2020年3月15日日曜日

2020/03/14 パリ

一ヶ月にわたるフランス・アイルランド滞在の最終日だ。昨日の午後に100人以上の集会が禁止されてしまったので、今日の午後に見る予定だった公演がなくなってしまった。私が予約した公演だけでなく、ほとんどの公演が昨日午後の通達によって、なくなってしまった。演劇などのスペクタルだけではない。美術館、博物館も、エッフェル塔などの観光名所も封鎖された。国立図書館も閉館だ。

ホテルのチェックアウトは朝10時だが、飛行機は夜9時過ぎだ。昼飯を食べた後、芝居を見て、夕方になったらタクシーで空港に行って早めにチェックインしようと思っていたのだが、午後の時間が空白になってしまった。

昼はパリ在住で俳優・ダンサーとして活動している外間結香さんと13区のフォー屋で飯を食べる約束をしていた。このフォー屋はこの近所に住む彼女行きつけの店で、私はパリで彼女に会うときはこの店でという感じになっている。牛肉薄切り肉をしゃぶしゃぶのように汁に浸して食べるフォーが名物で、彼女も私もいつもこれを頼んでいる。
話はやはりコロナウイルスがもたらす影響(彼女の仕事もキャンセルになった)と見た演劇や映画についていろいろ。フォー屋の後はカフェで1時間ほど話をした。

彼女と別れた後はどこに行くあてもない。店は空いているので、本屋でも寄って時間を潰そうかと思い、とりあえずイタリア広場からゴブラン通りを下った。ゴブラン通りはプレヴェールの「日曜」という詩に出てくる。この詩は教材として授業で使うので通りの写真でも撮っておこうかと思ったのだ。するとゴブラン通りに大量の警察官が待機していて道を塞いでいる。後で分かったのだが、ジレ・ジョーヌ(黄色いチョッキ)の大規模なデモがあったようだ。
この辺りに尿意を催して、どうにも我慢しがたい状況に陥った。あたりに万人に開放されたトイレはない。ホテルまで一旦戻ろうかと思ったがとうてい持ちそうにない。近くのカフェに入り、カフェとトイレを注文した。カフェは1ユーロ20サンチームだった。
トイレから出たあとカフェでGoogleマップを調べてみるとすぐ近くに映画館が二軒あり、どちらも営業していることがわかった。10分後ぐらいに『聖体拝領』というポーランド/フランス映画の上映がそばの映画館であることがわかり、観客の評価も高いのでこれをら見ることにした。ポーランドの田舎の教会で少年院を出た不良少年が司祭代理を務める羽目になる話。司祭という権威を背景に、因習に囚われない少年司祭が村社会の闇に切り込んでいく。信仰とは何かという問いかけが少年と村人たちの関係から浮かび上がる。渋い映画だった。
映画を見たあと、スーツケースを預けていたホテルに戻るとちょうど良い時間になっていた。ホテルのフロントに空港行きのタクシーを呼んでもらう。タクシーの運転手が優しそうなアジア系のおじさんだったのでちょっとホッとする。
土曜の夕方でいつもは渋滞する空港までの道は空いていた。

2/14(金)に日本を出て3/1(日)まで学生たちとニースに滞在。その後3/1(日)から3/9(月)までがアイルランド、3/9(月)から11(水)がグルノーブル、3/11(水)から3/14(土)までがパリ。

長い一ヶ月だった。実際の滞在期間よりさらに長く感じた。フランスに一ヶ月前に入国したときは、フランスではコロナウイルス感染は確認されておらず、日本人がこの感染症と結びついた差別の対象になるのではないかと思っていた。私にはなかったのだが、ニース 研修中には学生の中には「コロナ!」と罵声を浴びた者がいた。それが一ヶ月後の今はコロナウイルス感染についてはフランスの方が日本よりはるかに緊迫した状況になっていて、フランスからの帰国者がコロナ差別の標的になっているような状況のようだ。

ニースにいた頃は2週目には北イタリアでの大量感染者の確認があり、こちらのテレビニュースでの緊張感が増した感じはあったのだが、それでも日本でエスカレートしていくコロナ騒動は別世界の出来事だった。

ニース研修では例年2-3名は体調を崩し、病院に連れて行くことが多いのだが、今年は幸い発熱などがあっ参加者は出なかった。アジア人で発熱となると相当警戒されることを覚悟しなくてはならないだろうと思っていたのでほっとした。
フランスでのコロナウイルス感染が一気に深刻な状況になったのは私がアイルランドに滞在している9日間のあいだだった。

海外で一ヶ月ぐらい過ごしていると、ずっと絶好調でいるのはけっこう難しい。しかし今回の旅については体調を崩したら大変面倒なことになるのは間違いないので、のほほんと楽しく旅を楽しみつつも、体調管理にはそれはそれは神経を使った。強迫観念のように風邪ひいたらあかん、と思い続けていたのだ。早寝早起きの健康的な規則正しいまともな生活を送った一ヶ月だった。よく歩いて運動もした。

帰国後は2週間は大人しく引きこもるつもりだが、体調を崩すことなく一ヶ月を過ごせてホッとしている。こんなに一ヶ月を長く感じたことはない。コロナウイルスを巡る状況の急変だけでなく、いろいろなものを見て、いろいろなことを経験した密度の高い一ヶ月だった。

美味しいものをこんなに食べ続ける旅になったのは想定外だった。
断食の時期の四旬節に入ることもあり、ダイエットも兼ねた節制の旅になるはずだったのだが。


2020年3月14日土曜日

2020/03/13 パリ

午前中はヴェルサイユ宮殿に行った。
ヴェルサイユ宮殿はフランス観光の定番中の定番であり、フランス留学中は日本から知り合いが来るたびに連れて行った場所だ。ただ最後に行ったのは17年前だ。いや、ベルサイユ宮殿内のオペラ・ロワイヤルでのコンサートやオペラには2、3回、そのあとに行っている。スペクタクル目当てなので宮殿と庭園は見なかったが。

ヴェルサイユ宮殿はいつ行ってもチケットを購入したり、入場したりするのに長時間並ばなくてはならないが、コロナウイルス感染が問題になっている今ならすぐ入れるのではないかと昨日思い、ネットから予約していた。
NHKテレビフランス語講座『旅するフランス語』のテクストで、「城を巡る旅」という連載コラムを担当していた身としては、やはりフランスの城のなかの城であるヴェルサイユ宮殿はもう一度しっかり見ておきたかった。また翻訳中のラ・フォンテーヌの『プシシェとキュピドンの恋』の記述にもヴェルサイユ宮殿から想起された箇所が多数あるので、それも確認しておきたかった。

ヴェルサイユ宮殿にはRERのC線を使って行った。パリ市内13区の端の私の宿からは一時間ほどで行ける。事前にネットで電子チケットを購入したこともあって、宮殿への入場はスムーズだった。ただ城内にはけっこう観光客がいた。日本人の観光客もかなり多い。この時勢でもフランスに旅行に来る人がいるのだ。と人のことは言えないが。私の場合はフランス入国は2月15日で、フランス国内でのコロナウイルス感染がまだ報告されていない時期だった。この一ヶ月でこれほど事態が激変すると予測できた人間はいないだろう。

宮殿内を1時間ほど見学し、庭園を1時間ほど見学する。とにかく広大で豪奢、そしてごてごての装飾が悪趣味なところだ。一度は訪れる価値のある観光地であることは間違いない。しかし私にとっては一度くれば十分だ。17世紀の文化の基調はバロック的なものなのだと思う。しかしヴェルサイユ宮殿の装飾美学には、バロック的な自由な逸脱を抑え込もうとする古典主義的な抑制が覆いかぶさっている。それが装飾から生気を奪っているような気がした。

パリに戻ったのは二時半ごろ。美術館かどこかに寄ろうかとも思ったが、疲れていたので宿舎に戻った。しかし今日、ちょっと無理してでもどこかに行ってしまうべきだったかもしれない。午後2時すぎに「100人以上の集会が禁止」される通達が政府から出されて、ほとんどの劇場、美術館などの閉館が決まったからだ。それまでは1000人以下だったのが、いきなり十分の一の100人以下の規模になってしまったのだ。
最終日の明日の午後にはミュージカル公演のチケットを予約していたがそれも中止になった。パリを発つ飛行機は夜の便だが、それまでやることが全くなくなってしまった。公演を散歩するぐらいしかない。まあ仕方ない。

宿舎で1時間ほど眠る。夕方はパリ国際大学都市の韓国館の館長をやっているソン・セギョンさんと夕食を取る約束をしていた。彼とは4年前にニースでのフランス語教員研修で出会った。当時から大人の風格が彼にあり、韓国人教員のグループとこのグループにくっついていた私のボス的存在だった。このときは娘もニースに連れて行ったのだが、娘も彼にかわいがって貰った。
当時彼は明洞の高校の校長先生だったのだが、一年半前からパリ大学都市の韓国館の館長と在フランス韓国大使館の教育担当官としてパリに赴任していた。FBではつながっていたが、出世してえらくなってしまったし、あまりに忙しそうな様子だったので、連絡を取るのを遠慮していたのだが、「パリに来るんだったら、声をかけて」と彼のほうからメッセージをもらったので、今回連絡を取ってみた。
やはりとんでもない激務のようで、とりわけ一月以降はコロナウイルス関係の対応が大変だったに違いない。そんななかでもこうして会う機会をわざわざ作ってくれるのはとても嬉しかった。
韓国館内のレストランで韓国料理をごちそうになった。



2020年3月13日金曜日

2020/03/12 パリ

午前中はバスティーユに映画を見に行った。
今、フランスの女性のあいだで大人気というノエミ・メルランが主演の歴史映画『火のなかにいる若い女性の肖像』Portrait de la jeune fille en feuを見るためだ。この女優についても、映画についても私はまったく知らなかったのだが、パリ在住の女優の竹中香子さんから昨日教えてもらって見に行くことにした。竹中さんも一緒に見る予定だったのだが、彼女に急な用事が入ったので私ひとりで見に行くことになった。
時代は18世紀末、主人公は女性画家でブルターニュの島にとある貴族の娘の肖像画を描くために赴く。この女性画家と一筋縄にはいかない貴族の娘の関係を描いた映画だ。フランス内外で高い評価を得て、カンヌ映画祭の脚本賞をはじめかずかずの賞を獲得している。

映画のあとは竹中さんと昼飯を食べた。グーグルマップでポルトガル料理というのが表示されていて気になったので、その店に食べに行くことにした。私も竹中さんもはじめてのポルトガル料理で何をどのように頼めばいいのかわからない。幸いメニューは写真付きだったのでどんな料理なのか見当をつけることができる。エビと肉の串焼きを注文したが、そのサイズが思っていたものの3倍くらいあったので驚いた。
こんなたくさん食べられるのだろうかと思ったが、食べてしまった。塩コショウのシンプルな味付けだが、にんにくもたっぷり。美味しかった。
昼飯のあとは、近所にある竹中さんおすすめのケーキ屋にいって、モンブランを購入する。購入後、彼女と分かれて、一度宿舎に戻る。宿舎でモンブランを食べた。絶品ではあったが、スプーンがないので困った。宿舎のカフェテリアで借りようと思ったら、カフェテリアが閉まっていて借りれなかったのだ。ケーキの紙の箱の一部を折り曲げて、スプーン代わりにして食べた。

夜はオデオン座にイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、イザベル・ユペール出演の『ガラスの動物園』を見に行く。新国立劇場での上演も予定されているプロダクションだ。今、ヨーロッパで大人気の演出家であるホーヴェ演出で、フランスを代表する名優、ユペール主演、そしてテネシー・ウィリアムズの名作となれば、面白くならないわけがない。ただ期待していたほどには面白くなかった。ユペールのような大女優と作品を作ることの難しさを感じさせるような舞台だった。ユペールの「名演」に作品全体が振り回されているような印象を持った。きっちり書き込まれた脚本に、演出が食い込めなていない。ユペールの演じるエキセントリックでテンションの高いアマンダの暴走が前面に出て、それが芝居全体を支配している。
二幕で登場するアイルランド系のジムを黒人中年男性俳優にやらせるという仕掛けにはちょっとやられたなという感じはあったが、全体的にホーヴェにして中途半端で切れ味の鈍い演出だった。
個人的には昨年に見た文学座の『ガラスの動物園』のほうにはるかに深い感銘を受けた。ただユペールの芝居としてみると、楽しめなかったわけではない。

今、フランスでは1000人以上の集会はコロナウイルス感染の拡大防止のため禁止されていて、オデオン座は微妙なところだったが上演は維持された。会場もほぼ満員だった。私の席はサイドの一番奥のボックス席だったのだが、開演直前に「正面席に空きがありますので、もしよければそちらに移動してください」と客席誘導スタッフに言われ、いい席で見ることができた。こういうところはフランスの劇場のいいところだ。

2020年3月12日木曜日

2020/03/11 パリ

グルノーブルからパリに移動した。

10時19分グルノーブル発のTGVに乗車した。TGVのチケットはiOSのアプリで予約できて、プリントアウトする必要もない。TGVのチケットは同じ日でも何時の列車を選ぶかで値段がかなり違うのだが、私の乗車したTGVでは2等車と1等車で値段が6ユーロしか変わらない。1等車を購入した。パリまで78€。550キロぐらいあるので、日本の新幹線に比べるとかなり安い。

一人席を選んだら、向かい合った前の座席に知らないおじさんが座って気まずかったが、おじさんはじきに空いていた座席に移動した。グルノーブル発パリ行きTGV一等車はかなり空きがあった。

パリのリヨン駅には午後1時すぎに到着。宿は13区の端にある研修センターみたいなところだ。スーツケースが重いのでタクシーを使った。
宿にチェックインする際にクレジットカードで決済しようとしたら、端末が決済を拒否して支払いができなかった。別のカードを使っても同じ。フランスでクレジットカードを使うとちょくちょくこんなことがある。歩いて5分ほどのポルト・ディタリーに行けばATMがあると言うので、そこまで現金をおろしに行く。カードの問題でまた処理ができなかったらどうしようかと思ったが、銀行のデビットカードで出金できた。やはりカードではなく、ホテルの端末の問題だったようだ。
お金をおろしたあと、スーパーに入って水と食料品を購入する。

ホテルの部屋にはいったらまず昼飯。さっきスーパーでかったビスケットとソーセージを食べた。ご飯を食べると眠くなってしまった。今日の用事は午後8時開演の芝居だったので、1時間ほど眠る。

夜はオデオン座アトリエ・ベルティエに『ペレアスとメリザンド』を見に行った。演出はJulie Duclos。ドビュッシーのオペラで有名な作品だが、私はこれまでこの作品を舞台で見たことがなかった。オペラ版はロラン・ペリ演出、ナタリー・デセ出演のDVDは見たことがある。
コロナウイルス対策で1000人以上の集会はフランスではできなくなっている。ベルティエはたぶん500人ぐらいでこの禁止事項にひっかからないか、コロナウイルスで観劇を控えたひとがいたのか、客席には空席が多かった。開演時間になると劇場スタッフが「空いた席に移動してかまいません」と言ったので、私は最前列中央の席に移動した。

ジュリー・デュクロ演出の『ペレアスとメリザンド』は素晴らしい舞台だった。洗練されたセノグラフィと映像の使い方は、今のフランス演劇の演出の潮流にあるものだが、その卓越した現代的センスの舞台で、戯曲の世界を丁寧に展開させていた。戯曲をほぼ忠実に再現した舞台だった。前後に移動する二階建ての舞台美術と紗幕に映し出される映像とのコンビネーション、ニュアンスの豊かな照明が、テクストの象徴的な要素を効果的に浮かび上がらせている。テクストを読んでイメージした世界が、精緻な演出によって見事に具現化されていた。

夜は食べないつもりだったのだが、最寄り駅のポルト・ディタリーのそばにあるケバブ屋が営業していた。「店で食べていいか?」と聞くと「もちろん」という返事。
骨付き羊肉の定食を頼んだ。ケバブ屋の定食は安くてうまい。骨付き羊肉を焼いただけのシンプルな料理だけれど、肉の旨味が濃くて実においしい。この手のケバブ屋は、夜遅くまで開いているし、うまいし、安いし、一人で入りやすいし、スタッフも感じがいい人が多いし、一人旅には実にありがたい存在だ。

飯を食っていると、白人のおばさんが「トイレを貸して」と店に入ってきた。店のおじさんが「貸してもいいけど、なんか購入してくれ」と言うと、「わかった、あとでなんか買うから。とにかくトイレ」と言って、地下のトイレに行った。
ところがこのおばさん、トイレを使い終わったあとは、「それじゃあね、ありがとう。さよなら」と何も買わずに出ていってしまった。
おじさんは苦笑いしていた。

2020年3月11日水曜日

2020/03/10 グルノーブル

グルノーブル二日目。ホテルの向かいにコインランドリーがあったので、朝食の時間を利用して洗濯した。
明日は午前中の列車でパリに戻るので、グルノーブルを観光できるのは今日だけだ。ところが火曜日の今日はグルノーブルのほとんどの美術館・博物館は休館だった。ドキュメンタリー映画「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」(2006年)が近くになるのだけれど、一般人が見学できるグラント・シャルトルーズ博物館もシーズンオフで休みだ。

市内で開いている観光ポイントは教会ぐらいしかない。とりあえずグルノーブル大聖堂に行ってみた。町の他の建物と一体化していて、外観は大聖堂にはみえない。10世紀から建築がはじまったとあったが、古い部分はごく一部なのだろう。内部もふるさを感じなかった。
大聖堂に隣接して旧司教区博物館があってここは開いていた。しかも無料。古代ローマ時代に遡るこの地域の歴史を示す博物館だが、特別展でヴィヴィアン・マイヤーというアメリカの女性写真家の写真展をやっていたのでそれも見た。ベビーシッターとして働きながら、街角の人々のポートレイトを大量に撮ったアマチュア写真家で、その死後にその写真が世に知られるようになったという。彼女についてはこのページに詳しい。
https://www.artpedia.asia/vivian-maier/

この博物館を見てしまうと、もう他に開いている美術館/博物館はない。グーグルマップで「観光ポイント」にあげられていたヴィル公園に行ってみたが、文字通り単なる「町(ville)の公園」で特にみるべきものはない。今日は小雨も降る寒い日だったので、屋根のあるところに行きたかった。屋根があって、座れて、時間を潰せるとなると教会しかない。大聖堂と同じくらい古いサン=アンドレ参事会教会、17世紀の建築のサン=ルイ教会を巡った。信者の方が数名座って祈っているだけで、他に誰もいない。いったい観光客は今日、どこに行っているのだろう?

昼ごはんはパリ在住のソプラノ歌手、高橋美千子さんと取る約束をしていた。彼女は今日と明日、グルノーブルの劇場での公演に出演する。今回私がグルノーブルに寄ったのは、彼女が出演するバンジャマン・ラザール演出『エプタメロン』を見るためだった。
昼食のレストランは高橋さんが予約してくれていた。グーグルマップを見ると「高級」とあるフランス料理屋だ。19世紀に建築された邸宅を改築した洒落たレストランだった。こういう店は私ひとりではまず入ることはない。さすがクラシックの歌手となるとこういう洒落た店を知っているだなあと感心する。

ランチのコースを頼んだ。夜はかなり高そうだが、ランチのコースは町のブラスリーとそんなに変わらない。店の空間にふさわしい素晴らしい料理だった。ふだんは私はデザートは取らないのだけれど、今回はデザートを取って正解だった。レモンケーキなのだけれど、酸味と甘みのバランスが絶妙だ。生姜が入っているというソースが複雑で繊細な味わいを作り出している。ウエイターのサービスもとても感じがいい。会話を楽しみながら、素敵な空間で、おいしい料理を食べるという至福の時間を過ごすことができた。

昼食後、高橋さんと別れ、グルノーブル名物のロープウェイに乘って山上の要塞に行く。要塞からの眺めは素晴らしかったのだが、寒かった。観光客の姿はわたしのほか3人ほど。要塞付近のレストランや博物館などもことごとく休業だった。風がつよくてロープウェイのゴンドラがゆらゆら揺れるのが怖かった。

要塞から降りて、一度ホテルに戻る。
夕食はケバブ。グーグルマップで「グルノーブルで一番のケバブ」の評があるケバブ屋が、『エプタメロン』公演会場の近くにあったのでそこで食べた。店員が「シェイシェ」と言ったので、「私は日本人だからしぇーしぇーではなく、ありがとーと言ってくれ」と言うと「おれ、日本のマンガの大ファンなんだ。ドラゴンボールとか」といくつかのマンガやアニメのタイトルを挙げる。日本のマンガ・アニメはインターナショナルだ。
ケバブ屋の兄ちゃんはトルコ人だった。ケバブはグーグルマップの評通り、ボリューム満点で美味しかった。

『エプタメロン』は、語りの外枠をマドリガルの合唱に置き換え、音楽の枠組みのなかで『エプタメロン』のなかの挿話だけでなく、語り手の個人的な物語、『デカメロン』の挿話などが、語り・演じられるというスペクタクルだった。音楽劇としてはかなりユニークなものだ。合唱の歌手たちも俳優として挿話のなかに入ってくる。しかしその介入のしかたはギリシア悲劇のコロスとも異なる。
バラバラの挿話が、16世紀末から17世紀はじめのイタリア歌曲によって統一感のある世界を作り出している。舞台上で使われる映像も挿話と音楽と象徴的に結びつく。独立性と密度の高い挿話が音楽によって総合され一つの世界を作り出していく構造はフェリーニの映画も連想させるものだった。同じ手法で、オウィディウスの『変身物語』やヤコブス・ヴォラジネの『黄金伝説』などもできそうな気がする。
高橋美千子さんの使い方があざとい。天才的。彼女がフィーチャーされるシーケンスは、その演出的仕掛けゆえに、フランス人観客にはとりわけショッキングで印象的なものになっていた。

終演後、初日打ち上げに30分ほどおじゃなして、バンジャマン・ラザールと少し話をした。2ショット写真も撮った。

2020年3月10日火曜日

2020/03/09 グルノーブル

ダブリンを午前中に発って、フランスのグルノーブルに移動した。
朝はホテルのアイリッシュ朝食で腹を満たす。ホテルの近くに空港行きのバス停があるのでそれを利用したが、渋滞でなかなか来ない上、満員で立ったままだった。バスの乗車時間は40分ほど。ダブリンからリヨン行きの飛行機に乘った。飛行機会社はエア・リンガス。フライトは3時間ほどだったが機内ではほとんど寝ていた。
正午前にダブリンを発って、リヨン空港に着いたのが15時過ぎ。リヨン空港からグルノーブルまでは一旦リヨン市内に入り、そこから鉄道でグルノーブルに行くつもりだったのだが、Google mapで調べると空港から直接グルノーブルに向かうバスがあることがわかる。
3時過ぎにリヨン空港に着き、バスの出発が3時半とちょっと慌ただしかったが無事乗ることができた。リヨン空港からグルノーブルまでは一時間だ。案外近い。

リヨンにもグルノーブルにもこれまで行ったことがない。グルノーブルは思っていたより大きな町だった。アイルランドのゴールウェイ、スライゴーといった地方都市が、東武東上線上の「町」ぐらいの規模だったので、グルノーブルがよけい都会に思える。調べてみるとグルノーブルは人口15万ぐらいで、スライゴーの10倍ぐらいの規模の町だ。フランスの代表的な地方都市の賑わいというのはこんな感じなのだ。といっても練馬区の人口が70万人なので、フランスの地方都市はそれに比べると数分の一の人口規模なのだが。

ヨーロッパの地方都市というと私はフランスの都市しかほぼ知らないのだから、アイルランドのスライゴーの小ささを意外に思ったのだ。

グルノーブルのバス・ステーションは鉄道の駅のすぐそばにあった。鉄道駅やバス・ステーションは、フランスではたいてい町の中心地ではなく、はずれた場所にある。私が予約した宿は町の中心に近い。距離は1.3キロとグーグルマップで表示された。スーツケースのキャスターの一つが壊れかけていて、石畳の箇所などは気をつけて運ばなければならない。もう少し距離があるとタクシーを使うのだけれど。ゴロゴロとスーツケースを転がして、ホテルに歩いていった。

ホテルはおととい、booking.comで予約した場所だ。なるべく安くて、評価の高いところを選んだ。Hôtel Victoriaという古風な名前のイメージそのままの、古びた旅籠屋っぽい宿だった。エレベータはない。私の部屋は日本風の三階。古ぼけた宿だけれど、部屋が広くて、電灯が明るいのがありがたい。使える電源コンセントが一箇所だけというのが不便だが。古いけれど、掃除は相当丁寧にやっていることがわかった。まあ悪くない。

夜はやはりGoogle mapで見つけたチュニジア料理屋に行った。前菜にショルバという魚の出汁のスープ、主菜が骨付き羊肉と串焼きを添えたクスクス、デザートがチュニジアの菓子。これにミントティをつけた。25ユーロ。非常においしかった。ショルバははじめて食べたが、出汁と複数のスパイスが絶妙に混じり合っていて、味わいが深い。クスクスはオレンジ色のスムールの味がよかった。スムールだけを食べて「おいしい!」と思った。
おじさん一人のワンオペだったが(クスクス屋はおじさんのワンオペが多いような気がする)、静かに丁寧に話す人でそのサービスも感じがよかった。
アイルランド飯も悪くなかったけれど、同じようなものしかないのが難点だ。フランスはフランス料理はもちろん素晴らしいが、それ以外にもいろんな国と地域の料理が楽しめるのがいい。

2020年3月9日月曜日

2020/03/08 ダブリン

ダブリン2日目。明日の朝にフランスに飛ぶのでダブリン観光の日は今日しかない。ダブリン観光の超定番といえるところを回ろうと思ったのだが、日曜は美術館・博物館の類の開館時間が遅い。そして閉館も概して早い。
フランス語のガイドブック、Guide du routard での評価を参照して回るところを探す。立ち寄りたい場所の多くは午前11時以降にしか開かない。とりあえずリフィー川の南側にあるセント・ステファンステーキ ・グリーンに行くことにした。単なる公園なんだがGuide du routard では高評価が付いていた。
移動にはレンタル自転車を利用した。ダブリンの観光ポイントを回るにはやはり便利だ。昨日レンタル登録手続きをしておいてよかった。

セント・ステファンズ・グリーンはまあ楽園的にのどかで綺麗でいいところではあった。ただ特筆すべき観光ポイントかというとそうでもない。Guide du routardは、レストランとホテルの評価はおおむね信頼できるのだけど、観光ポイントの評価は微妙だ。日本人とフランス人の観光の感覚の違いを感じることがしばしばある。

ナショナル・ギャラリーに行くことは決めていたので、ギャラリーが開館する11時ごろまで公園で40分ほど時間を潰した。ナショナル・ギャラリーは、Guide du routardで星3つの最高評価。展示作品が豊富で見応えがあった。アイルランドの画家以外にヨーロッパの大家の作品もかなりあった。スペインこバロック期の画家ムリーリョの《放蕩息子の譬え》の連作は特に興味深かったが、イエイツの弟、ジャック・イエイツの絵が特に気に入った。フォヴイスムの画家、ヴラマンク風のタッチで書かれた人物画など。イエイツの家は父親も画家だし、確か姉も画家だったはずだ。ジャックの絵はスライゴーのイエイツ記念館で、水彩とペンによるイラストが何点か展示してあっていい絵だなと思っていたが、ヴラマンク風の油絵は違った雰囲気だがとてよかった。表現主義的でムンクっぽい雰囲気もある。

朝飯はホテルでボリュームたっぷりのアイリッシュ朝食だったので昼飯は取らず、ナショナル・ギャラリーのあとは、アイルランド最大の教会である聖パトリック大聖堂に行った。日曜はミサがあるためか、大聖堂の一般開放時間が変則的だ。10時半で一旦閉まり、次に開くのが12時半から2時半の2時間になる。

聖パトリック教会は11世紀に建築が始まったとあったが、造りはあまりふるさを感じない。フランスのゴティック様式教会のようなゴテゴテ感があまりない。入場料が必要というのもフランスの教会と違うところだ。
実は聖パトリック大聖堂に着くまで、その名称からこの教会はカトリックだと思いこんでいた。ダブリンにあるもう一つの大きな教会、クライスト・チャーチがアイルランド国教会に属し、聖パトリック大聖堂はカトリックなのかと思っていたのだ。実際には聖パトリック大聖堂もアイルランド国教会、すなわちプロテスタントの教会だ。聖パトリック大聖堂のなかでググってみると、アイルランドはカトリックがマジョリティにもかかわらず、その首都ダブリンにはカトリックの司教座は「臨時」のものしか置かれていないことがわかった。

信者ではないが研究上の関心からカトリック贔屓の私はこうしたことを知ってしまうと、聖パトリック大聖堂のありがたみがとたんに薄れてしまった。

聖パトリック大聖堂のあとはトリニティ・カレッジ図書館に行った。ここは日曜は正午開館で午後4時半に閉まってしまう。ケルズの書で有名なところだが、ケルズの書の本物は展示されていなかった。ケルズの書や他の中世写本の挿絵については、パネル展示の部屋で詳しく解説されているが、原本はない。ケルズの書の複製は二階の「長部屋」に提示されていた。ケルズの書の本物は見られなかったけれど、二十万冊の書籍が書棚に収納されている長部屋の長大な空間は圧巻だった。両側の本棚にびっしりならぶ重厚な装丁の古書の威圧感がすごい。

トリニティ・カレッジを出るともう午後4時を過ぎていた。この時間から見られる場所は限られている。リフィー川沿いの繁華街、テンブル・バー地区にアイルランド・ロック博物館というのがあり、Routardで推していたのでそこに行くことにした。行ってみるとガイドツアーしかやっておらず、自由に見て回ることができないという。「ゆっくり説明してくれるんだったらわかると思うのだけど」と言うと、「大丈夫」ということなので申し込むことにした。ガイドツアーは約一時間ごとにある。ツアーで回ったのは、私以外はバンドをやっているというアメリカ人の4人組とフランス人老夫婦とその息子の3人、そして私の計8名だった。ツアーの時間は90分ほどだったが、ガイドが早口で半分くらいしかわからない。名調子で朗々と語るタイプの解説だった。フランス人老夫婦もよく理解できていない様子で、息子が適宜フランス語で説明していたが、情報量が多くて息子のフランス語訳も簡単なレジュメという感じ。アメリカ人4人はガイドツアーを楽しんでいた様子だったが、私はかなりつらい90分だった。ツアーが終わった後、フランス人老夫婦にフランス語で話しかけると、向こうの表情が明るくなり、生き返ったような感じに見えた。
またアイルランドに来たいので、英語はもっとちゃんと学習しておきたい。とりあえず観光旅行での最低限のコミュニケーションはなんとかなるのだけれど、もうすこし滞在を深く楽しめるようになりたいものだ。

ロック博物館のツアーが終わったのが夕方6時。あと近くで開いているのは国立の蝋人形館だ。蝋人形館はRoutardでは紹介されていなかったが、Google mapでひっかかった。夜10時まで開いている。蝋人形館は東京にもパリにもあるがこれまでわざわざ入ったことはなかった。なんとなく興味はあったのだが

アイルランドの有名人の蝋人形と2ショット写真を撮れるというのは案外面白いのではないかと思った。蝋人形館はいくつかのセクションにわかれていて、アイルランド有名人セクションではシン・リジィのフィル・リノット(ロック博物館でもフィル・リノットについては激推ししていた。アイルランドのロック界の始祖のような扱いだ)、ヴァン・モリソン(これもアイルランドでは尊敬されているミュージシャンだ)、オスカー・ワイルドと一緒に写真を取った。ジョイスとベケットもいたが、ジョイスは位置的に2ショットが難しく、ベケットは立像で背が高すぎて2ショット撮影ができなかったのだ。
あとローマ教皇のフランシスコと写真を撮った。楽しいが中年男が一人でこんなことをやっているのは虚しくもある。
蝋人形館の他のセクションでは恐怖コーナーもあって、これは実に悪趣味でよくでてきた。Routardの取材者にはあえて記述する価値なしとされた博物館だが、私は案外楽しむことができた。

夜はアイルランドっぽいものを食べたかった。Routardをめくると近くにダブリンで有名なフィッシュ&チップスの店があることがわかり、そこに食べに行った。カウンターでまず注文してお金を払って席に座ると、紙の容器に入ったものが出てくるというレストランというよりは軽食スナックの店だった。スモークしたたらのフィッシュ&チップスを注文した。衣がさくっとしていてうまい。魚の塩味も絶妙だ。B級ローカルフードとしてはなかなかのもの。しかしこれが値段が12ユーロする。
12ユーロ出せば、日本だと四谷のたけだでこれよりはるかにうまいものが食べられる、ということを考えてしまった。もちろんローカルB級を食べるということ自体、意味があることなんだが、なまじたけだに「サーモンフライ定食」という似た料理があるのでつい比べてしまう。

川沿いの繁華街のテンブル・バー地域には、ミュージックパブも密集している。せっかくダブリンに来たのだからアイリッシュ・トラッドのライブを聞きたいなと思ったのだけど、ライブが始まるのは午後9時過ぎだ。飯を食い終わっても2時間ぐらいどこかで時間をつぶさなくてはならない。
一度ホテルの部屋に戻ることにした。しかしホテルに戻ると、外はけっこう寒いのでまたテンプル・バー地区に音楽を聞くために戻るのが億劫になってしまう。ホテルのバーでもライブをやっている。テンプル・バー地区まで行くのが面倒になって、ホテルのバーにライブを聞きに行くことにした。

ホテルのバーのショーは夜9時過ぎから開始だった。私がバーに入ったのは9時15分ごろ。アイリッシュ・トラッドではなくて、アコースティック・ギターの弾き語りだった。時折観客にリクエストを聞いて、それを歌う。歌は上手だったけれど、こういう音楽は私は別に聞きたくない。そもそもホテルのバーなんてまともに音楽を聞きたいような観光客が行くところではない。これはテンプル・バーでも店を選ばないとそうかもしれないが。サイモン・アンド・ガーファンクルとかU2とかボブ・デュランとかがたらたら歌われる。よっぱらいたちが陽気に騒ぐなかで、一人でアイスティを注文して、こんな音楽を聞いているのはけっこうきついものがあって、一時間ほどでバーを出た。
やはりこんなことで手を抜いてはだめだ。まあこの間の悪さというかいたたまれなさというのも一人旅の醍醐味と言えなくもない。
明日の朝ダブリンを発ち、グルノーブルに向かう。




2020年3月8日日曜日

2020/03/07 ダブリン

2泊したスライゴーを出発して、ダブリンに。ダブリンでも2泊する。
ダブリンはアイルランドの入り口なので29年前にも当然行っている。やはり2泊ぐらいしたはずなのだけれど、記憶にあまり残っていない。ユースホステルに泊まったこととデ・ダナンのコンサートに行ったことだけ覚えている。

スライゴーからダブリンまでは鉄道を使った。ダブリン行きの鉄道は日に5本ほどある。バスも同じくらいの本数があって、所要時間はほぼ同じ、料金は鉄道より割安なのだが、一回ぐらいは鉄道に乘ってみたかった。スライゴーとダブリンは180キロぐらいの距離だが、3時間ほど時間がかかる。

午前11時発の列車に乘って、午後2時過ぎにダブリンに着く。駅から予約しているホテルまではグーグルマップでは歩けそうな気がしたが、スーツケースのキャスターが壊れかけているのでタクシーを使った。実際はグーグルマップでの距離感よりかなり駅から離れたところにあった。タクシー代は10ユーロ。

ホテルは一昨日、booking.comで予約したところだ。直前で週末だったため、空きのある手頃な値段のホテルは限られていた。宿泊したキャッスルホテルは市内の便利なところにあるが、かなり古びたクラシックなホテルだった。床がところどころペコペコになっている。部屋はスライゴーのホテルに比べると狭く、シャワーだけだが、まあ悪くない。値段はそこそこ高い。一泊一万円弱する。

ダブリンは人口130万の都市だ。人口だけだとほぼ神戸市と変わらない。市内観光のための移動は歩きだけだとちょっと広い感じがした。ネットで調べてみると、市内に百箇所ほどあるステーションに乗り捨てできるレンタルサイクルがある。三日間で5ユーロと安い。バスやトラムでその都度チケットを購入したり、路線を調べたりするより便利そうな気がした。クレジットカードで利用登録できるとのことだったので、これを利用してみることにした。

ホテルで荷解きしてから外出するともう16時を過ぎていた。今晩はとにかく芝居を見ることに決めていた。日曜日には芝居の公演がないので、ダブリンで芝居を見るとなると今夜しかないのだ。昨夜スライゴーの宿で調べてみたかぎりでは、特に見てみたい演目は上演されていなかった。アイルランドは演劇の国というイメージがあったのだが、ネットで調べる限り、劇場の数は10もない。人口が神戸市と同じくらいと考えれば、いくら演劇が盛んといってもこんなものか。
特に見たい演目が上演されていないなら、イエイツとグレゴリー夫人が創設したアベイ劇場での公演を見に行こうかと思い、昨日の夜スライゴーのホテルで予約しようとしたのだが、どういうわけか劇場のチケットページで私のクレジットカードがはじかれてしまう。こっちではこうしたことがちょくちょくある。公演ページをみた感じではアベイ劇場の演目はかなり空席があったので、劇場窓口で直接チケットを購入しようと考えた。レンタル自転車でアベイ劇場に向かうが、劇場近くの自転車ステーションが満杯でそこに自転車を返却することができない。結局劇場からはかなり離れたステーションに自転車を返却したのだが、そのときにツィッターをみるとゲイティ劇場で今晩、マクドナーの『イニシュモアの中尉』という作品が上演されると情報が目に入った。どうせなら知らない作家の作品をアベイで見るより、マクドナーの作品を見たほうが楽しめそうだ。しかも演目は、私がついこのあいだ行ったアラン諸島のイニシュモア島を舞台にしたものだ。

その場でゲイティ劇場のページにアクセスして今夜の公演のチケットの予約を試みた。空席があったので申し込んだのだけれど、これもクレジットカードの登録ではじかれてしまった。もう一度試みると今度は「満席」になっていて予約できない。ゲイティ劇場までは2キロぐらいあったが、またレンタル自転車を借りて、ゲイティ劇場のチケット窓口まで行ってみることにした。

ゲイティ劇場近くの自転車ステーションに自転車を返却したあと、もう一度その場でウェブページからの予約を試みる。やはりクレジットカードの登録ではじかれる。劇場のチケット窓口に行って聞くと、「うーん、今夜はもう満席なんだけど」と言っていたが、一席だけ空席があってそこを取ることができた。

19時半開演だが、開場は18時半とやけに早い。チケットを購入した時点では時間は17時半だった。昼ごはんを食べてなかったので、観劇前に近くで腹ごしらえをした。海外ではできる限りローカルフードを食べることを原則としているのだけれど、安くて短い時間でさっと食べられそうな店を付近に見つけることができず、心ならずもバーガーキングに入ってしまった。

18時半すぎに劇場に行くと、やはり観客はまだ来ていない。劇場は開場したけれど、客席開場はまだ、劇場内のバーで時間を潰してくれと係員に言われる。バーの客も私一人。何も頼まずにバーにいると居心地が悪いのでコーヒーを頼んだ。開演30分前の19時過ぎになるとバーにもたくさん客がたまるようになっていた。

マクドナーには『イニシュマンのビリー』というアラン諸島を舞台とする戯曲があることは聞いたことがあった。今回私が見たのはアラン諸島が舞台の別の作品で、『イニシュモアの中尉』というものだが、この作品は『ウィー・トーマス』というタイトルで日本で複数回上演されたことがグーグル検索でわかった。『ウィー・トマース』はWikipediaの日本語版に詳しいあらすじの記述があったので、開演前にそれをしっかり読んでおいた。過激なことばが飛び交うマクドナーの戯曲のセリフは、聞いても理解するのが難しいように思ったからだ。実際、上演が始まると、絶望的なくらいセリフが聞き取れなかった。Wikipedia日本語版の行き届いた詳細なあらすじのおかげで、人物関係や場の展開は追うことができた。

劇の舞台は1993年のイニシュモア島だ。主人公のひとり、パドレイクはこの島出身だが、アイルランド共和国軍(IRA)の過激派テロリストの分派のメンバーで、この分派でもその凶暴さゆえに恐れられている男である。この男は残忍で暴力的な人間だが、故郷の島で飼っている猫(その名前がウィー・トマース)を溺愛している。ところが彼の父の父親ドニーと近所の少年デイヴィは、その愛猫の脳天が打ち砕かれて死んでいるのを発見し、途方にくれている。これが最初の設定である。

上演中は暴力と残虐さが強調された悪趣味なギャグに観客は大受けで、最初から最後まで爆笑が沸き起こっていた。言葉が聞き取れない私は笑えない。言葉によらないドタバタギャグも多かった。演技も喜劇性が強調されたくどいものだった。

この戯曲は、直線的でわかりやすいプロットや類型的な人物、ベタでひねりのないギャグという見かけの単純さの裏側に、さまざまな象徴によって北アイルランド問題といった政治状況への風刺が盛り込まれている。作品として高い評価を受けたのは、政治的アレゴリー劇として優れていたからだろう。

しかし今日のダブリンの観客の反応を見て思ったのだが、観客がこの芝居を喜んでいるのは作品の形而下的な表現であり、そのわかりやすさの背景にある象徴は必ずしも読み取っていないではないかということだ。
マクドナーはアラン諸島やコネマラなどアイルランドの西側にある地域を舞台にした作品をいくつか発表しているが、今回の『イニシュモアの中尉』にしても他の作品についても、彼はアイルランド西側を後進的で野蛮な田舎として提示していて、これらの西側の土地への愛着はあるにしてもそれは相当屈折して、ひねくれたものだ。シングがこれらの地域の取材に基づき創作した『西の国のプレイボーイ』はアイルランド農民の後進性を嘲笑するものだと捉えられ初演時には騒動になったそうだが、マクドナーはこうした挑発を意図的にやっている。

ダブリンの観客がマクドナーの『イニシュモアの中尉』を喜んだのは、田舎者をバカにして笑うという古今東西に存在する素朴な笑いの型を踏襲したものではないか。

この作品の内容はフィクションだが、1993年でも(そして今もなお)アラン諸島や西側の田舎者たちは、こんなおろかで野蛮な奴らなんだという田舎への蔑視の感情が、ダブリンやイギリスの観客にはあるのではないか。マクドナーはそうした観客の差別意識も見据え、そうした差別感情を浮き上がらせることを密かに意図して、アイルランド西部を舞台とする喜劇作品を書いているような気がした。

今日、ダブリンのコノリー駅からホテルに向かうときに乘ったタクシーの運転手に、「ダブリンに来る前にアラン諸島に行ってきたんだ」と言うと、「オールド・スタイルを見に行ったんだ」というようなことを言われたことを、『イニシュモアの中尉』の公演を見ているときに反芻した。運転手がそういったときは「オールド・スタイル」という言葉がちょっとひっかかっただけだったのだが。



2020年3月7日土曜日

2020/03/06 スライゴー

スライゴーは「イエイツの故郷」と呼ばれるが、イエイツはスライゴー出身ではないし、スライゴーでずっと生活していたわけではない。イエイツの母の出身地であり、とりわけイエイツが弟とともにその少年時代の長期休暇を過ごしたこの町が、「イエイツの故郷」と呼ばれるのは、彼の多くの詩作品の発想の源泉となったのがこの地だからだ。

しかしスライゴーの町並みの風景は、市内を流れる川や低層のカラフルな建物が立ち並ぶさまは魅力的と言えないことはないとはいえ、ありふれた小さな町に過ぎない。イエイツがどちらかといえば散文的ともいえるこの風景からインスピレーションを得て、あの幻想的で神秘的な世界を生み出したというのがちょっと不思議に思える。

イエイツのいくつかの有名な詩の題材となった場所は、スライゴーの郊外の自然のなかに散らばっている。最もよく知られている詩のひとつである「湖島イニシュフリー」のあるギル湖はそこに行く公共交通機関がない。ツィッターでつながっている人のひとりがレンタル自転車で行ったと情報をくれたが、湖を一周してスライゴー市内に戻ってくるには40キロ以上走らなければならないことがわかり、これは断念した。土地勘のない場所でそんな長距離を自転車で走るのは不安だったし、体力的に無理しないほうがいいと思ったので。

レンタカーを利用できれば近隣の観光ポイントを効率よく回れるのだが、私は公共交通機関を使うしかない。午前中はイエイツの墓があるドラムクリフに行った。スライゴー市内からは8キロぐらい北のところにある。ここに行くバスは2時間に一本ぐらいしかない。バスで20分ほど。小型のバスには10人ほどの乗客がいたが、ドラムクリフで降りたのは私だけだった。
ここにはプロテスタントの教会があり、イエイツの曽祖父がここで牧師をやっていたそうだ。教会の周りは墓地になっていて、そこにイエイツの墓がある。この墓地の背景には、切り立った稜線が印象的なベンブルベン山が堂々たる存在感でそびえている。
イエイツは1939年に南仏で死んだが、その10年後に「ペンブルベン山のふもと」の末尾で要求したとおり、この地に遺体が運ばれ埋葬された。その墓石は周囲の他の墓と比べて特に立派というわけではない。墓石には「ペンブルベン山のふもと」Under Ben Bulbenで作者が望んだとおりの文句が刻まれている。

Cast a cold eye
On Life, on Death,
Horseman, pass by!
冷たい視線を投げかけろ、
生に、そして死に
騎乗の人よ、通り過ぎるがいい!

墓地の駐車場にカフェ&お土産屋があったので、帰りのバスの時刻までそこで時間を潰した。カフェには4組ぐらいの客がいた。自分の親戚の墓参りに来たひとなのか、それともイエイツ詣に来た人なのか。墓地にはかなり広い駐車場があって、私以外は自家用車でここに来ている。

バスでスライゴー市内に戻る。バス停のすぐそばにイエイツ記念館があったので入った。イエイツとその家族、イエイツ周辺の文学者についてのパネル展示が主な地味な文学館なのだけれど、入場料は3ユーロ必要。記念館スタッフのかたが一通り展示について説明してくれた。彼女の説明の半分くらいしか理解できなかったが、「オー!」とか「イエス」とか相槌を打ってごまかしながら聞いた。親切に説明してくれたのにさっさと出ていったら申し訳ないような気がして、彼女の説明が終わった後もパネル展示をひととおり自分としては丁寧に読んでいった。売店でイエイツの詩集を購入した。

昼飯はグーグルマップのおすすめに従ってハンバーガーを食べた。肉厚でジューシーでおいしいハンバーガーだった。
午後は「さらわれた子供」というイエイツの詩で言及されているロッシズ・ポイントに行った。ここもスライゴー市内から8キロぐらいのところにある。今になってこれくらいの距離だったらレンタル自転車を探してそれで行けばよかったと思う。ロッシズ・ポイントはバスの終点で15人ぐらいの乗客が降りたのだが、みなバスを降りるとどこかに消えてしまった。あたりにはイエイツ・カントリー・ホテルという立派なホテルとレストランぐらいしかない。みんなそこに入ってしまったのか。

ロッシズ・ポイントは海辺の岬だ。北側のかなたにはペンブルベン山が見え、南側の海にはオイスター島が浮かんでいる。ガランとしていて、広大で、美しい風景ではあるけれど、やはりイエイツの詩が頭にないとありきたりの海辺の風景でしかないかもしれない。この岬が言及される「さらわれた子供」はウォーター・ボーイズの歌曲で私は知ったのだった。この歌曲が含まれるアルバムはmixiで知り合ったスコットランド狂のかたに教えてもらった。この曲と詩は大好きで、自分で訳している。

Where the wave of moonlight glosses
月光の波がその光で
The dim gray sands with light,
くすんだ灰色の砂を照らす場所で
Far off by furthest Rosses
ロッシズのはるかかなたで
We foot it all the night,
私たちは一晩中その砂を踏みしめる
Weaving olden dances
古いダンスに身体をゆらし
Mingling hands and mingling glances
手を絡め、視線を交わす

Till the moon has taken flight;
月が向こうに行ってしまうまで
To and fro we leap
いたるところで私たちは跳ね回り
And chase the frothy bubbles,
水の泡を追いかけて遊ぶ
While the world is full of troubles
そのとき世界は苦悩に満ち
And anxious in its sleep.
その苦悩が眠るときには不安に陥る

Come away, O human child!
さあ行こう、人の子供よ
To the waters and the wild
水辺へ、そして森の中へ
With a faery, hand in hand,
妖精と一緒に、手を繫いで
For the world's more full of weeping than you can understand.
なぜなら世界は君が理解できないほどの悲しみで満ちているのだから

イエイツの文学的・魔術的テクストの描写を踏まえてこの風景を見ると確かに、ありふれた海辺が豊穣な幻想で満ちた世界に見えてくる。
ロッシズの北のかなたに見えるペンブルベン山にはそのときちょうど雨雲がかかって霞んで見え、その雲は強い風に流され移動していた。雨雲が通り過ぎたあとの海側にペンブルベン山に向かって大きな虹がかかった。私の周囲には人がいない。私がこの景色を独占している。もうこの風景を見れただけで、スライゴーに来た意味はあったのではないかと思った。

バスで市内に戻り、夕方はスライゴーの町中をぶらぶら散歩した。
夜はホテルのそばのパブで夕食を取る。「ステーキナイトだからステーキがおすすめだ」というのでステーキを頼んだ。アイルランドの牛肉はおいしい。しかしすごいボリューム。でも全部食べてしまう。
がやがやと多くの人が談笑しているなか、一人でステーキを食べているとさすがに寂しい気分になった。楽しげにみんなやってるなかでぽつんとアジア人中年男がひとり。こういうとき酒が飲めないのは不便だなと思ってしまう。
あと30分ほどそこにいたら音楽のライブも始まるみたいだったが、この喧騒のなかでひとりというのが耐え難くて、勘定を払ってホテルに戻った。

2020年3月6日金曜日

2020/03/05 スライゴー

イニシュモアから本土のロッサヴィール行きのフェリーは今の時期は、朝8時15分と夕方17時の一日二便だ。私は朝の便で戻った。B&Bでの朝食が7時半からだったので(朝8時15分の便で出る客の朝食は7時半と決められていた)、アイリッシュ朝食をちょっとあわてて食べることに。ダブリン空港のホテルで最初の日に食べたときはアイリッシュ朝食のバラエティと量に感動したが、ちょっと重すぎるなあと思うようになった。ちょっと胃もたれするというか。それでも全部食べてしまうのだけど。朝がアイリッシュだと昼を抜いて、夜の食事を早めに取ればそれで十分だ。

ロッサヴィールに到着したのが9時頃。それからバスでゴールウェイ市内に向かう。この朝の帰りのバスは路線バスと共用になっているのか、二階建てバスで高校生っぽい若者が大量に乘っていた。アイルランド人の女性は(少なくとも若い人たちは)みなロングヘアーであることに気づく。

ゴールウェイに着いたのが10時。観光案内所にまず寄ってスライゴー行きのバスの停留所を教えてもらう。時刻表をもらうと10時半出発になっていた。案内所を出て昨日まで二泊していたホテルに向かい、預けていたスーツケースを受け取る。スーツケースを預けるときは「チェックアウト当日しか預かることができないんだが」とグズグズ言っているのを、無理やりという感じでお願いして預かって貰ったんで、スーツケースを受け取るときに5ユーロのチップを渡そうとしたのだが、昨日グズグズ言っていたお兄さんは「いや、お前はいいやつだから」とか何か言って5ユーロ札は受け取らなかった。

ゴールウェイからスライゴーまではバスで2時間半かかる。長距離長時間にも変わらず、間に停留所が十数か所あったので、いわゆる「長距離バス」ではなく路線バスの車両で、スーツケースを入れるトランクスペースがなかったらどうしようとちょっと心配だったのだが、ちゃんとトランクスペースはあった。観光案内所で渡された時刻表には「デリー行き」とあったので、乗るときに運転手に「スライゴーに着いたら、おれに着いたよって言ってくれ」と念を押すと、運転手は一緒にいた友人らしき人と大笑いした。到着してわかったのだが、私の乘ったバスはスライゴーが終点だった。

イエイツ研究者の知り合いに「スライゴーの見どころを教えてください」とメッセージを送ると、「見どころと言ってもイエイツの詩を知らない人がいっても面白いところだと思えないんだけど」というネガティブな返事が戻ってくる。

今回はアイルランド行き自体一月末に突然決めたのだが(ニースでの研修を終えた学生の出発を空港で見送った後に、ダブリン行きの直行便に乗ることができることを見つけたので)、当初はアラン諸島に行くことしか決めていなかった。スライゴーに行くことにしたのは、ずっと前からイエイツ戯曲を上演している平原演劇祭の高野竜さんがスライゴーでイエイツ作品を上演する企画があるらしく、「アイルランド行くんだったら、スライゴーも寄ってよ」とツィッターで言われたのがきっかけだ。あと今回のアイルランド旅行の主要ガイドブックである渡辺洋子先生の著作『アイルランド:自然・歴史・物語の旅』のなかでもスライゴーとその周辺にかなり多くのページが割かれていて、それを読んで寄ってみようかなと思った。
イエイツの詩は、ウォーター・ボーイズのマイク・スコット(今は女性性器アートで知られるろくでなし子の夫になっている!)が企画したイエイツの詩に基づく歌曲アルバムで取り上げられているものしか知らないが、そのなかにはスライゴー近辺の風景を歌ったものがあるので、それを思い浮かべながら見て回ることにしよう。ちなみにこのアルバムはmixiで知り合ったスコットランド大好きな人に教えてもらったものだ。

スライゴーは私が想像していたよりずっと小さい町だった。私は自分が行ったことのあるフランスの地方都市、アラス、レンヌあたりをなんとなく思い浮かべていたのだが、バスターミナルで降りて「え!」という感じだった。3階建ての可愛らしい建物が並んでいる田舎町だ。規模的には東上線の成増あるいは大山ぐらいか。イエイツのような大作家がまさか成増・大山と所縁が深いなんてことは考えにくいのだが、イエイツの神秘的・幻想的な世界とはかけはなれた北国の田舎町という感じだった。

とりあえずホテルに行って荷物を置く。Booking.comで昨日夜に予約したのだが、案外開いているよさげなホテルが少なくて、予約可能なホテルのなかで評価が比較的高いホテルを選んだ。ダブルベッドとシングルベッドが置かれた広い部屋で、私にはもったいない部屋だった。浴槽もある。一人旅なんでもっとわびしい宿のほうが自分にはふさわしいのだが、なまじbooking.comなどのサイトで利用者評価があるとその点数を気にしてしまう。評価と値段ははっきりした相関関係があって、安くていい部屋というのはまれだ。フランスで何回かホテルに関してひどい目にあっているので、それがトラウマになってつい評価の低いものは避けてしまう。

荷解きをしてから観光案内所に向かう。スライゴー近隣のいくつかの場所への交通手段について確認した。フランスでは行くところや何をやるかはほぼわかっているので観光案内所では無料の観光地図を貰うぐらいだが、アイルランドはほぼ未知の場所で、何がどこにあるのかも知らないため、これまで何回か観光案内所で問い合わせをした。「フランス語か日本語で説明してくれないか?」と一応言ってみるが、どこも英語だけだ。普段英語を話す機会がないのでなかなか単語が出てこなかったりするが、どこも親切につきあってくれる。観光案内所だから当たり前じゃないかと思う人がいるかもしれないが、フランスでは必ずしもそうではない。

サービスについてはフランスでは人や状況によるムラがはげしい。親切な人に当たればいいんだけど、不親切で無責任なサービスにあたって不愉快な思いをすることもけっこうあるのだ。アイルランドはそのムラがあんまりない。こちらは英語も拙いし、手順や習慣などわからないのでまごまごすることがけっこうあるのだが、どこでも普通に親切で愛想がいいので、安心してものを聞くことができる。フランスだと常に「なめられたらアカン」とどっかで構えているので。これは私のフランス人に対する偏見が入っているかもしれないが。

観光案内所のあと町中をぶらぶら。たしかに観光的な見どころはない。イエイツがらみでないと何の変哲もない田舎町だろう。まあ私はそれでもかまわない。毎日せっせと観光に励む必要はないし、暇つぶしのしかたは他にもあるので。
町の現代美術館を見たあと、市内の重要な観光史跡である修道院廃墟に向かったのだが、修道院廃墟はオフシーズンで閉まっていた。復活祭の時期に再オープンするそうだ。まあ一人旅ではありがちのことだ。グーグルマップを信用しすぎていた。フランス語のガイドブックを読むとちゃんと冬期は休館と書いてあった。

夜はグーグルマップのおすすめで出てきた中華料理屋に行く。アイルランド料理はちょっと今夜はいいやという気分だったので。中国人がやっている店かと思ったら、店員は全員アイルランド人だった。サービスも洋食屋風だ。はしは出てこない。
前菜に手羽先のからあげ、主菜にエビチリとチャーハンを食べた。洋皿に盛られ、ナイフとフォークとスプーンで食べる中華料理だったが、味は普通においしいかった。量がかなり多い。レストランでの食事は多すぎるのだけれど、出されたら全部食べてしまう。こんな食事をしていたら、四旬節ダイエットどころではない。すでにベルトが苦しくなっている。
明日からはレストランでの食事はなるべく避けるようにしようと思った。

2020年3月5日木曜日

2020/03/04 イニッシュモア島

ゴールウェイを離れ、昨日に続きアラン諸島に行った。今日はアラン諸島で一番大きい島、イニシュモアに一泊する。
イニシュモアから戻ったあと、ゴールウェイにもう一泊するかどうか迷ったが、明日の午前中に一度ゴールウェイに戻ったあと、そののままバスでスライゴーに移動することにした。
イニシュモアにはスーツケースを持って行きたくなかった。ゴールウェイの宿にチェックアウト時に明日の午前中までスーツケースを預かってくれないか尋ねると、チェックアウトの日の数時間ならともかく、まる一日預かることはできないとの返事。
そこを何とかとお願いしたら、渋々だったが了承してくれた。イレギュラーな依頼を無理やり承諾させたかたちになったので、明日ちゃんとスーツケースがあるのかどうかちょっと不安だ。イニシュモア島にはリュックサックに一泊分の荷物を詰め込んで行った。




昨日同様、9時半にシャトルバスに乗りゴールウェイからロッサヴィールに向かう。10時半発のフェリーに乘って、イニシュモアに着いたのは11時15分頃だった。イニシュモアは観光の面でもアラン諸島で最も重要な島だ。島の人口は800人弱。昨日のイニッシュマン島と違い、港のすぐそばいに建物が何軒かある。ここで降りた観光客も20名ぐらいはいたように思う。島は東西に12キロぐらいの長さがある。レンタサイクルを借りた。値段は一日10ユーロ。それから観光案内所により、無料の地図をもらい、島のみどころを教えてもらう。
宿は港から600メートルほど離れたところにあった。B&Bだ。敷地に入ると犬が迎えに来たが、B&Bの主人は呼び鈴を出しても出てこない。犬といっしょに家の周りをうろうろしていると、B&Bの主人が出てきた。今日の宿泊客は私だけのようで、部屋は広くてきれいだった。浴槽付きなので久々に風呂に入れる。
まず近くのバーに昼飯を食べに行った。メルルーサという白身魚の揚げ物を食べる。それから自転車で観光に出かけた。イニシュモアで一番の見どころは、断崖絶壁にある要塞、ダン・アンガスだ。港からは8キロほどの距離がある。島のなかほどの道を選び、まずダン・アンガスを目指すことにする。

ダン・アンガスに行くまでの道のりの風景も壮大で魅了されたが、絶壁を取り囲むように築かれたダン・アンガス要塞の廃墟の風景は圧巻としか言いようがない。この地に人が住んでいたことは、考古学的調査により紀元前1000年から1500年ころまで遡ることができるらしい。しかしなんでこんな岩でできた不毛の島にわざわざ居住しようと思ったのか。

地面が岩で土がほとんどないこの島では、畑や牧草地を作るために、海から海藻を地上に運んできて、それを砕いた岩と混ぜて土を作ることから始めなくてはならなかった。強風によってせっかく作った「土」が吹き飛ばされてしまうことを防ぐため、石垣を作って風よけとした。緑の牧草地を四角く区切る石垣が延々と続くさまが、アラン島の独特の景観を形作っている。この風景ができるまでに何百年のときが必要だったのだろうか。緑の大地を区切る黒い石垣の風景は、風よけという実用を超えた審美的な空間を作り出している。広大な自然環境を素材とする芸術作品だ。

ずっと私が探していた風景にようやく出会えたような感じがした。こんな素晴らしい景観にもかかわらず、本当に人がいない。シングの時代から100年以上たっているというのに、本気で観光で人を集める気がないのか。昨日のイニッシュマンには観光客は私一人だけだった。アラン諸島観光の中心であるイニッシュモア島に今日やってきた観光客もせいぜい3、40名だろう。いくらシーズンオフとはいえ、なんでこんなに人が来ないのか。
ダン・アンガスのあとは、その2キロほど先にある7つの教会の跡地に行った。この教会廃墟も古いものだ。廃墟の横には島の人々の墓地があった。墓地には杖を使ってよろよろ歩いている老夫婦がいた。どちらも足元がおぼつかないが、おばあさんのほうが少し足が達者だ。おばあさんが「スティーブン、こっちだよ。こっちを歩けばいいよ」とおじいさんを案内し、手を引いている。おじいさんはもしかすると少しボケているのかもしれない。私に二回挨拶して、「どこから来たんだい」と二回同じ質問をした。

他にもイニシュモア島には見どころはあるのだけれど、この2つの遺跡を見ただけで今回は十分だ。29年前にはじめてアイルランドに来て、ゴールウェイに滞在したときに、アラン諸島を訪ねていたらなあと思った。私のその後の人生で今とは違った選択をしたかもしれない。イニシュモア島の風景はまさにわたしがずっと待望していた、夢想していた風景だったのだから。でも50歳を過ぎてアラン諸島に来ることができて本当によかったと思った。私はまたアイルランドに来るはずだ。イニシュモア島の他の遺跡や今回足を運べなかった一番東側にある小さな島、イニッシュエアは、次回アイルランドに来るときのために取っておくことにしよう。

午後5時までにレンタルした自転車を返さなくてはならなかった。帰りは海岸通りの道を通った。この海岸沿いの道からの風景も本当にすばらしいものだった。
私はこれまでの人生で、こんなに景観に魅了されたことはない。これほど風景を美しいと思ったことはない。厳しい自然環境との対峙することで長い年月をかけて作られたイニシュモアの風景は美しいだけでなく、われわれの存在の意味を問いかけてくるような思索性も感じてしまう。

夕暮れから夕闇の時間帯の海の風景も素晴らしかった。引き潮であらわになった濡れた砂地が、空の明るさを反射して白く光っている。イニシュモアに一泊してよかったと思った。できれば明日の朝の船ではなく、夕方の船にして、ゴールウェイにもう一泊するのでもよかったと思ったけれど、しかたない。また来ればいいのだ。

夜は宿近くにあったバー&レストランで食べた。スープとスモークチキン。スモークチキンにはマッシュポテトと人参が大量に添えられていた。ケベックのレストランで似たようなものを食べたような気がする。


2020年3月4日水曜日

2020/03/03 イニシュマン島


私がこれまで読んだ紀行文のなかで最も美しく、感銘を受けたのが、ジョン=ミリントン・シングの『アラン島第一部』である。29年前にアイルランドに来たのはもっぱらアイリッシュ・トラッド音楽への関心からで、このころ私はシングのこの紀行文を読んでいなかった。もし読んでいたら、ゴールウェイにかなり長く滞在していたのだから、そのときにアラン諸島には行っていたはずだ。アラン島の人々にとって、英語を話し、プロテスタントのインテリだったシングは、異邦人だ。彼は異邦人としての慎ましさを保ったまま、島の人たちと交流をもち、その生活と風土を、島の語り部がかたる民話とともに記録した。語り部の物語の豊かさは驚くべき魅力を備えている。ヨーロッパ大陸で古代から伝承されてきたさまざまな物語が、アイルランドの西の端のこの地で、ケルト的な神秘性とともに独自の熟成をとげ、島の人々の生活とつながっていく。

シングは1898年から1902年にかけて毎年アラン島を訪問している。そこで彼が特に好んで滞在したのは、アラン諸島三島の真ん中にあるイニシュマン島だった。アラン三島のなかで一番大きいのが西側にあるイニシュモア島であり、アラン島の観光もこの島が中心となっている。イニシュモア島には明日から一泊の予定で行くことにし、今回はシングのアラン諸島における本拠地であるイニシュマン島に日帰りで行くことにした。

アラン三島のなかでイニシュマン島が最も観光資源に乏しい島のようで、私の持っているフランス語のガイドブック、Guide de routardでもこの島の記述は3分の1ページしか割かれていない。

ゴールウェイからはまずフェリー会社のシャトルバスでゴールウェイから一時間ほどのところにあるロッサヴェールという港まで行く。そこからイニシュマン島・イニシィア島行きのフェリーに乗る。フェリーは10時半に行きの便が出て、夕方16時半に島から帰り便が出る。シャトルバスには40人ほどの客が乘っていたが、そのほとんどはイニシュモア島に行く観光客で、イニシュマン島に行くのは私一人だけだった。イニシュマン・イニシュア島行きの船には私以外に数組の乗客が乘っていて、その大半はイニシュマン島で降りたが、私以外はみな島の人たちのようで波止場に着くと、迎えに来た車に乘ってすぐにいなくなってしまった。Guide de routardにはイニシュマン島の人口は150人とあった。

イニシュマン島まではロッサヴェールの港から45分ほどで着く。20世紀はじめのシングの頃には3時間以上かかったようだ。波が荒くてかなり揺れる。デッキに出ると油断すると海に振り落とされそうだ。風と波が強くて欠航というのもしばしばあるらしい。アラン島を舞台にしたシングの戯曲『海に騎りゆく者たち』が思い浮かぶ。
私は港は人口150人の小さな島の中心地にあり、港付近には何軒かの店などがあると思っていた。フランス留学中に友人たちと行った大西洋のベルイル島の様子を思い浮かべていたのだ。アラン諸島はゴールウェイ付近の有名な観光地だし、辺境といってもそれなりの賑わいはあるだろうと。シングは大作家なので、シング所縁の土地として、私のようにこの島を訪れる人はかなり多いに違いないとも思っていた。

しかしイニシュマン島の港には本当になんにもなかったのだ。店も家も一軒もない。船に乘ってやってきた親戚あるいは知り合いを迎えに来た車が数台停まっているだけだ。下船したもののいったいどこを目指せばいいのかわからない。グーグルマップもほぼ白紙であるし、アイルランド文学研究者の先生に頂いた手書きの島の地図を見てもどこに行けばいいのか見当がつかない。


車で波止場に迎えに来ていたおばあさんが車のなかから私に声をかけた。「どこにいくつもりかい?」と聞かれたと思う。「ここに来るのは初めてでいったいどこに行けばいいのかわかりません」と答えると、はるかかなたを指さして「あのへんに村があるから、そこに向かっていけばいい」と言う。
「それじゃあ歩いて行きます」と言ったが、村まで車に乗せてくれないかと頼めばよかったと後から思う。波止場から村のある場所までは、3キロほどの距離があり、その間は石垣に区切られた荒野が果まで続くほぼ無人の地だったのだ。
私以外誰一人歩いていない。確かに向こう側に家らしきものがポツポツ見える。しかし自分が歩いている方向で本当にいいのか、悪いのかわからない。見たこともない壮大な風景には感嘆したが、じきに一人ぼっちで見知らぬ荒野を歩いていく不安のほうが大きくなってきた。本当にとんでもないところにとんでもない時期に来てしまった。

グーグルマップでようやくレストランの表示を見つけた。村と言っても人は誰も外を歩いていない。こんなところでレストランなんて本当にやっているのだろうか、と思いながらその場所に行くと、レストランは工事中だった。工事のひとに「ここはレストランなんだよね?グーグルマップがそう示しているんだけど」と聞くと、「うん、そうだけど、シーズンオフなんで営業はしてない。今はどこもしまっているけれど、ここから5分ほどいったところに店がある」と言う。
「そこで飯を食べられるのですか?」と聞くと、
「いやそこはshop店だよ。飲み物や食料品は売っている。昼休みになると閉まるから行くならすぐに行ったほうがいい」と言う。

その休業中のレストランで飼っている犬が、私を道案内してくれた。shopは食料品のほか、ちょっとだけだが文具やお土産ものも売っているなんでも屋だった。郵便局も兼ねているようだ。おじいさんが店番をやっていた。水とビスケット、チョコレートなどを購入する。島の地図も売っていたのでそれも買った。
店主のじいさんがその地図で島のみどころを一通り説明してくれた。「コーヒー飲むか?」と言われたので、「飲む」と言うとインスタントコーヒーとお湯があるところに連れていかれ、そこで自分で好きなように作れと言われた。

風が強く、寒い日だったが、天気がよかったのが幸いであった。雨だったら雨宿りするような店もなくどうしようもなかっただろう。
イニシュマンは思っていたより大きな島だった。店で買った地図とgoogle mapを頼りに、古代の城塞やシングの滞在していた家などいくつかの観光ポイントを歩いて回った。島のみどころは、島の中央を東西に走る道沿いに固まっている。とにかく歩くしかない。ひたすら歩いて、へとへとになった。しかし石垣で区切られた緑の大地の雄大さ、そして美しいい海の風景は格別なものであり、これまで私が見たことのないような圧倒的な景観だった。おそらく今日、この島にやってきた観光客は私一人だ。
右側がシングが滞在したコテージ

船が出るのが16時半と昨日、フェリー会社のカウンターの人に言われていた。パンフレットにもそう書いてある。この夕方の船に乗り遅れると翌朝8時まで船はない。島に一泊するはめになるのだが、果たして島に一軒のB&Bが営業しているのかどうか定かでない。イニシュマン島に一泊することも考えていたのだが、日帰りにしておいてよかったと思った。一泊しても面白かったかもしれないけれど。
とにかくフェリーに乗り遅れたらたいへんだということで、4時過ぎにフェリー乗り場に着くように歩いたのだが、村とフェリー乗り場のあいだは石垣に区切られた荒涼とした野が続くだけで、グーグルマップはあったものの自分が正しい道を歩いているのかどうか不安で仕方なかった。

4時過ぎにフェリー乗り場に着くはずが、時間が思ったよりかかり、着いたのは4時15分ごろになっていた。ところが船着き場には誰一人いない。
アラン島への船はしばしば欠航になると聞いていたし、Guide de routardにもそういうことが書いてあったので、もしかすると風が強くて突然欠航になってしまったのではという不安に襲われる。4時半になっても私以外誰もいないし、船の姿も海に見えない。さすがに心配になってフェリー会社に電話をかけてみた。すると「船は動いてます。あと数分で着くから大丈夫」との返事。
4時40分頃に車で地元のひとが数組港にやってきた。そのうちの一人に聞くと「心配しなさんな。いっつもこんなもんだよ。船は来るよ」と言う。
船がやってきたのは4時45分だった。本当に心臓に悪い。家に帰ってから調べてみると、16時半はイニシィア島の出港の時間であり、そのあとでイニシュマン島に船がやってくるのだった。イニシュマン島の到着時間はウェブページやパンフレットには書かれていないのだ。昨日のフェリー会社の人は、私が行くのはイニシュマン島というのはわかっていたのに16時半だけを繰り返し言っていた。私が言っていたことをよく理解できていなかったのかもしれない。
イラストのなかのテクストはシング『アラン島 第一部』の一節。
この一節そのままのすばらしい風景を味わうことができました。

ゴールウェイに着いたのが19時前だった。今日はよく歩いたので流石に疲労困憊だ。ちょっと中華っぽいものを食べたかったけれど、グーグルマップではひっかからない。マップで評価の高いアイルランド料理の店に入った。「手頃」となっていたけれど、グーグルマップのレストランの「手頃」は、ヨーロッパでは私には高級すぎる。「安価」だとピザ屋やケバブ屋のようなところしか出てこないのだが。
スープと羊肉のローストを注文した。昼がピーナッツだけだったのでちょっと奮発したのだ。疲れすぎてあまり食欲がないのだが、無理やり食べた。

2020年3月3日火曜日

2020/03/02 ダブリンからゴールウェイに

空港ホテルに着いたのが深夜だったので、昨夜寝たのは午前2時前になった。
それでも朝8時に起きる。ホテルの朝食はバイキング形式だったが、さすがアイルランドの朝食。バラエティに富んでいて、量も豊富で、しかも美味しい。ホテル代は朝食込みだったので盛大に食べた。昨夜はビスケットの夕食だったのでその挽回だ。

ホテルは11時にチェックアウトし、シャトルバスで空港の長距離バス乗り場まで送ってもらう。ゴールウェイ行きのバスに乗る。料金は20ユーロで時間は3時間ぐらい。ホテルの人は無愛想だったが、バスの運転手は普通に親切で、運転も丁寧だ。ニースのバスとは全然違う。バスはダブリン市内を経由してゴールウェイに。バスに乗ると一気に気分が高揚した。

アイルランドに来るのは29年ぶりだ。大学4年のときに1年間パリに語学留学して、5月の終わりに語学学校の授業が終わったあと、3週間ぐらいアイルランドに行った。ゴールウェイ近郊の城館で行われたケルト音楽の講習会に出て、ティンホイッスルの講習を泊まり込みで一週間受けた。そのときに私にマンツーマンでレッスンしてくれたミュージシャンはも70すぎのおじいさんということになる。私もおっさんになった。嘘みたいだ。
22歳のころのアイルランド3週間は夢のような時間だった。灰色と青と緑のがらんとした空間に魅了された。人もみな優しくて、親切で、8ヶ月過ごしたパリよりはるかにアイルランドのほうが居心地がよくて楽しかった。また絶対来ようと思っていたのだが、その後、29年来る機会がなかったのだ。今回来ようと思ったのは本当になんとなくなのだ。

ゴールウェイの宿はバスステーションのすぐ目の前にあった。一泊40ユーロほどで安いが、朝食はついてない。エレベーターも壊れている。ただ安いわりにはシャワー・トイレ付きだし、部屋も広い。ここに2泊してから、アラン諸島のなかで一番大きい島、イニシュモア島に一泊する。その後の宿は予約していない。
とりあえず明日は、アラン諸島の真ん中にある島、イニシュモア島に行くことにした。シングが滞在した島だ。バスステーションの近くにあったアラン島のフェリー会社に行き、島行きの船が出るロサヴェールまでのバス往復と船の往復の切符を購入した。

スーツケースのキャスターの車輪の一つの外側のゴムが剥がれているのに気づいた。ごつごつとしていて運びにくいなあと思っていたのだ。買い換えるかどうか迷う。ゴールウェイ市内のショッピングセンターのカバン屋に安いスーツケースが売っていて、どうしようか20分ほど迷ったあげく買わなかった。明日の夕方、店が開いている時間までに町に戻って来れれば買おうと思う。閉店が18時と早い。

早めの夕食をフィッシュアンドチップスの店で取る。ついでに生牡蠣も食べた。地元の劇団であるドルイド・シアターによる『桜の園』の公演があるという情報を教えてもらったので、タウンホールまで行った。タウンホールに行くと、公演はそこから800メートルほど離れたボックス・シアターであり、当日券もそこで買えと張り紙がしてあった。小雨のなかてくてくと歩いていく。ゴールウェイはかなり寒い。防寒対策が甘かった。
ボックスシアターに着くと、劇場入り口は開いていたけれど、チケットカウンターらしき場所は閉じたままで、待合のホールもくらい。着いたのは18時半ごろだった。公演のポスターが貼ってあったが開演時間が書いていない。カウンターの前でぼーっと立っている人がいたので聞いてみると、その人は劇場関係者らしく中に入って声をかけ、チケットカウンターのかかりの人を呼び出してくれた。来るのが早すぎたようだ。開演は20時からとのこと。当日券を確保したあとは、会場までホールで待つことにした。

ドルイドの『桜の園』は、アイルランドの劇作家、トム・マーフィーの版によるもの。どのへんが改変されたのかはよくわからなかった。リアリズムの舞台装置だが、舞台中央に木の柱で枠を作った赤い幕を張ったプロセニアムを設置して、芝居という虚構性を視覚的に示している。ドルイド・シアターの舞台は、10年ほど前に東京でシングの『西の国のプレイボーイ』を見たことがある。そして29年前にゴールウェイに来たとき、この劇団によるジョン・オズボーンの『怒りを込めて振り返れ』を見たことを覚えている。
今回の『桜の園』は不器用な登場人物のちぐはぐな言動の滑稽さを強調して観客の笑いをとりつつ、原作の品格の高さはしっかりと維持され、登場人物の心理の動きを丁寧に描き出した素晴らしい舞台だった。笑いのなかで、思い通りにならない人生の悲しみ、喪失の寂しさが静かに増大していく。ゴールウェイでの最初の夜にこんなに繊細で美しい芝居を見られて幸せだ。

終演は22時半だったが、劇場から宿までは歩いて15分ほどというのもありがたい。

2020年3月2日月曜日

2020/03/01 ニース研修第16日 最終日、ダブリンへ

二週間のニース語学研修の最終日。学生たちは14時30分ニース発の飛行機に乘って、ドバイ経由で帰国する。私は空港で学生たちともう一人の引率のKさんを見送ったあと、ダブリンへ飛ぶ。

コロナウイルスの不安のなかの研修だった。日本では2月はじめは横浜に停泊していたクルーズ船と武漢からの帰国者を中心とした感染者だったのだが、研修に出発した2月14日(金)には感染経路のはっきりしない感染者の存在が判明していた。学校やホストファミリーはこの点については配慮があり、嫌な思いをすることはなかったが、研修中に発熱したりする学生が出るとちょっと面倒なことになるかもなあということは覚悟していた。例年、二週間の研修期間中に体調を崩す学生は必ずいるし、昨年は二人のインフルエンザ感染者が出た。今年は幸い病院に学生を連れて行く必要があるような事態はなかった。

これまでと違い、今年は武蔵大学で同僚のKさんに同行してもらったのも心強かった。武蔵大学の学生が今年は多かったし、女性の参加者が大半なので、Kさんがいたことで学生も安心感が増したと思う。私には訴えにくいこともKさんにならということもあったに違いない。私ととしても、企画や遂行については従来通り自分がすべて責任を持ったにせよ、もうひとり信頼できる同僚が同行していることで、精神的な負担感は大幅に軽減された。彼女はタフで真面目で、しなやかでふるまいに品がある。私とは異なるタイプの人間だし、先生なのだけれど、彼女に思い切って声をかけて正解だったと思った。

学生たちの乗る飛行機は14時半発だが、免税手続きや荷物のチェックインなどで時間を取られることを懸念して、学校の送迎係には11時半には飛行場に着けるように迎えに来るよう依頼していた。予定通りの時間に全員が空港に集合したが、受託荷物の重量オーバーでもめた学生が一人いた。エミレーツ航空はエコノミーで30キロと荷物制限はゆるやかなのだけれど、それを超えてしまった学生がいたのだ。トータルで40キロぐらいになっていたのか。超過分は支払うつもりだと学生が言っていたのでそれでいいんじゃないかと私は思っていたのだが、Kさんがカウンターで交渉してグループ一括ということで考慮してもらいオーバー料金は取られなかった。

見送るときに学生たちから寄せ書きのメッセージカードを貰った。研修をはじめて6回目だが、こういうのを貰ったのは初めてだ。学生たちは12時半すぎに搭乗手続きのエリアに入ってしまった。

私のダブリン行きの便は21時半の出発だったので、9時間空港で時間を潰さなくてはならない。ニース空港ターミナル2のカフェテリアが空いていたので、そこで食事を取って午後5時前までいた。飯を食べたあとは、イラストを描いたり、本を読んだりしていた。ダブリンにはLCCのライアンエアーを使う。ライアンエアーのターミナルは1なので、午後5時過ぎに移動。このターミナル1は新しいターミナル2と違いチェックインエリアでないフロアには、居心地のよさそうなカフェテリアはない。さっさとスーツケースを預けて、チェックインして、なかで夕飯を食べたかったのだが、ライアンエアーのスーツケース受付は出発時刻の2時間前の19時半開始だった。しかもカウンターが一つだけで時間がかかる。19時半ちょっと前から待機していたのだが、私の番が回ってきたのは20時を過ぎていた。

20キロの荷物を預けてもらう料金を払っていたのだが、私のスーツケースは23キロぐらいあった。おまけしてくれるのかなと思ったら、そうはいかず3キロ分、機内持ち込み荷物のほうに移動させろと言う。面倒だから超過料金払う、と言うと、「15ユーロもするんだから。移し替えてください」と言われ、それに従った。

アイルランドはEUなので、パスポート・コントロールはないのかと思ったら、ニースでもダブリンでもパスポートチェックがあった。
ニースからダブリンまでは約3時間のフライトだった。時差が一時間あるので、ダブリンに着いたのは午後11時過ぎだった。今日は空港の近くのホテルを予約していた。空港からシャトルバスがありそうなのだけれど、どのバスに乗ればいいのかわからない。印刷しておいた予約票には「ダブリン空港」とあるので歩いて行くことにしたけれど、15分ぐらいスーツケースを転がして歩かなくてはならなくてちょっとしんどかった。

アイルランドに来るのは29年ぶりだ。大学4年のとき、フランスに5月までいたあと、6月の一ヶ月間をアイルランドで過ごしたのだ。そのときはゴールウェイの郊外にある城館B&Bに一週間滞在し、ティンホイッスルの講習を受けた。そのときの音楽の師匠はもう70歳ぐらいのおじいさんになっているのだ。私もおっさんになった。信じられない。
あの一ヶ月間のアイルランドは夢のような時間で、またいつかアイルランドに来たいとずっと思っていた。それが29年後になるとは思っていなかったが。
飛行機のなかでシングのエッセイ「アラン島」を読み返した。29年前はシングのこと走らず、ゴールウェイに2週間ぐらいいたのにアラン諸島には行かなかった。今回はアラン諸島訪問が一番の目的である。29年前には演劇もそんなに見る方ではなかったが、ゴールウェイでジョン・オズボーンの『怒りをこめて振り返れ』、ダブリンのアベイ劇場でブライアン/フリールの『貴族階級』を見たことは覚えている。あとダブリンでケルト音楽のグループ、De Dannanのコンサートに聞きに言ったことを思い出した。

今回は一週間の滞在になる。明日ゴールウェイに移動し、アラン諸島に行く以外は予定を決めていない。芝居はできるだけ見て帰りたいと思っている。



2020年3月1日日曜日

2020/02/29 ニース研修第15日 サン=ポール・ド・ヴァンス

帰国日の前日の今日は、サン=ポール・ド・ヴァンスへの遠足をミキオ企画として出したのだが、学生の参加者は3名だけだった。そのうち1名は元教員で私と同い年のSさん。あとは付添を頼んだ同僚のHさんで、5名での小規模遠足となった。
研修の疲れも溜まっているだろうし、帰国前日でショッピングなどをしたい人もいるだろうしということで、もとよりあまり積極的にこの遠足はアピールしてなかった。

サン=ポール・ド・ヴァンスに行くのは二年ぶりで四回目だ。昨年は行かなかった。ニースからは400番のバスに乘っていくが、一昨年まではニースの海岸沿いのアルベール1世公園からサン=ポール・ド・ヴァンス行きのバスが出ていたのだが、トラム2号線が開通した今年はサン=ポール行きのバスの始発が空港近くのフェニックス公園に移動していた。それに気づいたのが昨日である。トラム→バスの乗り継ぎが必要になってちょっと面倒になった。だいたいニース市の中心からは90分ほどかかる。
サン=ポール・ド・ヴァンスは高台にあり、バスは山道をうねうねと曲がっていく。城壁で囲まれた村に行く前に、村とは道路を挟んで反対側の山のなかにあるメーグ財団美術館に行った。ミロなどの現代美術のコレクションで有名な美術館だ。サン=ポール・ド・ヴァンスのバス停の一つ前で降りてから、かなり急な坂道を20分ほど登ったところに財団の美術館がある。人が空いていてゆったりと作品を鑑賞することができた。ミロのいい作品が揃っている。ミロの絵は子供の落書きっぽいが、Tシャツやトートバックなどのグッズにするとデザインとして映える。お土産ものをほとんど買わない私だが、ここでは娘の土産にミロの絵がプリントされたTシャツを購入した。
メーグ財団美術館で1時間ほど過ごしたあと、サン=ポール・ド・ヴァンスの村内に移動して食事を取った。5人だと食事を取る場所を探すのも楽だ。グーグルマップで「お手頃」で評価の高いレストランに行ったが、昼の定食が30ユーロ弱とあんまり「お手頃」ではなかったので、その近くにあったクレープ屋に入った。クレープ屋といっても、ガレットや普通のフランス料理も出すレストランだ。ちょっと中華料理っぽいものを食べたい気分だったのだけれど、サン=ポール・ド・ヴァンスにはフランス料理とイタリア料理の店しかない。私はホタテの貝柱とエビの串焼きを食べた。今日のオススメメニューとして店員に進められたものだ。見た目もフランス料理っぽくきれいでおしゃれで、味もおいしかった。他の4人はそば粉のクレープであるガレットとデザートを食べていた。私はデザートを取らず、コーヒーのみ。
5人だけの外出だと気分的な解放感が違う。すごくゆったりした気分で食事を楽しむことができた。食事後は村内を5人で途中、お土産物屋に入ったりしながらぶらぶら散策。人が多すぎなくていい感じだ。石造りの道と家々がとても風情がある。画廊もたくさんあっておしゃれで落ち着いている。今日は曇り空だったが、その空の色とも町の風景はマッチしているような感じがした。ジャン=ミシェル・フォロンがモザイク画を残した礼拝堂と町の歴史をマネキン人形で見せる博物館を見たあと、40分ほどの自由時間をとり、ばらばらになった。礼拝堂のそばの教会もいい。街全体が歴史博物館のような趣がある。
サン=ポール・ド・ヴァンスからニースに戻ったのは午後5時過ぎ。ニースの海岸に行って30分ほど海を見てから家に戻った。曇り空の下のニースの海もいいもんだ。空と海がとけあってターナーの絵のような風景だった。
夕食は家で食べる。マダガスカル料理だった。干しエビのだしで煮込んだスープ。これをご飯にかけておじやのようにして食べる。ニースではおいしいものをたくさん食べたけれど、私は家の飯が一番好きだ。今日のご飯は、フランス語よりむしろ日本語で「うーん、うまい」と言いたくなるような料理だった。実際に「うまい」と思わず声に出していってしまったのだが。

2020/02/28 ニース研修第14日 マティス美術館とオペラ

金曜日で今日が授業最終日となる。
この学校にとある用件の進捗状況について問い合わせしたけれど、返事がないので事務所に行って担当者にあって確認してくれないかという依頼が知人から入った。

この件についてメールのやりとりをしていた担当者に聞くと、「私はメールを受け取ったけれど、実際にことを進めているのは別の人間なので、そちらに聞いて欲しい。私はメールを受け取り、その内容を伝えるだけなんで」と言う。業務について責任を追求されそうな事態になると、相手がこうした責任回避の言い訳をする、あるいは返答しないで放置される、というのはフランス人と仕事をした多くの人が経験することではないだろうか? 

もちろん日本でもこういうことはしばしばある。しかしなにか面倒な事態が起こったときにこういう応対をされるのはフランス人相手のほうがはるかに多いように感じる。
この担当者にしても気さくでいいやつなのだけれど、こういうことを平然と言う。私はこうした態度は、この学校のスタッフだけでなく、フランス人全体に蔓延する宿痾ではないかと思っている。そういうものだという前提でいたほうが、こちらの精神衛生上いい。
とりあえずメールのやりとりをしていた彼には、即座に今すぐ状況の進捗・停滞についてメールで返信するように要請した。彼のいう真の担当者はまだ出勤していなかったので、そのあとまた改めて事務室に行って会い、この用件について依頼者に状況説明するように伝えた。

午前の授業が終わるまえに、学校の宣伝用ビデオ映像の撮影に駆り出される。「なんでこの学校を選んだのか?」とかいくつかの質問に答えるというもの。拙いフランス語であまり面白くないことを撮影され、公開されるのは、正直勘弁して欲しいのだけれど、まあこれくらいの協力はしないとあかんかなと思ってつきあっている。それから学校の管理部門の担当者と面談で二週間の研修の総括を行った。おおむねこの学校の研修プログラムには満足しているし、スタッフと私の関係も良好なのだが、予定の変更などについて十分な説明がされないこと、問い合わせに対してレスポンスが遅いことがあること、などを不満として述べた。

学生には二週間の研修の受講・修了証明書が教室で授与される。その様子を写真に撮りたかったけれど、こうしたインタビューを受けているうちに授業が終わってしまった。

午後は私の企画で、ニースの高台にあるシミエ地区にバスで行き、マティス美術館、考古学博物館、シミエ修道院庭園を見に行った。参加者は13名。シミエ地区にはバスで行ったがニースのバスは運転が荒い。ぐねぐね道を20分ほど上るのだけれど、車に弱い学生はぐったりしていた。バスの運転手はかなりスピードを出すし、急発進、急停車で、乱暴にハンドルを切る。スムーズな運転をする気はさらさらないみたいだ。

マティス美術館、考古学博物館では、学生は無料になるが、二年前、三年前は、マティス美術館の受付が日本の大学の学生証を認めず、交渉が必要だった。「中国語のカードを見せられても、それが学生証かどうかわからない。だからだめだ」という言い方だった。他の美術館などでは日本の大学の学生証で問題になったことはない。だいたい学生の姿見れば、学生だと見当はつくわけだし。フランスでは担当者個人の裁量で融通が効くことが多いが、たまに杓子定規に規定をたてに高圧的にふるまう人もいる。
昨年はそうした戦いは回避できたように思う。今年も大丈夫だった。日本の大学の学生証でOK。国際学生証というものを2000円ぐらい出して作ればこうしたことは回避できるわけだが、マティス美術館のためだけにこんなものを作らせるのは、戦わずして降伏みたいでシャクだ。実際、交渉でなんとかなった実績があるわけだし。
マティス美術館は作品点数はそれほど多くないが、展示室の薄暗いオレンジ色の照明の加減が絶妙だ。

高台で今はニースの高級住宅街にあるシミエ地区には古代ローマ時代の遺跡がある。入り口には円形競技場跡、そして考古学博物館には広大な公衆浴場跡がある。『テルマエ・ロマエ』というマンガがあがるが、古代ローマは現代の日本人のように入浴を楽しむ文化があったのだ。この入浴文化はローマ帝国崩壊後、ヨーロッパでは失われてしまい、フランスは風呂にあんまり入らない文化の地域になってしまったわけだが。
そのせいか、日本人の目からすると興味深い古代ローマ公衆浴場遺跡は、フランス人の関心を引かないようで、いつも空いている。前は私はアジュールリングァの学校の遠足でシミエ地区に来ていて、そのときはマティス美術館とシミエ修道院庭だけ見て、考古学博物館はすぐそばにあり、無料にも関わらず素通りだった。柵の外から見える古代公衆浴場跡の景色が興味深かったので、その翌年から学校主催の遠足からシミエを外し、自主企画遠足としてシミエに行くようにした。

シミエ修道院はフランチェスコ会の修道院だ。修道院付属の教会と庭園には一般人も入ることができる。シミエ修道院付属の聖母被昇天教会は16世紀ぐらいの建築だったはずだ。天井の装飾画が素晴らしい。祭壇はバロック様式で、隔壁によって遮られ、一般人が入ることができる身廊から内陣の様子は見えにくくなっている。大きな教会ではないが、厳かで重厚な空間だ。修道院付属の庭園からはニースの町の東側を見渡すことができる。修道院庭園は聖書の楽園を模したものらしい。
地味な遠足企画だが、私はこのシミエ散策はとても好きだ。毎年行っているが飽きがない。

バスでニース旧市街まで降り、夕食はソッカ屋でニース名物のソッカの他、ニース名物のピサラディエールやブレットという野菜の入ったタルト、ファルシなどのおつまみっぽいものをみんなで分け合って食べた。ソッカはひよこ豆が材料の塩味のクレープみたいなもの。ソッカはニースに来たときは一度はニースに敬意を払う意味で食べることにしている。正直なところ、嫌いというわけではないが、それほど美味しいものだとは思わない。ニースに来たのでとりあえず食べるローカルフードだ。ブレットは日本語ではフダンソウというらしい。葉っぱを食べる。

夜はオペラを見に行った。演目はチャイコフスキーの《スペードの女王》。演出はオリヴィエ・ピィ。オペラ公演はこの研修を始めた6年前から毎年行っている。ニースオペラ座で毎年定期的に見に来る日本人団体客はわれわれのグループだけに違いない。学生は学生券で見る。最上階のサイドで若干見にくい場所だが、料金は5ユーロだ。オペラの学生券は本来なら、公演の48時間前までに劇場窓口に本人が出向き、学生証持参で購入という条件があるのだが、われわれの団体は劇場の教育プログラム責任者の裁量で事前にメールで予約して、チケットを確保してもらている。5年前に「日本から語学研修でニースに連れてきた学生にオペラを学生券で見せたいけれど、公演48時間前までに劇場窓口に行くことはできない。どうにかならないか?」とメールで問い合わせたら、担当者が便宜を図ってくれたのだ。

研修の疲れもあって、オペラ座に連れて行っても学生の多くは眠ってしまう。でも眠ってしまってもいいと思っている。海外に研修にやってきてオペラを体験し、あの空間の雰囲気を知るだけでもいい経験になると思う。オペラの集団での鑑賞は、帰りが深夜となり、しかもわれわれの研修はホームステイなので、別々の場所に帰らなくてはならないところが難点になる。ヨーロッパの都市の深夜は治安面で問題があるので、学生たちをバラバラに自由に帰らせることには不安がある。同じ方向のいくつかのグループに分けて、できるだけ男子学生が女子学生に付き添うかたちを考える。
研修での夜の外出、それも集団での外出はいつも悩ましいのだけれど、それでもやはり私としては、昼間の観光だけでなく、ヨーロッパの都市のスペクタクルの世界を学生たちに知ってもらいたいという思いがある。夜にレストランに飯を食べに行ったり、芝居やコンサートを楽しむというのは、海外に旅行すればやってしかるべき活動ではないかと私は考える。また実際に夜に遊びに行くことで、ヨーロッパの夜の町の危険というのも感じとって欲しいというのもある。
研修の夜プログラムは、面倒とやりたいの板挟みのなかでやっている。
今年は出発日前日夜に行く予定だったカーニバルがコロナウイルス不安で中止になり、ニース国立劇場の演劇公演やオペラ座でのコンサート公演が滞在中になかったので、グループ全体での夜外出は今回の《スペードの女王》だけだった。

開演が20時で、終演が23時半ごろだった。学生に付き添って家まで戻ったら午前1時を過ぎていた。ニースはなまじタクシーを使うほど広くはないため、市内の移動がかえって面倒なことがある。市内を走るタクシーの数が少なくて、呼んでもなかなかやって来ない。
私はvélobleuという市内の自転車レンタルサービスをしばしば使っている。事前登録とフランスの携帯電話番号が必要だが、月10ユーロで乗り放題となるサービスだ。トラムは深夜まで走っているが、夜は本数が少ないので、遠くに住む学生を送ったあとなどに、このレンタル自転車サービスを利用する。

オリヴィエ・ピィ演出の《スペードの女王》は、観客を敢えて混乱させるような演出上のしかけによって、最初のうちは人物関係が把握できなくてつらかったのだが、徐々に演出上の仕掛けが見えてきて引き込まれた。プーシキンの原作は読んでいたが、オペラ版を見たのはこれが初めてだった。オペラの概要も読んではいたけれど、ピィの仕掛けによって状況が混沌としていて最初はなにがなにかよくわからない。演出については観客からブーイングも飛んでいた。オペラ化による原作の改変(このオペラへの翻案の語法もとても興味深いものだった)、ピィの挑発的な演出によって、物語は原作よりはるかに複雑なものになっていた。

2020年2月28日金曜日

2020/02/27 研修第13日 ロスチャイルド邸宅

北イタリアでのコロナウイルス感染者の大量発覚で、われわれがこの前の日曜日に行ったマントンのレモン祭が中止になった。そして今週土曜が最終日だったニースのカーニバルの中止も今朝になって決まった。
ネットで見ると日本の状況はさらに凄まじいものになっていて、我々が出国した二週間前とはまったく異なる世界になってしまったかのようだ。人の集まるイベント類は雪崩をうって中止になっている。われわれはいわばぎりぎりのタイミングで日本を出国できたのかもしれない。研修の実施が一週間遅くなっていれば、もしかすると学校もわれわれの受け入れを躊躇していたかもしれないといったことを考える。

昨日はエズで「コロナ」と罵られた学生がいたそうだ。私にはいまのところ、そういう人とは遭遇していない。アジア人でも中年のおっさんとなると、そういった目にはあいにくくなるようだ。

学校の授業は今日と明日の午前中で終わりだ。私は今日の午前中は学会発表の要旨の執筆を家でやっていた。研修期間中、細切れ時間に少しずつ進めてきたがなんとか要旨は締め切りまでに書き上がりそうだ。やる気になれば細切れ時間でもなんとかなる。

学校のカフェテリアでの昼食は、先日、家の食事でも食べたかものコンフィを添えたカスレ。配膳のおばさんがソーセージを余分に一本おまけしてくれた。嬉しいけれど、これではダイエットできない。フランスでダイエットはやはり難しい。来週、アイルランドでは四旬節らしいものしか食べないようにしようと思う。
フランス人についてはなんのかんの悪口を言いたくなってしまうのだけれど、ニースの人たちはやはり気さくで開放的で愛嬌がある人が多いように思う。この6年、毎年里帰りのようにニースに来ていて知り合いも増えたが、歓迎の意を態度ではっきり示してくれるのはこちらも安心するし、嬉しい。食堂のおばちゃんとおじちゃんも私の「味方」だ。日本人の学生が笑顔で「メルシー」、「ボンジュール」とおじちゃん、おばちゃんに声をかけるのが、とても感じがいいと前に言っていた。

午後はミキオ企画で、フェラ岬にあるロスチャイルド家邸宅へ行った。これは任意参加で、私ともうひとりの付添のKさんを含め13名が参加した。6名は欠席。ロスチャイルド家邸宅にはバスでも行けるが、今回は列車を使った。最寄り駅は先日学校の遠足で行ったヴィラ・ケリロスと同じボーリュ駅だ。この2つの20世紀はじめの邸宅は近くにあって、セットの入場券もあるのだけれど、なぜかアジュールリングァの遠足ではヴィラ・ケリロスだけ行って、ロスチャイルド邸宅には足を運ばない。
駅からロスチャイルド邸宅まではけっこう遠かった。記憶ではもっと近かったように思ったのだが。グーグルマップで二キロちょっと。グーグルマップの指示通りの道を歩いていくと、行きはかなりの坂道を登ったり降りたりしなくてはならなくて体力を消耗した。また今日は天気が悪かった。風が強くて、途中から雨も降ってきた。

邸宅では1時間ほど過ごす。強風のため庭園の一部が閉鎖され、邸宅自体も補修工事で見られない部分があったのがちょっと残念だった。またこれまでは朝の開園直後にここに行っていたので、いつもガラガラの邸宅と庭園をじっくり見学できたのだが、今日は団体客がかなりいてざわざわして落ち着いて見られなかったもの残念。18世紀のロココ美術のマニアだったロスチャイルド家末裔のベアトリスが、使いたいだけのお金を使って自分の趣味を凝縮させた夢の邸宅であり、庭園だ。ヴィラ・ケリロス同様、ディテイルまで徹底的にこだわったその趣味のよさと贅沢さには驚嘆するしかない。金を使うのであれば、こんな使い方をしたいものだ。この楽園でベアトリスが過ごしたのはたしかごく数年間だったはずだが、それでも彼女は満足だっただろう。


その規模は、パリ近郊のヴェルサイユやヴォー・ル・ヴィコント、シャンティイなどの17世紀の王侯貴族の城に比べると小さいが、今回あらためてそれらの城とロスチャイルドの邸宅を見比べてみると、国王貴族の城館と庭園は壮麗で巨大ではあるものの、単調であまりに人工的に見える。ロスチャイルド邸宅は、作り手の思想や美学がぎゅっと凝縮されていて、華やかさと趣味の良さのなかに持ち主の人間を感じ取れるような気がした。

行きはグーグルマップに従い岬の山側の道を通ったが、帰りは海沿いの遊歩道を歩いて駅に戻った。帰り道で天気が回復し、海は青色を取り戻した。その風景の美しさと言ったら。寒かったし、歩き疲れたけれど、見に来てよかったと思った。

ニースに戻ったのは18時前でいつもより早い。私はさっさと家に戻って、学会の発表要旨の原稿を書いた。



2020年2月27日木曜日

2020/02/26 ニース研修第12日 エズ村とガリマール香水博物館

たくさん食べた日になってしまった。
研修二週目の中日である。学生も疲れている感じがあるが、私もちょっと疲れている。午前中は学生が授業が受けているあいだは、家で学会発表の要旨の執筆のための勉強をしていた。また学校の事務所で、授業最終日に交付される受講証明書の氏名確認の依頼(けっこう間違った氏名で登録されているのだ)と帰国日に各家庭に迎えに来る時間の確認をした。
「フランス人を信用していない」といったことを度々書いているが、それはフランス人と仕事をするとき、こちらが相手に期待したしかるべきことができていないことを想定し、先回りして確認する必要があるからだ。
例えば学校との関係だと、契約して受講料を振り込んでおけば、あとは向こうにすべて任せておけば万事うまくいくといったものでは必ずしもない。なにかトラブルがあった場合、向こうが責任をもって対処してくれるなんてことも期待しないほうがいい。向こう任せにしておくとかえってこちらが混乱し、振り回されてしまう。というような経験が何回かあった。この研修でも常にうまく行かない場合はどうするかは考えている。そしてトラブルがあっても最終的に帳尻が合えばOKみたいな考え方をしている。

いつもは学校そばのカフェテリアで学生たちと昼飯を食べるのだが、今日の昼は学校の校長にランチを誘われていた。その誘い方が先週末に授業の休み時間に偶然彼と学校の中庭であって、「今週の水曜日、ランチに行こう」と口頭で言われただけだったので、昨夜「明日、ランチに一緒に行くということでOKですね?」と確認のメールを出しておいた。しかしそのメールに返事がない。北イタリアのコロナウイルス騒動でキャンセルが大量に出て、その対応で私とランチどころではなくなったのかと思い、昼休みにも校長の姿がなかったので、学生たちといつものようにカフェテリアに行った。カフェテリアで並んでいると後から来た学校のスタッフが「ミキオは昼に校長とランチの約束してたでしょ? 校長、待っているよ」と言われ、学校に戻るがやはり校長の姿は見えない。受付の研修生に「校長はどこにいる?会う約束があるんだけど」と聞いたけれど、わからないという。入れ違いになったのかなと思っていたら、会議をやっていたらしく、昼休みがはじまって30分ほどしてから校長がようやく姿を現した。

学校の近くにあるニースの郷土料理の店に連れて行ってもらった。前菜はニースの郷土料理のおかず的なものの盛り合わせ。イカを揚げたものが美味しかった。主菜はタコの煮物を頼んだ。これはご飯と一緒に食べる。今日は灰の水曜日で、四旬節の始まりでもあるので、肉を選ばなかった。タコの煮物もご飯にとてもよく合う。ニース飯もうまい。

校長は日本からの受講生をもっと増やしたいと考えている。それで私に協力を求めてきた。私は今回で6年連続で15名ぐらいの学生をこの学校に連れてきて、二週間の研修を行っている実績がある。個人で受講する日本人はパラパラいるが、私のグループ以外で日本人の団体はいないとのこと。今回、研修の申込みをしたときに、学校の事務所から、私以外にこうした団体研修をやる人はいないかとか、日本人の研修生を探しているという依頼はあった。

私には日本人向けの広報書類のチェックと日本における代理店みたいなことを期待しているようだが、まだそのかたちははっきりしない。
アジュールリンガには世話になっているし、私としても協力できることは協力したいとは思っている。しかしどこまで、どのように関与できるかは、わからない。今の研修は、私自身のフランス語教育の実践の延長・総括のようなつもりでやっている。研修プログラムやステイ先については学校と綿密に打ち合わせをしているし、航空券の手配も私がやっている。準備のための作業量は膨大だし、実際に学生に付き添うということの身体的負担も大きいのだけれど、この研修の実施によって、私はフランス語の教員として大きな充実感を得ているし、学校側のスタッフ、ホームステイ先の人たち、学生たちとの交流のなかで、私自身の成長や発見があるということが重要なのだ。

代理店的な立場で完全にビジネスとして研修事業をやるというのは、自分としては違うような気がする。もちろん少ない労力と時間で多大な報酬を得られるというのであれば話しは違うが、ビジネスというのは相応の時間と労力をつぎ込む覚悟がないとうまくいかないように思う。しかし労力と時間を投入するのであれば、私には収益性は乏しくてもやりたい別のことがある。また現在私がやっている研修とほぼ同じ内容のものを、まったく自分とは関わりのない人たちを対象に企画・実施できるかといえば、それは不可能だ。

実は学校からこうした依頼があるのは今回がはじめてではなくて、これで三回目だ。ところが一回目、二回目も、思いつきのようにこちらに来たとき提案はされるけれど、それっきりでその後、本気で事業を進めていこうとする粘りがない。下手な鉄砲数打てば当たる、みたいな感じでとりあえず言ってみて、やっぱり面倒くさそうだからそのまま立ち消えという感じなんで、今回もその可能性があるのではないかと思っている。一回目のときは学校のウェブページの内容をすべて日本語訳して渡すという作業をしたけれども、結局それも生かされぬまま、立ち消えになってしまった。また骨折り損みたいなことになるのではという気もして、「まあできることがあれば協力します」みたいな返事をしておいた。

午後は学校主催の遠足で、バスでエズ村に行った。南仏にある鷹の巣村と言われる崖山の山頂付近に作られた石造りの密集村落のなかでは、最もよく知られた村だ。村の頂上にあるエキゾチック庭園からの展望では、地中海を見渡す素晴らしい景観を楽しむことができる。エキゾチック庭園に40分ほどいたあと、ふもとにあるガリマール社の香水博物館を見学した。最後に製品の販売がある。香水博物館の規模はごく小さいが、香水製造の歴史や過程がかなり詳しくかつわかりやすく説明される。

夕食は学生たちと西アフリカ料理を食べに行った。研修期間中、何回か外食する機会があるが、そのたびに違う学生を誘って食事をするようにしている。学生たちは学生たちだけで外食をしたりしているようなんで、私と飯を食べるのは窮屈で楽しくないかもしれないが、一回5、6人で一通り全員と会食する機会を設けている。食べるレストランは私が自分の食べたい場所を選ぶ。西アフリカ料理の店は、自分のステイ先のすぐそばにあり、かつて一度だけ入ったことがあった。そのときは子羊肉のヤッサを食べた。他にもいくつか料理があるが、一人では一回に一種類しか食べられない。そこで今回は学生たちを誘って一気に数種類の料理を試してみたかった。

西アフリカ料理は基本的に日本人の舌に合うものだと思う。私は今回はコートジボワールの料理であるケジェヌを注文した。シチューみたいな料理だ。副菜は色々選択肢があるのだが、この料理にはこの副菜とだいたい決まってるらしい。私はバナナが食べたかったのだが、店員の勧めでアチュケというクスクスのようなものを副菜に選んだ。
下町にある大衆食堂で、顧客は黒人客ばかりだ。そんな店に突然日本人7名が入ってきたのだが、店員はニコニコして実に気持ちよく迎えてくれた。感じのいい店だ。ケジュヌも美味しかった。唐辛子ベースのソースをつけるとさらに美味しい。この唐辛子ソースが欲しい。ボリュームもたっぷりで、お腹いっぱいになる。
学生たちもかなりのボリュームだったのに全員がほぼ完食していた。

2020年2月26日水曜日

2020/02/25 ニース研修第11日 ニース現代美術館

研修一週目は午後や週末の遠足等の行事をきちきちに詰め込んだが、二週目は緩やかなスケジュールにしている。今日は午前中はいつもどおり授業、午後はニース市内になるニース現代美術館に行った。これは学校主催の企画だ。学校主催の企画のときは学校のアクティビティ担当者が同行するのが原則だが、今日はニース市内で歩いていけるところで、私は毎年行っている場所なので、私が学校から美術館に見せる必要な書類をもらって引率することになった。

「Azurlinguaから来た。予約済みだと口頭で言えば、それで入れるはず」と言われたが、実際には美術館窓口の人は愛想が悪くて、学校から預かってきた書類を見せても「合計で学生が何人で、引率が何人か?」「ちゃんと予約してきたのか?」などと難癖をつけてくる。なんとなくだがフランスの公立美術館のスタッフというのは感じのいい人が少ないように思う。フランスではサービス業は全般にスタッフの態度がよくないところが多いのだけれど、業種によって感じのいいとこと悪いところがかなりはっきり分かれている感じする。公立劇場のスタッフ、薬局の薬剤師、医者は私の経験では、嫌な思いをすることはあまりない。あとケバブやクスクスなどのエスニック系大衆料理の店の人たちも。私がこの手の料理が好きなのは、そこで働いている人が相対的に感じがいいというのもあるかもしれない。逆に不愉快な思いをすることがちょくちょくあるのが、美術館の窓口、SNCFやメトロなどの公共交通機関の窓口、郵便局窓口など。パリやアヴィニョンの観光客向けのレストランやカフェの店員にもいやな思いをしたことは度々ある。ニースなど南仏のレストランやカフェではあまりない。

北部イタリアのコロナウイルス感染者のこともずっと頭にある。昨夜テレビのニュースを見ると、この問題についてはかなり詳しく報道していた。隣国で大量感染者ということで一気に緊張感が高まった感じだ。ニースはイタリア国境と近い町なので、イタリアとの往来は盛んだ。フランス人の多くは「フランスでも感染者がいないはずがない」と思っているだろう。

ニース現代美術館の目玉はこの町出身で、青色のモノクローム絵画で知られるイブ・クラインの作品なのだが、残念ながら今はイブ・クラインの展示室が工事のため閉鎖されていて、見ることができなかった。青色一色がべたっと塗っているだけの作品だが、現代美術館の白い壁面にゆったりとした間隔で展示されているイブ・クラインの「青」は、現代美術にそれほど関心のない者でもハッとさせるような鮮烈さ、そしてひきこまれてしまうような深さを感じさせるものだ。それこそ見せたかったものなのだけれど、仕方ない。現代美術館は、屋上庭園からの眺めも目玉と言える。ニースには高層の建物がないので、6階建てのビルぐらいの高さしかない現代美術館の屋上庭園からも見事な町のパノラマを楽しむことができる。

現代美術館のあとは、学生5名とネグレスコ・ホテルのバーにまた行った。先週行ったのとは別の学生だ。本当はここには全員連れてきたいのだけれど、十数人連れてぞろぞろ入るような場所ではない。バーだけでも風格があっていい感じなのだが、やはりこのホテルの見どころはバーの奥にある大広間だ。バーで何かを頼むと、この大広間を見ることができる。バーで飲むコーヒーは8ユーロ。ケーキも一緒に頼むと20ユーロを超えてしまうが、奥の大広間とその周囲に展示されている芸術作品の鑑賞料込と考えれば、これくらい支払う価値はあると思う。20世紀初頭のベル・エポックの贅沢さを堪能できると思えば。
個人的にはこここそニース観光の穴場であると思っている。

ネグレスコ・ホテルの大広間や他の広間を見学したあとは、近所にある私がいつもお土産を購入するチョコレート屋に寄る。妻のお土産のチョコを購入した。

コロナウイルスと発表要旨の執筆が進まないことに起因する憂鬱をのぞけば、平穏な日だった。

2020年2月25日火曜日

2020/02/24 ニース研修第10日 シャガール美術館

第二週目に入った。
イタリア北部のロンバルディア州で多数のコロナウイルス感染者が見つかり、いくつかの都市への交通が閉鎖された。これは私たちの研修を受け入れている語学学校にも大きな影響をもたらした。イタリアからやってくるはずだった受講生の大量キャンセルがあったのである。イタリアにほど近いニースにあるフランス語語学学校ということで、イタリアの高校生の団体はコート・ダジュールの語学学校にとっては最重要の顧客のはずだ。その多くがコロナウイルスのせいで研修を取りやめてしまったのだ。コロナウイルスの問題が長引くと、大学付属の語学学校はともかく、経営基盤の弱い私立の語学学校はこれからどんどん潰れていくだろう。

語学学校には中国人の研修生も多数いる。彼らは中国への帰国便がキャンセルになってしまったため、予定していた研修期間が終わったあとも引き続き残ることを余儀なくされているという。
われわれのグループの学生たちは次の日曜日にエミレーツ航空でドバイ経由で帰国の予定だが、もしかするとドバイ乗り継ぎの際、日本人ということでかなり厳しいチェックが入るかもしれない。

授業は二クラスのうち、一クラスの先生が変わった。先週担当していた教員が休暇に入ったからだ。今日は授業の様子は学生たちには聞かなかった。疲れは出てきているかもしれないがたぶん問題なくやっていると思う。

昼飯は豚の血のソーセージ、ブダンを選択。美味しかった。

午後は学校の企画はなく、私の企画で学校から20分ほど歩いたところにあるシャガール美術館に行った。参加は任意で希望者のみということにした。シャガール美術館はこじんまりした規模だが、シャガールの作品のなかでも名品が揃っている。美術館には一時間ほどいた。見終わってもまだ午後3時前だ。


まっすぐ家に帰ってもつまらない。数人の学生と旧市街までぶらぶら歩いて行った。旧市街に着くと、ばらけた。学生たちは買い物に行ったようだ。私はオペラ座のチケット売り場に行き、今週金曜に見るオペラの学生用チケットを引き取った。学生用チケットは一人5ユーロだ。学生チケットは公演の数日前にオペラ座のチケット窓口でしか普通は購入できないのだが、私のグループは毎年オペラ座の担当者と事前に連絡を取り、チケットの取り置きを特別にしてもらっている。ニース・オペラ座に毎年来る日本人団体観客はわれわれぐらいだろう。担当者の判断でこうした便宜を図ってくれるのがフランスのいいところだ。

オペラ企画は私の企画で自由参加だが例年ほぼ全員の学生が参加する。ニースのオペラ座でオペラ・デビューというのは悪くないと思う。

オペラ座でチケットを引き取った後は、海岸に行き、海をぼーっと一時間ほど眺めていた。ニースの海岸の風景は本当に美しい。何度来ても見飽きない。こんな美しい海岸に市街地から徒歩数分で行くことができるのがニースの素晴らしいところだ。

学会発表の要旨、まだ切り口が思い浮かばず、一字も書けていない。憂鬱だ。早く書き上げてこの憂鬱さから解放されたい。

毎日長距離歩いているので体はちょっと疲れている。でも健康。今年は夜遊びを控えて、体力を温存している。
穏やかで事件のない一日だった。

2020年2月24日月曜日

2020/02/23 ニース研修第9日 マントン

イタリアとの国境の町、マントンに遠足に行った。学校の企画ではなく、片山個人企画としての遠足だ。2名が不参加で、17名が参加。

マントンではニースのカーニバルと同時期にレモン祭というのをやっている。内容はパレードとオレンジとレモンを多数使った巨大なモニュメントの展示の二本立てだ。

マントンへはニースから列車で40分。まず観光案内所に赴いて、レモン祭のチケットを購入し、会場と町の地図を貰う。このレモン祭の日は大勢の観光客がやってくるので、町中のレストランが満員にならないうちに昼食の場所を確保するのが大事だ。17名を3組の班に分けて、パレードが始まる14時半までそれぞれの班で食事を取るということにした。

私の班は私を含めて6名。グーグルマップで検索して、評価が高くて近場にあるレストランを選んだ。旧市街のふもとの海岸沿いにあるフランス料理の店に入る。前菜+主菜+デザートで25ユーロ。日本の感覚だとかなりぜいたくなランチになるが、フランスの観光地のランチでフランス料理だとこんなものだろう。開店10分前に店に到着した。
予約がないとテラス席に案内できないと言われ、屋内の席に座る。私は前菜は骨髄、主菜は牛肉の蒸し煮(Daube)を頼んだ。観光地マントンのレストランのスタッフの応対は感じがいい。味はまあまあ。骨髄はドロッとしていて味がしつこい。ドーヴはボリュームに不満。フランス料理は何を注文してもそこそこ美味しいけれど、私は今ひとつものたりない。フランス料理ならもっとお金を出さないと美味しいものは食べられないのだろう。私は同じ値段ならやはりエスニックや大衆料理系のほうが好きだ。学生たちは満足した様子だった。

レモン祭のパレード見学は一時間ほどで切り上げる。なぜか今年は気分が今ひとつ乗らなくて、パレードをあまり楽しめない。ニースのカーニバルよりマントンのレモン祭のパレードのほうが好きだったのだけれど。毎日運動量が多くて身体的にちょっと疲れている。また研修の責任者として神経はずっと張り詰めているので、精神的な疲労も当然ある。疲労はあるけれど、生活自体は毎日早寝早起きをし、太陽を浴びているので健康的だ。学会発表の要旨の執筆の締め切りが来週末なのだが、発表の切り口をまだ見つけられておらず、終わりが見えないのでそれでちょっと憂鬱な気分になっている。

パレードを一時間ほど見たあとは、レモン・オレンジのモニュメントの展示会場に50分ほどいた。前までは午前中に展示を見ていたが、カーニバルのあとのほうが人が少なくて入場がスムーズだ。

マントンにはコクトー美術館があり、ここのコレクションはバレエ・リュスの舞台挿絵など個人的に非常に興味深いのだけど、5年前に一回行ったきり、足を運ぶ時間が取れない。今回も行けなかった。モニュメントの展示会場を出たのが4時過ぎ。このままマントン駅に行くと、レモン祭帰りの客で駅は大混雑になる。例年、帰りの大混雑で消耗していたので、今回はマントン駅よりも2キロほどイタリア側にあるマントン・ガラヴァン駅まで歩き、そこから列車に乘ってニースに帰ることにした。
ガラヴァン駅に行く途中にマントン旧市街のそばを通る。今回はマントン到着が遅かったのと、昼食に時間をかけてしまったので旧市街を散策する時間はなかった。コート・ダジュールの町の旧市街はどれも趣深いが、海を見下ろす坂道に形成されたマントン旧市街の味わいは格別で、私はとても好きな場所だ。聞くと私たちは別に食事を取った学生たちも旧市街を見ていないようだし、買い物もする時間がなかったと言う。
ニースに戻る時間が遅くなってしまうのが気になったが、40分の自由時間を取ってこの周囲を自由に散策ということにした。

旧市街からガラヴァン駅までは海沿いの道を歩く。景観が美しいので2キロほどの道のりは苦にならなかった。ニースには18時半ごろ着く。

ホームステイ先の今日の夕食は、マダガスカル料理だ。ホストファミリーのマダムのお母さんと妹が家に来た。マダガスカル郷土料理はお母さんが作った。この家族は25年前にマダガスカルからニースに移住したとのこと。この家の旦那はフランス人とマダガスカル人のハーフで、生まれはパリだけれど、マダガスカルで育っている。家族内の会話はマダガスカル語とフランス語の両方で行われている。
前菜もマダガスカルのものだが、名前を忘れてしまった。ひき肉といものハンバーグみたいな料理だ。メインは豚肉のルガイ。ご飯と一緒に食べる。実にうまい。特性の唐辛子ソースを少し加えるとさらにうまさが引き立つ。お腹がはち切れそうになるほど食べてしまった。ニースに来てから食べたもののなかで一番好きだ。日本人だったらたいていの人はこの料理は好きだと思う。
ステイ先ファミリーの夫婦二人、そのお母さんと妹、14歳の息子が、まるでけんかするみたいな勢いで早口でおしゃべりしている。14歳のエヴァンの言ってることはさっぱり理解できない。彼の言葉が理解できるくらいフランス語が上達したいものだ。



2020年2月23日日曜日

2020/02/22 ニース研修第8日

土曜日なので授業はないが、学校主催の遠足でカンヌに行った。Azurlinguaの遠足は基本的に鉄道を使う。午前9時半にニース駅で待ち合わせ。学校の遠足担当のレアがわれわれを引率する。
土曜日のカンヌへの一日遠足も6年前から毎年同じだ。カンヌはニースからローカル線で45分ほどのところにある。ニースよりこじんまりした町ではあるが、ブルジョワ度はニースよりはるかに高い。港には個人所有の高級大型クルーザーが多数停泊している。世の中にはこうした船を所有しているお金持ちがこれほど多いとは。
カンヌ駅に到着すると、海岸にある映画祭会場にまず向かった。あいにく「ゲーム・フェスティバル」というので映画祭会場は占拠されていて、レッドカーペットの階段で写真を取ることはできない。このあと、カンヌの町の一番古い地区である高台に上る。ここには12世紀の教会と古城がある。

高台からカンヌのマルシェまで降り、ここでいったん解散。昼食時間として2時間の自由時間となった。これまではカンヌの町でサンドイッチなどを購入して、カンヌ沖合のサント=マルグリット島に渡った後、野外で昼食というパターンだったのだが、今回はゆったり食事時間が設定されているのでサンドイッチの昼食ではもったいない。市場をブラブラしていたときに会った学生3人を誘って、レストランで昼飯を取ることにした。

学生のひとりが明日ホストファミリーのお母さんの誕生日なので何か買いたいと言うので、グーグルマップでチョコレート屋を探して、そこでまずプレゼント用のチョコレートを買うことにした。そのチョコレート屋まで歩いていると、「ミキオ」と呼ぶ声が聞こえる。ニースで知り合った友人で、月曜日夜に飯を一緒に食べたイザベルだった。彼女はカンヌのメガネ屋に勤務していて、「土曜日の遠足時に寄れたら寄る」とは言っていたものの店の場所をちゃんと確認していないかった。チョコレート屋までの道筋で偶然、彼女の店の前を通って、彼女が気づいて声をかけたのだサン=トノラ島 (Île Saint-Honorat)った。
イザベルの店に入って写真を撮る。

チョコレート屋でプレゼント用のチョコを買うのにつきあったあと、そのすぐそばにあったフランス料理屋に入り、昼食を取った。店の内容はシックで、店員も感じがよかったっが、メニューは典型的な大衆的フランス料理屋だった。値段も高くない。ランチはコーヒー付きで14ユーロ。私はフィッシュ・アンド・チップスを食べる。見た目通りの味。まあまあ。
昼食後は船で15分ほどのところにあるサント=マグリット島に渡る。ここは17世紀終わりに鉄仮面が収監されていた牢獄がある。鉄仮面の話はフランス人なら誰でも知っているけれど、日本では案外知られていない。という私も6年前にカンヌに来たときに、鉄仮面の話を聞いて、「そういえばそんな話を聞いたことがあるなあ」と思ったのだが。サント=マグリット島は、鉄仮面の牢獄がある博物館の周りに立ち並ぶ19世紀の兵舎が面白い景観を作り出している。海は澄んでいて美しい。島では2時間ほど過ごした。

サント=マルグリット島の沖合にあるサン=トノラ島はフランスで最古の修道院がある場所なのだけれど、ここにはまだ行ったことがない。

島からカンヌ市街に戻ったのが午後5時前。30分ほど映画祭会場のショップで時間を潰した後、ニースに列車で戻る。

平穏な一日だった。ひとり体調を崩して今日の遠足に参加できない学生がいた。研修一週目は詰め込みすぎぐらいいろんな行事を詰め込んでいる。ホームステイの慣れない環境での生活でストレスもあるだろう。これからまた体調を崩す学生が出るかもしれない。私は毎日歩くので肉体的には疲れているけれど、こちらでは早寝早起きの健全な生活なので体調はいい。今回はあんまりはしゃぎすぎないよう気をつけている。体力温存したいため、夜遊びもしていない。来週オペラを見に行く予定があるくらい。

体調を崩した学生の様子が気になったが、発熱はないみたいだということで、ちょっとほっとする。

2020年2月22日土曜日

2020/02/21 ニース研修第7日

普段の授業では学生とじっくり話をする機会はほとんどない。週に1、2コマの語学の授業で会うだけだし、授業のあとにごく短い時間、質問などを受け付けるぐらいだ。それも「あの、出席大丈夫でしょうか?」みたいなやりとりがほとんどだ。
ニース研修では二週間、同じ地ですごし、少なくとも週日の昼食は一緒に取るので、私にとっては若い学生たちに向き合って話を聞く貴重な機会となっている。話してみると「ああ、いろんなこと考えているんだなあ」と啓発されることは少なくない。

今日は金曜日だったので第一週目の授業の終了日だった。学生たちもこちらの学校の授業スタイルにだいぶ慣れてきたようだ。時間が立つのが早い。もう一週間たったということは、研修期間の半分が終わったのだ。

午後は学校主催の遠足でニースから列車で15分ほどのところにあるボリュ・シュール・メールとヴィルフランシュ・シュール・メールに行った。どちらもコート・ダジュールの町のなかでは小さな町で観光地として知られている場所ではない。しかし学校主催の遠足で行く場所では、私はこの小さな2つの海辺の町への遠足が一番好きだ。
「美しい場所」Beaulieuボリュという名前はナポレオンがつけたらしい。町が形成されたのは19世紀後半のベルエポック期で新しい町だ。小さい町ながらお金持ちの町でもあり、カジノもある。ボリュの見どころはヴィラ・ケリロスという20世紀初頭に考古学者テオドール・レナックが、紀元前4世紀の古代ギリシャの貴族の邸宅をモデルに建設したゴージャスな別荘だ。古代ギリシャ文明の愛好者であった彼は、持てる知識と莫大な金額を投入して、海辺に贅を凝らした、そして驚くほど趣味がいい別荘を建築した。この付近は20世紀初頭に建てられた豪華で趣味のよさが凝縮された別荘が他にもある。そのなかでもヴィラ・ケリロスの美学が突出して洗練されたものだと思う。
6年前にはじめてニースの研修を行って以来、毎回ヴィラ・ケリロスは訪問していて、来るたびにその壮麗さとシックな趣味のよさに驚嘆している。コート・ダジュールはベル・エポック期のブルジョワ文化の精髄ともいえる建造物がいくつもあるが、ヴィラ・ケリロス、ロスチャイルド家別荘、ネグレスコ・ホテルの大広間はその代表だろう。破格の贅沢というのものの素晴らしさを味わい知ることができる場所だ。

ボリュでヴィラ・ケリロスを見学したあとは、列車で一駅先にあるヴィルフランシュ・シュール・メールに移動し、城塞と旧市街を見学した。この町は岬を挟んでニースのとなりにある小さな海沿いの町だ。崖が海のすぐそばまで迫っていて、その崖の斜面のようなところに細長く旧市街が形成されている。街路の一部が建物の下のトンネルになっているのが特徴的だ。ブルジョワの別荘地だが、第二次世界大戦中は多数のユダヤ人の芸術家がナチス・ドイツを逃れ、この町に避難したと言う。ニース近辺がムッソリーニが指揮するイタリア・ファシズムの支配下にあった時代は、この地に亡命したユダヤ人は迫害を逃れることができたようだ。イタリア・ファシズムが撤退し、ナチス・ドイツがフランスを掌握すると、この地にいたユダヤ人は収容所送りとなった。

夏はバカンス客で賑わうが冬のヴィルフランシュはひっそりしている。城塞まで上って旧市街に戻ったあと、30分ほど自由時間とした。私はカフェでお茶を飲んだ。独特の景観の旧市街と美しい海、そして城塞がコンパクトにまとまっている。地味な町だけれど、私はこの町の雰囲気が好きだ。

今日は学生と引率Kさんと6名で、ニース駅南側にあるモロッコ料理屋で夕食を取った。この店のクスクスが私は大好きなのだ。昨年は店が休業していて、食べに来ることができなかったので二年ぶりの来店だ。店主は私を覚えていた。
学生たちははじめてのクスクスだったが、美味しそうに食べてくれたので、私も満足。私は子羊肉のクスクスを食べた。

2020年2月21日金曜日

2020/02/20 ニース研修第6日目

コロナウイルスがらみのアジア人差別には遭遇していない、と昨日書いたが、学生たちはそうでもないようで、昨日のカーニバル花祭りのときや道を歩いているときに「コロナ」と言われたり、「中国人」と呼ばれたりなどをしていることが、今日になってわかった。若い女性に対して通りがかりに言ったりするのだ。さすが差別者はやることが卑小かつ卑怯だ。どうせなら私にそういった言葉を投げつければいいのにと思う。時間の余裕があれば相手をする用意はあるのに。

一組、ホストファミリーを変わることになった。いろいろ細かい生活上のルールを威圧的に命じられ、学生がそのストレスに耐えがたくなったのだ。その生活上のルール自体は、シャワーの制限時間やトイレットペーパーの使用量が多いすぎるだの、ケチ臭いフランス人がいかにも言いそうなことで、フランス人的感覚からすると「常識」の範囲内ということなのかもしれないが、その言い方には問題があったのだろう。だいたい日本人の女子学生というのは、この学校に多いイタリア人などに比べるとはるかにおとなしくて行儀がいいはずなのだ。彼女たちの話を聞くと「でもこちらも至らないところあると思うし」とステイ先を変えることを躊躇している。彼女たちが「至らないところがある」のがステイ先で問題なら、他の人間は至らないところだらけだ。高圧的な大家のまえで萎縮したままあと一週間以上過ごさせるわけにはいかないと思い、ホームステイの担当者に新しいステイ先を探すように頼んだ。午前中に新しいステイ先の確認が取れ、午後の遠足のあといったん元の家に戻り荷造りを終えてから、新しい家に移ることになった。ステイ先の変更自体、彼女たちにとっては大きなストレスだが、ずっと居心地の悪いところに居続けるよりはずっといいはずだ。

午前中は学生たちが授業を受けているあいだは、自分の研究発表の準備をしていたけどはかどらず。
昼食はシュークルトだった。これは美味しかった。


午後はニースから列車で25分くらいのところにあるアンティーブに学校主催の遠足にいった。今日はニース市内のバスとトラムがストで動いていなかった。アンティーブにはSNCFで行くが、SNCFもストで間引き運転をしていてニース駅を出たのが午後3時半すぎになってしまった。アンティーブではピカソ美術館に一時間滞在しただけになってしまった。こじんまりした美しい町で、個性的な商店も多く、ピカソ美術館だけ見てさっさと帰るのはもったいないところなのだが。ピカソは中世には司教館だった石造りの城館に、1946年以降住んだそうだ。アンティーブのピカソ美術館に収蔵されているのは、ピカソがプリミティブアートに関心を持つようになって以降の作品であり、子供の落書きのような平面的なデッサンが多い。


ニースに戻ったのは午後7時前になった。ステイ先を変更する学生に同行して、トラブルがあった家まで行く。学生たちが荷造りをしているあいだ、家のマダムと話をする。陽気で快活で、まあ普通の南仏のおばあさんという感じだ。意地悪な感じはしなかったけれど、私に対する態度と学生たちに対する態度が違うというのは十分あり得ることだ。やたらと細かい生活上の指示をいちいちしていて学生を萎縮させていたわけだが、謙虚な日本人学生とは違い、「私にも至らないところがあったかもしれない」などということは微塵も言わない。聞きたいこと、頼みたいことがあるなら、google 翻訳を使うなどして、ちゃんと伝えてほしいけど、ニコッとわらってOK、Ouiしか言わないから。みたいなことを言っていた。また彼女に対して愛想よく接してくれていたのに、今日になってステイ先の変更を申し入れられてびっくりした、とも。それはわかる気がする。しかし学生たちの立場に立つと、向こうの家に住まわせて「もらっている」、生活上のルールは向こうに従うのが当然、フランス語でコミュニケーションを取らなくてはならない、となると権力関係では大家のほうが上なわけで、自分の意志や要望を伝えるのは難しいだろう。なまじ学生が「いい子ちゃん」タイプだったので、過剰に相手の要求に応えようとしたのが逆にストレスになったのかもしれない。あと人には愛想よくしなくてはならない、という身体化された観念に、相手が外国人、権力関係上ということで、縛られすぎたということもあるか。

おっさんの私はいろんな面で図々しくなっているし、基本的にフランス人というのを心の底では信用していないというのがあって、こういった過剰な気の使い方を他人にすることはない。特に今回のように学生たちを引率する場合は、フランス人の都合を学生たちの都合より優先させてはならないというのを、原則としている。それでもやはり、自分はフランス人に対してはかなりのいい子ちゃんを演じてるという感じはある。
若い日本人女性だとなおさらに違いない。若い日本人女性でいるというのは、大変なことだなあと思った。わたしがまずやることのないような気苦労を彼女たちはしているに違いない。


新しいステイ先は、私たちが到着する日に家にいなかったため、急遽キャンセルになった家だった。すっぽかしたのだ。家を移る学生たちは不安そうだ。そりゃそうだ。私も大丈夫かなあと思うが、急な変更だったので彼女しか引き受けてがなかったようだ。

オンボロの自動車で新しいステイ先のマダムが迎えにきた。場所は前の家より町の中心部に近いところだ。旧市街のすぐそばでロケーションはいい。受け入れ先は建物の外観は古びたボロアパートだったが、中は古いながらもきれいに掃除されていて、何部屋もある大きなアパルトマンだった。複数の学校から数組の滞在を受け入れているとのこと。

「なんで先週の土曜、われわれが到着したときにいなかったのか?」と聞くと、「時間を勘違いしていてイタリアに買い物に行っていた。ごめん」との返事。
今度のマダムは下町のおばちゃんという感じで、ダミ声でよくしゃべる。学生たちの夕食だけでなく、私の夕食も用意があったので、私もそこで夕食を食べて帰った。親切そうなマダムだが、過剰なおしゃべりにつきあってちょっと疲れた。学生たちが懸念していたフロ・シャワーも前の家とは違いいつ入ってもいいし、時間の制限もないということで、学生たちはほっとした顔をしていた。ここではトラブルなく、うまくいくといいなと心から願う。

あと列車で定期入れをすられたと学生から連絡あり。SUICAや学生証などが入っていたらしい。現金、クレジットカードの類は大丈夫だったとのこと。定期入れは残念だが、これは警察に届けても戻ってくる可能性はほぼないし、海外旅行保険の補償の対象にもならないだろう。盗難でいやな思いはしただろうが、これはあきらめるしかない。

飯を食って家に戻ると、22時を過ぎていた。

2020年2月20日木曜日

2020/02/19 ニース研修第5日目

学校がはじまって三日目。特に大きな問題はない平穏な日だった。
私たちが日本から出国するちょっと前から、日本国内におけるコロナウイルスの感染が大きく報道されるようになり、これがフランス人が潜在的に持っているアジア人に対する差別意識と結びついていやな思いをするのではないかと懸念していたのだけれど、実際にはアジア人を露骨に避けるみたいな事態には遭遇していない。学校やステイ先はもちろん、遠足で町中を集団で歩いているのだけれど、こちらを避けたり、嫌悪するような視線は感じたことはない。昨日モナコに遠足に行ったとき、ヨーロッパ人観光客がわれわれを見て、手で口と鼻を覆って足早に通り過た、と学生が言っていたが、私はそれを確認していない。

2003年にSARSが流行ったときに私はパリに留学中だった。このときはフランスのメディアではセンセーショナルな報道がされ、パリでアジア人が警戒されるみたいな空気を感じたのだけれど、ニースではそんな感じはない。町中の店でもあの南仏特有のオープンで人懐っこい感じそのままだ。

フランスにあるフランス語の語学学校は基本的に外国人学生を対象としていて、その外国人にはもちろん中国人も含まれる。今、われわれが通っているAzurlinguaにも中国、韓国からの留学生が何人か通っている。休み時間に彼らのうち数人と話をした。フランスの語学学校でアジア系の人がいると、見た目が似ているというだけで私はなんとなく親しみを感じる。フランス語・フランス文化を学ぶ東洋人という共通点で、なんとなく共有できるものがあるような気がするし、実際に話しかけてみても感じの悪い中国・韓国人にはこれまで私は会ったことがない。Azurlinguaの若い中国人学生も感じがいい。ただコロナウイルスを話題としては出さなかった。


今日の午後は学校主催の遠足はない。ニースのカーニバルのプログラムのひとつである花合戦を学生たちと見に行った。全員参加ではなく希望者のみ。17人の学生のうち、14人が参加した。花合戦は要は山車のパレードで、ニースの春の花であるミモザをその山車にのった美女たちが観客たちに投げるという趣向がある。ニースのカーニバルは1876年にはじまり、今年が第136回だ。断食の時期である四旬節がはじまる前日の「脂の火曜日」にそれまで貯蔵してた肉類を食べ尽くし、どんちゃん騒ぎをするという風習は中世から確認されているが、大規模なパレードを主体としたカーニバルがはじまったのは19世紀の終わりだ。ニースは19世紀には避寒地としてロシアやイギリスの金持ちたちが冬に滞在するリゾートだったが、1870年の普仏戦争のあとにリゾート客が一気に減ってしまった。それで落ち込んだ観光客を取り戻すためにカーニバルを始めたそうだ。ちなみに今ではニースをはるかに凌駕する規模のリオのカーニバルは、ニースのカーニバルを見たブラジル皇帝がそれを模倣して始めたそうだ。

「カーニバルを見られるよ」ということで学生を集めているところもあるので、ニース研修では毎年カーニバルを見に行く。私は6回目ということになる。正直に言うと、食傷している。ニースのカーニバルは有料であるため、お祭りといっても地元の人々が楽しむのではなく、ほぼ完全に観光客向きのイベントとなっているのも、興をそがれるところだ。「大頭」と呼ばれるはりぼての巨大な「ねぶた」のような人形の行進など、民俗的な風習とのつながりを感じさせる要素もないわけではないけれど、祭りとしての無秩序なエネルギーの爆発は乏しいのが残念だ。昨年は公的なカーニバルのほかに、Lou QueernavalというニースのLGBTたちによる自主企画のカーニバルがあって、それが公式よりはるかにアナーキーで面白かったのだが、今年は残念ながらQueernavalは開催されなかった。

カーニバル花合戦のパレードは2時間ほどで終わる。カーニバル終了後は、学生二人と同行教員のKさんと一緒にイギリス人遊歩道沿いにあるニース随一の高級ホテル、ネグレスコ・ホテルのバーに行った。このホテルのバーと大広間には毎年行くことにしている。私としてはこここそがカーニバルよりはるかにニース観光の目玉だ。ただ場所が場所だけに、学生を十数人ぞろぞろ連れて行くような場所ではない。毎回、数名ずつ希望者を募って、連れて行く。

ネグレスコ・ホテルのバーでお茶を飲めば、ネグレスコの客としてその奥にある大広間を見学することができる。コーヒーの値段は8ユーロでそれほど高くはない。この大広間の空間設計とその周囲の廊下に展示された美術品が素晴らしいのだ。ネグレスコ・ホテルの大広間は、ニースにあるベル・エポック期の壮麗さを代表するものの一つだろう。


バーに入って、窓際の広めの席に座ろうとすると、若いウェイターが「そこは予約席なので、こちらに座ってくれ」と狭い丸テーブルの席に案内された。案内されて一度座ったものの、「バーに予約席?そんなもんほんまにあるのかな?」と思う。別のウェイターがわれわれの席にやってきて、「4人でしたらもっと広い、あの窓際の席にどうぞ」と案内してくれた。案の定、予約席などなかったのだ。こういうことをされると、かっと頭に血が昇る。注文をしたあと、最初のウエイターが横を通り過ぎるときに呼び止めて、「ここのテーブル、誰かが我々のために予約してくれていたんだね」と皮肉を言うと、ごにょごにょとなんか言い訳していた。こういうことをするウエイターはちょくちょくいる。

カフェでお茶を飲んだ後、サロンを見学。女性三人にはトイレに行くことも勧める。このホテルのトイレの装飾がとても豪華でかつユニークだからぜひ見てほしかったのだ。

ネグレスコ・ホテルを出た後、その近所にある私がいつもニースでお土産を買うチーズ屋とチョコレート屋に彼女たちを案内した。チーズ屋さんは残念ながら臨時休業、チョコレート屋はやっていたが、スタッフが前と変わっていた。ただおいてある定番の商品は前と同じものだ。聞くと昨年の10月にこの店を買い取って新しいオーナーになったとのことだた。ニースにある数件のチョコ屋でチョコをお土産に購入したことがあるが、妻曰く、この店のチョコが特に独特の風味があって美味しい、ということだ。

今日はあまり歩かなかったので元気だ。
夕食は鮭のソテーにバジルの入ったソースを絡めたものに、ネギのクリーム煮とご飯。やはりすこぶる美味しい。私の家族関係、夫婦関係が食事のときの話題になる。「なんでミキオばっかり一人でいろんなところに行っているんだ? 妻と一緒に旅行したりはしないのか?」とか。「妻は働いていて、長期の休みが取りにくい。休暇をとっても彼女は旅行よりも、家で休む方を望む」と言うと、サプライズで航空券をプレゼントして旅行に誘ってはどうか?と言う。私自身の旅行は自分の研究の演劇かフランス語が必ず絡むものなんで、純粋にバカンスとしての旅行は実はまったくする金銭的・時間的な余裕がないのだけど、向こうにすると家族でバカンスを取らないというのはどうかしているんじゃないか、という感じのようだ。私の滞在先のマダガスカル人一家は、裕福ではないだろうけれど、それでも年に一度は家族4人で海外にバカンスに出かけている。今、書きながら思ったのだが、彼らは生活におけるバカンスに対するプライオリティが極めて高いのだ。

あとは妻にとっては私より子供二人のことのほうがはるかに優先度が高い、私は私、妻は妻の世界をそれぞれ別個に持っていて、目下、二人の共通の世界といえばそれは子供のことになる、と話すと、「いずれ子供は独立していなくなる。そうなると夫婦だけの生活になる。二人で人生をどう過ごすかを考えることは必要だろう?」と至極まっとうな忠告をされる。全くそのとおりだ。私自身もそうは思うのだけれど、妻にはそういうことを優先して考える余裕が今はない、みたいな答えをした。

フランス人とだと、私がつたないフランス語しか話せないがゆえにいっそう、こういったことを率直に議論できるのが面白い。日本人とはこういう議論はなかなかできないだろう。ホームステイってのはしてみるもんだなと思う。

2020年2月19日水曜日

2020/02/18 ニース研修第4日

研修期間中は日中のスケジュールが決まっているし、ホームステイで他人の家での暮らしなるため、必然的に規則正しい生活になる。23時に寝て、朝6時に起きる。日本にいるときは午前2時、3時まで起きていることが多かった。睡眠時間が4−5時間になることが多く、昼ごはんを食べたあとや夕方に猛烈な眠気に襲われる。一日7時間連続してきっちり睡眠を取ると、日中に眠気に襲われることはない。

到着日やその翌日、そして学校初日の昨日はバタバタしたが、二日目となる今日以降はある程度ルーチンができてくるので、こちらの気分もだいぶ落ち着いてきた。週日は、午前中は学校で授業、昼ごはんをカフェテリアで一緒に取って、午後は学校と私が企画した遠足などのイベントという流れになる。

午前中に語学学校で学生たちが授業を受けているあいだは、私は滞在先で自分の勉強をしていた。エントリーした学会発表の準備をこのニース滞在中にしなくてはならないのだ。本当は私も語学学校の授業に出たいのだけれど。出れば自分のフランス語の訓練になるだけなく、こちらの学校の講師の教授法を知るという点でもいろいろ得るものがあることは過去の体験からわかっている。この学校は一週間単位で登録可能で、毎週月曜に授業がはじまる。毎週受講生が入れ替わるので、固定した教科書を進めていくのではなく、その受講生のレベルやニーズに合わせて教える側が教材を用意し、一週間で一つのテーマを完結させるようにプログラムを作る。

初日沈黙に陥りがちだったクラスは、今日は学生たちも徐々に講師のやり方に慣れてきて、昨日よりはよい雰囲気だったみたいだ。このクラスの講師が研究熱心で意欲的なことは、私は数年前に彼女から映画を使ったフランス語授業の研修を受けたのでよく知っている。受け身で反応がはっきりしない日本人学生とよい関係を作り、授業を活性化させるのは、彼女にとってもやりがいのある挑戦だと思う。日本人とは逆にイタリア人、スペイン人とかだと、それぞれが好き勝手にわれもわれもとぎゃあぎゃあ話すので、それをコントロールして学習に向き合うための秩序を作るのがけっこう大変だと聞いた。

もう一つのクラスは学生たちが意欲的に発言しようとしている感じだが、授業の雰囲気になじめなくてつらい思いをしている学生もいるようだ。本当はいろいろな国と地域の人が混じったクラスのほうがそれぞれの文化的な違いが作用して面白いのだけれど、今回は学校側の都合か、この時期に他の国・地域から来ている受講生のレベルが高いためか、混成クラスにならなかったのは残念だ。

午後は学校主催の遠足でモナコに行った。われわれのグループを引率するのは、昨日に引き続き遠足担当のレアだ。「14時集合にする?」と聞かれたのだけど、早めにニースに戻りたかったので13時半集合にしてもらった。
モナコはニースから電車で30分ほど東に行ったところにある。急斜面が迫る海岸沿いに細長く伸びる町だ。モナコ公国という立憲君主制の独立国であり、フランス共和国の一部ではない。F1グランプリレース、カジノとモナコ大公の宮殿で有名な観光国家で、タックスヘイブンでもあり、世界中からお金持ちの人々がこの国に移住している。後ろに山が迫る海辺の町という構造はコートダジュールの他の町と変わらないが、フランス共和国の町とはちがい、町中は清潔で汚れていない。ゴミや犬の糞も落ちていないし、匂いもない。小ぎれいな町だ。

今回の遠足は町の西側高台にあるモナコ大公宮殿広場に登り、そこから大聖堂をまわって、20世紀はじめのモナコ大公が作った海洋博物館を見学するというもの。時間があればカジノなどがある東側のモンテカルロに行くのだが、そこに行くにはまた下まで降りて上ってとなり時間も食うので、今回は行かなかった。
モナコは美しい町ではあるけれど(海に面した狭い斜面に高層建築が立ち並ぶ独特の景観だけでなく、清潔できれいという意味でも)、私にはその佇まいはあまりに人工的に整備されたように感じられ、面白みを感じない町だ。町並みに生活感が希薄なのだ。観光客の目を楽しませるだけにわざわざ整備されたような薄っぺらさ、よそよそしさを感じてしまう。コート・ダジュール観光では定番中の定番なので、毎年モナコには来ていて、春の研修旅行だけでなく、夏の研修でも来ているので、これで8回目ぐらいになる。でも観光で一回来れば十分すぎる町だ。


モナコからニース行きの列車は人身事故がニースの一つ先の駅であったとかで、なかなか動き出さなかった。18時過ぎにニースに着。学生たちのうち何人かは今夜はステイ先ではなくレストランで夕食を取るとのこと。せっかくステイ先で飯が出るのにわざわざ外食なんてもったいない、とか私などは思ってしまうのだけれど、フランス人との食卓というのはたとえその家のご飯が美味しくても、学生たちにとっては他人の家の飯でしかもフランス語会話を強いられるということで、多少なりともストレスになっているのかもしれない。

私も外のレストランで食べたいものはいくつもあるのだけど、ステイ先の夕食が美味しいので外で食べるがもったいないとも思う。何回かはそれでも外で食わざるを得ないのだが。私が滞在するマダガスカル人家族の家の飯は、肥満の私には犯罪的なほど美味しい。共働きの夫婦が交互に調理をしている。今日はミートボールのパスタという一見どおってことのないご飯だったけれど、すこぶる美味しかった。マダガスカルの唐辛子ペーストをちょっと乗せると風味が増して、さらに美味しくなる。週末はここの奥さんのお母さんがマダガスカル料理を作ってくれるというのでこれも楽しみにしている。

このマダガスカル人の家には今回が3回目の滞在なので、他人の家ということで気を使うところはないではないが、年相応に図々しくなっていることもあり、ほぼ自分の家感覚で気楽に過ごしている。学校のある昼間は家族の人が家にいないので、勉強などしやすいし、学校のすぐそばにあるという利点も大きい。

この家は継続的に語学学校の「下宿生」を通常は一、二週間、長いときは数カ月単位で受け入れている。それが日常で当たり前になっているわけだが、家に常に他人が暮らしているというのはストレスにならないのだろうかと思ったりもする。この家の夫婦はまだたぶん30代後半で、14歳と11歳の二人の子供がいる4人家族だ。家族構成は私の家と同じだが、うちの家で同じようにホームステイを受け入れることができるかといえば、家の間取りや部屋数の問題はともかく、うちでは到底他人と共存する生活は無理だと思う。食事の用意自体、かなり面倒なのだが、他者の存在を意識しながら常に心のどこかで「よそいき」の生活をするストレスに我が家の人間は耐えられないだろう。