な観光国家で、タックスヘイブンでもあり、世界中からお金持ちの人々がこの国に移住している。後ろに山が迫る海辺の町という構造はコートダジュールの他の町と変わらないが、フランス共和国の町とはちがい、町中は清潔で汚れていない。ゴミや犬の糞も落ちていないし、匂いもない。小ぎれいな町だ。

今回の遠足は町の西側高台にあるモナコ大公宮殿広場に登り、そこから大聖堂をまわって、20世紀はじめのモナコ大公が作った海洋博物館を見学するというもの。時間があればカジノなどがある東側のモンテカルロに行くのだが、そこに行くにはまた下まで降りて上ってとなり時間も食うので、今回は行かなかった。
モナコは美しい町ではあるけれど(海に面した狭い斜面に高層建築が立ち並ぶ独特の景観だけでなく、清潔できれいという意味でも)、私にはその佇まいはあまりに人工的に整備されたように感じられ、面白みを感じない町だ。町並みに生活感が希薄なのだ。観光客の目を楽しませるだけにわざわざ整備されたような薄っぺらさ、よそよそしさを感じてしまう。コート・ダジュール観光では定番中の定番なので、毎年モナコには来ていて、春の研修旅行だけでなく、夏の研修でも来ているので、これで8回目ぐらいになる。でも観光で一回来れば十分すぎる町だ。


モナコからニース行きの列車は人身事故がニースの一つ先の駅であったとかで、なかなか動き出さなかった。18時過ぎにニースに着。学生たちのうち何人かは今夜はステイ先ではなくレストランで夕食を取るとのこと。せっかくステイ先で飯が出るのにわざわざ外食なんてもったいない、とか私などは思ってしまうのだけれど、フランス人との食卓というのはたとえその家のご飯が美味しくても、学生たちにとっては他人の家の飯でしかもフランス語会話を強いられるということで、多少なりともストレスになっているのかもしれない。

私も外のレストランで食べたいものはいくつもあるのだけど、ステイ先の夕食が美味しいので外で食べるがもったいないとも思う。何回かはそれでも外で食わざるを得ないのだが。私が滞在するマダガスカル人家族の家の飯は、肥満の私には犯罪的なほど美味しい。共働きの夫婦が交互に調理をしている。今日はミートボールのパスタという一見どおってことのないご飯だったけれど、すこぶる美味しかった。マダガスカルの唐辛子ペーストをちょっと乗せると風味が増して、さらに美味しくなる。週末はここの奥さんのお母さんがマダガスカル料理を作ってくれるというのでこれも楽しみにしている。

このマダガスカル人の家には今回が3回目の滞在なので、他人の家ということで気を使うところはないではないが、年相応に図々しくなっていることもあり、ほぼ自分の家感覚で気楽に過ごしている。学校のある昼間は家族の人が家にいないので、勉強などしやすいし、学校のすぐそばにあるという利点も大きい。

この家は継続的に語学学校の「下宿生」を通常は一、二週間、長いときは数カ月単位で受け入れている。それが日常で当たり前になっているわけだが、家に常に他人が暮らしているというのはストレスにならないのだろうかと思ったりもする。この家の夫婦はまだたぶん30代後半で、14歳と11歳の二人の子供がいる4人家族だ。家族構成は私の家と同じだが、うちの家で同じようにホームステイを受け入れることができるかといえば、家の間取りや部屋数の問題はともかく、うちでは到底他人と共存する生活は無理だと思う。食事の用意自体、かなり面倒なのだが、他者の存在を意識しながら常に心のどこかで「よそいき」の生活をするストレスに我が家の人間は耐えられないだろう。

2020年2月18日火曜日

2020/02/17 ニース研修第3日

月曜日。今日から語学学校の授業が始まる。学生たちには朝8時半までに学校に行くように伝えていた。今回は17名の学生を2クラスに分けて貰った。フランス語を学んで一年目と二年目以上の学生が混じっているけれど、会話能力という点では学生たちのフランス語力それほど大きな差があるわけではない。

授業初日の今日は、私は授業を受けるわけでないのだが、ちょっと緊張して憂鬱だった。学校側から先週の金曜の夜、私たちがすでに飛行機に乘っている時間に送信されたメールに「突然で申し訳ないが、プログラムに小さな変更がある。新しいスケジュールは添付ファイルを参照のこと」というのがあったからだ。添付ファイルを開いてみると、2週目の授業が午前から午後に変更され、遠足が午後になっていた。これまで常に授業は午前、遠足が午後に設定されていたのだから、この変更は小さなものではない。授業が午後になると、現地での生活の組み立て方が根本的に変わってしまう。

こんな大きな変更を「小さい」変更と記して、その変更の理由を示していないのが、非常に不愉快だった。「二週目には午前中の授業を行わない? これは「小さな」変更とは言えない。明確な理由の説明もなしにこういう変更を受け入れることはできない。この件については月曜日に責任者と真剣に討議する必要がある」という返事をすぐに送った。

学校側のクソみたいな言い訳を聞いて、それに反論して、変更の撤回まで持っていく面倒な「けんか」をしなくてはならないかなあと思って気が重かったのだ。こういうことはこれまで何回もやってきた。

メールを書いたのは今年学校に正規雇用になったばかりの若い女性のスタッフで、朝、学校で私に合うと、ちょっと警戒したような硬い雰囲気があった。授業プログラムの責任者とはこの研修プログラムが始まった6年前から知っている中だ。お土産の「キットカット抹茶味」(学校へのお土産は毎年これで、ミキオといえば、キットカット抹茶味という具合になっている)をその授業担当責任者に渡しながら、この件について彼に確認し、二週目の授業を午後にすることは受け入れることはできないと伝えた。すると「ちょっとすぐにはわからない。午前中は新しい受け入れ学生のレベル分けテストで忙しいので、あとで確認して、午後にこの件について返事する」ということだった。結果的には2週目の授業は従来通り、午前に行うと昼前に彼から連絡があった。

私の伝え方がちょっと攻撃的過ぎてギクシャクしてしまったかなと思ったが、交渉ごとにおける私のこうした攻撃性はフランス人によって育まれた面もかなりあるような気がする。日本ではこの攻撃性がマイナスになってしまうことが多い。一応気をつけていはいるのだけど。

という出来事はあったのだけど、6年前から毎年来ているので学校のスタッフの多くとは顔見知りで、知り合いの誰もが私の再訪を歓迎してくれ、こちらの気分も高揚した。2014年の夏から、二週間の滞在とはいえ、ニースにはこれで9回来ているのだ。神戸の実家より頻繁に行っているわけで、今やニースは私の第二の故郷、ville d'adoptionと言ってもいい。

学生たちのレベルは、ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)でA1ぐらいと伝えていた。おとなしい日本人学生の特性は学校はすでに理解している。月曜にレベルチェックのテストをする年もあるのだが、今回はそれを省いて月曜の最初から授業をやってもらった。ここの学校のスタイルは、教科書を使うのではなく、学生の反応を見ながら臨機応変に教える内容を調整していく。コミュニケーション主体の内容だが、真面目に文法を勉強している学生には内容的には易しすぎると感じられるかもしれない。イタリアやドイツからの受講生がこの学校には比較的多いのだが、言語的に近いためにとにかくよくしゃべるが文法は近いがゆえにかえってまったく身につける気がない欧米系の学生と、文法的な枠組みを通して外国語を理解していく日本人学生は対照的だ。まだ初日で学生たちも緊張がある。
学生たちに話を聞くと、一つのクラスはうまく学生たちのバリアを打ち崩せたようだ。もう一つのクラスは「沈黙の壁」にちょっと先生が苦戦している感じがあるようだ。

昼食は学校と道を挟んだ裏側にあるカフェテリアで取る。このカフェテリアでは語学学校だけでなく、近隣の契約した企業や官庁のスタッフしか利用できない。前菜+主菜+パン+デザートで、それぞれ何種類かあるうちから選ぶ。パリの一般的な大学食堂と比べると、味もボリュームもかなりいい。フランスは外食が高いので、受講料に昼飯も含まれているのはありがたい。

午後は学校のプログラムでニース旧市街の散策と果物のシロップ漬けなどの砂糖菓子の工場・販売所の見学を行った。われわれのグループをガイドしたのは、授業プログラム変更の件で私とメールのやり取りをした若いフランス人女性スタッフだった。ここ数年では一番丁寧に説明をしてくれた。そもそもフランスのこうした観光ガイドツアーでは、けっこう真面目に参加者は勉強させられてしまう。歴史や文化的背景について、教育的にきっちり説明するのが、フランスのスタイルなのだと思う。
ガイドが真面目だったので、私も今年は例年より若干丁寧に通訳をした。案外、学生は聞いていた(ように見えた)。ニースにはしょっちゅう来ているのだけれど、旧市街と海の風景を見ると、毎回、なんて美しい場所なんだろうと思わず感嘆の声を上げてしまう。今日も天気がいい日で、濃淡の異なるツートンカラーのニースの海はとても美しかった。風情ある旧市街からほんの数分歩いただけで、美しい海岸に出ることができるのがニースの魅力だ。

旧市街と海を見た後は、町を見下ろす城山の展望台に行き、そこから山を挟んで旧市街の裏側にあるニース港に面したところにあるお菓子工場、フロリアンに行った。このお菓子工場の見学を楽しみにしている学生は多かったようだ。

ここで生産されるお菓子は、チョコレートとこの付近で採れる果物や花を使った砂糖菓子だ。チョコレートの原料であるカカオを除くと、地元の天然素材しか使わず、職人たちの手作業で手間をかけて丁寧に作られている。その工程をガイドつきで見学していく。作業場のレイアウトが昨年から大きく変わっていて、その工程がよりわかりやすくなっていた。工場というよりは、職人が手作業でやっているので作業場という感じだ。見学の最後には、直売所がある。ここで商品を買ってもらうという手はずになっているのだ。
天然素材だけをつかった職人の手作り菓子ということで、安全で美味しいけれど、値段もそこそこ高い。私がここではお土産を買わなくなったのは、工程や材料を知っているとこれらの菓子のありがたみがわかるのだが、家族にお土産で渡したとき、スーパーのポテトチップスのように無造作にぼりぼりと食べられてしまって、その値段にみあう「すごさ」を感じ取ってもらえないことに失望したからだ。「うん、けっこういけるね」みたいな感じで。


お菓子工場見学のあと、解散。歩き回って、私は疲労困憊した。フランス人は歩くのも早い。たったか、たったか目的地まで早足で歩くので、よけい疲れるのだ。
私がニースに5年前に来たときからずっと工事中だったトラム2号線に乘って、家の近所まで戻る。トラム2号線は空港とニース市街地を結ぶ路線で、ニース市街地では地下鉄になっていた。ニースに新しい地下鉄というのはミスマッチな感じがした。

夜はニース在住の友人と彼女の恋人と3人で飯を食べた。彼女には6年前、私がフランス語教員研修のためにはじめてニースに2週間滞在したときに知り合った。その研修には日本フランス語教育学会の推薦で参加したのだが、私はこれでニースに来ることはもうないだろうと思い、研修後に3泊ほど個人旅行としてニースに滞在した。宿泊先は駅の北側の庶民的な地域にあった。夜に地元の人が食べに来るような雰囲気のレストランに入って、出てきた飯の写真を撮ったりしているときに、隣のテーブルに座っていた彼女と彼女の当時の夫に声をかけられたのが知り合ったきっかけだ。そのときはかれらと同じテーブルで飯を食べてそれで終わりかと思ったのだけれど、その数ヶ月後に彼女と彼女の友人が東京に旅行にやってきて一緒に遊ぶということがあり、関係が途切れなかった。ニース研修をやってみようと思ったのも、彼女との出会いが影響している。なんとなくニースとは縁があるような気がして、この縁を持続させたいと思ったのだ。
それ以後、ニースに来るたびに彼女に会って飯を食べるようになった。彼女は3年前に夫と離婚して、新しい彼氏がいる。離婚の原因はハンサムな美容師の夫が、同じ美容室で働く女性と不倫したことだった。彼女はそれが判明すると即座に別居。しかし別居後、3ヶ月ぐらいで今の彼氏と付き合い始めた。前の夫とのあいだには、娘が一人いたのだが、娘は彼女と住むことを望まず、不倫相手と再婚した夫の家で過ごしていると言う。
彼女の新しい彼氏も離婚した独身男性で、十代の息子が二人いる。彼女と彼は結婚はしていない。
彼女は離婚以来、娘とはまともに口を聞いていないそうだ。娘は離婚自体が許せないようだと言っていた。夫の家に住んでいるが、夫と娘の関係もよくないと言う。

というようなフランス人家庭の細々とした話を聞くのが興味深くて、彼女との付き合いは続いている。日本の着物や帯の素材を使って、服をデザインするのに彼女ははまっていて、ここ数年は古着の帯や着物を買って持ってくることを頼まれる。古着のサイトで彼女好みの帯や着物を選んで購入し、それをスーツケースに入れて持ってくるのは、正直ちょっと面倒なのだけれど、エキセントリックな彼女の話を話を聞くのは面白いし、こういった付き合いもまあいいかと思って、関係が途切れないようにしている。また彼女は私をニースに結びつけた恩人ともいえる。ニースと知り合って、わたしの人生は大きく変わったので。彼女を通じて知り合った彼女の友人たちにも自由でユニークな人がいて、彼らとの付き合いも続いている。





2020年2月17日月曜日

2020/02/16 ニース研修第2日

昨夜は11時に就寝し、朝6時頃に目が覚める。トイレに行ったあと、午前7時までまた寝た。日本からフランスに行くときには時差ボケはほとんど問題ならない。到着初日がちょっと眠たくてしんどいだけで、翌日からは普通に生活できる。時差ボケが問題になるは私の場合はフランスから帰国した後だ。

今日は日曜日で学校はまだ始まっていない。昨年に引き続き、私個人の企画でニースを起点とするローカル私鉄、プロヴァンス鉄道でニースの北西にある要塞村、アントルヴォーに行くことにした。この村はかつてはサヴォア公国とフランス王国の境界にある軍事的要衝で、17世紀にフランス各地に見事な要塞を残している築城家ヴォーヴァンが砦を築き、村全体を要塞化した。
SNCFのニース駅の北500メートルほどのところに、プロヴァンス鉄道のニース駅、Nice CP駅がある。フランスでは珍しいこのローカル私鉄については、以下のブログで詳しく記されている。
https://homipage.cocolog-nifty.com/map/2018/04/i-81b0.html

集合場所をNice CP駅としたのだけれど、昨日ニースに着いたばかりで土地勘のない学生たちにとってはここまでやってくるのはけっこう大変なことのようだ。昨年は一組の学生が道に迷って出発時間までに駅にたどり着くことができなかった。今年も若干懸念があったのだが、全員出発前に駅に集合することができた。
アントルヴォーまではニースから90分ほどかかる。週末しかアントルヴォーに行く列車は運行しておらず、一日数本しかない。
昨年は工事中区間があるということで、途中から鉄道会社の代替バスでアントルヴォーに行った。今年は特にウェブページには代替バスの情報はなかったので、全線鉄道でアントルヴォーまで行けると思っていたのだが、やはりニースから30分ほど行った地点から代替バスだった。代替バスは鉄道の線路にほぼ並行して、川のそばの谷間の道路を走るのだが、この道路がかなり曲がりくねっている。そこをかなりの猛スピードの乱暴な運転で走るので、学生たちの多くは乗り物酔いの状態になってしまった。私はあまり車酔いはしないほうなのだけど、今回はちょっと気分が悪くなった。

9時25分にニースCP駅を出て、アントルヴォーに着いたのが11時前だった。アントルヴォーの村は前方は川に区切られ、後方は急勾配の山で遮られている。後方の山の頂上には砦が築かれていて、そこにはジグザグの石畳の道が伸びている。建築は17世紀のものだ。村のなかでは、斜面に密集して5−6階建ての古い石造りの建物がぎっしり並んでいて、実に絵画的、インスタ映えする風情のある景観を形作っている。

観光地・リゾート地である海岸から離れているためか、このピトレスクで独特の景観にも関わらず観光客は多くない。日曜日には商店やレストラン、観光案内所も休みでひっそりとしていて、観光へのやる気も余り感じられない。

まず村をみおろす山頂にある砦に昇ることにした。石畳のジグザグ道を昇るのはかなり大変で、汗だくになった。砦までは20分ぐらいかかった。砦からの見晴らしは素晴らしい。観光資源としてはかなりのものだと思うのだけど、砦の内部はあまり整備されておらず、落書きだらけの廃墟と化していた。第一次世界大戦中はこの砦が捕虜となったドイツ人軍人の監獄として使われていたそうだ。

観光案内所が開いていれば、川に沿って村を取り囲む城壁を見学できたのだが、日曜で観光案内所は休みだ。城壁内には通路があって村の歴史を再現した興味深い展示があるのだが。砦に上ってしまうと、あとはぶらぶら歩いても一時間ぐらいで回れる村を散策するぐらいしかすることがない。帰りのバスが4時19分なので、3時間半以上をつぶさなくてはならない。昼飯をどこで食うのかがまたちょっとやっかいだ。
昨年は村内の数軒あるレストランで開いているのがクレープ屋一軒だけだった。クレープ屋といっても日本のものとはちがって、そば粉を使ったガレットを出すレストランだ。そのクレープ屋はグループ全員を収容できなかったので、2交代で店に入って食事をしたのだった。
https://thumbnails-photos.amazon.co.jp/v1/thumbnail/v0XBAp09QeGlendwJfbIgA?viewBox=642%2C642&ownerId=AD47RRPX0CEHO

今回はクレープ屋以外にアントルヴォーの郷土料理のセッカを出す店が開いていた。セッカとは牛肉の生ハムみたいなものだ。郷土料理の店に「19名入れるか?」と聞くと、「19名? その人数だと予約してもらわないと」という返事だった。そこでグループを2つにわけて、6名がもう一人の引率者のKさんとクレープ屋に行き、残りの私を含めた13名が郷土料理屋になった。フランスのレストランは大人数で押しかけられるのを好まない店が少なくない。というかこれまで「その人数ではねえ」と断わられたりすることが何回かあった。13名だと嫌がられるかなと思ったが、OKという返事なので、郷土料理屋に入った。実はもう2軒開いているレストランがあったので、そこに何人か流れないかなと思ったのだけれど、他の店に行くという人はいなかった。レストランに入って、食事を注文するというごく普通のことが、フランス語がわからないと案外ハードルが高いのだ。13人分の注文をまとめて、伝えるのは、面倒だなあ、と内心思ったのだけれど、仕方ない。

店のメニューはバラエティに富んでいたが、結局全員が店の主人の勧めにしたがって郷土料理のセッカを中心とした盛り合わせ定食みたいなものを頼むことになった。大皿の上にセッカのほか、サラダと他の数種のおかずが乘っている料理だ。幕の内弁当みたいにバラエティに富んでいて、見栄えがよくて、ボリュームがある。

セッカは前に娘とアントルヴォーに来たときに食べたことがあったが、こんなにまとまった量を食べたのは初めてだった。豚肉の生ハムに似ているけど、臭みはセッカのほうが強い。慣れの問題かもしれないが。この独自の臭みゆえに、牛肉のハム、ソーセージ類というのはあまりないのかもしれない。しかしまずいわけではない。かなり美味しい。郷土料理っぽい珍しいものを食べることができて私は大いに満足した。

食事のあとは学生たちから離れ、石造りの村の路地をぶらぶら散歩した。村の端にある17世紀のバロック様式の教会にも行った。今日は日曜だから、むしろ午前中はこの教会のミサに出てもよかったのだ。どれくらいの人たちがミサに参加しているのだろう。小さな村の教会だが、18世紀終わり、革命期までは司教座聖堂だったと教会の説明文にあった。

帰りはアントルヴォーから鉄道の代替バスでニース近郊まで行き、そこから鉄道でニース市内に戻る。昨年はアントルヴォーに代替バスが着いた時点で、私たちのグループ全員を乗せることができなかった。次の代替バスは2時間以上先なので、私たちのグループを乗せるための追加バスを呼び寄せることをその場で鉄道会社のスタッフに要求した。それで私たちは追加バスで帰ることができたのだった。

今年もそんなことがあるのではと懸念していたのだが、なんとかぎりぎり私たちグループ全員がバスに乗ることができた。しかしそこから先の停留所で待っていたフランス人乗客は座席がもうないという理由で乗車拒否をされていた。
鉄道会社の見積もりが甘いからこういう積み残しができたわけで、乗車拒否はひどい話だ。乗り込もうとしていた人は文句を言っていたが、運転手は「どうしようもないから。しかたないだろ」とか言って、バスを発車させた。この運転手のひどい対応にも驚いたが、停留所で待っていたフランス人(おそらくだが)乗客があっさりあきらめたにも驚いた。なんで粘らないんだ? こんなところで置いてけぼりでいいのかい?

アントルヴォーはかなりの遠出になるので、やるなら研修の最初のほうにやるしかない。二週目になるとみんな疲れて遠出を厭うようになるからだ。しかし南仏での研修で私が何を見せたいとなると、普通の観光旅行ではまず行くことのないアントルヴォーだ。その独特の景観はわざわざ足を運んで見る価値がある。
また昨年そうだったのだが、授業が始まる前にこうした遠足で交流の機会を作ることはその後の研修の雰囲気づくりの上でいい結果をもたらす。今回もお互い知らない者同士の学生たちの距離が遠足でちょっと縮まったように見えた。