2026年2月17日火曜日

ニース研修2026春第1日

 

2026年2月15日(日)第1日

ニースに行くときはいつも22時ごろ成田空港発のエミレーツ航空なのだが、今回は0時05分羽田空港発の便になった。乗客登録なしで事前に座席を確保の上、入金を2ヶ月後ぐらいに設定できる「団体航空券」というカテゴリーの航空券を手配しているのだが、この団体航空券を取り扱う航空会社は少ない。エミレーツ航空での扱いもだんだん制限が厳しくなっていて、今年は復路便については3月2日(月)のチケットしか確保できなかった。

羽田空港第3ターミナルからの出発だった。通常、国際便の場合は出発時刻の3時間前に空港に到着することが推奨されている。ちょっと余裕を見て20時45分を集合時刻とした。今回は参加者の学生の顔と名前はちゃんと憶えたつもりだったのだけど、マスクして、メガネ、そして帽子とか被っていると誰なのか判別し難い女子学生がいた。

昨年は16名の参加学生がいて、現地で全員で動くには少々不便を感じたので、今回は14名にしようと思っていた。円安も進行しているし、物価も上がっている。それに伴いこの旅行の費用も上がったので、14人でも学生を集めるのは難しいかも知れないなと思っていた。まあ少人数になったらなったで、現地で動きやすくなるし、継続的に実施することが重要だと思っていたので、たとえ申し込みが一桁でもやるつもりではいたが。

ところが実際には10月初めに告知して募集をかけると、すぐに問い合わせが数件あり、申し込みの締め切りの3週間ほど前に14名に達してしまった。例年は申込締め切り直前にだだっと申込があり、定員に達するという感じだったのだが。16名申込があった時点で一旦締め切ったが、やはり断るのは忍びなく、ChatGPTに相談してみると、「2名増やして18名になっても、片山さんにはこれまでの経験がありますからなんとかなるはずです」との回答を得て、迷った末、18名にした。

エミレーツ航空のカウンターは出発3時間前の午後9時にはかなり混雑していて、受託手荷物(スーツケース)の預入に長い列ができていた。このチェックインと荷物預けのやり方が航空会社、空港によって異なり、同じ航空会社でも変更があったりするのでいつも戸惑う。これまでは、エミレーツ航空団体のときは事前チェックインせず、直接荷物預かりカウンターに行って、パスポートを提示するやり方だった。スーツケースへの識別用シールもスタッフが貼ってくれる。今回はカウンター前のチェックイン機で各自手続きして、機械からクレームタグのシールと搭乗券を受け取り、自分でクレームタグをスーツケースに付けて、スーツケースをカウンターでドロップオフする手順だった。

飛行機は定刻通りに羽田を出た。離陸してしばらくすると夕食。全部食べた。日本を深夜発で、フランスに行く場合は、とにかく機内でできるだけ寝て、現地到着後は夜まで頑張って起きておくのが、時差ボケ対策としていい。学生たちにも、旅行への高揚感はあるだろうけど、機内で頑張って寝ろ、と言っておいた。

不思議とエコノミー機内での長時間フライトでのしんどさの感覚は忘れてしまうもので、学生たちには「寝ろ寝ろ」と言っていた私も、あの狭い空間ではなかなか寝付けない。それでもうつらうつらという感じで4時間ぐらいは寝られただろうか。熟睡とは程遠い。こういうエコノミー機内のしんどい記憶は不思議と旅行後にはリセットされてしまう。ドバイ到着前にまた飯がでる。

ドバイには予定通りの時間に到着した。次のニース行きの便への乗り継ぎ時間が1時間半とあまり余裕がないので、早歩きで急いで移動したら暑かった。空港でトイレに行く時間は確保できた。ドバイからニースまでは6時間。

肩が痛い。ドバイの乗り継ぎが短くて、痛み止めを飲む時間がなかった。

ドバイ→ニース便は運良く隣が空席だった。これで全然疲れ方が違う。

この6時間のあいだに2食出た。お腹はあまり空いてなかったが、2食完食。エミレーツの機内食はそこそこ美味しい。ニース行きの便でも眠る。2時間ぐらい眠れたか。ドバイ行きの便よりもちゃんと眠れた感じ。




機内で『蒸発』という日本映画を見る。ドキュメンタリー映画だった。フランスおよびカナダのフランス語圏で、日本人の「蒸発」をテーマとする演劇作品や小説が近年、いくつか発表されていて、現地ではそれなりの評価を得ている。私はフランス語圏での「蒸発」テーマの作品にはちょっと注目していて、購入している。この映画の日本公開は未チェックだった。ポレポレ東中野あたりで上映されていそうな感じだが。


監督は二人クレジットされていて、Andreas HartmannとArata Moriとある。欧米で日本人の蒸発が、引きこもり同様、日本社会特有の病理として注目されているのかも知れない。しかし実際には蒸発、行方不明となる人の数は、日本よりフランスの方が多かったように思う。『蒸発』、夜逃げ屋の女性社長のやさぐれ方が、見た目も、喋り方も、いかにもという感じでやさぐれていて、よかった。セリフや演出があったのかと思うくらいハマっている。

蒸発者を受け入れる「優しい町」、西成も取材されていた。芸術活動の社会的包摂ということで西成はNPO団体による住民参加の芸術活動が盛んな地域でもあり、そこで行われているユニークなアマチュア演劇の取材で何回か滞在したことがある。取材では、住民の素性についての質問はご法度あるいは慎重に行うようにと言われた。自分からベラベラ話す人もいたが、その内容は必ずしも本当のことではない、いや本当のことであることが少ないとも。西成はよるべなき人たちのファンタジーによってゆるゆると成り立っている町だ。そこに身を落ち着ける蒸発者の一人は、西成はユートピアと言っていた。

ニース空港へも予定通りに到着。学校の送迎スタッフも顔見知りだ。今回は3台の車に分かれてそれぞれの滞在先に向かった。今回は私を含め、19人が9家庭に分散滞在する。今年は比較的学校に近い家が多いのでよかった。一軒だけ学校から3キロぐらい離れた家だったが。

私の滞在先のArhan家は、退職した老夫婦の家で、ニース駅のすぐ近くにある。学校にも歩いて3分ほどのところだ。二人は再婚夫婦で、一緒になってから15年ほどだと言う。それぞれ前の配偶者とのあいだに子供はいるが、子供は成人して独立したり、前の配偶者と一緒に暮らしたりしているそうだ。ニースの出身ではなく、夫のYanicさんはブルターニュ出身、妻のMurielさんはパ・ド・カレ県の出身で、二人とも仕事でニースに来て知り合ったとか。

今回は忘れ物は大丈夫かなと思ったが、やはりしていた。肩の痛みで大量に処方してもらった湿布薬の大半を家に置いたままだ。フランスには湿布薬みたいなものは売っていない。湿布があったところで気休めみたいなもんなので、まあいいか。どこで何をするにせよ、忘れ物がないというのが、私には極めて稀だ。

到着日の今日は、学生たちには学校までの道筋を確認がてら、夕食まで街を散策することを勧めている。学生たちのうち、二組四名とは駅で待ち合わせをしてカンヌに行った。カンヌでモンテカルロ・バレエ団による『シンデレラ』の公演があり、それを一緒に見に行ったのだ。

このカンヌの公演は、到着当日だったので、行くかどうかはとても迷った。長距離の移動のあとで疲労がひどいかもしれないし、また到着初日はけっこうトラブルが多くて、その対応に追われることもけっこうあったからだ。バレエ好きで、現地でバレエ公演があるならぜひ見てみたいという学生がいて、どうしようか迷った。私も見てみたいと思った。しかし到着当日に、全員をカンヌに連れて行くことは難しいだろう。どうしようか散々迷ったすえ、とりあえずチケットは予約し、到着当日、特にひどい疲労やトラブルがなさそうなら、バレエ好きの学生とその学生の同室の人を誘ってカンヌに行こうと思った。

私は研修旅行のコーディネーターでもあり、教員でもあるので、一部の学生だけを優遇するようなことはあってはならないとは思っているのだが、演劇・舞台芸術研究をしている私が見に行きたいと思ったし、バレエに強い関心を持っている学生にフランスで舞台を見せたいと思ったのだ。他の学生にも行きたかった人はいたかもしれない。他の学生については別のことで埋め合わせをしたい。

16時過ぎにニースを出る列車にのって、カンヌ着は16時45分ぐらいだった。カンヌ映画祭の会場であり、今夜のバレエ公演の会場でもあるパレ・デ・フェスティヴァルの周囲をぶらぶら歩いたあと、会場に入った。パレ・デ・フェスティヴァルのなかに入ったのはこれが初めてだ。



モンテカルロ・バレエ団の上演演目は、『シンデレラ』だった。音楽はプロコフィエフがバレエ音楽として作曲したもの。振付はJean-Christophe Maillot。このプロダクションの初演は1999年。三幕構成で上演時間は約2時間。私はバレエの公演は2年に一回ぐらいしか見てないが、パリのオペラ・バスティーユで見たバランシン振付の『夏の夜の夢』は私の見た舞台作品の中でも生涯ベスト10に入る印象的なものだったし、一時期、バレエ・リュスについて調べていたこともあった。

マイヨ振付のモンテカルロ・バレエの演出は、私からすると保守的でクラシックなスタイルの舞台に思えたのだけど、バレエ好きの二人の学生からすると「自分たちが考えるバレエとは違った」ということだった。実際に踊っている人と私では同じ作品でも見る視点が異なるということだ。この公演は値段も安かった。30ユーロくらい。生オケでなく録音の音楽だったからか。カンヌ映画祭のメイン会場であるパレ・デ・フェスティバルのなかに入ることができたのはちょっと嬉しい。いつもは外から建物の外側とレッドカーペットの階段しか見たことがなかったので。収容人数は2000人くらいか。

20時過ぎに公演終了。とりあえずはニースに戻って、ニース駅近くでサッと夕飯を取ることにした。カンヌの駅のホームで、往復の小グループ切符を買ったのに、それを紛失していたことに気付く。ズボンの後ろポケットに入れていたのに。検札に引っかかれば高額の罰金を取られてしまうので、大慌てで帰りの切符を買う。47ユーロ。クラクラする。自分の間抜けのせいだが。

ニースには21時過ぎに到着。案外日曜夜のニースは店がやってない。駅のすぐそばにあるハンバーガーショップで遅い夕食。高かった(15ユーロくらい)けど美味しかった。ちょっと気になる場所に滞在している学生2人を家まで送る。やはり夜はちょっとワイルドな場所だった。若い女性二人で夜遅く歩くのはちょっと勇気がいるかなあと。ただこのあたりはアフリカなどのエスニック料理の名店がいくつかある地域でもある。

自分の家に戻ったのが22時過ぎ。今回は初日、トラブルなく無事に終わったとホッとしていたら、そんなことはなかった。カンヌに一緒に行ったもう一方の女子学生二人組のひとりから電話が入って、家に入ろうとしたけれど、どうしても鍵が開かないという。

こちらの二人の滞在先は、老婦人ひとりの家で、場所はブルジョワ的なシックな建物が建ち並ぶところなので、問題はないだろうと思っていた。フランスの家のドアで鍵が開かないというのはちょくちょくあることだ。日本の家の鍵と仕組みが違って、ちょっとコツがいることがある。電話があったときはその類いだと思って、「こうやってみな」と指示を出したのだが、どうやってもうまくいかないし、家に居るはずの大家に電話をかけても、ドアチャイムを鳴らしても、ドアをノックしても、返事がないという。私も大家に電話したが、留守番電話になっていて、「今は電話に出られない」と言う。

彼女たちの滞在先は、私の滞在先から数百メートルの距離だったので、そこまで行くことにした。私が現地に到着したのが22時半頃か。私も鍵を回してみるが、カチャッという音がして、鍵がうまくはまった感じはあるのだけど、ドアはどうやっても開かない。私が試したようなことは彼女たちもすでに散々やっていた。チャイムもノックも返事がない。これは最悪、近所にある安ホテルに今晩、彼女たちを泊まらせるしかないかなと思った。

語学学校の送迎担当者に電話する。彼も最初のうちは、われわれが不器用で悪いやり方で鍵を回しているのだろうと疑っていたようだが、埒があかない。彼もそちらにやって来ることになった。そして現地でノックや、チャイムや、電話やらやってみたけれど、返事がない。彼女たちのために、今晩、ホテルの部屋を至急用意してくれと言ったのだが、「いや、もう少しやらせてくれ」と言って、30分ぐらいそんなことを続けただろうか。それでようやく彼も諦めた。

学校の校長に連絡して、結局、学校のある建物のなかにある「レジダンス」(寮のようなものか?)の一室に彼女たちを今晩は泊めることになった。すでに深夜11時半である。彼女たちは滞在先にスーツケースを置き、そのあとすぐ、カンヌに行ったので、着替えもなく、着の身着のままという感じだ。レジダンスの部屋があったのならさっさと用意しろよ、と心の中で思う。結局、大家の老婦人とは連絡がとれないままだ。

こちらの学生より老婦人のことが心配だとか言っているので、「救急車とか呼んだらどうだ?」と聞くと、「いや、深く眠っているだけかもしれないので、今夜は様子見するしかない」とか言う。学生たちは水と携帯電話の充電のためのケーブルがとりあえず必要だと言うので、私はいったん自分の滞在先にもどって余分なケーブルと電源を持ってきた。

水に関しては、フランスにはあいにくコンビニという便利なものが存在しない。しかし「レジダンス」から50メートルほどのところに、朝まで開いているエピスリー(小型食料品屋)があるのがGoogleマップでわかった。なんか柄の悪そうな若者たちが店の前でたむろっていたが、その店で水を買って、彼女たちの今晩の宿、「レジダンス」まで充電用ケーブルと電源とともに届けた。

彼女たちにとっては、ニース初日がいったい何というひどい夜になってしまったことだろう。着替えもないので、そのまま寝るしかない。私は彼女たちに翌日の朝食代として、20ユーロを渡して、帰宅した。深夜0時半になっていたと思う。

2026年2月16日月曜日

ニース研修2026第0日

 2026/02/14(土)第0日

学生を連れてのニース語学研修旅行を初めて実施したのは2015年2月だった。その後、新型コロナ禍で2021年と22年に中断があったが、今回で10回目の実施となる。
これ以外に2014、15、16年の夏には、Azurlinguaで行われたフランス語教員向けの研修で2週間ずつニースに滞在している。つまり、この12年間で13回、2週間ずつニースに私は通っていることになる。この頻度になると、感覚としては「里帰り」に近い。
さすがに新鮮味は全くないのだけれど、ニース語学研修旅行は、語学学校とのさまざまな交渉を通して、フランス的なリアリティと私を対峙させてくれる貴重な機会で、フランス語教員としての私を鍛えてくれるし、私のフランス語コミュニケーション能力もこの研修旅行を通じてなんとか維持されていると言ってもよい。こうした経験をしているからこそ、教室でも自信を持ってフランス語やフランス文化を教えることができている。私にとっては非常に重要なイベントである。
新型コロナ禍以降の実施は、ウクライナ戦争による航空運賃の高騰、現地の物価上昇、そして円安によって、それまでの1.5倍のコストがかかるようになった。毎年、自分のフランス語担当クラスや何人かのフランス語教員同僚に頼んで募集の声かけをしているが、幸い2023年以降も12名以上の参加者を集めることができている。
昨年は16名だった。この研修の参加学生は基本的にみないい子ちゃんばかりで、手はかからないのだけれど、16名になると、集団での移動やトラブルがあったときの学生のケアが若干大変だった。そこで今年は14名定員で募集をかけた。円安が進行しているので果たして学生が集まるだろうかと思っていたが、予想外に申し込みがあり、今年は18名の学生と一緒にニースに行くことになった。男子学生が5名、女子学生が13名。学生は現地では2名ないし3名のグループでホームステイする。私もホームステイだ。
昨年、語学学校Azurlinguaの経営権が米国の教育業者に譲渡された。スタッフはこれまでのメンバーが引き続き雇用されていたものの、会計処理など申し込み段階でいくつかトラブルがあった。また、学校が契約しているホストファミリーと学校、そして私との間でもコミュニケーションの齟齬があり、これによるトラブルも発生した。
組織体の事務管理部門の仕事のゆるさは、この学校に限らず、おそらくフランスのいたるところで見られる病理のようなものだ。あらゆる怠慢やミスが「大したことないよ(Ce n’est pas grave)」で流されてしまう。こちらのミスやいい加減さにも寛容ではあるのだけれど、トラブルが生じたときは、しっかり抗議して対処を求めないと、まずそのままにされてしまう。
フランスでは仕事関係で何かを依頼した場合、全幅の信頼をするのはリスクが大きい。この研修での経験で、常にダメだった場合のことを想定しておくという癖がついた。これはけっこうストレスだが、フランスに鍛えられた一面でもある。トラブルは厄介だけれど、生じると「来たな!」とアドレナリンが出る感じだ。プロセスは想定通りでなくても、最終的に目指す地点に近いところにたどり着けばいい。これは私がフランスで学んだことのひとつである。
ホストファミリー選定のリクエストは、アレルギーやペットの有無の確認など毎回かなり細かくやっていて、できる限り前回の滞在で学生たちの評判が良かった家をお願いしている。ただ今回は、飛行機のチケットの関係で帰国日が月曜日となってしまったためか、前回に引き続きの家庭は一つだけだった。
学校の授業は月曜から金曜の1週間単位で、授業開始の月曜の前日の日曜にニースに入る生徒が多い。そのため、ステイ先のチェックアウトは土曜ないし日曜が基本なのだ。ニースのこの学校の受講生の構成は時期によってかなり変わるが、イタリア、ドイツ、スイス、スペインなどのヨーロッパ内の国々から、1週間ないし2週間の期間で受講するのが大半だ。日本など遠方から毎年定期的にやって来るグループは我々だけのはずだ。
学校の規模は小さく、この時期の受講生はおそらく50〜60名だと思う。ニースに数ある外国人向けの私立の語学学校の規模は、だいたいこんなものだろう。
この研修では学校が契約している過程で、分散して滞在する。滞在先がバラバラになると学生の活動を管理しにくいし、ステイ先により相性や、言い方は良くないが、当たり外れはあるので、できれば全員まとめて同じ寮やホテル滞在としたいところなのだが、そうなれば滞在費が高くなってしまう。二食付きのホームステイが一番安上がりなのだ。
そして何より、ホームステイだからこそ知ること、学ぶことができるフランス生活のリアルがある。私もニース滞在中、これまで複数の家庭に滞在したが、ホームステイしたからこそ知ることができたフランス人の考え方、生活習慣、価値観、そしてフランス語表現は多数あった。外国人の他人の家での滞在となると気も使うし、ストレスもあるのだが、学べることは多い。
昨年に引き続き私たちのグループを受け入れてくれた家庭は、もう5、6回にわたって私の学生を受け入れてくれている老夫妻だ。私とは気心の知れた仲で、Facebookでの交流も続いている。いかにも南仏の下町の気のいいおばさん、おじさんという感じのフランスっぽい善良さに満ちた夫婦で、この家庭には安心して学生たちを託すことができる。

2025年3月15日土曜日

2025/03/11(火)モロッコ第9日 帰国(3/12)

帰国日。朝7時15分に起きた。ホテル一階のレストランに8時前に行くが、食事を取っているのは2組だけだった。朝食はバイキング形式だったが、肉っぽいものがなくて、昨夜のイスファールの残り物という感じだった。これで9ユーロは高すぎる。昨夜のうちにスーパーでなにか買って、部屋で食べていればよかったと後悔する。モロッコで食べた美味しかったものといえば、初日の夜にマラケシュで食べた牛肉とプルーン、アーモンドのタジンか。弓井さんの唐揚げとドリアも美味しかったが。あとはつい手を出してしまったマクドナルドのチーズバーガー。豚肉がないのは仕方ないとして、羊肉を出す店が案外ないのは意外だった。

空港行きの列車はカサ・ヴォワイヤジュー駅を11時05分に出る。ホテルから駅までは歩いて10分くらいだが、早めにホームにいたかったので10時20分にホテルをチェックアウトした。空港行きの列車と同じホームに空港行き列車より15分早く入線するエル・ジャディージャ行きの列車があって、その列車の入線が遅れていた。ちょっと嫌な予感がした。ちょうど本来の空港行き列車の出発時間に遅れていたエル・ジャディージャ行きの列車が入ってきた。駅員が「エル・ジャディージャ」と叫んでいたが、ホームにいたスーツケースを持った空港行きになりそうな乗客が何組か、吸い込まれるようにその列車に乗ってしまった。果たしてこのあとに空港行き列車は来るのだろうかとちょっと不安だったが、空港行き列車も定刻より10分遅れでホームに入っていた。
空港までは30分の距離だったが、なんとなく予感がして一等車を購入していた。一等車のほうが2€ぐらい高い。空港行き列車の車両数は多くはなかったが、一等車は最後の車両の半分だけのスペースだった。高いけれど、別にきれいではない。モロッコ国鉄の料金システムはよくわからない。





空港駅はこれまで乗降した駅と違って古びていた。空港の両替所で財布に残っていたディルハムをユーロに換えると15ユーロにしかならなかった。
飛行機の座席は通路側だったが、なぜかヘジャブ姿のアラブ婦人団体客に囲まれた席だった。このアラブ人婦人たちのかしましいこと。大阪のおばちゃんじょうたいである。小さな子供も数人いた。どういう席の取り方をしているのか空席もいくつかあって何人かは横になって寝ている。最初は私の隣は空席でラッキーだと思っていたのだけど、なぜか30分くらいしたら横の席に他の場所から移動してきた。「なんで移動してくるんだよ」という顔をしたら、アラブ人団体のリーダーらしき女性から「あんたは私たちの兄弟だろ? あんたの席はそこだけ。横に座っても問題ないよね」と言われる。移動させれた女性も得体の知れない東アジア人の中年男の隣にわざわざ座りたくはなかったと思うが。横になって寝ている連れが何人かいるのに、なんでこんな座り方をさせるのか理解できない。
国際線飛行機でラマダンはどうするのかと思ったら、やはり飛行機が昼間の間は飲み食いしていない。飛行機が夜に入ると、イフタールなんとかかんとかとアナウンスがあって、飲み物とデーツが配られた。
飛行機のなかで山下敦弘監督少年のあいだの『カラオケ行こ!』を見る。合唱部の美声のボーイソプラノの中学生と組長主催のカラオケ大会のため歌唱力を向上させなくてはならないヤクザの若頭の交流譚。ヤクザと少年のあいだに生じる恋にも似た連帯感、そして合唱部の部員たちのあいだの感情のやり取り、思春期前期の子供/大人の不安定さと成長の過程を丁寧に描いた青春音楽映画だった。関西弁のやりとりがいい。あまりに繊細すぎて、見ていてポロポロ泣いてしまう。
2本目の映画は『パーフェクト・デイズ』。うーん、作り好きだよな、人物とか状況の設定。なんかいい話ばかりになっていて鼻につく。
ドバイでの乗り継ぎ時間が90分ほどだったのでちょっと心配だったが、同じターミナルで手荷物検査のすぐ近くだったので、10分もかからずにスムーズに乗り継ぎできた。成田行きの便の搭乗ゲートに行くと、もう入場が始まっている。もうここまで来れば帰国したも同然である。周りの乗客も日本人が多い。日本まで10時間である。
成田行きの飛行機ではモロッコでは深夜時間なので眠たくはなるのだが、なかなか眠れなかった。映画は『あまロック』を見た。尼崎が舞台の映画作品で、関西ネイティブの江口のりこ、笑福亭鶴瓶、中条あやみが出ている。ロードショー公開時に気になっていた映画だったが、これは脚本がぜだめだった。ドバイ行きの便で見た『カラオケ行こ!』の関西弁は繊細で心地良かったが、この映画の関西弁はがさつで詩情がない。取ってつけたようなハプニングが起こる展開、あり得ない人物設定、いわゆる「ええ話」にもってくる嘘くささが私には耐え難かった。江口のりこ主演で、江口らしい役柄を演じているが、江口のりこが素で「ほんまカスみたいにくさい本やなあ。まあ、お仕事やからなんとかやったるけど」と言っていそうだ。
ドバイから成田は帰りの方が飛行時間が1時間以上短い。それでも9時間だが。ひどい映画だなあと思いながら『あまロック』を最後まで見てしまう。その後、これも見ておきたくて見られなかった映画、リドリー・スコットの『ナポレオン』を見始めたがこれもあまり面白くない。ジョゼフィーヌとナポレオンの夫婦関係に焦点をあててるのかあと、ぼんやり見ていたら、成田空港へ到着2時間前に、ストンと眠りに落ちてた。食事の給仕が始まっていてハッと目を覚ましたら、右手首にあるはずの腕時計がない。なんとなくぼんやり、自分で腕時計を外していたような記憶がある。座席の下を探し回っていると、通路を挟んでと隣の人が「探し物ですか?もしかしてこれですか」と通路に屈んで探してくれた。自分の座っている先の右後ろ、1メートル半くらいのとこに、私の腕時計が転がっていた。
成田空港へは予定の17時50分よりちょっと早めに着いた。成田空港に着くと、長時間飛行の疲れあるいは旅の疲れがどっと出る。雨が降っていたので、スーツケースは宅配便で送ることにした。池袋行きのバスに乗る。ラマダン明けのラーメンは、地下鉄赤塚駅そばのワイズラーメンで食べることにした。モロッコでは脂っ気のないものばかり食べていたので、ギトギト系が食べたい。もちろんチャーシューは入れる。
やらなあかんけどやってない大事なことがいくつかあって憂鬱。モロッコ滞在中に、あるいは帰りの飛行機の中で進めようと思ったが、そんなことはできるわけもなく。どうないしょう。
地下鉄赤塚駅降りるとまだ小雨が降っている。白ネギチャーシューを注文した。美味しい!とは思ったが、期待していたほどではない。今ひとつお腹が空いていないのだ。ラーメンのスープは残してしまった。家に帰ったのは21時半ぐらい。妻はまだ起きていた。風呂に入って、すぐに床につく。
朝起きたら、気持ち悪くて2回嘔吐、そして下痢。そのあと昼間寝てたら回復したが、ふらふらである。急性胃腸炎だ。思い当たるといえば、カサブランカのホテルで食べた夕食と朝食のバイキングだが、もしかすると昨夜食べたラーメンで胃袋がびっくりした可能性もある。昼間もずっと寝ていた。夜は四ツ谷でラテン語のレッスンがある。レッスン前にたけだでかきバター定食を食べたかったが、とても食べられる状態ではない。ご飯抜きのままレッスンを終える。レッスンを終えたときにはちょっと元気になっていたが、食欲はない。うどんが無性に食べたくて、四ツ谷から四谷三丁目駅まで歩き、なか卯できつねうどんとからあげを食べる。これで570円だ。なんという安さだろう。きつねうどんは関西風の出汁だった。


2025年3月11日火曜日

2025/03/10(月)モロッコ第8日

 

ばいばい、フェス。二泊したフェスからカサブランカへ移動する。モロッコは「絵になる」魅力的な風景がいたるところにある。風景画を描く人なら、行く先々で画角を定め、スケッチしたくなるだろう。美術教員で画家の父が若くて元気だった頃に、連れて来たかったなあと思う。

父の友人の画家がモロッコに何十年か前に旅行したとき、スケッチを始めたら人だかりができて、やいのやいの色々言われたり、ガキどもにちょっかい出されて大変だったという話を聞いたことを思い出す。

カサブランカ行きの列車は09時40分発だった。早めに駅に到着しておきたい。宿泊しているリヤドから駅までは3キロほどの距離がある。

チェックアウト前夜に、リヤドの若女将(?)のオマイマさんに「明日は0845には宿を出たい。朝飯を0815にできないか?」と聞くと、「調理の人の都合で0830にしか用意できない」と言う。「マジ?それじゃ、私は朝飯抜き?」と言うとすまなそうな顔をしていた。

「駅へのタクシーの手配はどうする?」と聞かれて、「ブルーゲート前に、プティタクシーがたくさん停まってるから、それを使えばいいだろ?」と言うと、「私にはわからない」との答え。ちょっと考えて、駅へのタクシーの手配を頼むことにした。

彼女はすぐに車の手配のため電話をしたが、150ディルハムだと言う。宿にタクシーの手配を頼むと割高になるのは仕方ないとは言え、ここにくる時は100ディルハムだった。

「高い。100ディルハムしか払わないと伝えてくれ」と言うと彼女はまた電話で先方と話し始めたが、何を言われたか知らないけどシクシクと泣き始めてしまった。

若い女性が目の前で泣いてしまうとこちらも狼狽えてしまう。

「いいよ、150で。その代わり9時きっかりにここに迎えに来ること、それから明日の朝は8時半きっかりに朝飯を出してくれ」と言った。

8時半に飯は出た。タクシーではないけど、駅まで私を届ける車も待機していた。

フェスからカサブランカまでは列車で4時間弱。カサブランカで一泊して、明日、日本行きの飛行機に乗る。

フェスからカサブランカへ移動。モロッコ国鉄の料金は謎でフェス→カサブランカは300キロ以上あって3時間50分なのに89ディルハム、だいたい9€なのに、ラバトからフェスに行ったときは3時間弱の行程で120ディルハム。そして明日、利用するカサブランカから空港までは30分で80ディルハムである。いずれも一等車の料金だ。座席が一番快適だったのは、一人独立席だった今日の列車だった。コンパートメントは知らない人と長時間、個室で向き合うことになるので、あまり快適ではない。

モロッコは概ね交通費はかなり安いと言っていい。 タクシーがどの町でも大量に走っていて、すぐにつかまる。料金は市内移動だとたいてい15ディルハム(1.5€)以内だ。タクシーが準公共交通機関として機能しているとも言える。

カサブランカには13時30分に到着した。ホテルは駅から500メートルほどの大型チェーンホテルを予約していた。モロッコ最終日はちょっとゆったり過ごしたかったのだ。清潔で、広くて、機能的で快適な部屋だった。これで50€は安く感じる。






カサブランカはモロッコ最大の都市だが、観光の見どころは乏しい。私の旅行ガイドブックのバイブル、Routardによると観光的には1993年に完成したハッサン2世モスクだけ押さえておけばいい。このモスクは非信者でも入場可能なモスクだが、ガイドブックを読んでも、モスクのページを見ても、開館時間がはっきりわからない。ラマダン中は開館時間が短くなっている可能性もある。ガイドツアーも探したのだが、私の列車の到着時間で申し込めるツアーはなかった。

ホテルの部屋に荷物を置くと、すぐにタクシーでモスクに向かった。モスクの敷地に入るには、モスクに併設されている博物館でチケットを購入しなくてはならないようだった。チケット売り場に着いたのは14時30分頃だった。

しかし今日は14時で最後の見学ツアーは終わりだと言われてしまう。ただ博物館のチケット売り場前のロビーにいれば、15時半になると無料で開放され、中に入れるとのこと。いったいどうなってるのかよくわからなかったがせっかく来たので、15時半までそこにいることにした。

ガイドに率いられた団体客が何組か、その後、モスクの敷地内に入場していったが、ロビーで待っている個人観光者は私だけ。そのうち博物館のチケット売り場スタッフがいなくなり、他のスタッフが博物館の出入り口を閉めて、入って来ようとしている個人観光客を追い返したりしている。

自分がここにいていいのか?、15時半になったら無料で入れると言うのは聞き間違えだったのか不安になった。

団体客のガイドが私の隣に座って、日本語で話しかけて来たのでびっくりした。日本に数年住んだことがあるという。トルコで日本語が巧みなトルコ人に絨毯を買わされそうになった経験があるので、多少、警戒しつつ、そのガイドと日仏語を交えて話をした。今日は日本人団体客をここに案内したそうだ。高齢の女性を中心とした団体だった。

アジア人の観光客をモロッコでは見かけないと何日か前に書いたが、昨夜のレストランと今日の列車の中には若い女性二人組の日本人観光客がいた。50後半のおっさんが話しかけるの警戒されて気まずい思いをするのではないかと思い、あえて話しかけなかったが。ガイドによると、コロナ前に比べると少なくなったが、ぼちぼち日本人観光客も増えているとのこと。流暢な日本語だった。単に暇つぶしで私と話をしたかったようだ。






15時半になると、博物館のスタッフが「今から中に入れるから」と私をモスクの敷地内に入れてくれた。いったいどういうシステムなのかさっぱりわからない。ただモスクのなかには入れなかった。外からなかを覗くだけ。ホテルに帰ってから調べてみると、1時間ごとにガイドツアーがあって、そのガイドと一緒でないとモスク内に入れないらしい。その最後のガイドツアーが今日は14時だったということのようだ。

モスクの敷地は9ヘクタール、ミナレットの高さは200メートルあってアフリカで最も高いらしい。現代の建造物だが、イスラム・モロッコの伝統的な工芸様式を取り入れた壮麗でスケールの大きい建造物だった。

とりあえずカサブランカで見るべきものは見た、モロッコ旅行の締めくくりにはなったと思い、満足する。

モスクから海岸沿いの道を30分ぐらい歩いて、カサブランカのメディナに向かった。今日は風の強い日だった。そのせいもあるのか、大西洋の海の波は荒々しかった。モスクのミナレットは大西洋のなかに突き出るように建っている。

カサブランカのメディナも面白かった。壁にさまざまなオブジェや絵を雑然と引っ付けた現代アート風の一角があった。

昼飯抜きだったので、早めの夕食を取りたかったけど、Routardで紹介されている良さげな店の多くはメディナにあり、Google MAPでは「営業中」になっているけど、実際はみんな休みだ。ラマダンの時期に、日が出ているあいだに、まともなレストランが営業しているわけではない。

いったんホテルに戻って、また日が暮れたあとに飯屋を探そうかと考えた。モロッコ最終日なので、ちょっと奮発して美味しいものを食べたかったのだ。しかしホテルに戻ると再び外に出かける気がなくなってしまった。

疲れているので面倒になって宿泊しているホテルのレストランのイフタール(ラマダンの断食明けの飯)定食というやつにした。バイキング形式で14€くらいだが全然美味しくない。激しく後悔。しかしフロアを一人で担当している黒人の青年は一所懸命サービスしているので、まあいいかと。 モロッコでは本場の最高に美味しいクスクスとかが食べられるのではないかと期待していたのだが、食に関しては、全般的に不味くはないんだけど、すごく美味しいと言うものもなかったな。味付けがみんなぼんやりという感じで。

2025/03/09(日)モロッコ第7日

 

2025/03/09(日)モロッコ第7日

フェズの西方、車で60分ほどのところにある古代ローマ遺跡ヴォルビリス、モロッコ最初のイスラム王朝が築かれた聖都ムーレイ・イドリス、そして17-18世紀の首都だったメクネスをマイクロバスでまわるツアーに参加した。18ユーロという格安のツアーだった。個人で公共交通機関を使って行くとなると日帰りでこの三カ所を回るのは難しいだろう。

圧巻だったのは、2-3世紀のものだという古代ローマ遺跡、ヴォルビリスだ。最盛期には2万人の人口があったと推定される。古代ローマ帝国はこんな遠方の西の果てにまで、このような文明都市を築いてしまうのだから驚くべきものである。1時間ぐらいしかいられなかったが、もう1時間ぐらいはいたかった。




モロッコ・イスラム王朝の最初の都市、ムーレイ・イドリスは見晴らしのいいところから写真を撮っただけ。斜面に形成された建物群が作り出す風景は見栄えがする。ムハンマドの血統である王朝の始祖イドリス一世(?-793)の墓所があり、モロッコでは聖都とされる町とのこと。ここに限らずモロッコの古い市街地はピトレスクで、インスタ映えする場所が至る所にある。都市景観の美学という点では、19世紀後半から20世紀初めにかけてのイタリアやフランスをも凌駕しているとさえ思える。むしろイスラム世界の都市が、地中海沿岸の南ヨーロッパの都市のモデルだったのかも知れない。モロッコは街歩きが楽しいところだ。





17-18世紀の王朝の首都メクネスはかなり大きな都市で見どころはいくつかあったのだが、昼飯を食べていると実質的な観光時間は1時間ちょっとになってしまい、結局さっとメディナの入り口付近を回っただけで終わってしまった。

ラマダン中なので、日中は観光客向けレストランしか開いてない。メクネスのレストランで、前菜はハリラ(豆のスープ)、メインはパスティーヤを頼む。パスティーヤは薄皮の肉まんみたいなもの。鶏肉のミンチが入っている。正直、不味くはないけど、美味しくもない。ミンチ肉はパサパサで、味はあんまりしない。ボリュームはある。 観光客向けレストランだからこんなものなのか、それともどこで食っても同じようなものなのか。 ハリラや付け合わせの野菜のほうが美味い。






朝9時半にフェズを出て、17時半に戻る。 ガイドの青年はフランス語があまり得意ではなく、けっこう一生懸命サービスはしていたのに、フランス人観光客に嫌味を言われていてちょっとかわいそうだった。いいやつだったけど。マイクロバスには12人くらい乗っていて、半分がフランス人、残りはスペイン人と英国人。アジア人は私一人だった。

フェズでの最後の飯は、宿泊先のリヤドの近くにあるレストランで、モロッコサラダと鶏肉のタジン、オリーブとレモンソースを食べた。ここのモロッコサラダは量が多くて、見栄えがいい。タジンも美味しかった。が、昨年からモロッコに住んでいる横田さんが言うように、モロッコで美味しいのは野菜と果物、料理では前菜に出てくるハリラ(ひよこ豆のスープ)かモロッコ・サラダというのは、確かにそうかもなあと思った。レストランといえばモロッコ料理店しかなくて、メニューも値段もそれほど変わらない。多分どこのレストランでも味もそんなに変わらないのではと思う。味付けはパンチに乏しく、ビックリするほど美味しいわけではない。クスクスとか本場モロッコだとさぞかし美味いに違いないと思っていたのだが、ニースのモロッコ料理店の方が私には美味しかった。あるいは江古田のモロッコ・スペイン料理店アランダルースのほうが美味しいとも。 店の雰囲気は確かにモロッコ現地ならではというのはあるが。






私が信頼するフランスのガイドブック、Le Guide du routardに掲載されていた店に行きたかったのだが、メディナの中の位置情報は、Google Mapはかなり頼りにはなるけれど、ちょくちょく不正確なところがあって、たった400メートルほどの距離なのにたどり着くことができなかった。 今夜行った店はGoogle Mapでは、4.9という高評価の店だった。うん、モロッコサラダは確かに他の店で出て来たのとは一線を画していた。

2025/03/08(土)モロッコ第6日

 

2025/03/08(土)モロッコ第6日

ラバトからフェスに移動する日。ホテルのチェックアウト時間が正午だったので、移動日の朝は時間の余裕が欲しくて、列車は11時27分発の列車を予約していた。フェス着は14時20分。フェスでは旧市街のリヤドに泊まる。マラケシュでの経験があったので、リヤドに迎車を要請していた。100dhmと高めだが、旧市街のリヤドまでの送迎だとこれくらいが相場のようだ。

朝起きるとちょっと吐き気がする。お腹の調子がおかしい。下痢だった。嘔吐はなかったものの、3回ほどトイレに。力も出ないし、眠い。出発時間を遅くしていてよかった。朝、シャワーのお湯が止まらないというトラブルもあった。これはホテルのスタッフがすぐに解決してくれたが。胃腸薬とあとむかつきがあったのでガスター10を飲んだ。下痢症状は治まったが、軽い吐き気と倦怠感はある。

フェス行きの列車はコンパートメントの窓側だった。スーツケースを頭上の棚に上げるのに苦労する。向かいに座ったイギリス人の観光客の男は足をこっちに伸ばしていて、感じが悪い。フェスに着くまでの3時間弱、体力回復のため、寝ていた。



フェスで迎えの車はすぐに見つけることができた。天候は雨。メディナの入り口にリヤドの人が迎えに来ていた。しかし案内されたのは、予約していたのとは別の宿だ。予約していた宿の施設で問題が起こったので、宿を変更して欲しいとのこと。私の予約していたリヤドはBooking.comでは高評価ではあったが、私の宿泊直前に宿名が変わり、またもとに戻るという不可解なことをしていた。そして急な宿変更。持ち主は同じらしい。いまさら違う宿を探せと言われても困る。受け入れるしかない。Google Mapでリヤドの評価を見ると、私の一週間前に泊まった人も、同じように到着後に宿を変更させられたと書いてあった。なんかきな臭い。

今回のリヤドはマラケシュのリヤドより狭かった。リヤドの若女将は若い女性で、感じのいい人であった。年齢を聞くと23歳だという。いとこが日本人女性と結婚して東京に住んでいるとか。





16時に町歩きガイドを予約していて、リヤドに迎えに来ることになっていたので、そのガイドの会社に電話してもらい、リヤドが変更になったことを伝えてもらった。16時5分ごろにガイド登場。もともとは日本語のガイドがいるということで関心を持ち、68ユーロというかなり高いガイドツアーに申し込んだのだが、ガイド会社からは昨日夜に、日本語ガイドが用意できない、英語ガイドでいいか?という連絡が入った。何と言うことだ。英語では困る、日本語ないしフランス語ができるガイドでない場合は返金を要求すると返事したところ、フランス語ガイドになった。私と同じ年くらいの男性である。

メディナ内の立派なリヤドや9世紀に設立された大学などに連れて行ってもらったが、あいにくけっこうな雨のなかの散策で、メディナの迷路のような町のなかも暗く、どこがどこか今ひとつつかめない。ガイドツアーの説明には他のガイドと違って、このツアーではお土産物屋に連れて行くようなことはせず、文化・芸術・歴史に絞ったツアーだと書いてあったが、このガイドはアルガンオイルなどの香料の店、スカーフなどの織物製品の店、そして革製品の店に連れて行った。






アルガンオイルは買わなかったが(けっこう高価だったし、そもそもどういうものか私は知らない)、スカーフを二つ、そして革製品の店で赤い皮のハーフコートを購入してしまう。赤い皮のコートはいいものがあれば買って帰りたいなとは漠然とは思っていた。値段はしかし550ユーロ、8万円近くする。これでもがんばって値切ったのだが。こんな高い服は買ったことがないのでかなり迷ったのだが。革製品の店の店員は、コソッと「ガイドには5000ディルハム(500ユーロ相当)で売ったことにしてくれ。クレジットカードは5000で請求する。そして俺に現金で300ディルハム払って欲しい」と言う。やはりガイドへのマージン支払いの契約があるのだ。それで了承すると、カードケースをおまけしてくれた。

けっこう疲れていたが、朝昼抜きのラマダン状態なのでお腹はペコペコだ。お腹の調子もどうやら大丈夫そうな感じである。宿のお姉さんに近くにあるモロッコ料理の店を予約してもらう。暗い路地の奥にある店で、大衆的な店かと思えば、中に入ると壮麗で巨大なリヤドを改装した店だった。その内装と空間の贅沢な使い方には圧倒される。料理はここでもクスクスを注文する。前菜はハリラ(ひよこ豆のスープ)。それに果物とデザート、ミントティがついて20ユーロ。モロッコ値段としてはちょっと高めかもしれない。場所はすごかったが味はふつうだった。






2025/03/07(金)モロッコ第5日

 

2025/03/07(金)モロッコ第5日

今日は日帰りでモロッコの北端、大西洋と地中海の境界、アフリカとヨーロッパの境界の町、タンジェに行った。ラバトからは新幹線で直通と聞いたのだが、ONCFのサイトで調べるとRabat-Ville駅からケニトラという駅まで鈍行、そこでTGVに乗り換えという切符しか出てこない。おかしいなと思いつつ乗り継ぎのチケットを購入したのだが、あとになってRabat-Villeではなく、Rabat-Agdalなら直行があるような気がしてきた。調べて見ると果たしてそうだった。Guide du routardにもRabatからとしか書いていなかったので気がつかなかったのだ。30分ほど時間を損したことになる。まあしかたない。

ケニトラで私の乗る新幹線の車両は11号車だったのだが、ホームのどのあたりで待っていればいいのかわからない。ホームにいた地元民っぽい女性に聞いてみると、彼女もわからないという。でもなんとかなるもんだと。まあなんとかなるんだろう。なんとかなったが、とりあえず乗車してから車両を移動して自分の座席にたどり着くのはけっこう大変だった。8時17分の列車でRabat-Villeを出て、Tanger-Villeに着いたのは10時過ぎだった。

駅から旧市街までは3キロほどの距離がある。駅前からタクシーに乗った。相乗りタクシーで、メーターは回さず30MAD請求された。Grand Soccoというメディナの入り口の広場に降ろしてもらう。この広場には、シネマ・リフという1938年に開業した映画館があり、タンジェのシネフィルの拠点として知られている。アニエスbが運営に協賛していて、洒落たデザインの赤いTシャツが売られているということで、そのTシャツを買う気満々だったのだが、ラマダン中で休みだった。

タンジェの歴史は紀元前1200年頃のフェニキア人の入植に始まるという。交易・軍事上の要衝として古代以来、現在に至るまでローマ、カルタゴ、モロッコ王朝、16世紀以降はヨーロッパ列強など様々な勢力がこの町を支配したが、1925年に永世中立の国際都市となり、1956年モロッコの独立によりモロッコ領となる。海岸を見下ろす斜面に形成された旧市街の規模は1キロ平方ぐらいではないだろうか。ラバトよりも小規模だ。

私が信頼するフランス語のガイドブック、Guide du routardの記述では旧市街の見所としては、カスバ美術館・博物館がまず挙げられていたので、まずそこに向かった。カスバ美術館・博物館は、土地の歴史や風俗に関わる事物を展示するいわゆる博物館と現代美術を展示する美術館の入り口が、隣り合った建物の別々にある。Routardでは博物館をより強力に推していたので、そちらから入ることにした。展示されている事物はまあふつうの博物館で、歴史的コンテクストなしで見てもどう見ていいのかわからないような感じではあったが、古いリヤドをリニューアルした内装の装飾は、どこも似たようなものだとはいえ、素晴らしい。




博物館・美術館の前には、メディナのなかの高所に建てられたSalon bleuという白と青の外観と内装の洒落たカフェがあって、そこで昼飯を食べようと思ったのだが、博物館を出てそのカフェのテラスを見ると誰もいない。まだ開いていないようだ。ホテルに朝飯はついていなかったので、チョコレートをかじったぐらいでほぼ朝飯抜きの状態なのでお腹が空いていた。ラマダン中はメディナのなかのレストランは休業のところが多い。とりあえず現代美術館のほうに入って時間を潰すことにした。現代美術館はキューバの現代作家の展覧会をやっていたが、お腹が空いていてちゃんと絵を見る気分ではなかった。現代美術館に入るときにもチケット代を払ったのだが、そのチケットで博物館のほうも見ることができるという記述があった。博物館で購入したチケットにもその記述はあったかもしれない。30ディルハム、500円弱、損をしてしまった。

現代美術館を出ると、Salon Bleuのテラス席に客がいるのが見えた。開いているようだ。ところがこのSalon Bleuの入り口がなかなか見つからない。入り口は美術館に向き合ったところではなく、裏手に回ったところにひっそりとあった。細長い建物で一階が調理場、二階がトイレと会計の場所、三階の細長い空間に3組ほどテーブルがあり、その上のテラス席にはテーブル席が3つぐらいと6人ぐらいが座れる長椅子のカウンター席があった。このテラスからメディナと海を一望できる。モロッコサラダ、オレンジジュース、チキンのクスクス、そしてミントティを注文した。味はまあふつうか。クスクスも味付けは薄めで、スパイスもそんなに効いていない。フランスだと唐辛子ペーストのアリッサがつくことが多いのだが、モロッコではアリッサは供されない。頼めば出てくるのだろうか? ミントティはミントの葉がいっぱい入っていて美味しかった。




モロッコはどこでも猫が多いのだが、このレストランのテラスにも猫が登ってきて、子猫は何度もおかずを取ろうとする。猫に引っ掻かれたり、噛まれたりして、ひどい病気になった人がいるという話を横田さんから聞いていたので、猫には触らないようにしているが、ここの子猫は追っ払うのがちょっと大変だった。

食事のあと、博物館の裏のカスバ地区を歩く。casbahは仏和辞典では「アラブ諸国の首長の住む城,またはその周囲の町.」(『ロベール仏和大辞典』)、「(北アフリカで君主の)城, 館; 城塞」(『ロワイヤル仏和中辞典』第2版)と定義されていて、これは間違いではないのだけど、現用ではLe Petit Robertで派生的な意味とされている「casbah(アラブ諸国で君主の城塞)の周囲に広がる旧市街」という意味で使われている。旧市街を指すmédinaは、仏和辞典では「メディナ⦅北アフリカのイスラム教徒居住地⦆」(プチ・ロワイヤル仏和辞典、第五版)となっているが、これは誤った定義といってよく、Le Petit Robertの「北アフリカにおける都市の古い部分(ヨーロッパ風都市 ville européenneに対して)」という定義が実態に沿ったものだ。メディナには実質的にイスラム教徒しか住んでいないにせよ、住民の属性によってメディナが定義されるわけではない。Wikitionnaireにはもっと簡潔に「Vieille ville des villes du monde arabe.アラブ世界における都市の旧市街」と定義されている。要は実態としては、médina旧市街の特に旧要塞の周辺部分をcasbahと呼んでいて、その一帯はメディナの他の地域とは異なる特徴的な住居の様相がみられる。カスバはメディナのなかでもより絵画的な面白さのあるところでもある。

タンジェのカスバはごく狭い区域なのですぐに通り過ぎてしまった。カスバの出口にはこの町出身の14世紀の偉大な旅行家、イブン・バットゥータの博物館があったが、Routardの評価は★一つだったので見送ることにした。今思えば見ておけばよかったと思ったが。タンジェのカスバから歩いて15分ほどのところにあるフェニキア人の墓地を見に行く。海を臨む岩のがけにいくつものくぼみがあり、そこに遺体が安置されていたらしい。



帰りの列車の時間が16時なのでそんなに時間の余裕がない。Routardで評価が★★となっているメディナのなかにあるアメリカ公使館を見学することにする。アメリカ合衆国の公使館のなかで最も古いもので1821年に開設されたとのこと。1962年まで公使館として使われたこの建物は、伝統的なリヤドの様式だが、全部で45室あるという。その一部が公開されている。まあ、これまで他の場所で見たような壮麗な内装にアメリカ風調度品と東洋趣味の絵が並べられている。公使館を出ると午後3時ごろになっていて、列車の時刻が迫っていた。




現在修復工事中の1913年にオープンしたセルバンテス劇場を外から眺めたあと、流しのタクシーを捕まえてラバトに戻った。ケニトラで鈍行に乗り換えだったが、帰宅ラッシュと重なってえらく混雑していた。Rabat-Ville駅の近くにはマクドナルドがあった。海外では現地の食べ物を食べる、マクドは食べないことを原則としていたが、モロッコ料理は食べたくない気分。マクドに引き寄せられてしまう。結局、マクドナルドでダブルチーズバーガーとフィレオフィッシュを購入して、ホテルの部屋で食べた。しびれるほど美味しかった。