2026年2月18日水曜日

ニース研修2026春第3日

 2026/02/17(火)第3日

午前7時15分に起床。普段の生活は午前2時、3時まで夜更かしすることが多く、朝の授業があるときは睡眠時間が5時間ほどという不規則な生活だが、ニース語学研修旅行中は夜眠って、朝に起きる真人間の生活リズムになる。大家のARHAN夫妻は二人とも退職しているが、夜更かしで朝は遅い。朝食は前夜のうちにMurielさんがパンや食器を用意してくれていて、私はコーヒーをマシンで作る。冷蔵庫からジャムなどを取り出して勝手に食べるスタイルだ。これは気楽でいい。

日本からAzurlinguaのスタッフへのお土産として、キットカットの抹茶味を持ってきていた。昨日は鍵騒動で渡せなかったが、今日ようやく手渡すことができた。ニース研修のお土産はいつもこれだ。キットカットならフランスでも売っているので向こうも安心して食べられるし、抹茶味は日本らしく、かつフランスではそんなに流通していない。ここに来るたびに配っているので、「ミキオといえばキットカット抹茶味」というのは定着しているだろう。こうした重くない儀礼的なお土産は、フランス人は案外素直に喜んでくれて、コミュニケーションの潤滑油としてはかなり有効だ。

明日の午後はニースのカーニバルの花合戦を見に行くので、午前中に学生たちの分も含めチケットを購入した。立ち見席は一人14€、日本円で2500円くらいだ。円安の影響が重い。

ニース在住の友人に頼まれて、日本で中古の袴を何着か買って持ってきていた。ずいぶんかさばったし、重量もかなりのものだったので、正直、かなり面倒な依頼だった。彼女は数年前からスタイリストとしての活動を始め、その仕事で日本の着物や袴をコーディネートの材料として使っている。次の仕事でどうしても必要だということだった。彼女とは、私がフランス語教授法の研修でAzurlinguaに初めて来た2014年の夏に出会った。


この研修は日本フランス語教育学会を通して参加者募集があり、一名に現地滞在費と研修費用が出るというものだった。2014年は、私が応援している静岡県立舞台芸術センター(SPAC)がアヴィニョン演劇祭に初めて招聘された年で、公演は7月。私はどうしてもそれを見に行きたかった。しかし低賃金の非常勤講師生活では、芝居のためだけにフランスへ行く贅沢は考えられなかった。そんな時にこの研修の募集があった。「仕事」という名目があれば、無理をしてでも行く口実になる。そう考えて応募した結果、ニースに来られることになったのだ。当時の自分は、フランス語を教えて生計を立ててはいるものの、意識は「演劇・フランス文学研究者」の方がはるかに高かった。そのため、ニースでの研修はアヴィニョンへ行くための「おまけ」程度に考えていたのだが、いざ参加してみると、二十数カ国から集まった教員たちとの交流は予想外に刺激的で面白いものだった。日本人は私一人だけだった。

前置きが長くなったが、袴を届けた彼女とは、この研修後の延泊中に出会った。ニースの下町のレストランで隣のテーブルだった彼女夫妻が、料理の写真を撮っていた私に話しかけてきたのだ。話がはずみ、テーブルをくっつけて夕食を共にした。その2ヶ月後、彼女が友人二人と東京へやってきた。その予定があったからこそ、あの時私に話しかけてきたのかもしれない。東京で彼女たちを案内して遊んでいるうちに、私はまたニースに行きたくなった。そこから自力で関係各所と連絡を取り、自分のクラスの学生に声をかけ、翌年の2月に初めての研修旅行を実施した。以来、今回の10回目まで続いている。彼女との偶然の出会いがなければ、このプロジェクトは計画すらされなかっただろう。

彼女は現在、スタイリスト活動の傍ら、ニース旧市街の眼鏡屋で働いている。初めて会った時もカンヌの眼鏡店の店員だったので、別の店で元の職業に復帰したことになる。チケット売り場が旧市街のすぐ側だったので、購入後、裁判所広場にある彼女の職場に寄り、袴を渡した。

彼女と別れた後、昼食。昨夜の七面鳥は美味しかったが、少し胃もたれしていたのでアジア風のあっさりしたものを求めてGoogleマップで検索し、ヴェトナム料理屋へ向かった。新しくシックな店で、注文は大型タッチパネル。人気店らしく満席だったが、10分ほどで入店できた。化学調味料は入っているだろうが、あっさり味のフォーは優しく、穏やかに美味しかった。テキパキと働くスタッフの様子にも心が和んだ。


午後は学校のスタッフ、クロエによる旧市街と砂糖菓子店「Florian」のガイドツアーだ。昨年から課外活動はすべて自分で手配しているが、学校側が追加料金なしでやってくれるというのでお願いした。正直、自分の方が詳しいと思っていたが、クロエの解説は充実していた。「だまし絵」の窓の起源が中世の窓税にあることや、城山を徹底攻略したルイ14世の歴史、1860年までサヴォア公領だったニースの複雑な立場など、知らないことも多かった。彼女の明瞭なフランス語を、私が適宜通訳して学生に伝えた。




学校から旧市街を回り、城山公園の展望台まで上る行程はしんどかったが、そこから見下ろす地中海と街並みは格別で、学生たちも満足した様子だった。その後、老舗の「Florian」へ。ここでは偶然にもニース在住20年の日本人社員の方が案内してくれた。日本語での説明は、当たり前だがはるかによくわかる。南仏の果物や花を使った手作りの菓子は高品質で、円安の影響もあり高額だが、その手間暇を知れば納得の価値がある。私は試食で堪能し、購入は見送った。せっかくの高価な品も、その価値が伝わらない相手に渡すのは空しいと感じてしまったからだ。


工房を出たのが午後6時。夜のカーニバルがあるため、歩いてマセナ広場付近まで戻る。その際、ある学生が「大家が外出して夕食が出ない」と言い出した。ホームステイの契約上、あり得ない話だ。心配になり、学校から2キロほど離れた滞在先まで付き添うことにした。学生が道に迷うハプニングもあり、家に着いたのは午後7時半。家は真っ暗で大家は不在。勝手に中に入るわけにはいかないので、玄関先で学生と別れた。

帰宅後、夕食はココナツ風味のタイ風カレー。これが実に美味しかった。この家のご飯は本当にやばい。四旬節ダイエットのつもりだったが、歩き疲れた空腹も手伝い、またたくさん食べてしまった。



2026年2月17日火曜日

ニース研修2026春第2日

 2026年2月16日(月)第2日

学校のレジダンスに宿泊することになった学生二人のことが気に掛かりながらも、こちらも飛行機長時間移動やらカンヌ往復、そしてその後の鍵騒動で疲れていたので、すぐに眠った。
午前7時15分にiPhoneの目覚ましをかけていたのだが、目覚ましが鳴ってしばらくすると、またアラームが鳴る。スヌーズにしていたのかなと思ったら、昨夜の鍵騒動の大家の老婦人から電話だった。朝起きて、自分の携帯電話の留守番電話に入っていた録音を聞いて驚いて電話をかけたとのこと。昨夜は体調が悪くてぐっすり眠っていて、チャイムも電話も昨夜は気づかなかったとか。学生二人が何も言わずに黙って外出したので、部屋の中にいるだろうと思い、彼女たちが鍵を持っていない扉の上方にあるもう一つの鍵も閉めてしまったとのこと。
一応反省してオロオロしている感じではあったのだが、「何も言わずに外出した学生たちが悪い」みたいな如何にもフランス人っぽい言い訳をするのにむかっとした。そもそもその老婦人には、昨日、彼女たちが外出前に、私が電話で「今日はこれからカンヌに行って外食するので、そちらで夕食の用意はする必要はない」と伝えているのだ。そしたら向こうは「わかった」と言っていた。またフランス語には「行ってきます」に対応する表現はない。あとで学生に話を聞いたところ、家を出ようとするときに、老婦人が電話中だったので、一応「出ます」と伝えたのだけど、それが聞こえてなかったのかもということだった。
老婦人にはこれから学校に行って、学校の担当者と私の学生を交えて話をします。それからあらためて話を伺います、と伝え、電話を切った。
8時半に学校へ。今回は18人の学生をレベル別に二クラスに分けて欲しい、クラスのメンバーはわれわれのグループだけに限定する「閉じた」クラスで構成して欲しいと事前に伝え、「了解した。そのリクエストには応えるので、まかせておけ」という返事はもらったのだが、今週は受講生が少なくて、学校全体でA1、A2、A2+の3クラスしか開講できない、クラスはすべて「オープン」で他の国からやってきた学生との混合となるという話になっていた。こういう状況は事前にわかっていたはずなのに、事前に連絡がない。当日になって「変わった」だ。よくあることではあるがやれやれという感じだ。

しかし例年、2月の下旬は学校にとって繁忙期ではないとはいえ、昨年までは最初級のA1からB2まで、6から7クラスは開講されていたはずだ。今回は我々のグループ以外は、すべて「個人客」で、その個人客もせいぜい十数名だ。Azurlinguaでこんなに受講生が少なかったことはこれまでない。たまたまなのか。学校の状況がちょっと心配になる。
昨夜の鍵騒動の件については、グループ担当のサンドリーヌはすでに状況は承知していた。老婦人から学校に電話があったらしい。しかし昨夜この件で老婦人の家までやってきた送迎責任者のロマンは、今日からバカンスで学校に来ないという。昨夜は「じゃ、ミキオ、また明日この件については話そう」とか言っていたのに。緊急連絡先となっている彼の電話番号に電話をかけてもなしのつぶてだ。まあ、これもよくあることだが、ほんと、かなりむかついた。
サンドリーヌがホストファミリーの担当者なのだが、彼女も老婦人から状況は聞いたけど、彼女も体調が悪くて、学生たちが何も言わずに出かけたのでしかたない、とか言う。そして自分から解決について何の提案もしない。サンドリーヌはオープンで愛想のいい女性だが、仕事が本当に雑で、昨年も彼女の怠慢で、ホストファミリーのトラブルがあった。昨年は二回あったので、二回目は私はカンカンに怒って抗議したのだけど、その抗議のされ方がショックだったみたいで彼女を泣せてしまった。
こうしたホストファミリー関連のトラブルで、弱い立場にあり、一番の犠牲者は大金を払って研修に参加している学生なのに、学校側は被害者である学生の立場に立って動くことはない。サンドリーヌに、老婦人の大家と学生とあなたを交え話をする必要があるので、電話して訪問の約束をとりつけてくれ、と言うと、「昼休みでいいか?」というので、「今すぐだよ」と伝える。するとはいはい、わかりました、みたいな感じで、電話して、授業の休憩時間の10時15分に学校を出て、大家の家に行くことになった。ほんと、ヒトゴトみたいな対応だ。私のせいじゃないけど、まあミキオがギャアギャア言ってるし、という感じなのだと思う。
Geminiに大家との話し合いでの対応策について尋ねると、的確なアドバイスをくれた。
Geminiの回答
これから行われる話し合いは、学生たちの「安心感の回復」と、ホストマザーおよび学校側への「責任の再確認」が最大の目的です。 マダムが「病気だった」という理由を主張している以上、それを頭ごなしに否定すると感情的な対立になりかねません。しかし、「病気であること」と「契約不履行(学生を危険に晒したこと)」は別問題として切り分ける必要があります。
学生たちはあの家には住みたくないかもしれないが、スーツケースはあの家にあるし、新たにステイ先を探すとなるとこれがまた一仕事で、代替の家がましかどうかは賭けになる。朝の電話では自己弁護の言い訳はしていたものの、オロオロとしていて、反省していたみたいだったので、この午前中の面接の状況でステイ先を変更したいかどうか、考えて欲しいと学生たちには伝えた。
それで結局、学生たちにはそのまま同じ家に滞在してもらうことになった。マダムは性懲りもなく自己弁護はしていたけれど、それは押さえ込んだ。ここでこちらの本気を示さなければならないと思い、私も強い態度で出た。今後のあり方などを確認して、和解ということに。学生たちは午前の残りの授業は休んで、家でようやくシャワーを浴び、着替えることができるように。


ちなみに滞在先の建物は、ニース特有のネオコロニアルなシックな建物で、老婦人一人暮らしとは言え、調度や内装も立派なところだった。しっかり釘をさしておいたので、マダムの様子からみて、おそらくマダムは同じ過ちは二度としないと思う。マダムのこの対応も、グループの責任者である私が出てきて、学校の担当者を同席させたからだと思う。おそらく学生だけで対応させていたら、まあ、昨夜は学校に泊まることになったのは申し訳ないけど、結局は巧く解決したでしょ、と流していた可能性が極めて高いように私は思っている。
日本でも同じではあるが、フランスではとりわけ怒るときは本気で怒って、舐められないようにしなければならない。本当に幼稚に、素朴に、おとなしい人たちを舐めてかかる傾向が強い。という風に考えるようにさせたのは、Azurlinguaでの経験ゆえである。日本がフランスよりマシかと言えば、まあ本質的には変わりない。日本のほうが弱い者いじめは、フランスよりより陰湿で洗練されて狡猾であるとも言える面があるので。
学生たちは内心どう思ったか気にはなったが、とりあえず一件落着で、自分の仕事は果たした気がして気は軽くなった。昼飯はこの不運な女子学生二人にランチを奢ろうと思ったのだが、二日ぶりに身繕いができる彼女たちの準備が手間取って、結局、学校の近所のパン屋でサンドイッチを買って、学校の中庭で食べた。ランチの償いはまた別日で。
この学校近所のパン屋はどうってことのない街のパン屋だが、値段が安くて、サンドイッチは巨大でボリュームたっぷりで、美味しかった。チュニジア人がやっていて、私はチュニジア風サンド、唐辛子ソースとツナのサンドイッチを食べた。
今日の午後は、本来は学校のレクリエーション担当者がニース旧市街とニースで人気の老舗お菓子屋の工場と売店をガイドツアーしてくれるはずだったが、カーニバルによる道路封鎖などのため、明日にしてくれとこれも今日になってから言われる。そのため、午後は、私のガイドでニースの隣にある美しい港町、ヴィルフランシュ=シュール=メールへの遠足にした。海沿いの小さな街だが、その旧市街の構造、特にトンネルとなった街路が独特で、私は好きな場所である。ニースから列車で10分ほどのところにある。鍵騒動の二人も含め全員が参加。
今日はヴィルフランシュ=シュール=メールの海で、船による「花合戦」が行われ、大勢の観光客がいた。例年、この時期はひっそりしている街なのだが。「花合戦」はカーニバルのプログラムの一つだ。ニースのカーニバルは有名だが、この時期、南仏のいろいろな街でカーニバルの祭が行われている。ヴィルフランシュ=シュール=メールの海の花合戦については私は知らなかった。



旧市街を回り、街と海を見下ろす高台にある16世紀の要塞に登り、また街に降りて、50分ほど自由時間とした。私はその自由時間のあいだ、要塞博物館を散策した。要塞博物館は昨年確か行ったのだが、入り口がどこかあやふやだった。自分が行ってから学生たちも要塞博物館に連れてくればよかったとちょっと思う。博物館といっても要塞の内部が一部開放されているだけで、特に展示物はないのだけど。


ヴィルフランシュ=シュール=メールの旧市街の特異な景観は学生たちも気に入ってくれたと思う。風は強かったが天気がよく、海の色がきれいだった。

17時頃にニースに戻る。ニースの目抜き通りであるジャン・メドゥサン通りにあるFNACとMONOPRIXを学生たちに紹介して、私は家に戻った。うちの滞在先の夕食は、20時からと遅め。今日の献立は七面鳥のプロヴァンス風ハーフローストがメインで、それにサヤインゲンとにんじんのサラダ、マッシュポテトがついた。マダムが料理好きとのこと。七面鳥の旨みが、ハーブの風味によって引き立っていて、とても美味しかった。食べ過ぎた。ニースではダイエットも目標だったのに。飯がうますぎる。やばい。




フランスでの食事は会話の時間でもある。1時間半ぐらいご飯を食べながら、とりとめのない話を。ここ数年のフランスの夏の暑さや彼らのバカンスの過ごし方、これまで彼らが受け入れたホームステイ学生についてなど。まだお互いどんな人かわからないので、どこまで踏み込んだ話ができるのか探っている感じだ。


ニース研修2026春第1日

 

2026年2月15日(日)第1日

ニースに行くときはいつも22時ごろ成田空港発のエミレーツ航空なのだが、今回は0時05分羽田空港発の便になった。乗客登録なしで事前に座席を確保の上、入金を2ヶ月後ぐらいに設定できる「団体航空券」というカテゴリーの航空券を手配しているのだが、この団体航空券を取り扱う航空会社は少ない。エミレーツ航空での扱いもだんだん制限が厳しくなっていて、今年は復路便については3月2日(月)のチケットしか確保できなかった。

羽田空港第3ターミナルからの出発だった。通常、国際便の場合は出発時刻の3時間前に空港に到着することが推奨されている。ちょっと余裕を見て20時45分を集合時刻とした。今回は参加者の学生の顔と名前はちゃんと憶えたつもりだったのだけど、マスクして、メガネ、そして帽子とか被っていると誰なのか判別し難い女子学生がいた。

昨年は16名の参加学生がいて、現地で全員で動くには少々不便を感じたので、今回は14名にしようと思っていた。円安も進行しているし、物価も上がっている。それに伴いこの旅行の費用も上がったので、14人でも学生を集めるのは難しいかも知れないなと思っていた。まあ少人数になったらなったで、現地で動きやすくなるし、継続的に実施することが重要だと思っていたので、たとえ申し込みが一桁でもやるつもりではいたが。

ところが実際には10月初めに告知して募集をかけると、すぐに問い合わせが数件あり、申し込みの締め切りの3週間ほど前に14名に達してしまった。例年は申込締め切り直前にだだっと申込があり、定員に達するという感じだったのだが。16名申込があった時点で一旦締め切ったが、やはり断るのは忍びなく、ChatGPTに相談してみると、「2名増やして18名になっても、片山さんにはこれまでの経験がありますからなんとかなるはずです」との回答を得て、迷った末、18名にした。

エミレーツ航空のカウンターは出発3時間前の午後9時にはかなり混雑していて、受託手荷物(スーツケース)の預入に長い列ができていた。このチェックインと荷物預けのやり方が航空会社、空港によって異なり、同じ航空会社でも変更があったりするのでいつも戸惑う。これまでは、エミレーツ航空団体のときは事前チェックインせず、直接荷物預かりカウンターに行って、パスポートを提示するやり方だった。スーツケースへの識別用シールもスタッフが貼ってくれる。今回はカウンター前のチェックイン機で各自手続きして、機械からクレームタグのシールと搭乗券を受け取り、自分でクレームタグをスーツケースに付けて、スーツケースをカウンターでドロップオフする手順だった。

飛行機は定刻通りに羽田を出た。離陸してしばらくすると夕食。全部食べた。日本を深夜発で、フランスに行く場合は、とにかく機内でできるだけ寝て、現地到着後は夜まで頑張って起きておくのが、時差ボケ対策としていい。学生たちにも、旅行への高揚感はあるだろうけど、機内で頑張って寝ろ、と言っておいた。

不思議とエコノミー機内での長時間フライトでのしんどさの感覚は忘れてしまうもので、学生たちには「寝ろ寝ろ」と言っていた私も、あの狭い空間ではなかなか寝付けない。それでもうつらうつらという感じで4時間ぐらいは寝られただろうか。熟睡とは程遠い。こういうエコノミー機内のしんどい記憶は不思議と旅行後にはリセットされてしまう。ドバイ到着前にまた飯がでる。

ドバイには予定通りの時間に到着した。次のニース行きの便への乗り継ぎ時間が1時間半とあまり余裕がないので、早歩きで急いで移動したら暑かった。空港でトイレに行く時間は確保できた。ドバイからニースまでは6時間。

肩が痛い。ドバイの乗り継ぎが短くて、痛み止めを飲む時間がなかった。

ドバイ→ニース便は運良く隣が空席だった。これで全然疲れ方が違う。

この6時間のあいだに2食出た。お腹はあまり空いてなかったが、2食完食。エミレーツの機内食はそこそこ美味しい。ニース行きの便でも眠る。2時間ぐらい眠れたか。ドバイ行きの便よりもちゃんと眠れた感じ。




機内で『蒸発』という日本映画を見る。ドキュメンタリー映画だった。フランスおよびカナダのフランス語圏で、日本人の「蒸発」をテーマとする演劇作品や小説が近年、いくつか発表されていて、現地ではそれなりの評価を得ている。私はフランス語圏での「蒸発」テーマの作品にはちょっと注目していて、購入している。この映画の日本公開は未チェックだった。ポレポレ東中野あたりで上映されていそうな感じだが。


監督は二人クレジットされていて、Andreas HartmannとArata Moriとある。欧米で日本人の蒸発が、引きこもり同様、日本社会特有の病理として注目されているのかも知れない。しかし実際には蒸発、行方不明となる人の数は、日本よりフランスの方が多かったように思う。『蒸発』、夜逃げ屋の女性社長のやさぐれ方が、見た目も、喋り方も、いかにもという感じでやさぐれていて、よかった。セリフや演出があったのかと思うくらいハマっている。

蒸発者を受け入れる「優しい町」、西成も取材されていた。芸術活動の社会的包摂ということで西成はNPO団体による住民参加の芸術活動が盛んな地域でもあり、そこで行われているユニークなアマチュア演劇の取材で何回か滞在したことがある。取材では、住民の素性についての質問はご法度あるいは慎重に行うようにと言われた。自分からベラベラ話す人もいたが、その内容は必ずしも本当のことではない、いや本当のことであることが少ないとも。西成はよるべなき人たちのファンタジーによってゆるゆると成り立っている町だ。そこに身を落ち着ける蒸発者の一人は、西成はユートピアと言っていた。

ニース空港へも予定通りに到着。学校の送迎スタッフも顔見知りだ。今回は3台の車に分かれてそれぞれの滞在先に向かった。今回は私を含め、19人が9家庭に分散滞在する。今年は比較的学校に近い家が多いのでよかった。一軒だけ学校から3キロぐらい離れた家だったが。

私の滞在先のArhan家は、退職した老夫婦の家で、ニース駅のすぐ近くにある。学校にも歩いて3分ほどのところだ。二人は再婚夫婦で、一緒になってから15年ほどだと言う。それぞれ前の配偶者とのあいだに子供はいるが、子供は成人して独立したり、前の配偶者と一緒に暮らしたりしているそうだ。ニースの出身ではなく、夫のYanicさんはブルターニュ出身、妻のMurielさんはパ・ド・カレ県の出身で、二人とも仕事でニースに来て知り合ったとか。

今回は忘れ物は大丈夫かなと思ったが、やはりしていた。肩の痛みで大量に処方してもらった湿布薬の大半を家に置いたままだ。フランスには湿布薬みたいなものは売っていない。湿布があったところで気休めみたいなもんなので、まあいいか。どこで何をするにせよ、忘れ物がないというのが、私には極めて稀だ。

到着日の今日は、学生たちには学校までの道筋を確認がてら、夕食まで街を散策することを勧めている。学生たちのうち、二組四名とは駅で待ち合わせをしてカンヌに行った。カンヌでモンテカルロ・バレエ団による『シンデレラ』の公演があり、それを一緒に見に行ったのだ。

このカンヌの公演は、到着当日だったので、行くかどうかはとても迷った。長距離の移動のあとで疲労がひどいかもしれないし、また到着初日はけっこうトラブルが多くて、その対応に追われることもけっこうあったからだ。バレエ好きで、現地でバレエ公演があるならぜひ見てみたいという学生がいて、どうしようか迷った。私も見てみたいと思った。しかし到着当日に、全員をカンヌに連れて行くことは難しいだろう。どうしようか散々迷ったすえ、とりあえずチケットは予約し、到着当日、特にひどい疲労やトラブルがなさそうなら、バレエ好きの学生とその学生の同室の人を誘ってカンヌに行こうと思った。

私は研修旅行のコーディネーターでもあり、教員でもあるので、一部の学生だけを優遇するようなことはあってはならないとは思っているのだが、演劇・舞台芸術研究をしている私が見に行きたいと思ったし、バレエに強い関心を持っている学生にフランスで舞台を見せたいと思ったのだ。他の学生にも行きたかった人はいたかもしれない。他の学生については別のことで埋め合わせをしたい。

16時過ぎにニースを出る列車にのって、カンヌ着は16時45分ぐらいだった。カンヌ映画祭の会場であり、今夜のバレエ公演の会場でもあるパレ・デ・フェスティヴァルの周囲をぶらぶら歩いたあと、会場に入った。パレ・デ・フェスティヴァルのなかに入ったのはこれが初めてだ。



モンテカルロ・バレエ団の上演演目は、『シンデレラ』だった。音楽はプロコフィエフがバレエ音楽として作曲したもの。振付はJean-Christophe Maillot。このプロダクションの初演は1999年。三幕構成で上演時間は約2時間。私はバレエの公演は2年に一回ぐらいしか見てないが、パリのオペラ・バスティーユで見たバランシン振付の『夏の夜の夢』は私の見た舞台作品の中でも生涯ベスト10に入る印象的なものだったし、一時期、バレエ・リュスについて調べていたこともあった。

マイヨ振付のモンテカルロ・バレエの演出は、私からすると保守的でクラシックなスタイルの舞台に思えたのだけど、バレエ好きの二人の学生からすると「自分たちが考えるバレエとは違った」ということだった。実際に踊っている人と私では同じ作品でも見る視点が異なるということだ。この公演は値段も安かった。30ユーロくらい。生オケでなく録音の音楽だったからか。カンヌ映画祭のメイン会場であるパレ・デ・フェスティバルのなかに入ることができたのはちょっと嬉しい。いつもは外から建物の外側とレッドカーペットの階段しか見たことがなかったので。収容人数は2000人くらいか。

20時過ぎに公演終了。とりあえずはニースに戻って、ニース駅近くでサッと夕飯を取ることにした。カンヌの駅のホームで、往復の小グループ切符を買ったのに、それを紛失していたことに気付く。ズボンの後ろポケットに入れていたのに。検札に引っかかれば高額の罰金を取られてしまうので、大慌てで帰りの切符を買う。47ユーロ。クラクラする。自分の間抜けのせいだが。

ニースには21時過ぎに到着。案外日曜夜のニースは店がやってない。駅のすぐそばにあるハンバーガーショップで遅い夕食。高かった(15ユーロくらい)けど美味しかった。ちょっと気になる場所に滞在している学生2人を家まで送る。やはり夜はちょっとワイルドな場所だった。若い女性二人で夜遅く歩くのはちょっと勇気がいるかなあと。ただこのあたりはアフリカなどのエスニック料理の名店がいくつかある地域でもある。

自分の家に戻ったのが22時過ぎ。今回は初日、トラブルなく無事に終わったとホッとしていたら、そんなことはなかった。カンヌに一緒に行ったもう一方の女子学生二人組のひとりから電話が入って、家に入ろうとしたけれど、どうしても鍵が開かないという。

こちらの二人の滞在先は、老婦人ひとりの家で、場所はブルジョワ的なシックな建物が建ち並ぶところなので、問題はないだろうと思っていた。フランスの家のドアで鍵が開かないというのはちょくちょくあることだ。日本の家の鍵と仕組みが違って、ちょっとコツがいることがある。電話があったときはその類いだと思って、「こうやってみな」と指示を出したのだが、どうやってもうまくいかないし、家に居るはずの大家に電話をかけても、ドアチャイムを鳴らしても、ドアをノックしても、返事がないという。私も大家に電話したが、留守番電話になっていて、「今は電話に出られない」と言う。

彼女たちの滞在先は、私の滞在先から数百メートルの距離だったので、そこまで行くことにした。私が現地に到着したのが22時半頃か。私も鍵を回してみるが、カチャッという音がして、鍵がうまくはまった感じはあるのだけど、ドアはどうやっても開かない。私が試したようなことは彼女たちもすでに散々やっていた。チャイムもノックも返事がない。これは最悪、近所にある安ホテルに今晩、彼女たちを泊まらせるしかないかなと思った。

語学学校の送迎担当者に電話する。彼も最初のうちは、われわれが不器用で悪いやり方で鍵を回しているのだろうと疑っていたようだが、埒があかない。彼もそちらにやって来ることになった。そして現地でノックや、チャイムや、電話やらやってみたけれど、返事がない。彼女たちのために、今晩、ホテルの部屋を至急用意してくれと言ったのだが、「いや、もう少しやらせてくれ」と言って、30分ぐらいそんなことを続けただろうか。それでようやく彼も諦めた。

学校の校長に連絡して、結局、学校のある建物のなかにある「レジダンス」(寮のようなものか?)の一室に彼女たちを今晩は泊めることになった。すでに深夜11時半である。彼女たちは滞在先にスーツケースを置き、そのあとすぐ、カンヌに行ったので、着替えもなく、着の身着のままという感じだ。レジダンスの部屋があったのならさっさと用意しろよ、と心の中で思う。結局、大家の老婦人とは連絡がとれないままだ。

こちらの学生より老婦人のことが心配だとか言っているので、「救急車とか呼んだらどうだ?」と聞くと、「いや、深く眠っているだけかもしれないので、今夜は様子見するしかない」とか言う。学生たちは水と携帯電話の充電のためのケーブルがとりあえず必要だと言うので、私はいったん自分の滞在先にもどって余分なケーブルと電源を持ってきた。

水に関しては、フランスにはあいにくコンビニという便利なものが存在しない。しかし「レジダンス」から50メートルほどのところに、朝まで開いているエピスリー(小型食料品屋)があるのがGoogleマップでわかった。なんか柄の悪そうな若者たちが店の前でたむろっていたが、その店で水を買って、彼女たちの今晩の宿、「レジダンス」まで充電用ケーブルと電源とともに届けた。

彼女たちにとっては、ニース初日がいったい何というひどい夜になってしまったことだろう。着替えもないので、そのまま寝るしかない。私は彼女たちに翌日の朝食代として、20ユーロを渡して、帰宅した。深夜0時半になっていたと思う。

2026年2月16日月曜日

ニース研修2026第0日

 2026/02/14(土)第0日

学生を連れてのニース語学研修旅行を初めて実施したのは2015年2月だった。その後、新型コロナ禍で2021年と22年に中断があったが、今回で10回目の実施となる。
これ以外に2014、15、16年の夏には、Azurlinguaで行われたフランス語教員向けの研修で2週間ずつニースに滞在している。つまり、この12年間で13回、2週間ずつニースに私は通っていることになる。この頻度になると、感覚としては「里帰り」に近い。
さすがに新鮮味は全くないのだけれど、ニース語学研修旅行は、語学学校とのさまざまな交渉を通して、フランス的なリアリティと私を対峙させてくれる貴重な機会で、フランス語教員としての私を鍛えてくれるし、私のフランス語コミュニケーション能力もこの研修旅行を通じてなんとか維持されていると言ってもよい。こうした経験をしているからこそ、教室でも自信を持ってフランス語やフランス文化を教えることができている。私にとっては非常に重要なイベントである。
新型コロナ禍以降の実施は、ウクライナ戦争による航空運賃の高騰、現地の物価上昇、そして円安によって、それまでの1.5倍のコストがかかるようになった。毎年、自分のフランス語担当クラスや何人かのフランス語教員同僚に頼んで募集の声かけをしているが、幸い2023年以降も12名以上の参加者を集めることができている。
昨年は16名だった。この研修の参加学生は基本的にみないい子ちゃんばかりで、手はかからないのだけれど、16名になると、集団での移動やトラブルがあったときの学生のケアが若干大変だった。そこで今年は14名定員で募集をかけた。円安が進行しているので果たして学生が集まるだろうかと思っていたが、予想外に申し込みがあり、今年は18名の学生と一緒にニースに行くことになった。男子学生が5名、女子学生が13名。学生は現地では2名ないし3名のグループでホームステイする。私もホームステイだ。
昨年、語学学校Azurlinguaの経営権が米国の教育業者に譲渡された。スタッフはこれまでのメンバーが引き続き雇用されていたものの、会計処理など申し込み段階でいくつかトラブルがあった。また、学校が契約しているホストファミリーと学校、そして私との間でもコミュニケーションの齟齬があり、これによるトラブルも発生した。
組織体の事務管理部門の仕事のゆるさは、この学校に限らず、おそらくフランスのいたるところで見られる病理のようなものだ。あらゆる怠慢やミスが「大したことないよ(Ce n’est pas grave)」で流されてしまう。こちらのミスやいい加減さにも寛容ではあるのだけれど、トラブルが生じたときは、しっかり抗議して対処を求めないと、まずそのままにされてしまう。
フランスでは仕事関係で何かを依頼した場合、全幅の信頼をするのはリスクが大きい。この研修での経験で、常にダメだった場合のことを想定しておくという癖がついた。これはけっこうストレスだが、フランスに鍛えられた一面でもある。トラブルは厄介だけれど、生じると「来たな!」とアドレナリンが出る感じだ。プロセスは想定通りでなくても、最終的に目指す地点に近いところにたどり着けばいい。これは私がフランスで学んだことのひとつである。
ホストファミリー選定のリクエストは、アレルギーやペットの有無の確認など毎回かなり細かくやっていて、できる限り前回の滞在で学生たちの評判が良かった家をお願いしている。ただ今回は、飛行機のチケットの関係で帰国日が月曜日となってしまったためか、前回に引き続きの家庭は一つだけだった。
学校の授業は月曜から金曜の1週間単位で、授業開始の月曜の前日の日曜にニースに入る生徒が多い。そのため、ステイ先のチェックアウトは土曜ないし日曜が基本なのだ。ニースのこの学校の受講生の構成は時期によってかなり変わるが、イタリア、ドイツ、スイス、スペインなどのヨーロッパ内の国々から、1週間ないし2週間の期間で受講するのが大半だ。日本など遠方から毎年定期的にやって来るグループは我々だけのはずだ。
学校の規模は小さく、この時期の受講生はおそらく50〜60名だと思う。ニースに数ある外国人向けの私立の語学学校の規模は、だいたいこんなものだろう。
この研修では学校が契約している過程で、分散して滞在する。滞在先がバラバラになると学生の活動を管理しにくいし、ステイ先により相性や、言い方は良くないが、当たり外れはあるので、できれば全員まとめて同じ寮やホテル滞在としたいところなのだが、そうなれば滞在費が高くなってしまう。二食付きのホームステイが一番安上がりなのだ。
そして何より、ホームステイだからこそ知ること、学ぶことができるフランス生活のリアルがある。私もニース滞在中、これまで複数の家庭に滞在したが、ホームステイしたからこそ知ることができたフランス人の考え方、生活習慣、価値観、そしてフランス語表現は多数あった。外国人の他人の家での滞在となると気も使うし、ストレスもあるのだが、学べることは多い。
昨年に引き続き私たちのグループを受け入れてくれた家庭は、もう5、6回にわたって私の学生を受け入れてくれている老夫妻だ。私とは気心の知れた仲で、Facebookでの交流も続いている。いかにも南仏の下町の気のいいおばさん、おじさんという感じのフランスっぽい善良さに満ちた夫婦で、この家庭には安心して学生たちを託すことができる。

2025年3月15日土曜日

2025/03/11(火)モロッコ第9日 帰国(3/12)

帰国日。朝7時15分に起きた。ホテル一階のレストランに8時前に行くが、食事を取っているのは2組だけだった。朝食はバイキング形式だったが、肉っぽいものがなくて、昨夜のイスファールの残り物という感じだった。これで9ユーロは高すぎる。昨夜のうちにスーパーでなにか買って、部屋で食べていればよかったと後悔する。モロッコで食べた美味しかったものといえば、初日の夜にマラケシュで食べた牛肉とプルーン、アーモンドのタジンか。弓井さんの唐揚げとドリアも美味しかったが。あとはつい手を出してしまったマクドナルドのチーズバーガー。豚肉がないのは仕方ないとして、羊肉を出す店が案外ないのは意外だった。

空港行きの列車はカサ・ヴォワイヤジュー駅を11時05分に出る。ホテルから駅までは歩いて10分くらいだが、早めにホームにいたかったので10時20分にホテルをチェックアウトした。空港行きの列車と同じホームに空港行き列車より15分早く入線するエル・ジャディージャ行きの列車があって、その列車の入線が遅れていた。ちょっと嫌な予感がした。ちょうど本来の空港行き列車の出発時間に遅れていたエル・ジャディージャ行きの列車が入ってきた。駅員が「エル・ジャディージャ」と叫んでいたが、ホームにいたスーツケースを持った空港行きになりそうな乗客が何組か、吸い込まれるようにその列車に乗ってしまった。果たしてこのあとに空港行き列車は来るのだろうかとちょっと不安だったが、空港行き列車も定刻より10分遅れでホームに入っていた。
空港までは30分の距離だったが、なんとなく予感がして一等車を購入していた。一等車のほうが2€ぐらい高い。空港行き列車の車両数は多くはなかったが、一等車は最後の車両の半分だけのスペースだった。高いけれど、別にきれいではない。モロッコ国鉄の料金システムはよくわからない。





空港駅はこれまで乗降した駅と違って古びていた。空港の両替所で財布に残っていたディルハムをユーロに換えると15ユーロにしかならなかった。
飛行機の座席は通路側だったが、なぜかヘジャブ姿のアラブ婦人団体客に囲まれた席だった。このアラブ人婦人たちのかしましいこと。大阪のおばちゃんじょうたいである。小さな子供も数人いた。どういう席の取り方をしているのか空席もいくつかあって何人かは横になって寝ている。最初は私の隣は空席でラッキーだと思っていたのだけど、なぜか30分くらいしたら横の席に他の場所から移動してきた。「なんで移動してくるんだよ」という顔をしたら、アラブ人団体のリーダーらしき女性から「あんたは私たちの兄弟だろ? あんたの席はそこだけ。横に座っても問題ないよね」と言われる。移動させれた女性も得体の知れない東アジア人の中年男の隣にわざわざ座りたくはなかったと思うが。横になって寝ている連れが何人かいるのに、なんでこんな座り方をさせるのか理解できない。
国際線飛行機でラマダンはどうするのかと思ったら、やはり飛行機が昼間の間は飲み食いしていない。飛行機が夜に入ると、イフタールなんとかかんとかとアナウンスがあって、飲み物とデーツが配られた。
飛行機のなかで山下敦弘監督少年のあいだの『カラオケ行こ!』を見る。合唱部の美声のボーイソプラノの中学生と組長主催のカラオケ大会のため歌唱力を向上させなくてはならないヤクザの若頭の交流譚。ヤクザと少年のあいだに生じる恋にも似た連帯感、そして合唱部の部員たちのあいだの感情のやり取り、思春期前期の子供/大人の不安定さと成長の過程を丁寧に描いた青春音楽映画だった。関西弁のやりとりがいい。あまりに繊細すぎて、見ていてポロポロ泣いてしまう。
2本目の映画は『パーフェクト・デイズ』。うーん、作り好きだよな、人物とか状況の設定。なんかいい話ばかりになっていて鼻につく。
ドバイでの乗り継ぎ時間が90分ほどだったのでちょっと心配だったが、同じターミナルで手荷物検査のすぐ近くだったので、10分もかからずにスムーズに乗り継ぎできた。成田行きの便の搭乗ゲートに行くと、もう入場が始まっている。もうここまで来れば帰国したも同然である。周りの乗客も日本人が多い。日本まで10時間である。
成田行きの飛行機ではモロッコでは深夜時間なので眠たくはなるのだが、なかなか眠れなかった。映画は『あまロック』を見た。尼崎が舞台の映画作品で、関西ネイティブの江口のりこ、笑福亭鶴瓶、中条あやみが出ている。ロードショー公開時に気になっていた映画だったが、これは脚本がぜだめだった。ドバイ行きの便で見た『カラオケ行こ!』の関西弁は繊細で心地良かったが、この映画の関西弁はがさつで詩情がない。取ってつけたようなハプニングが起こる展開、あり得ない人物設定、いわゆる「ええ話」にもってくる嘘くささが私には耐え難かった。江口のりこ主演で、江口らしい役柄を演じているが、江口のりこが素で「ほんまカスみたいにくさい本やなあ。まあ、お仕事やからなんとかやったるけど」と言っていそうだ。
ドバイから成田は帰りの方が飛行時間が1時間以上短い。それでも9時間だが。ひどい映画だなあと思いながら『あまロック』を最後まで見てしまう。その後、これも見ておきたくて見られなかった映画、リドリー・スコットの『ナポレオン』を見始めたがこれもあまり面白くない。ジョゼフィーヌとナポレオンの夫婦関係に焦点をあててるのかあと、ぼんやり見ていたら、成田空港へ到着2時間前に、ストンと眠りに落ちてた。食事の給仕が始まっていてハッと目を覚ましたら、右手首にあるはずの腕時計がない。なんとなくぼんやり、自分で腕時計を外していたような記憶がある。座席の下を探し回っていると、通路を挟んでと隣の人が「探し物ですか?もしかしてこれですか」と通路に屈んで探してくれた。自分の座っている先の右後ろ、1メートル半くらいのとこに、私の腕時計が転がっていた。
成田空港へは予定の17時50分よりちょっと早めに着いた。成田空港に着くと、長時間飛行の疲れあるいは旅の疲れがどっと出る。雨が降っていたので、スーツケースは宅配便で送ることにした。池袋行きのバスに乗る。ラマダン明けのラーメンは、地下鉄赤塚駅そばのワイズラーメンで食べることにした。モロッコでは脂っ気のないものばかり食べていたので、ギトギト系が食べたい。もちろんチャーシューは入れる。
やらなあかんけどやってない大事なことがいくつかあって憂鬱。モロッコ滞在中に、あるいは帰りの飛行機の中で進めようと思ったが、そんなことはできるわけもなく。どうないしょう。
地下鉄赤塚駅降りるとまだ小雨が降っている。白ネギチャーシューを注文した。美味しい!とは思ったが、期待していたほどではない。今ひとつお腹が空いていないのだ。ラーメンのスープは残してしまった。家に帰ったのは21時半ぐらい。妻はまだ起きていた。風呂に入って、すぐに床につく。
朝起きたら、気持ち悪くて2回嘔吐、そして下痢。そのあと昼間寝てたら回復したが、ふらふらである。急性胃腸炎だ。思い当たるといえば、カサブランカのホテルで食べた夕食と朝食のバイキングだが、もしかすると昨夜食べたラーメンで胃袋がびっくりした可能性もある。昼間もずっと寝ていた。夜は四ツ谷でラテン語のレッスンがある。レッスン前にたけだでかきバター定食を食べたかったが、とても食べられる状態ではない。ご飯抜きのままレッスンを終える。レッスンを終えたときにはちょっと元気になっていたが、食欲はない。うどんが無性に食べたくて、四ツ谷から四谷三丁目駅まで歩き、なか卯できつねうどんとからあげを食べる。これで570円だ。なんという安さだろう。きつねうどんは関西風の出汁だった。


2025年3月11日火曜日

2025/03/10(月)モロッコ第8日

 

ばいばい、フェス。二泊したフェスからカサブランカへ移動する。モロッコは「絵になる」魅力的な風景がいたるところにある。風景画を描く人なら、行く先々で画角を定め、スケッチしたくなるだろう。美術教員で画家の父が若くて元気だった頃に、連れて来たかったなあと思う。

父の友人の画家がモロッコに何十年か前に旅行したとき、スケッチを始めたら人だかりができて、やいのやいの色々言われたり、ガキどもにちょっかい出されて大変だったという話を聞いたことを思い出す。

カサブランカ行きの列車は09時40分発だった。早めに駅に到着しておきたい。宿泊しているリヤドから駅までは3キロほどの距離がある。

チェックアウト前夜に、リヤドの若女将(?)のオマイマさんに「明日は0845には宿を出たい。朝飯を0815にできないか?」と聞くと、「調理の人の都合で0830にしか用意できない」と言う。「マジ?それじゃ、私は朝飯抜き?」と言うとすまなそうな顔をしていた。

「駅へのタクシーの手配はどうする?」と聞かれて、「ブルーゲート前に、プティタクシーがたくさん停まってるから、それを使えばいいだろ?」と言うと、「私にはわからない」との答え。ちょっと考えて、駅へのタクシーの手配を頼むことにした。

彼女はすぐに車の手配のため電話をしたが、150ディルハムだと言う。宿にタクシーの手配を頼むと割高になるのは仕方ないとは言え、ここにくる時は100ディルハムだった。

「高い。100ディルハムしか払わないと伝えてくれ」と言うと彼女はまた電話で先方と話し始めたが、何を言われたか知らないけどシクシクと泣き始めてしまった。

若い女性が目の前で泣いてしまうとこちらも狼狽えてしまう。

「いいよ、150で。その代わり9時きっかりにここに迎えに来ること、それから明日の朝は8時半きっかりに朝飯を出してくれ」と言った。

8時半に飯は出た。タクシーではないけど、駅まで私を届ける車も待機していた。

フェスからカサブランカまでは列車で4時間弱。カサブランカで一泊して、明日、日本行きの飛行機に乗る。

フェスからカサブランカへ移動。モロッコ国鉄の料金は謎でフェス→カサブランカは300キロ以上あって3時間50分なのに89ディルハム、だいたい9€なのに、ラバトからフェスに行ったときは3時間弱の行程で120ディルハム。そして明日、利用するカサブランカから空港までは30分で80ディルハムである。いずれも一等車の料金だ。座席が一番快適だったのは、一人独立席だった今日の列車だった。コンパートメントは知らない人と長時間、個室で向き合うことになるので、あまり快適ではない。

モロッコは概ね交通費はかなり安いと言っていい。 タクシーがどの町でも大量に走っていて、すぐにつかまる。料金は市内移動だとたいてい15ディルハム(1.5€)以内だ。タクシーが準公共交通機関として機能しているとも言える。

カサブランカには13時30分に到着した。ホテルは駅から500メートルほどの大型チェーンホテルを予約していた。モロッコ最終日はちょっとゆったり過ごしたかったのだ。清潔で、広くて、機能的で快適な部屋だった。これで50€は安く感じる。






カサブランカはモロッコ最大の都市だが、観光の見どころは乏しい。私の旅行ガイドブックのバイブル、Routardによると観光的には1993年に完成したハッサン2世モスクだけ押さえておけばいい。このモスクは非信者でも入場可能なモスクだが、ガイドブックを読んでも、モスクのページを見ても、開館時間がはっきりわからない。ラマダン中は開館時間が短くなっている可能性もある。ガイドツアーも探したのだが、私の列車の到着時間で申し込めるツアーはなかった。

ホテルの部屋に荷物を置くと、すぐにタクシーでモスクに向かった。モスクの敷地に入るには、モスクに併設されている博物館でチケットを購入しなくてはならないようだった。チケット売り場に着いたのは14時30分頃だった。

しかし今日は14時で最後の見学ツアーは終わりだと言われてしまう。ただ博物館のチケット売り場前のロビーにいれば、15時半になると無料で開放され、中に入れるとのこと。いったいどうなってるのかよくわからなかったがせっかく来たので、15時半までそこにいることにした。

ガイドに率いられた団体客が何組か、その後、モスクの敷地内に入場していったが、ロビーで待っている個人観光者は私だけ。そのうち博物館のチケット売り場スタッフがいなくなり、他のスタッフが博物館の出入り口を閉めて、入って来ようとしている個人観光客を追い返したりしている。

自分がここにいていいのか?、15時半になったら無料で入れると言うのは聞き間違えだったのか不安になった。

団体客のガイドが私の隣に座って、日本語で話しかけて来たのでびっくりした。日本に数年住んだことがあるという。トルコで日本語が巧みなトルコ人に絨毯を買わされそうになった経験があるので、多少、警戒しつつ、そのガイドと日仏語を交えて話をした。今日は日本人団体客をここに案内したそうだ。高齢の女性を中心とした団体だった。

アジア人の観光客をモロッコでは見かけないと何日か前に書いたが、昨夜のレストランと今日の列車の中には若い女性二人組の日本人観光客がいた。50後半のおっさんが話しかけるの警戒されて気まずい思いをするのではないかと思い、あえて話しかけなかったが。ガイドによると、コロナ前に比べると少なくなったが、ぼちぼち日本人観光客も増えているとのこと。流暢な日本語だった。単に暇つぶしで私と話をしたかったようだ。






15時半になると、博物館のスタッフが「今から中に入れるから」と私をモスクの敷地内に入れてくれた。いったいどういうシステムなのかさっぱりわからない。ただモスクのなかには入れなかった。外からなかを覗くだけ。ホテルに帰ってから調べてみると、1時間ごとにガイドツアーがあって、そのガイドと一緒でないとモスク内に入れないらしい。その最後のガイドツアーが今日は14時だったということのようだ。

モスクの敷地は9ヘクタール、ミナレットの高さは200メートルあってアフリカで最も高いらしい。現代の建造物だが、イスラム・モロッコの伝統的な工芸様式を取り入れた壮麗でスケールの大きい建造物だった。

とりあえずカサブランカで見るべきものは見た、モロッコ旅行の締めくくりにはなったと思い、満足する。

モスクから海岸沿いの道を30分ぐらい歩いて、カサブランカのメディナに向かった。今日は風の強い日だった。そのせいもあるのか、大西洋の海の波は荒々しかった。モスクのミナレットは大西洋のなかに突き出るように建っている。

カサブランカのメディナも面白かった。壁にさまざまなオブジェや絵を雑然と引っ付けた現代アート風の一角があった。

昼飯抜きだったので、早めの夕食を取りたかったけど、Routardで紹介されている良さげな店の多くはメディナにあり、Google MAPでは「営業中」になっているけど、実際はみんな休みだ。ラマダンの時期に、日が出ているあいだに、まともなレストランが営業しているわけではない。

いったんホテルに戻って、また日が暮れたあとに飯屋を探そうかと考えた。モロッコ最終日なので、ちょっと奮発して美味しいものを食べたかったのだ。しかしホテルに戻ると再び外に出かける気がなくなってしまった。

疲れているので面倒になって宿泊しているホテルのレストランのイフタール(ラマダンの断食明けの飯)定食というやつにした。バイキング形式で14€くらいだが全然美味しくない。激しく後悔。しかしフロアを一人で担当している黒人の青年は一所懸命サービスしているので、まあいいかと。 モロッコでは本場の最高に美味しいクスクスとかが食べられるのではないかと期待していたのだが、食に関しては、全般的に不味くはないんだけど、すごく美味しいと言うものもなかったな。味付けがみんなぼんやりという感じで。

2025/03/09(日)モロッコ第7日

 

2025/03/09(日)モロッコ第7日

フェズの西方、車で60分ほどのところにある古代ローマ遺跡ヴォルビリス、モロッコ最初のイスラム王朝が築かれた聖都ムーレイ・イドリス、そして17-18世紀の首都だったメクネスをマイクロバスでまわるツアーに参加した。18ユーロという格安のツアーだった。個人で公共交通機関を使って行くとなると日帰りでこの三カ所を回るのは難しいだろう。

圧巻だったのは、2-3世紀のものだという古代ローマ遺跡、ヴォルビリスだ。最盛期には2万人の人口があったと推定される。古代ローマ帝国はこんな遠方の西の果てにまで、このような文明都市を築いてしまうのだから驚くべきものである。1時間ぐらいしかいられなかったが、もう1時間ぐらいはいたかった。




モロッコ・イスラム王朝の最初の都市、ムーレイ・イドリスは見晴らしのいいところから写真を撮っただけ。斜面に形成された建物群が作り出す風景は見栄えがする。ムハンマドの血統である王朝の始祖イドリス一世(?-793)の墓所があり、モロッコでは聖都とされる町とのこと。ここに限らずモロッコの古い市街地はピトレスクで、インスタ映えする場所が至る所にある。都市景観の美学という点では、19世紀後半から20世紀初めにかけてのイタリアやフランスをも凌駕しているとさえ思える。むしろイスラム世界の都市が、地中海沿岸の南ヨーロッパの都市のモデルだったのかも知れない。モロッコは街歩きが楽しいところだ。





17-18世紀の王朝の首都メクネスはかなり大きな都市で見どころはいくつかあったのだが、昼飯を食べていると実質的な観光時間は1時間ちょっとになってしまい、結局さっとメディナの入り口付近を回っただけで終わってしまった。

ラマダン中なので、日中は観光客向けレストランしか開いてない。メクネスのレストランで、前菜はハリラ(豆のスープ)、メインはパスティーヤを頼む。パスティーヤは薄皮の肉まんみたいなもの。鶏肉のミンチが入っている。正直、不味くはないけど、美味しくもない。ミンチ肉はパサパサで、味はあんまりしない。ボリュームはある。 観光客向けレストランだからこんなものなのか、それともどこで食っても同じようなものなのか。 ハリラや付け合わせの野菜のほうが美味い。






朝9時半にフェズを出て、17時半に戻る。 ガイドの青年はフランス語があまり得意ではなく、けっこう一生懸命サービスはしていたのに、フランス人観光客に嫌味を言われていてちょっとかわいそうだった。いいやつだったけど。マイクロバスには12人くらい乗っていて、半分がフランス人、残りはスペイン人と英国人。アジア人は私一人だった。

フェズでの最後の飯は、宿泊先のリヤドの近くにあるレストランで、モロッコサラダと鶏肉のタジン、オリーブとレモンソースを食べた。ここのモロッコサラダは量が多くて、見栄えがいい。タジンも美味しかった。が、昨年からモロッコに住んでいる横田さんが言うように、モロッコで美味しいのは野菜と果物、料理では前菜に出てくるハリラ(ひよこ豆のスープ)かモロッコ・サラダというのは、確かにそうかもなあと思った。レストランといえばモロッコ料理店しかなくて、メニューも値段もそれほど変わらない。多分どこのレストランでも味もそんなに変わらないのではと思う。味付けはパンチに乏しく、ビックリするほど美味しいわけではない。クスクスとか本場モロッコだとさぞかし美味いに違いないと思っていたのだが、ニースのモロッコ料理店の方が私には美味しかった。あるいは江古田のモロッコ・スペイン料理店アランダルースのほうが美味しいとも。 店の雰囲気は確かにモロッコ現地ならではというのはあるが。






私が信頼するフランスのガイドブック、Le Guide du routardに掲載されていた店に行きたかったのだが、メディナの中の位置情報は、Google Mapはかなり頼りにはなるけれど、ちょくちょく不正確なところがあって、たった400メートルほどの距離なのにたどり着くことができなかった。 今夜行った店はGoogle Mapでは、4.9という高評価の店だった。うん、モロッコサラダは確かに他の店で出て来たのとは一線を画していた。