2019年3月5日火曜日

2019/03/03 ニース研修2019春16日目


研修16日目。最終日。
ほかの学生たちは今日の午後の便でニースを発ってイスタンブール経由で東京に戻る。私は空港で学生と別れ、レンヌに。レンヌで2泊したあと、ソレム大修道院で2泊、そのあとカーンに1泊、バリに2泊し、飛行機の経由地のイスタンブールに4泊してから東京に3/15に戻る。
学生の飛行機はニースを16時過ぎに発なのだが、学校に依頼した各家庭への迎えは正午から30分の間にするように依頼していた。通常は飛行機の時間の2時間半ほど前に各家庭に迎えが来ることになっているのだが、以下の理由でかなり早めの迎えを依頼していた。
まず学校の送迎係がいまいち信頼できないこと、前にチェックインでトラブルがあって大慌ての搭乗があったこと、東京に帰る学生の中に一人他の学生より出発が30分早い別の便で帰国する学生がいること、そして私の乗るレンヌ行きの便も学生たちのイスタンブール行きの便より40分ほど早い時間に出ること。
ニースの海岸で日の出を見に行く約束を学生としていたので朝6時過ぎに起きる。日の出は7時5分。ニースの海岸は東西に伸びているので、朝日は海に向かって左側の岬から昇り、夕日は右側の岬と山並みへと沈んでいく。日の出の海岸の風景の美しさは学生から聞いたていたが、早起きが億劫な私はこれまで見たことがなかった。私を含め7人がネグレスコホテルの前の海岸に集まって、日の出を待った。日の出の瞬間も美しいが、その前の濃紺、青、紫、オレンジへと変化する柔らかいグラデーションも素晴らしい。
日の出を見た後は海岸沿いの道をマルシェが立つサレヤ通りまで20分ほど歩いた。サレヤ通りのそばにあるパン屋が開いていたので、そこでクロワッサンと生ハムとチーズのサンドイッチを買い、それを朝食として食べながら家に戻った。
荷造りのあと、また自転車で海岸へ。陽光に照らされた海水の色は鮮やかな濃紺とエメラルドグリーンになっていた。気温があがり、Tシャツとジャケットでは汗ばむ感じ。泳いでいる人もいた。ニースの一番の魅力は美しい海岸が町のすぐそばにあることだろう。街中からすぐに広々した美しい海に出ることができる。学生たちの多くもほぼ毎日海岸に行っていた。私たちが滞在していた二週間には雨は一回も降らなかった。東京では雨の翌日なら空気が澄んで遠くまで見渡すことができるが、晴れの翌日はほこりが舞っているため視界が悪い。ニースは毎日晴れなのに海岸付近の空気は透明感がある。車も多いし、人もぞろぞろ歩いているのに、空も海も美しい。
午後1時過ぎに全員が空港に到着する。早めに学生たちのチェックインを済ませ、その様子を確認してから私は国内線ターミナルに移動して、レンヌ行きの便のチェックインを行うとつもりだったが、ターキッシュエアラインの受付が14時にならないと始まらない。早めに空港に到着した意味があまりなかった。私は15時半発の便を予約していたので、14時過ぎには国内線ターミナルに移動する必要がある。それで結局学生たちの チェックインを確認することができなかった。学生たちとの別れはなんか中途半端なすっきりしない感じになってしまった。
国際線の第一ターミナルから国内線の第二ターミナルまではシャトルバスで移動するのだが、案内がわかりにくくてシャトルバスのバス停を探すのに往生した。またシャトルバスがなかなか発車しないし。セルフサービスのチェックインと荷物預けにもまごまごして、搭乗口にたどり着いたのはぎりぎりだった。早めにチェックインして空港のレストランで昼飯を食べるつもりだったのに、昼飯抜きになってしまった。

15時25分に飛行機が飛び立つ。レンヌ行は座席が4列の小型の飛行機だ。窓際の席を取っていた。バイバイ、ニース。個性的で、行儀がよくて、好奇心旺盛で、面白くて、振る舞いも見た目も美しい学生たちと過ごした濃厚な二週間だった。ニースは私たちを暖かく歓待してくれた。飛行機の窓から地中海の青い海を見ていると、ちょっと感傷的になって泣きそうになってしまった。

2019/03/02 ニース研修2019春15日目

研修15日目。
学生たちは一人を除いて明日帰国である。帰国前日の土曜日は基本的にフリーとしたが、午前中は希望者とフェラ岬にあるロットシルド別荘に行った。20世紀はじめにロスチャイルド家の末裔であるベアトリスが作らせた壮麗で優美な夢の別荘と庭園だ。ロココ美術の収集家であった彼女の趣味のよさとこだわりがすみずみまで行き届いたユートピアのような場所で、ベルエポック期のフランスの豊かさを象徴するような建造物だ。学校の遠足で言ったヴィラ・ケリロスの近くにあり、この二つの別荘を見学できるセット券もあるのだが、なぜか学校主催の遠足ではロットシルド別荘は含まれていない。朝9時半にニースを出て、開館時間の10時に入場するつもりだったがのだが、最寄り駅であるボリュから海岸沿いの美しい景色を見ながらぶらぶら歩いていたら、別荘に着いたのが10時半近くになってしまった。11時50分まで自由に見学ということにした。
ロッドシルド別荘からニースまでの帰りはバスを使った。海岸沿いの美しい景色の場所を走る路線だが、ニースのバスの運転手はそのほとんどが運転の仕方が乱暴でガンガン揺れる。ジェットコースターみたいだ。ニースまでは25分ほどなのだが車酔いしそうになっていた学生がいた。
昼飯は5年前、夏休みの教員向け研修ではじめてニースに二週間滞在したときに知り合った友人と食べる約束をしていた。ニースに住むレユニオン出身のフランス人女性だ。5年前、ニースの下町のレストランで一人で夕飯を食べていると、隣のテーブルで飯を食べていたフランス人夫妻に声をかけられ、一緒のテーブルで飯を食ったのが知り合ったきっかけだ。
その後、夫妻の妻の方が彼女の友人と2回日本に旅行で来た。私がニースの行くたびに一緒に飯を食っている。ただこの夫婦は2年前に離婚してしまった。美容師の夫が同僚と不倫していたのが発覚したからだ。夫婦には娘が一人いるし、不倫相手にも夫と子供がいた。地元の美容院だったので関係者全員が知合いだ。夫は不倫相手と一緒に暮らしている。娘は最初のうちは父と母のところを行ったり来たりしていたが、妻のほうと相性が悪く、最近は夫の新しい家族と一緒に暮らしている。
不倫された妻の方にも、別居後、すぐに彼氏ができた。その彼氏に私は2年前に会っている。一緒に食事をしてのだ。今回の昼食もその彼氏が一緒だった。付き合って2年になるが結婚の予定はないようだ。彼も離婚していて、子供が2人いるとのこと。
昼飯はサレヤ通りのレストランで、オッソブッコを食べた。仔牛の骨付き肉の煮込みでパスタが添えてあった。
食事後、二人と別れ、自転車でメーテルリンクが晩年の数年間を過ごした邸宅に行った。メーテルリンク の死後、ホテルになったりしたこともあったようだが、今は民間のアパルトマンになっているようで、中に入ることにできない。ニースと隣町のヴィルフランシュの境となる岬の先端にある。メーテルリンクはこの邸宅をオルラモンドOrlamondeと呼んだ。ガランとした大邸宅で、世からはほぼ忘れられた作家として過ごしたニースでの最後の数年間については、メーテルリンクと親交のあったニースの医師による興味深い追悼文があり、メーテルリンクが最後に発表した原子爆弾についてのエッセイとともに翻訳しているのだけど、まだ発表できるほど勉強が進んでいない。
夜は学生数名とニースオペラ座プロデュースのミュージカル『赤と黒』を見に行った。会場はニース市街からバスで40分ほど離れたところにあるオペラ作品の倉庫兼稽古場で、その空間の広大さには驚嘆する。肝心の芝居はひねりのないオペラ風の歌唱劇で退屈。75分の上演時間が長く感じられた。会場は面白かったけど、わざわざ最後の夜の時間を使って見るようなものでなかった。
女子学生一人を家まで送ってから帰宅。疲れた。

2019/03/01 ニース研修2019春14日目

研修14日目。
二週目の金曜日ということで最後の授業日になる。今回は19名の学生は4クラスに分かれた。このなかで一番下のレベルのクラスのメンバーは我々のグループだけである。最初は誰も全然しゃべれなくて、先生もいったいどうしたものかという感じだったと思うのだが、まもなく学生たちと先生が打ち解けて、すごくいい雰囲気のクラスになった。学生が先生を信頼して、積極的に発言するようになった。最終日の今日はこのクラスの学生たちは画用紙と折り紙でメッセージボードを自発的に作り、授業の最後に先生に渡していた。ベテランの女性の先生だったが、このサプライズに感動して泣きそうになっていた。「今、メッセージをここで読んだら泣いてしまいそうだから、あとでゆっくり読みます」と言っていた。受講証明書の授与のとき、先生は学生ひとりひとりにビズをしていた。学生は嬉しそうに受講証を受け取っていた。
午後はアンティーブに学校主催の遠足に行った。遠足はわれわれのグループに対して企画されたものだったのだが、スリランカ出身のスイス人の女の子が私の学生と仲良くなっていて、彼女も私たちのアンティーブ遠足に参加することになった。アンティーブの遠足にわれわれを先導したのは、舞台美術専攻の若くて美しいダンサーのジョシアである。彼女も私たちのグループの学生たちとすっかり仲良しになっていた。アンティーブまではニースから列車で20分ほどだ。こじんまりした美しい街だ。アンティーブの旧市街は、ニースの旧市街をミニチュアにしてさらにかわいく、小ぎれいにしたような感じだ。海の色もニースとは違う。もっと濃い青だ。アンティーブではピカソが晩年を過ごした。ピカソ美術館訪問がアンティーブ行の主な目的だったのだが、美術館に着くと美術館のスタッフが「18歳以上は学生でも一律6ユーロの入場料が必要だ」と主張する。学校はこれまで何百回もピカソ美術館への遠足を実施し、これまでまったく問題がなかったのに突然こんなことを言われてしまったのだ。ジョシアが学校に連絡を取るが、学校の担当者とつながらない。まあフランスではありそうなことだが。ジョシアは混乱してどうしたらいいのかわからなくなってしまったようで、明確な説明なしに学生たちを先導して街中を歩いていく。こうしたときに説明がないというのもフランス的ではある。これはよくないのでジョシアに「ちょっとここで止まってみんなを集めて、まず状況を説明してくれ」と要求する。
ジョシアから状況説明があったあと、それではどうするということになったのだが、学校側とピカソ美術館側の交渉がどうなっているのかわからない。一時間ぐらいしたら入れるかもしれないとあやふやなことをジョシアが言っていたが、それまで集団で行列を組んでぐるぐると街を歩き回るのではなく、待ち合わせ場所と時間を決めて、自由にそれぞれが街を散策するのではどうかと提案した。今日は夜にオペラを見に行くことになっていたので、観劇前の食事時間を考えると、だらだらアンティーブにいたくなかったのだ。学生もそれで納得したので、一時間の自由散策ということになった。私はジョシアと海辺を散策したあと、学生数名と仮設の観覧車に乗った。観覧車は巨大なものではなかったのだが、乗客が乗るかごがむき出しになっていて上に上がると思っていた以上に怖かった。アンティーブには高い建物はないので、観覧車の上からの眺めは素晴らしいものだった。ピカソ美術館がなくなって「なんのためにここに来たのか」と言っていた学生もいたが、まあ仕方ない。パリのピカソ美術館と違って、晩年の子供の絵みたいな作品ばかりなので、見られなくてもそんなにがっかりする必要はないなどと言ってなだめる。
ニースに戻ったのは午後5時過ぎだった。オペラ座の開演は午後8時なので十分時間はあるのだが、学生席は天井桟敷の両サイドの自由席なので開場と同時に上にあがって最前列を確保しないと舞台がほとんど見えない席しかなくなってしまう。8時開演で終演が11時なので、食事はその前にすませておかなければならない。しかしまともなレストランは午後7時半ごろにならないと営業開始にならない。ニース駅でいったん解散して、7時15分にオペラ座の前に集合とする。オペラ鑑賞には16名の学生が参加することになっていた。食事はそれぞれがばらばらに取ることに。私は帰国子女二人組の女子学生に確保され、これにプラスして男子学生二人の5人で、サレヤ通りにあるノンストップ営業のツーリスト向けレストランで食事を取ることにした。4人がムール貝のポテト添え、1人がシーフードパスタを注文。ムール貝はどこで食べてもそこそこおいしいし、フランスの外飯では比較的安価だ。私以外は初ムール貝だったが、みな気に入ったみたいだった。
オペラ座には学生の多くは開場と同時になかにはいった。二人だけ遅れて入った学生がいたが、全員天井桟敷サイドの最前列は確保できたようだた。死角はあるが最前列なら舞台を見ることができる。二列目、三列目だとほとんど見えない。私は学生席ではなく、自分で別のチケットを購入していた。天井桟敷のフロアの一階下の中央最前列。舞台がよく見えるいい席だった。料金は51ユーロ。
ニースのオペラ座は19世紀末に建築された馬蹄型客席のクラシックな様式の劇場だ。パリのオペラ座の設計者のガルニエの弟子によるものらしい。大きさはパリのオペラ座よりこじんまりとしていて、サロンなどの空間はない。「ちゃんとした服装で」と指定されてはいるものの、多くの観客の服装はくつろいだ感じの普段着だ。地元の人たちに愛されているというような雰囲気の居心地のいいオペラ座だ。演目はストラビンスキーの《放蕩者の遍歴》。英語のオペラで、1951年が初演。私ははじめて見る作品だが、古代・中世風のアレゴリーが用いられ、ギリシア神話、聖書、中世・近代の説話などに現れるモチーフを自由に構成した台本は、荒唐無稽でシニカルで実に面白い。オペラの台本としては複雑すぎるのだが。音楽もとらえどころがなくてあまりとっつきやすいものではない。音楽的にも脚本的にもオペラ初心者には向かない作品だったが、案外学生は寝ないで見ていたようだ。
終演後オペラ座の前で写真を撮って、女子学生の送りの分担を決めて、解散した。帰宅すると深夜0時を過ぎていた。

2019/02/28 ニース研修2019春13日目

研修13日目。
昨夜、学生を送って家に戻る途中、つまづいて派手に転んだ。坂道の横断歩道でごろりと一回転。ひざと左胸の下を強く打ったのだが、朝起きるとその二か所が痛い。特に左胸の下。腫れてはいないので骨にひびが入ったというようなことはないとは思うのだが。
一昨日発熱の学生は、昨日平熱に戻り、今日から復帰。フランスの薬の効き目がすごいのか、若い奴の回復力ゆえか。平穏な一日になると思ったのだが、昨夜、ニース料理を一緒に食べた学生が深夜に激しい腹痛に襲われ、朝になってもまだ腹痛があるので休むという連絡がラインで入った。
昨日食べたものの何かが当たったのではないかと思うと彼女のメッセージにあったが、昨夜食べたもので当たるような料理は思い浮かばない。ちゃんと火が通った料理ばかりだし、食材もなじみのものばかりだ。
「食べすぎじゃないか?」と訊くと彼女はそんなに食べていないという。一昨日調子を崩した学生も「食べ物があたった」と言っていたが、実際にはインフルエンザだった。「熱はないか?」と聞くと、熱はなさそうだ、とにかくじわじわとおなかが痛いと言う。
昨夜の転倒の後遺症で体が痛かったし、疲労で体も重かったのだが、おなかが痛いってのはかわいそうだと思い、ガスター10を持って彼女を見舞うことにした。私の住んでいるところからは歩くと30分ほどの距離だが、ニースのレンタル自転車システムVélobleuを使えば12-3分で行くことができる。このVélobleu、事前の利用者登録が必要だったり、現地で通話可能な電話が必要だったり(利用するときに、画面に表示された電話番号に電話して、登録利用者を確認する仕組みになっている)して面倒なのだが、ニースの移動にはとても便利だ。今回は学生のステイ先が12か所に分かれているので、Vélobleuを使ってニースのまちなかを行き来している。利用料金は一週間5ユーロ、一か月10ユーロで乗り放題と格安だ。
彼女の家を訪ねるとだいぶよくなったと言いながら、痛みに顔をしかめていてかなりつらそうな様子だったので心配になる。とりあえずガスター10を飲んで様子を見ることにしたが、その後学校に戻ると「突然痛くなったと言っていたし、虫垂炎や腸閉塞とかだったらどうしよう」と不安になった。彼女と同室の学生が昼食後すぐに住居に戻って、様子を伝えてくれた。すやすやと寝ていて、だいぶよくなっている感じがするとのこと。昨夜は痛みであまり眠れなかったかもしれない。私は午後にまた彼女たちの家方面に行く用事があったので、そのときにまた寄って様子が思わしくなければ、また病院に連れていくことにしようと思った。
午前中は自分の勉強の時間のはずが、結局はいろいろ入って勉強が進まない。仕方ない。
明日の夜はニースのオペラ座にストラビンスキーのオペラ《放蕩者の遍歴》、明後日の夜はオペラ座プロデュースのミュージカル《赤と黒》を学生たちと見ることになっている。ニースのオペラ座の担当者に学生団体チケットの確保をお願いしていて、それを引き取りにいかなければならなかった。学生券は5ユーロだ。本来なら学生券は劇場窓口で、公演の何日か前までに買うという条件があって、予約取り置きというのはできないのだが、メールで問い合わせたところ、担当者の裁量でわれわれの分のチケットを確保してもらっていた。ニース研修では毎年オペラ鑑賞を行っているが、3年前からこのやり方で学生券を用意してもらっていた。今日の午後はチケット引き取りの際に、それまでメールでのやりとりだった担当者に会って挨拶することにしていた。
家からオペラ座までもVélobleuで。しかし到着先のVélobleuのステーション数か所が満員で、15分で現地に到着したものの、駐輪先を探すのに15分かかった。自転車をステーションに返した時点で、腹痛の子に連絡をとったが、薬を飲んでから少し寝ると、かなり体調がよくなったので散歩に出かけるとのこと。ガスター10が効いたのか。とりあえず大病でなくてよかった。
オペラ座のチケット窓口で、学生券の処理の担当者を呼び出しもらう。メールでのやりとりはフランクな感じであったが、出てきたのはさっそうとした上品なマダムで、劇場内でかなりの地位にあることがその雰囲気から感じられた。学生の芸術鑑賞の意義を熱意をもって語り、こちらの語学研修の様子や学生の関心、私の専門領域などについていろいろ聞かれて、ドギマギする。さらっと挨拶して、おみやげのキットカットを渡して立ち去るつもりだったのだが。ニースのオペラ座に継続的にやってくる日本人学生の団体はおそらくわれわれぐらいなので、好奇心をそそられたのだろう。
ニースでぶらつくところといえば、旧市街と海岸沿いにほぼ集約されてしまう。昨日、今日はイベントを入れなかったので、学生たちは思い思いにすごしていたが半分くらいはこの辺りをぶらついてたようだ。海岸で数人の学生と合流する。
ニースは海岸に座り、ぼーっと海を見ているだけでもいい。一時間ほどぼーっと海を見て、ときおり他愛のないことを話したりして過ごす。
明日、明後日は夜に外出するので、ブラバン家の夜飯は今日が最後だ。夫のギヨームが作った手作り特製ハンバーガーが夕食だった。とてもおいしいハンバーガーだったが、これだけでは物足りないなと思っていると、マニアがトマトソースで色づけしたチキンライスっぽい米料理を出してくれた。
マニアは教育熱心で厳しい母親でもある。仕事から帰って疲れているはずなのに、子供二人の朗読の宿題に厳しいダメ出しをしていた。


2019/02/27 ニース研修2019春12日目

研修12日目。
昨日、インフルエンザと診断された学生から、一晩たってほぼ平熱に下がったと連絡があった。でも今日一日は学校に行かず家で休むように伝える。
午前中はいろいろな連絡や確認で時間がつぶれる。自分の勉強時間はなかなか確保できない。今日、明日の午後は学校企画の遠足などの予定は入っていない。いろいろ見せたいものや連れて行きたいところはあるのだけれど、今日と明日の午後は私の企画イベントも特に設けずフリーにした。
3年前にこのニース研修に参加したの早稲田の学生の一人が、昨年五月からニースの語学学校に留学していて、その学生と午後にお茶を飲んだ。3年前は募集時期の11月にパリで同時多発テロ事件が起こり、参加者が9名と少ない年だった。しかしテロの脅威を気にせずフランスに行きたいという学生たちだったので、好奇心が強く、個性的で面白い子ばかりの濃密な二週間になった。この年、早稲田からは6名の参加者があったのだが、そのうち5名はその後フランスに長期留学している。今回の研修に参加している学生のひとりがニースに長期留学している彼女と同じ専攻だったので、その子もお茶に誘った。
ニースに長期留学していた子はフランス文学専攻ではなく、フランス語もできるほうではなかった。3年前にニースに来たときは大学一年だったが、その後も特にフランス語を一所懸命にやったというわけではない。忘れないように週一コマ程度、授業を取るくらいだったのだが、大学3年の秋に突如、語学ぐらいは身に着けて大学を卒業したいと思ったらしい。彼女が選んだ留学先の学校はアンスティチュの留学相談ですすめられたらしい。校長の妻が日本人ということで、アンスティチュほか日本の留学代理店に積極的に営業をかけていたようだ。ただ実際に来てみると、校長の日本人妻はそんなに親身に相談に乗ってくれるような人ではなかったとのこと。小さな語学学校で彼女のように一年近い長い期間、継続的に受講する学生はそんなに多くないように思う。入学時にはA1レベルクラスだったそうだが、現在はDELFのB2を取得したという。少人数の語学学校でフランス語だけをちゃんと継続的に勉強するのならこれくらいにはなるだろう。2週間後に彼女は帰国し、復学する。
一時間半ほど彼女と話して別れたあとは、今回の研修参加者の学生数名とお土産用のワインを買いに行った。私は酒を飲まないがお土産としてニースの名産ワインとして知られているのはBelletの赤を購入した。ニースの超定番の写真スポットである城山の展望台からニースの町に夕日が沈む様子を見たいと思い学生たちと城山に上る。日の入り18時15分だった。山頂についたのが17時50分ごろ。写真をぱちぱちと取りながら日の入りを待ったが、あと数分で日が沈むというときに、警官が来て「18時になったので、ここを降りて、城山公園から出てください」と言われる。海岸まで下りて、日暮れのニースの風景を楽しんだ。空が美しいグラデーションを描く。どんどん暗く、シルエットになっていく街と海岸。プロムナード・デ・ザングレの街灯が、海岸線にそって曲線を描いている。何度見ても本当になんて美しいのだろうと思う。
今日の夜は家飯ではなく、学生たちと外食の約束をしていた。6名の学生とニース料理のレストラン、Lou Balicoで夕食を取った。昨年、私が滞在したイタリア系の家のマダムが絶賛していた店で、行ってみたかったのだ。学生たちはクスクスをどちらかと言えば食べたがっていたのだが、にLou Balicoでの食事に同意するように誘導した。前菜はピサラディエール、ファルシ、ラタトウィユ、ベニェなどニース風の総菜の盛り合わせ。主菜はラビオリ、ニョッキなどのパスタ類とニース風のもつ煮込みなどを数品。がっつりしたボリュームの料理が出てきた。フランス料理というと洒落て気取った雰囲気のものしか思い浮かばない学生たちはその量に圧倒されていた。という私もここまで大量にどかっと出てくるとは思わなかったのだが。味もおいしい。腹がはちきれそうになるほど食べた。
大量すぎて前菜、主菜ともに食べきれなかったというのに、一緒に行った女子学生たちはみなデザートを注文していて食べていた。私はデザートはパスして、コーヒーのみ。


2019/02/26 ニース研修2019春11日目

研修11日目。
昨夕、咳で薬局に一緒にいった学生に様子を聞くと、昨晩はつらかったけど、今朝から薬は効いて咳はあまり出なくなった、ただ薬剤師が言っていたように猛烈に眠くなるとのこと。医者にあらためていく必要ななさそうだった。今日の午後のモナコの遠足にも彼は参加した。ああ、よかったと思ったところで、別の学生から朝から腹の調子が悪くて下痢だ。しかもちょっと熱っぽい感じがするという訴えがあった。体温を測りたいというので、体温計を持って行った。その学生曰く、昨日昼に食べたステーキが生焼けだったのにあたったみたいだとのことだったので、体温計を測るあいだに、一度家に戻り、下痢止めの薬をとってきた。私の滞在先は学校の隣の建物なのでこういった行き来がすぐにできるのが便利だ。
レアのステーキと言っても火は通っているので食あたりするのかなあと思いつつ、食あたりだったら下痢止め飲めば何とかなるかなと思ったのだが、学生のもとに戻り体温計を見ると、39度近くあった。これは単なる食あたりではないのではないかと思い、もう一度測ってもらう。
やはり39度近くの熱だ。下手に薬を飲まさないで、このまま医者に連れて行ったほうがいいと判断し、学校のスタッフに近所の医者について聞く。スタッフが行きつけの内科医を予約してくれた。学校からは歩いて15分ほど。もっと近くの医者がいいのにと思ったが、予約が30分後に入ったというのでそこに学生を連れて行くことにした。こういうときでも診察にいちいち予約が必要なのがフランスの面倒なところだ。
フランスの個人クリニックは大きな看板を掲げていない。普通の住宅棟のなかに診療所がある。学校が教えてくれた住所の場所に行くと、同じ番地に複数の医師の名前があった。学校スタッフに医師の名前を書いてもらったのだけれど、この文字が判読できない。番地のインターフォンにある複数の医師の名前のボタンと手元にあるメモ上の名前が一致しなくて困った。とりあえずこれかなあという医師の名前が書いてある部屋に入った。入り口にも医院の看板があるわけではないので、恐る恐るドアをあけた。
待合室には2人の先客がいた。われわれの予約は1130だったが、前の患者の診察が長引き、正午過ぎにわれわれの順番になった。女性の医師がひとりでやっている。看護師もいない。診察室もごく普通の書斎といった感じだ。フランスの医院には医療検査機器は血圧計などごく簡単なものしかないが、問診や触診はかなり丁寧に時間をかけてやる。医師の診断は食あたりではない、インフルエンザだろうとのこと。解熱鎮痛剤を飲んで熱を下げ、家で症状が治まるまで休むしかないと言う。ニース到着直後に病院の救急診療でのインフルエンザの可能性が高い別の学生を診察した医者とほぼ同じことを言っていた。
「解熱鎮痛剤だけですか? タミフルは使いませんか?」と一応聞いてみる。すると「タミフルは使いません。解熱剤を二種類渡しますので、それを飲んで、安静にしてください」と返事が返ってきた。診察料は30ユーロだった。海外旅行保険はあとで払い戻しなので、診察料全額でこの値段ということになる。日本とそんなに変わらないのではないだろうか。薬は解熱剤二種類。解熱剤の一つはパラセタモールでこれを一回1000mgを一日三回。日本ではカロナールという薬剤がこの薬だが、服用量は600-1500なので、フランスでは日本でマックスとされている倍の量を服用するということだ。これで熱が下がらなければ、イブプロフェン400mgをパラセタモールの服用のあいだに追加投入しろとのこと。パラセタモールを3000mgとっているなら十分だろうという気がするが、できるだけ苦痛を和らげるのが重要というフランスの考え方がこの処方に反映されている。
苦痛は薬で取り除くが、インフルエンザを特別視しないという考え方もフランス流だ。どうせインフルエンザは薬では治らないのだから、熱をできるだけ下げる解熱剤を出して、あとは安静にしていればいい。そしてこの解熱鎮痛剤の大量投与は、インフルエンザ用の薬の服用とほぼ同様の効果があるのではないかという気がする。さきほどネットで検索したところ、タミフルなどの抗インフルエンザ薬の多くは日本で使用されているとのことだ。日本ではほとんど問題にされることがない薬価の高さ(フランスと比べると)、そして抗インフルエンザ薬の大量使用など、日本の薬剤会社の戦略を疑いたくなってしまう。
薬局で薬を購入したところ5ユーロくらいだった。保険適応なしでこの値段なのだから、薬剤は日本に比べるとフランスのほうがはるかに安いように思う。薬局から学生の滞在先までタクシーで戻った。この学生の滞在先は二人部屋なのだが、空いている部屋があるというので、ステイ先のマダムにもう一人の学生への感染を防ぐため別室にするようにお願いした。私はこのマダムとちゃんと話をしたのは今回がはじめてだったのだが、マダムの対応のおおらかさ、暖かさ、学生への気遣いのしかたなどに、学生が彼女に対して信頼感を抱いている理由がわかった。ホームステイといっても契約した語学学校の学生の食事付下宿屋のような感じなのだけれど、フランスにはこうした世話好きで親切な人の割合は日本より多いような気がする。ものすごく意地悪で不愉快な人間の割合も高いのだが。良きにつけ悪しきにつけ、フランス人は日本人より人間くさいように思う。ニースに来るとこの人間くささを思い出す。
午後は学校主催の遠足はモナコ行き。しかし14時半と学校を出る時間が遅かったので、モナコ滞在時間は2時間ほどしかない。案内人は先週土曜日にカンヌに一緒に行った美しいジョシアだった。海洋博物館に一時間強滞在した後、旧市街と宮殿広場を通り過ぎたただけで終わった。カジノなどがあるモンテカルロには行く時間がない。モナコは近隣のコートダジュールの町と違い、道にはごみや犬の糞が落ちていないし、警官がやたらたくさんいて治安もいいらしい。崖沿いの細長い土地に高層ビルが立ち並ぶ様子は背景の岩山とともに独特の景観を作っている。南仏の観光では外すことができない観光スポットだが、私はこの人工的すぎる雰囲気が好きではない。町全体が作り物っぽく見えてしまう。ニースの濃厚な人間くささとは対照的に、モナコはドライでよそよそしい空気で満ちている。
ニースに戻ってからスーパーに行き、インフルエンザで休んでいる学生に飲み物や食べ物を買って、同じ家に滞在する学生に託した。
ブラバン家の今日の夕飯は、カモ肉のローストとトマトソース(?)で色付けされたチキンライス風のごはん、それから野菜の煮込み。安定のおいしさ。しかし息子のエヴァンはむしゃむしゃとおいしくなさそうに食べている。

2019/02/25 ニース研修2019春10日目


ニース研修10日目。
授業が2週目に入る。ほぼ毎日外出があり、日本にいる時よりはるかに長い距離を歩く日々が続いている上、慣れない外国生活ということで、学生たちにかなり疲れが見えてきた。
2週目のイベントは最初の週ほど多くはない。今日は午前中授業のあと、午後は学校主催の遠足でニースから列車で15分ほどの場所にあるボリュへの遠足があった。
学校のスタッフの引率がつくはずだったのだが、別のグループのホームステイでトラブルがありその対応をしなくてはならないということで、列車の切符とボーリュで訪問するヴィラ・ケリロスの団体予約表と入場料を渡されて、私が学生を連れて行くことになった。
学校主催の遠足は原則必ず参加することにしていたのだが、疲労で体調を崩した学生二人が遠足を休んだ。
ボリュは19世紀末のベルエポック期に発展した小さな海辺の町で、景観は美しいけれど特に街中に見るべき観光資源はない。しかし敢えてこの町に遠足に出かけるのは20世紀初頭に建てられた別荘建築の傑作、ヴィラ・ケリロスがあるからだ。紀元前4世紀のギリシア貴族の別荘の復元なのだが、それには莫大な金と再現に関わった考古学者と建築史学者の美学が詰め込まれている。
その内装のこだわり、細工の趣味の良さには誰もが驚嘆するだろう。私は五年前から毎年この別荘を訪れているが、来るたびにその壮麗で洗練された装飾に感嘆する。個人的にはコートダジュール観光ではこの別荘見学は外せないと思っている。
別荘見学のあとはまた列車乗ってニースに方面へ。疲れている学生が多かったのでパスしようかとも思ったのだが、希望者がいたのでボーリュの隣の駅のヴィルフランシュで途中下車した。半分の学生は途中下車せずそのままニースに帰った。
ヴィルフランシュは後ろに崖が迫る狭い海岸沿い作られた町だ。この町の旧市街の道には建物の下にトンネルのようになっているところがあるのが面白い。海岸もあり、風光明媚なので、夏のバカンス時期は賑わうが、今の季節はひっそりとしている。町を見下ろす要塞まで上ったあと、海岸沿いの通りまで降り、海に面したホテルのカフェでお茶を飲んだ。
ボリュとヴィルフランシュへの遠足は今回の研修では地味な企画だが、私はとても好きな場所だ。興奮と緊張が続く研修日程の中で、ホッとした気分になれる静かな場所だからだ。

ヴィルフランシュに立ち寄らずにニースに戻った学生の一人に到着早々に高熱を出して病院に連れて行った学生がいた。アスピリン大量投与で熱は下がったものの、咳がずっと残っていて、それがかなりしんどいとのこと。咳の薬も改めてこちらの薬局で購入して飲んでいるものの効果が見られないという。
その訴えを聞いたのが17時過ぎだったので、明日の午前に医者に連れて行くことにしていたのだが、19時まで開いている病院があるのでそこに一人で行ってみるという連絡がラインに入っていた。この子は英語がかなり話せるのでそれで一人で行ってもなんとかなると判断したのだろう。
一人で病院に行くというくらいしんどいのだったらヴィルフランシュには行かずに彼に付き添うべきだったと後悔したが、彼が向かう行った病院を調べてみると外科とある。咳の症状で外科に行っても仕方ない。これを見てますますいっしょに行くべきだったと思った。ニースに着いてから、彼が行くと知らせてきた病院に行ったが、そこは外科は外科でも美容外科だった。これでは咳で苦しんでいる奴が行っても仕方ない。ラインで学生に連絡を取ると家に戻っていた。彼の住んでいるところへ行って直接話しを聞くことにした。
近所の病院はグーグルマップで検索したら出てきたところに行ったとのこと。時間は18時を過ぎていたのでもう診察をしている病院はないだろう。とりあえず近所の薬局に行って、この時間に飛び込みで診察してくれる医者がいないか聞いてみることにした。彼は自分で薬局に行ってすでに咳用のトローチのようなものを貰ったけど効かなかったと言う。だから薬局に行っても仕方ないと思っていたようだった。
フランスには薬局はやたらある。薬局には緑十字の看板が掲げられているのでどこにあるのかすぐにわかるが、個人医院は日本のように看板が掲げられておらず、ひっそりとあることが多い。私はフランスで医者に行く必要があるときは、まず薬局に行って近所の医師の場所を聞くようにしている。
フランスは全般的にサービス業の勤労モラルが低いのだが、私の経験では劇場関係者、薬局の薬剤師、そして医師には不愉快な思いをさせられた経験がない。ふつうに親切だ。
今回飛び込んだ薬局薬剤師も親切で感じのいい人だった。症状と学生がこれまで飲んだ薬を確認すると、彼が飲んでいた薬はたん絡みの咳を抑えるものと喉の痛みを和らげるもので、乾いた咳には効果がないと言う。乾いた咳には定番ものの薬がありよく効くはずので、今晩、これを飲んで症状が変わらなければ、明日医者に行くのでいいのではないかと言う。その時には適切な医師を紹介するとのこと。困っている時に親切で丁寧な対応があるとホッとした気分になる。
ブラバン家の夕食は、羊肉にさまざまなスパイスをまぶしてオーブンで焼いたもの。料理の名前は知らない。白米とインゲン、煮込んだ大豆(?)と一緒に食べる。オーブンで焼いている時から美味しそうな匂いが漂っていた。これにマダガスカルの謎の激辛香辛料とマンゴーの薬味をつけて食べると、もう最高としか言えない。また食い過ぎた。ブラバン家の夕食はわたしには驚異である。来年の滞在もこの家を予約しておきたい。

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2019/02/24 ニース研修2019春9日目


研修9日目。
日曜日で学校企画のイベントはない。片山企画で朝から夕まではマントンのレモン祭を見に行き、夜はLGBTの自主企画カーニバル、Lou Queernavalを見に行った。マントンのレモン祭は全員参加のはずだったがのだが、男子学生2人が日曜正午から旧市街のサント=ルパラート大聖堂のラテン語ミサを聞きに行きたいということで、彼ら二人はミサ終了後に合流することになった。

マントンのレモン祭はレモンとオレンジを使ったモニュメントの展示会とパレードの二本立てになっている。狭い町に大量の観光客が押し寄せるので大混雑となる。マントンのトイレ事情もひどいので、昼食はレストランで取って、そこでトイレをすましておくというのが重要なのだが、レストランには早めに入っておかないと満員になってしまう。パレードは14時半からだが、早めにマントンに到着し、まず展示会を見てから各自分かれて昼飯、午後はパレードを見た後、街を散策してニースに戻るというスケジュールを考えていたのだが、集合時間に遅れてきた学生がいて乗るつもりだった列車に乗ることができなかった。これでマントンでの予定を組みなおさなくてはならなくなった。
レモン祭のチケットは事前にネット予約して、プリンタでe-ticketを発券していたのだが、レモン祭のウェブサイトのエラーで展示会を見る日とパレードを見る日が別の日になっていた。チケット代はカードで支払い済みである。レモン祭事務局に問い合わせると、いろいろたらいまわしされた挙句、日付の異なる展示会チケットを取りに当日、ツーリストインフォメーションまで来いという話に落ち着いた。向こう側の不備によるこうした面倒くささに振り回されがちなのがフランスの面倒なところだ。
ツーリストインフォで展示会のチケットを受け取った時点で11時になっていたので、展示会見物は後回しにして、先に町散策と食事をすませ、午後のパレードを見てから、展示会を見るという順序に変更した。私を含め18名の人間で一つのレストランで食事というのは現実的でないので4名ずつぐらいのグループに分かれて、パレード開始まで自由というふうにした。私は学生数名とまず飯を食べることに。グーグルマップでよさげにみえたレストランはいずれも正午営業開始だったり、レモン祭りパレードで封鎖されている地域にあったりして、入ることができない。海岸沿いのレストランのテラス席で海を見ながら飯を食うことにした。しかし典型的なツーリスト向けのレストランで、料理はいまいちだった。数少ない外食の機会をこんなレストランでつかってしまったのが腹立たしい。
飯のあとはマントンの旧市街を探索。坂道に作られたマントンの旧市街路地の絵画的興趣は格別だ。レストランや売店が並び、多くの人でにぎわう海岸沿いの通りから、数十メートル離れた旧市街の坂道路地に入ると、ひっそりとした静謐の空間となる。建物の壁のオレンジや黄色と空と海の青の対比が美しい。午後2時半から始まる予定のパレードはセキュリティチェックにとまどり、実際にはじまったのは午後3時前だった。ニースのサント=ルパラート大聖堂でラテン語ミサを聞きに行ってた学生も合流。ラテン語歌ミサは、予想とは違い訓練された聖歌隊が歌うものではなかったが、一般信徒たちがラテン語で不器用に歌うこと自体が感動的だったと言っていた。
レモン祭パレードはレモンとオレンジで作った山車が出ること、パレードの演者たちがコンフェティという紙吹雪を大量に観客に投げつけることが、ニースのカーニバルのパレードとの違いだ。学生ははしゃいで喜んでいたが、私は立ち通しなので疲れた。昨夜もニースのカーニバルに行っていたし。レモン祭カーニバルは40分ほどで見物から離脱し、展示会の会場に移動した。
展示会の会場の入場の際の荷物検査が厳重で、私の荷物を調べていた係員の女性が私のかばんのなかに入っていたリコーダーを問題にした。
「これはなんだ?」
「リコーダーです」
彼女はリコーダーのケースを開けると、リコーダーを取り出してそれを手に持ち、
「これで人を殴ったりできるだろう」と難癖をつける。
「いやこれは人を殴るためのものではなくて、演奏して音を鳴らす楽器だ。リコーダーですよ」
「だからこういうものでこうやって人をたたいたりできるだろう?」
「だから殴るためのものではなくて、吹いて音を鳴らすんですよ。あなたの国ではリコーダーで人を殴ったりするんですか? これは驚きだ」
あまりに理不尽な言いがかりだったので、からかってわざとこんな答え方をするとそのコントロールの女性は激怒した。
「こんなものはそもそもこうした場所に持って入ってはならないものなんだ」
「フランス人はリコーダーで人を殴るからですか? 殴るんじゃなくて、演奏するためのものなんですよ、リコーダーは」
とか言っていると、別の係員が見かねて「そうそう、これは楽器だから。おっけおっけ」と通してくれた。女性の係員はすごい目つきでこちらをにらんでいた。ああ、愉快愉快。
展示会場では末期的状況の簡易トイレで用を足したあとは、売店でオレンジ・レモンジュースを買って、座って飲んで休んでいた。
マントンからニースへの帰りの列車は大混雑だったが、なんとか座ることができた。ニース着は午後6時過ぎ。LGBTのLou Queernavalの開始は午後7時となっていたのでゆっくり飯を食べる時間がない。学生数名と中華のファストフードで夕食を取った。
公式カーニバルの会場を使ったLGBTの自主企画カーニバルは、2015年にも一度あったが、その後、テロのせいでカーニバルの警備体制やプログラムの見直しが行われたためか、継続的には行われなかった。今年はLou Queernavalと称し、新たにLGBTのカーニバルが行われることになった。無料だと思ったら5ユーロの入場料が必要だった。入場チケット売り場がかなり離れた場所に設置されていたのと、入場時の手荷物審査に手間り、私たちが入場できたのは午後8時前だった。学生でLou Queernavalに来たのは13名だった。公式のカーニバルのように巨大で手の込んだ山車や人形のパレードが次々とあるわけではない。入場時荷物チェックの手際の悪さのせいで、会場となったマセナ広場は私たちが入った時点でもガランとした感じだった。野外ステージでのクラブみたいな感じで、時折、仮装したLGBTの人が踊ったりする。入場者が増えるにつれ徐々に盛り上がってきた。プログラムはぐだぐだで散漫なところはあったが祭りということでは、公式のカーニバルよりもLou Queernavalのほうが解放感と自由さがあってはるかに「健全」で面白いと私は思った。学生たちもこの雰囲気を楽しんでいたようだった。
学生を連れての研修旅行で夜遊びさせるのは面倒くさいことが多いのだけれど、私としてはそれでもせっかく外国の街にやってきたのだから学生たちに夜遊び文化も楽しんでほしいと思っている。カーニバルだけでなく、レストランでの食事やコンサート、オペラ、ライブハウスなども。この夜遊びの面白さを遮断して、なんで大学生の研修旅行だという気が私はするのだ。もちろん大都市で夜出歩くことのこわさもこの機会に知ってほしい。もちろんある程度、賢い大人の学生でないとこうしたことはできないのだけど。
9時半に会場を出る。女子学生の送りを男子で分担して、解散。疲れた。明日から二週目。二週目はもっと穏やかに静かに過ごす。自分の勉強もしなくては。



2019/02/23ニース研修2019春8日目


研修8日目。
土曜日で学校の授業はないが、学校主催の遠足でカンヌに朝から行った。ガイドは舞台美術専攻を学んだ美しいダンサーのジョシア。初日に適当な送迎でわれわれを混乱させた語学学校のロシア人送迎係、イリアの妻だ。イリヤとは友達になってしまったし、生活・実務に向いていない芸術家が生計を立てるために語学学校の送迎を不器用にやっていると思うと、そのミスも許してしまっているのだが。

カンヌには列車で行った。ニースからは各駅停車で40分。駅や列車などではスリが多いので気をつけるよう、しつこく学生たちには注意をしていたのだが、カンヌで学生の一人が財布を紛失していることに気づいた。ニースでコーヒーを買った時に支払ったので、その後の駅か列車の中で紛失したということになる。紛失したのかスられたのかわからない。そんなミスをするタイミングはこの過程でなさそうなのだが。
「あれほどしつこく注意したのに、浮かれてるからだよ、ホントに」と心の中で思ったものの、日頃よくものをなくし、パスボート紛失の経験もある私には、そんな嫌味を言う資格はない。

幸い財布には現金20ユーロほどしか入ってなかったとのこと。後は銀行のデビットカード。デビットカードの引き落とし口座には使いそうになるたびごとに必要な現金を入金することにしていたそうで、そこにも数千円しか残高はないと言う。
ジョシアが駅に問い合わせをするが当然届いているはずもなく、紛失届を出しただけ。すられたことが明確なら警察にと言うことになるかもしれないが、どのみち現金は戻ってこないだろう。財布も古い安物だそうだ。

日本に連絡してカードの使用の停止措置を取る。金銭面のダメージはほぼないはず。ただ今後、彼女はこちらで現金を下すことはできないし、カードでのショッピングもできなくなってしまった。ニース滞在はあと一週間ほどだが、彼女はニースの後、大学が企画した研修にでロンドンに2週間滞在する。郵便局送金という方法もあるみたいだが、渡せる範囲で私が現金を貸すしかないかなと思った。

カンヌでまず市場に。南仏の町はどこの町にも市場が立つが、とりわけカンヌの市場は広大で活気がある。色とりどり鮮やか野菜果物だけでなく、チーズ、ソーセージ、オリーブ、惣菜、魚貝類などいろいろな食料品が並ぶ。

その後は高台にあり、町を一望できる12世紀の教会に行った。午後は船で20分ぐらいのところにあるサントマルグリット島へ。ここには鉄仮面が幽閉されていた牢獄がある。牢獄は博物館の一部になっていて、その周辺には19世紀に建てらた兵舎が並び、それが面白い景観をかたち作っている。
島では2時間ほどすごし、またカンヌの街に戻る。カンヌ映画祭の会場のバレ・ド・シネマの赤絨毯階段で写真を撮るつもりだったが、階段はゲームスェスの会場として占拠されていて、写真は撮れなかった。残念。

ニース着は18時過ぎに。この後、夜のカーニバルパレードを見物に行く学生のために、自転車を借りてチケットを買いに行く。

夜飯はニースのクスクス屋の中でも人気のあるシャルルの店に学生7名と言った。ここはクスクスも絶品だが、調理と給仕を担当するオヤジか冗談ばかり言って客を楽しませてくれる。私は一年ぶりの来店、学生たちは初クスクスだった。仔羊肉ロースト添えてクスクスを食べたがやはり実にうまい。クスクス粒とスープはおかわり自由でボリュームは満点。やはりこのどかっと出てくる感じがないとクスクスを食べた気がしない。
食後は甘いミントティーで締める。この店はみんとあもとても美味しい。

クスクスを食べ終えた後は、家に帰る女子学生二人をわたしはいったん送ってからカーニバルへ。カーニバルに行く学生たちとは後で合流した。学生たちは紙吹雪が舞うカーニバルの狂騒的な雰囲気を存分に楽しんだようだ。

11時過ぎにカーニバル終了。女子学生三組を家まで送ってから帰宅すると0時半だった。疲れた。

2019/02/22 ニース研修2019春7日目

ニース研修7日目。

今日で1週目の授業が終わる。昨日体調を崩して休んでいた子も授業に復帰。今日の午後は学校のプログラムはない。私の企画でマチス美術館とシミエ修道院に学生たちを連れて行った。2人の学生を除いて17人が参加。1人は公立図書館に行くと言う。もう一人は中国人留学生だが、彼女はマイペースで、敢えて一人でいることを選び、集団行動は最小限という感じ。私と話すのは苦手のようだが、他の学生たちとは普通に談笑している。
マチス美術館・シミエ修道院のある場所には路線バス一本、25分ほどで行けるはずなのだが、この路線の一部区間が工事中とのことで乗りたいバスに乗ることができなかった。歩いても30分ほどの距離なので歩いて行くことにしたが、シミエ地区はニースの高台にあって行きはずっと上り坂だ。汗だくになった。
最初はマチス美術館へ。ニースの美術館・博物館の大半は学生は無料で、日本人学生は日本の大学の学生証を見せればそれで入場できる。しかし例年マチス美術館だけは、日本語の学生証に難癖をつけ一般料金10ユーロを請求される。マチス美術館のためだけに1700円出して国際学生証を持って来させるのはなんかなあという感じで、毎年窓口で一所懸命にお願い、交渉して学生扱いを認めて貰っていた。
今年もそれをやらなくてはならないと思うと気が重く、今回は語学学校に事前に団体鑑賞の予約を美術館に入れてもらい、語学学校のサインが入った団体鑑賞の申込書を持参していった。これで今年はすんなり交渉もなく学生扱いにしてくれた。わたしも引率ということで無料。
マチス美術館はゆったりした作品配置と淡くて柔らかいオレンジの展示室の照明がいい。マチス美術館のあとは、美術館のとなりにある考古学博物館へ。こちらは日本の学生証を一人が見せればそれでオッケーだ。この博物館の屋外には広大なローマの入浴施設の遺跡がある。数々の風呂だけでなく、見世物をやる円形劇場も備えていて、まさに日本の温泉娯楽センターという感じ。
学生が別の外国人客と話していて、その外国人が合気道に興味があると言ったらしい。今回の参加者には体育会で合気道をやっている学生がいた。彼に古代ローマの風呂遺跡のただ中で合気道のデモンストレーションをして貰った。
考古学博物館のあとは、オリーブの木が植わった公園を抜けて、シミエ修道院へ。公園ではペタンクをやっているグループがいくつもあった。
ゴテゴテした装飾のバロック様式の教会を見たあと、修道院庭園へ。参加学生の中にケーナを持ってきている学生がいたので、この庭園で吹いて貰った。わたしはリコーダーを持ってきていたので、少し吹く。野外で響きが悪くてイマイチ。教会の中で吹けばよく響いていいだろうが、流石にそれは怒られそうなので。
夕飯は念願のマダガスカル料理。ラビトトという名前。マニホットの葉をすりつぶしたものと豚肉を煮込んだ料理。野菜類と一緒にご飯にかけて食べる。ブラバン家のこれまでの飯の美味しさから、マダガスカル郷土料理もいけるに違いないと思ったが、期待は裏切られなかった。実に美味い。激辛の唐辛子ペーストを少量加えると風味が増してさらに美味しくなる。この家の飯の美味しさは驚異的だ。また食い過ぎてしまった。

2019/02/21 ニース研修2019春6日目

ニース研修第6日。
新たに体調を崩した女子学生が一人出た。昨夕、吐いたらしい。まだ気分が悪いので学校の授業と午後の学校主催の遠足は休むとの連絡が入った。
慣れないフランスでの生活で、しかもホームステイで気を使って過ごすので、ストレスで胃の調子が悪くなる学生はこれまでもいた。私自身も到着して二日間ぐらいはお腹の調子が悪かった。
授業は4日目で私の介入することもなくなったはずなのだが、学校スタッフとの打ち合わせや片山企画の交通やチケット等の手配などで時間が細切れになってしまう。いろいろ手付かずの課題があって、午前中は自分の勉強に当てなくてはマズイのだが、なかなか集中してできない。
昼飯は学校のそばにあるカフェテリアで学生たちと一緒に食べる。このカフェテリアはうちの学校の他、周辺にあるいくつかの契約した官庁(近くに税関があるらしい)や企業のスタッフなどが利用できる共同学食みたいなところだ。昼食代は研修費用に含まれている。ボリュームがあってなかなか美味しい。
今日の午後はエズ村に学校の遠足で行った。南仏海岸には切り立った崖や岩山の上に建設された石造の要塞のような「鷹の巣村」がいくつかあるが、エズ村はニースに近く、観光地としてよく知られている場所だ。ニースからはバスで20分ほどで行くことができる。
学校のそばからバスで行ったが、出発が14時半と遅かったので、かなり慌たゞしい滞在になってしまった。山上にあり、眺望が素晴らしい素晴らしいエキゾチック庭園に30分、それから下に降りて18世紀半ばからある香水工房での香水博物館見学とショッピングで1時間。
学生たちは今回の旅行で知り合った者が多いのだけど、今のところみんな打ち解けている感じで仲良く楽しそうにやっている。「なんで彼らはこんなに屈託なさげに振る舞い、親しくなれるのだろう?」と思う。もちろん「無理矢理でも、フリだけでも親しくなろうとしたほうがうまく行くよ」という具合の誘導はしたのだけど。自分は彼らのようにこんな感じに馴染むことはできないような気がする。
エズ村への遠足から戻ってきてから、お腹の調子が悪くて休んでいた子を見舞う。ここの大家さんには会ったことがなかったので挨拶もかねて。体調を崩していた子は今日一日家で休んでほぼ回復したようだとのこと。昼ごはんは食べなかったが、夕食は取ることができると言っていた。見た目も元気そうだったので安心した。
家の夜飯はラザニアだった。ブラバン家の飯はわたしには危険だ。カロリーママ生活三ヶ月で減った体重がこの2週間でもとに戻ってしまいそうだ。私のために作っているかのように美味しい。しかもメニューが多国籍でバラエティに富んでいるし。
今日はブラバン夫妻の12歳の息子、エヴァンの友達とそのお母さんが夕食に招待されていた。エヴァンは家にいるときは通信ゲームにベッタリだが、今日は食卓でよく話していた。彼は話好きだし、冗談も好きな男の子だ。しかし私には彼の言っていることをほとんど聞き取れない。若者言葉のリアリティにこうして立ち会うことができるのはとても興味深いのだが。フランス語の日常会話については全く修行が足りないことを思いしらされる。
歓談で盛り上がる食卓を先に離れ、シャワーを浴びて自分の部屋に入る。食卓の談笑の声が聞こえてくる。「ああ、なんて幸せな家族なのだろう、ここは」と思う。

2019/02/20 ニース研修2019春5日目

ニース研修5日目。
クラス変更の学生のための手続きをまずやった。この手続きの承認を行う担当者が形式主義でちょっと面倒くさい。真面目で堅実に仕事はする人なのだけど。午後はカーニバルの花合戦に行くことになっていた。これは学校のアクティビティではなく、片山企画。学生19名のうち、13名が参加した。
カーニバル開始直前は混雑するので、午前中に14名分のチケットを購入しに行った。移動にはニース市内のレンタル自転車システム、vélo bleuを利用する。市内の数十箇所にある自転車ステーションで自転車を借りて返すことのできるシステム。パリにも似たようなシステムがあるはずだ。一方通行の道が多いのがちょっと大変だが、ニースぐらいの規模の都市では自転車の移動が一番効率がいい。vélo bleuは一か月で10ユーロで乗り放題だ。利用にはウェブでの事前登録が必要でフランス語がわからないとちょっとハードルが高い。また利用者認証のため、現地で使える携帯電話が必要となる。私は4年前からフランスの電話会社orangeのプリペイドsimを利用している。30ユーロで一か月有効で、通話と5ギガのデータ通信が可能。電話番号の維持には半年ごとにチャージが必要だが、このところ半年に一回はフランスに行く機会があるので。やはりフランスの電話番号が使えるとなにかと便利だ。今回はとりわけ到着当日に迎えのトラブルや病院付き添いで緊急の連絡を取らなくてはならなかったので。
ニースのカーニバルは大きく2つのプログラムからなり、一つは昼間に海岸通りで行われる花合戦、もう一つは夜にマセナ広場で行われる電飾パレードだ。フランスでは最も規模の大きいカーニバル祭で、ニースで始まったのは19世紀終わり。カーニバル自体は中世から肉食を断つ四旬節の始まる前日の灰の水曜日に貯蔵していた肉を食べ、大騒ぎをするという習慣はあったのだが、それを観光客向けのお祭りにしたのが19世紀末。このニースのカーニバルをもとにリオのカーニバルも始まったが、アナーキーなエネルギーと巨大さでは今ではリオの方がすごくなっている。
花合戦では花を一杯積んだ山車に乗ったきれいなお姉さんが、南仏の春を告げる花であるミモザを観客に投げるという趣向がある。
「カーニバルも見られるよ」と言って学生を集めていて、それを楽しみにしている学生が多いので毎年行っているが、正直見世物としては一度見れば十分の代物だ。観覧入場料を取ることもあり、完全に観光客向けのお祭りなのだ。内容は基本は山車のパレード。ねぶた祭のフランス版という感じ。しかしニースのパレードは無国籍インターナショナルで、時事ネタを扱った山車もある。祭は日本の伝統的なものの方がニースのカーニバルよりはるかにおもしろいものが多いと私は思う。
毎年2月後半に2週間行われる。毎日パレードがあるわけではなくて週末と週の中日の火水。カーニバルは椅子席もあるが椅子席は高いし、パレードとの距離があるので、祭っぽい熱気が弱い。盛り上げるための演出はあるのだけど。それで立ち見席を買うのだけど(12ユーロ)、これはずっと立ちっぱなしなのがつらい。パレード自体は80分ほどで一回りするのだが、その前に60分以上の待機時間があるのだ。しかもおそるべきことにカーニバル会場には簡易トイレさえない。夜のパレードはかなり冷え込むので大変だ。
非常勤先の教員室で一緒のテーブルの先生から貰ったタイ土産の帽子をニースで被ると約束していたので、カーニバルに被っていく。仮装というわけではないが、話しかけてきたり、写真を一緒に撮ってという人がいた。
カーニバルのあとは昨日、ネグレスコホテルに連れて行けなかった学生数名とまたネグレスコのバーとサロンへ。客室フロアに行くエレベーターがかっこよかったので、ホテルスタッフが見ていない時にそっと乗り込んで、客室フロアを見物した。各客室フロアの廊下や階段にも数々のの美術品が展示されていた。サロンも素晴らしいが、ホテル全体が美術館という感じだ。またフロアごとに展示や内装の統一イメージも変えていて、各フロアの趣向の違いも面白い。さすが高級ホテルだなあと感嘆。ただネグレスコは高級といっても一番安い部屋なら3万円程なので、気張れは庶民でも泊まれないことはない。ここに泊まる日本人観光客も結構いるようだ。
ホテルからの帰り、帰国子女の研修参加者2人を彼女たちの住む家まで送る。この2人は高くて鼻にかかった幼い感じの話し方をし、うち一人はファッション雑誌のグラビアから抜け出たようなネジのゆるいお嬢様みたいな浮いた格好なので、何となく「こいつら大丈夫かな」と心配していたのだが、
「先生は私たちのこと、頼りないと思っていると思うけど、私たち、二人でいるときは周りを気にしてサッサと歩いているんですよ。小さくて弱いアジア人の女の子だとからかって来る人がいるかもしれないと思っているから」と言う。
実際、彼女たちの歩くスピードはその印象とは違い快速だった。これなら確かに大丈夫だ。だてに海外暮らしが長くないなと思った。
他の日本人学生は彼女たちに比べるとその町歩きぶりはやはり全然緊張感が足らない。のほほんとし過ぎていて、私はヤキモキする。
家での夜飯は、ベトナム・中華風の汁麺だった。美味い。こんなにバラエティに富んだ夕食を出す家庭はそうそうないだろう。

2019/2/19 ニース研修2019春 4日目


ニース第4日目、授業は2日目。特にトラブルのない平穏な日だった。
レベルのもっと高いクラスに移りたいと言う学生が3名いた。もっとフランス語ができるようになりたいと言う意欲の現れだ。「日本人のグループでたかが2週間ほどの語学研修なんて観光気分の遊びじゃないか?」といった見かたもあるかも知れないが、短い期間であってもそれ決定的な意味を持ちうる濃厚な体験になることもある。
私にとってフランス語教育学会の推薦で参加したケベックでの3週間の教授法研修、ニースでの2週間の教授法研修は、自分の人生における選択に影響する大きな経験となった。
今日の午後は学校のプログラムで、ニース現代美術館に行った。今回、我々のグループを引率してのは若くて美しい女性のジョシアだった。昨年8月からこの学校の文化的活動担当者として働き始めたとのことで、私とは初対面だった。可愛らしくて、しかも話し方も実に明瞭でスマートだ。昨年までは学生だったという。何を専攻していたのか聞くと、舞台芸術とのこと。ダンサーとして舞台に出演するするだけでなく、美術や衣装のデザインも行うと言う。そして彼女はこの学校で送迎係のバイトをしているロシア人音楽家、私が昨日空港送迎の車に同乗したイリヤの妻だった。
イリアの妻となると、昨夜のイリヤの話ではモナコの劇場でバレエを踊っているはずなのだが、彼女に聞くとそれはイリヤの前の奥さんのことだった。私のフランス語聞き取り能力はかなり問題がある。
大学で美術史も専攻したジュシアの美術館での英仏語での説明は聞き応えがあった。ニース現代美術館の目玉は常設展示のニキ・ド・サンファルの作品とニース出身のイヴ・クラインの作品だ。クラインは青のモノクローム作品で名高いが、赤一色の作品もあった。その隣で写真を撮る。
現代美術館のあとは学生数名を連れてニース随一の高級ホテル、ネグレスコホテルのバーでお茶を飲み、ホテルの大広間を見学した。この大広間の空間の贅沢さを見せたかったのだが、2019年に入ってから大広間の半分をレストランにしてしまうという無粋な愚行をホテルが始めていた。ホテルの内奥にガランとした広大な空間がある贅沢さこそ素晴らしかったのに。
ホテルを出てから、ホテル前の海岸でしばらく景色を楽しむ。現代美術館の屋上テラスからの眺めも海岸から見る眺めも本当に美しい。
「ニースは街の風景自体がアートなんですね」と学生の一人が言っていたが、まさしくそうだ。ニースの町の造形美は20世紀始めに完成されたものだ。ベルエポック期のフランス人の自然の景観を生かした都市建築美学の見事さは驚くべきものだ。
ブラバン家の今日の夕食はあっさりめ。モナコの名物の揚げ物料理、バルバジュアンの乗ったサラダ。ドレッシングの味が絶妙だった。これにプラスしてパンとフォワグラ。
12歳のエヴァンは家にいるときは、ゲームばかりをやっている。何か話しながらやっているので、ゲームの人物になりきって話しているのかと思えば、友達と通信対戦みたいなことをやっているらしい。
ギヨームとマニアの夫妻はよく会話する夫婦だ。まだ三十代後半の夫婦だと思うのだが、「大人」としての振る舞い方が身についているのにも感心する。ちゃんと自分を律している感じ。疲れてイライラしてケンカするなんてことは滅多にないのだろう、この夫婦は。
マニアは家事も仕事も完璧にこなすスーパー母さんだ。ギヨームも家事を厭わない。いつも静かな笑顔の温厚な男性だ。