「片山 幹生@caminこのツィートにはかなり大きな反響があり(このツィートに対する反発もありました)、劇団主宰者からはこのツィートに対して以下のリプライを頂きました。
双身機関『しあわせの日々』当パンに翻訳者のクレジットなし。「何で?」と思う。自分で訳したのか?使った翻訳を記さずに上演するのはここに限ったことではないけど。個人的には翻訳者の存在をないがしろにして上演するような演劇人は、古典作品を上演する資格はないと思っている。
posted at 18:02:43 」
「寂光根隅的父@jakopapaまた小劇場支援サイトfringeの方から(@fringejp)から主催劇場にも責任があるのではないか、主催劇場にもこの件について劇場支援会員として問い合わせをしてはどうか?という指摘を頂き、劇場にメールを出したところ、劇場総監督の平田オリザの名前で以下のような見解が劇場ウェブページに掲載されました。
@camin ご指摘有難うございます。作品創作と慣れない旅公演の準備に忙殺されており、失念してしまっておりました。今回のことは取り返しがつきませんが、以後気をつけてまいりたいと思います。」
http://www.komaba-agora.com/2016/02/3852
また上演団体の双身機関も団体のホームページででこの件について見解を表明しています。
http://soushinkikan.org/index.htm
実際には双身機関に限らず、海外戯曲(とりわけ古典戯曲)の上演にあたって、翻訳者クレジットを明記しない団体は珍しくありません。
私が熱烈に支持しているSPACが主催する「ふじのくに⇄せかい演劇祭」で昨年上演された中島諒人演出、デュレンマット作『天使バビロンに来たる』でも翻訳者クレジットが記されておらず、私は観客発信メディア WLに発表した劇評のなかでそのことを指摘しています。
中島諒人の構成・演出となっている『天使バビロンに来たる』で私がまず気になったのは、彼が台本作成の際に参照したに違いない翻訳への言及が当日パンフやガイドブックになかったことだ。冒頭に記した通り、デュレンマットはドイツ語圏スイスの作家で、その作品はドイツ語で書かれている。中島諒人がドイツ語原典から直接翻訳した可能性がないわけではない。しかし彼自身がもし原文から翻訳したのであれば、そのことは当然記載するだろう。台本のテクストレジにあたって、中島が既訳を参照したことはほぼ間違いないはずだ。おそらく上記の木村英二訳も参照しただろう。いくら言葉や場面の順序を変更してたと言っても、他人が翻訳したテクストを利用しながらこのことを記さないというのは、創作家の倫理として問題ではないだろうか? 実は翻訳ものの上演で、翻訳を(おそらく)参照しているにも限らずそれを記さない演劇人は少なくない。「みんながやっている」ということで麻痺しているところがあるのだと思う。
SCOT主宰の鈴木忠志の古典劇公演では、翻訳者クレジットが記されていないことが度々ありますので、おそらく利賀と関わりがある多くの演劇人たちのあいだでは翻訳者クレジットに関する意識が薄いのではないかという気が私はしています。
原作をかなりデフォルメしたものであっても、原文を直接参照した上で、自分で翻訳作業をしていない限り、翻訳者クレジットは翻訳者に対する礼儀として必要なものであるというのが私の考えです。原文にアクセスできない者は、原文の作者の言葉には実際には全く触れていません。彼らが参照しているのは、翻訳者の日本語(ないし他の仲介言語)であり、それは原文の意味を多かれ少なかれ伝えるものであっても、原著者のことばではなく、翻訳者のことばです。翻訳の存在なくては、作品にアクセスすることはできなかったのですから、たとえ大胆な翻案であっても翻訳者の存在を蔑ろにしていいわけがありません。
私は早稲田の小田島恒志先生の戯曲翻訳の授業に数年間、モグリの学生として出ていましたが、そこで演劇について実に多くのことを学びました。そして戯曲翻訳にあたって、翻訳者がどれほど多くの工夫を行っているかも多くの具体的な事例を通して知りました。一つの訳語の選択にあたって、どれほどの知識とセンスが必要とされるか。
訳語、文体の選択は、既にテクストの解釈そのものです。小田島恒志先生はとりわけ周到に(ときに親切すぎるぐらい)上演言語としての戯曲翻訳のあり方に気を配る翻訳者であると思いますが、海外戯曲を上演する演劇人は翻訳にどれほどの知性と労力が投入されているかについての想像力があれば、上演にあたって翻訳者の存在をないがしろにすることはできないはずです。
古典作品においては翻訳の前段階で、テクストの校訂という作業が必要となります。手稿やさまざまな異本を検討し、そこから信頼できるテクストを構築する作業です。この校訂という作業は、翻訳という作業以上に一般には知られていませんが(翻訳者にもこの校訂という作業について無頓着な人が少なくありません)、とりわけ近代以前のテクストについては校訂という作業を経て、活字本として刊行されない限り、一般の読者は古いテクストにアクセスすることはできません。この校訂作業にも膨大な知力と労力が投入されています。
表現者であることを自認するならば、自分が知力と労力を注いで作った表現が、他者に何の断りもなく使用されたときに、それを心穏やかに平然と容認することができるでしょうか? 翻訳者クレジットを記さず、海外戯曲を上演する演劇人がやっているのは、他者の労力と経験、知識にただ乗りした上で、それに言及せずに利用しているという行為に他なりません。
今回、また別の団体の公演案内で、翻訳者クレジットがないものがあったのを目にしたことがきっかけで、こうした文章を残すことにしました。今後も翻訳者クレジットがない公演について私が劇評を書く場合は、いちいちこのことを記していきたいと思います。
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