2020年3月15日日曜日

2020/03/14 パリ

一ヶ月にわたるフランス・アイルランド滞在の最終日だ。昨日の午後に100人以上の集会が禁止されてしまったので、今日の午後に見る予定だった公演がなくなってしまった。私が予約した公演だけでなく、ほとんどの公演が昨日午後の通達によって、なくなってしまった。演劇などのスペクタルだけではない。美術館、博物館も、エッフェル塔などの観光名所も封鎖された。国立図書館も閉館だ。

ホテルのチェックアウトは朝10時だが、飛行機は夜9時過ぎだ。昼飯を食べた後、芝居を見て、夕方になったらタクシーで空港に行って早めにチェックインしようと思っていたのだが、午後の時間が空白になってしまった。

昼はパリ在住で俳優・ダンサーとして活動している外間結香さんと13区のフォー屋で飯を食べる約束をしていた。このフォー屋はこの近所に住む彼女行きつけの店で、私はパリで彼女に会うときはこの店でという感じになっている。牛肉薄切り肉をしゃぶしゃぶのように汁に浸して食べるフォーが名物で、彼女も私もいつもこれを頼んでいる。
話はやはりコロナウイルスがもたらす影響(彼女の仕事もキャンセルになった)と見た演劇や映画についていろいろ。フォー屋の後はカフェで1時間ほど話をした。

彼女と別れた後はどこに行くあてもない。店は空いているので、本屋でも寄って時間を潰そうかと思い、とりあえずイタリア広場からゴブラン通りを下った。ゴブラン通りはプレヴェールの「日曜」という詩に出てくる。この詩は教材として授業で使うので通りの写真でも撮っておこうかと思ったのだ。するとゴブラン通りに大量の警察官が待機していて道を塞いでいる。後で分かったのだが、ジレ・ジョーヌ(黄色いチョッキ)の大規模なデモがあったようだ。
この辺りに尿意を催して、どうにも我慢しがたい状況に陥った。あたりに万人に開放されたトイレはない。ホテルまで一旦戻ろうかと思ったがとうてい持ちそうにない。近くのカフェに入り、カフェとトイレを注文した。カフェは1ユーロ20サンチームだった。
トイレから出たあとカフェでGoogleマップを調べてみるとすぐ近くに映画館が二軒あり、どちらも営業していることがわかった。10分後ぐらいに『聖体拝領』というポーランド/フランス映画の上映がそばの映画館であることがわかり、観客の評価も高いのでこれをら見ることにした。ポーランドの田舎の教会で少年院を出た不良少年が司祭代理を務める羽目になる話。司祭という権威を背景に、因習に囚われない少年司祭が村社会の闇に切り込んでいく。信仰とは何かという問いかけが少年と村人たちの関係から浮かび上がる。渋い映画だった。
映画を見たあと、スーツケースを預けていたホテルに戻るとちょうど良い時間になっていた。ホテルのフロントに空港行きのタクシーを呼んでもらう。タクシーの運転手が優しそうなアジア系のおじさんだったのでちょっとホッとする。
土曜の夕方でいつもは渋滞する空港までの道は空いていた。

2/14(金)に日本を出て3/1(日)まで学生たちとニースに滞在。その後3/1(日)から3/9(月)までがアイルランド、3/9(月)から11(水)がグルノーブル、3/11(水)から3/14(土)までがパリ。

長い一ヶ月だった。実際の滞在期間よりさらに長く感じた。フランスに一ヶ月前に入国したときは、フランスではコロナウイルス感染は確認されておらず、日本人がこの感染症と結びついた差別の対象になるのではないかと思っていた。私にはなかったのだが、ニース 研修中には学生の中には「コロナ!」と罵声を浴びた者がいた。それが一ヶ月後の今はコロナウイルス感染についてはフランスの方が日本よりはるかに緊迫した状況になっていて、フランスからの帰国者がコロナ差別の標的になっているような状況のようだ。

ニースにいた頃は2週目には北イタリアでの大量感染者の確認があり、こちらのテレビニュースでの緊張感が増した感じはあったのだが、それでも日本でエスカレートしていくコロナ騒動は別世界の出来事だった。

ニース研修では例年2-3名は体調を崩し、病院に連れて行くことが多いのだが、今年は幸い発熱などがあっ参加者は出なかった。アジア人で発熱となると相当警戒されることを覚悟しなくてはならないだろうと思っていたのでほっとした。
フランスでのコロナウイルス感染が一気に深刻な状況になったのは私がアイルランドに滞在している9日間のあいだだった。

海外で一ヶ月ぐらい過ごしていると、ずっと絶好調でいるのはけっこう難しい。しかし今回の旅については体調を崩したら大変面倒なことになるのは間違いないので、のほほんと楽しく旅を楽しみつつも、体調管理にはそれはそれは神経を使った。強迫観念のように風邪ひいたらあかん、と思い続けていたのだ。早寝早起きの健康的な規則正しいまともな生活を送った一ヶ月だった。よく歩いて運動もした。

帰国後は2週間は大人しく引きこもるつもりだが、体調を崩すことなく一ヶ月を過ごせてホッとしている。こんなに一ヶ月を長く感じたことはない。コロナウイルスを巡る状況の急変だけでなく、いろいろなものを見て、いろいろなことを経験した密度の高い一ヶ月だった。

美味しいものをこんなに食べ続ける旅になったのは想定外だった。
断食の時期の四旬節に入ることもあり、ダイエットも兼ねた節制の旅になるはずだったのだが。


2020年3月14日土曜日

2020/03/13 パリ

午前中はヴェルサイユ宮殿に行った。
ヴェルサイユ宮殿はフランス観光の定番中の定番であり、フランス留学中は日本から知り合いが来るたびに連れて行った場所だ。ただ最後に行ったのは17年前だ。いや、ベルサイユ宮殿内のオペラ・ロワイヤルでのコンサートやオペラには2、3回、そのあとに行っている。スペクタクル目当てなので宮殿と庭園は見なかったが。

ヴェルサイユ宮殿はいつ行ってもチケットを購入したり、入場したりするのに長時間並ばなくてはならないが、コロナウイルス感染が問題になっている今ならすぐ入れるのではないかと昨日思い、ネットから予約していた。
NHKテレビフランス語講座『旅するフランス語』のテクストで、「城を巡る旅」という連載コラムを担当していた身としては、やはりフランスの城のなかの城であるヴェルサイユ宮殿はもう一度しっかり見ておきたかった。また翻訳中のラ・フォンテーヌの『プシシェとキュピドンの恋』の記述にもヴェルサイユ宮殿から想起された箇所が多数あるので、それも確認しておきたかった。

ヴェルサイユ宮殿にはRERのC線を使って行った。パリ市内13区の端の私の宿からは一時間ほどで行ける。事前にネットで電子チケットを購入したこともあって、宮殿への入場はスムーズだった。ただ城内にはけっこう観光客がいた。日本人の観光客もかなり多い。この時勢でもフランスに旅行に来る人がいるのだ。と人のことは言えないが。私の場合はフランス入国は2月15日で、フランス国内でのコロナウイルス感染がまだ報告されていない時期だった。この一ヶ月でこれほど事態が激変すると予測できた人間はいないだろう。

宮殿内を1時間ほど見学し、庭園を1時間ほど見学する。とにかく広大で豪奢、そしてごてごての装飾が悪趣味なところだ。一度は訪れる価値のある観光地であることは間違いない。しかし私にとっては一度くれば十分だ。17世紀の文化の基調はバロック的なものなのだと思う。しかしヴェルサイユ宮殿の装飾美学には、バロック的な自由な逸脱を抑え込もうとする古典主義的な抑制が覆いかぶさっている。それが装飾から生気を奪っているような気がした。

パリに戻ったのは二時半ごろ。美術館かどこかに寄ろうかとも思ったが、疲れていたので宿舎に戻った。しかし今日、ちょっと無理してでもどこかに行ってしまうべきだったかもしれない。午後2時すぎに「100人以上の集会が禁止」される通達が政府から出されて、ほとんどの劇場、美術館などの閉館が決まったからだ。それまでは1000人以下だったのが、いきなり十分の一の100人以下の規模になってしまったのだ。
最終日の明日の午後にはミュージカル公演のチケットを予約していたがそれも中止になった。パリを発つ飛行機は夜の便だが、それまでやることが全くなくなってしまった。公演を散歩するぐらいしかない。まあ仕方ない。

宿舎で1時間ほど眠る。夕方はパリ国際大学都市の韓国館の館長をやっているソン・セギョンさんと夕食を取る約束をしていた。彼とは4年前にニースでのフランス語教員研修で出会った。当時から大人の風格が彼にあり、韓国人教員のグループとこのグループにくっついていた私のボス的存在だった。このときは娘もニースに連れて行ったのだが、娘も彼にかわいがって貰った。
当時彼は明洞の高校の校長先生だったのだが、一年半前からパリ大学都市の韓国館の館長と在フランス韓国大使館の教育担当官としてパリに赴任していた。FBではつながっていたが、出世してえらくなってしまったし、あまりに忙しそうな様子だったので、連絡を取るのを遠慮していたのだが、「パリに来るんだったら、声をかけて」と彼のほうからメッセージをもらったので、今回連絡を取ってみた。
やはりとんでもない激務のようで、とりわけ一月以降はコロナウイルス関係の対応が大変だったに違いない。そんななかでもこうして会う機会をわざわざ作ってくれるのはとても嬉しかった。
韓国館内のレストランで韓国料理をごちそうになった。



2020年3月13日金曜日

2020/03/12 パリ

午前中はバスティーユに映画を見に行った。
今、フランスの女性のあいだで大人気というノエミ・メルランが主演の歴史映画『火のなかにいる若い女性の肖像』Portrait de la jeune fille en feuを見るためだ。この女優についても、映画についても私はまったく知らなかったのだが、パリ在住の女優の竹中香子さんから昨日教えてもらって見に行くことにした。竹中さんも一緒に見る予定だったのだが、彼女に急な用事が入ったので私ひとりで見に行くことになった。
時代は18世紀末、主人公は女性画家でブルターニュの島にとある貴族の娘の肖像画を描くために赴く。この女性画家と一筋縄にはいかない貴族の娘の関係を描いた映画だ。フランス内外で高い評価を得て、カンヌ映画祭の脚本賞をはじめかずかずの賞を獲得している。

映画のあとは竹中さんと昼飯を食べた。グーグルマップでポルトガル料理というのが表示されていて気になったので、その店に食べに行くことにした。私も竹中さんもはじめてのポルトガル料理で何をどのように頼めばいいのかわからない。幸いメニューは写真付きだったのでどんな料理なのか見当をつけることができる。エビと肉の串焼きを注文したが、そのサイズが思っていたものの3倍くらいあったので驚いた。
こんなたくさん食べられるのだろうかと思ったが、食べてしまった。塩コショウのシンプルな味付けだが、にんにくもたっぷり。美味しかった。
昼飯のあとは、近所にある竹中さんおすすめのケーキ屋にいって、モンブランを購入する。購入後、彼女と分かれて、一度宿舎に戻る。宿舎でモンブランを食べた。絶品ではあったが、スプーンがないので困った。宿舎のカフェテリアで借りようと思ったら、カフェテリアが閉まっていて借りれなかったのだ。ケーキの紙の箱の一部を折り曲げて、スプーン代わりにして食べた。

夜はオデオン座にイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、イザベル・ユペール出演の『ガラスの動物園』を見に行く。新国立劇場での上演も予定されているプロダクションだ。今、ヨーロッパで大人気の演出家であるホーヴェ演出で、フランスを代表する名優、ユペール主演、そしてテネシー・ウィリアムズの名作となれば、面白くならないわけがない。ただ期待していたほどには面白くなかった。ユペールのような大女優と作品を作ることの難しさを感じさせるような舞台だった。ユペールの「名演」に作品全体が振り回されているような印象を持った。きっちり書き込まれた脚本に、演出が食い込めなていない。ユペールの演じるエキセントリックでテンションの高いアマンダの暴走が前面に出て、それが芝居全体を支配している。
二幕で登場するアイルランド系のジムを黒人中年男性俳優にやらせるという仕掛けにはちょっとやられたなという感じはあったが、全体的にホーヴェにして中途半端で切れ味の鈍い演出だった。
個人的には昨年に見た文学座の『ガラスの動物園』のほうにはるかに深い感銘を受けた。ただユペールの芝居としてみると、楽しめなかったわけではない。

今、フランスでは1000人以上の集会はコロナウイルス感染の拡大防止のため禁止されていて、オデオン座は微妙なところだったが上演は維持された。会場もほぼ満員だった。私の席はサイドの一番奥のボックス席だったのだが、開演直前に「正面席に空きがありますので、もしよければそちらに移動してください」と客席誘導スタッフに言われ、いい席で見ることができた。こういうところはフランスの劇場のいいところだ。

2020年3月12日木曜日

2020/03/11 パリ

グルノーブルからパリに移動した。

10時19分グルノーブル発のTGVに乗車した。TGVのチケットはiOSのアプリで予約できて、プリントアウトする必要もない。TGVのチケットは同じ日でも何時の列車を選ぶかで値段がかなり違うのだが、私の乗車したTGVでは2等車と1等車で値段が6ユーロしか変わらない。1等車を購入した。パリまで78€。550キロぐらいあるので、日本の新幹線に比べるとかなり安い。

一人席を選んだら、向かい合った前の座席に知らないおじさんが座って気まずかったが、おじさんはじきに空いていた座席に移動した。グルノーブル発パリ行きTGV一等車はかなり空きがあった。

パリのリヨン駅には午後1時すぎに到着。宿は13区の端にある研修センターみたいなところだ。スーツケースが重いのでタクシーを使った。
宿にチェックインする際にクレジットカードで決済しようとしたら、端末が決済を拒否して支払いができなかった。別のカードを使っても同じ。フランスでクレジットカードを使うとちょくちょくこんなことがある。歩いて5分ほどのポルト・ディタリーに行けばATMがあると言うので、そこまで現金をおろしに行く。カードの問題でまた処理ができなかったらどうしようかと思ったが、銀行のデビットカードで出金できた。やはりカードではなく、ホテルの端末の問題だったようだ。
お金をおろしたあと、スーパーに入って水と食料品を購入する。

ホテルの部屋にはいったらまず昼飯。さっきスーパーでかったビスケットとソーセージを食べた。ご飯を食べると眠くなってしまった。今日の用事は午後8時開演の芝居だったので、1時間ほど眠る。

夜はオデオン座アトリエ・ベルティエに『ペレアスとメリザンド』を見に行った。演出はJulie Duclos。ドビュッシーのオペラで有名な作品だが、私はこれまでこの作品を舞台で見たことがなかった。オペラ版はロラン・ペリ演出、ナタリー・デセ出演のDVDは見たことがある。
コロナウイルス対策で1000人以上の集会はフランスではできなくなっている。ベルティエはたぶん500人ぐらいでこの禁止事項にひっかからないか、コロナウイルスで観劇を控えたひとがいたのか、客席には空席が多かった。開演時間になると劇場スタッフが「空いた席に移動してかまいません」と言ったので、私は最前列中央の席に移動した。

ジュリー・デュクロ演出の『ペレアスとメリザンド』は素晴らしい舞台だった。洗練されたセノグラフィと映像の使い方は、今のフランス演劇の演出の潮流にあるものだが、その卓越した現代的センスの舞台で、戯曲の世界を丁寧に展開させていた。戯曲をほぼ忠実に再現した舞台だった。前後に移動する二階建ての舞台美術と紗幕に映し出される映像とのコンビネーション、ニュアンスの豊かな照明が、テクストの象徴的な要素を効果的に浮かび上がらせている。テクストを読んでイメージした世界が、精緻な演出によって見事に具現化されていた。

夜は食べないつもりだったのだが、最寄り駅のポルト・ディタリーのそばにあるケバブ屋が営業していた。「店で食べていいか?」と聞くと「もちろん」という返事。
骨付き羊肉の定食を頼んだ。ケバブ屋の定食は安くてうまい。骨付き羊肉を焼いただけのシンプルな料理だけれど、肉の旨味が濃くて実においしい。この手のケバブ屋は、夜遅くまで開いているし、うまいし、安いし、一人で入りやすいし、スタッフも感じがいい人が多いし、一人旅には実にありがたい存在だ。

飯を食っていると、白人のおばさんが「トイレを貸して」と店に入ってきた。店のおじさんが「貸してもいいけど、なんか購入してくれ」と言うと、「わかった、あとでなんか買うから。とにかくトイレ」と言って、地下のトイレに行った。
ところがこのおばさん、トイレを使い終わったあとは、「それじゃあね、ありがとう。さよなら」と何も買わずに出ていってしまった。
おじさんは苦笑いしていた。

2020年3月11日水曜日

2020/03/10 グルノーブル

グルノーブル二日目。ホテルの向かいにコインランドリーがあったので、朝食の時間を利用して洗濯した。
明日は午前中の列車でパリに戻るので、グルノーブルを観光できるのは今日だけだ。ところが火曜日の今日はグルノーブルのほとんどの美術館・博物館は休館だった。ドキュメンタリー映画「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」(2006年)が近くになるのだけれど、一般人が見学できるグラント・シャルトルーズ博物館もシーズンオフで休みだ。

市内で開いている観光ポイントは教会ぐらいしかない。とりあえずグルノーブル大聖堂に行ってみた。町の他の建物と一体化していて、外観は大聖堂にはみえない。10世紀から建築がはじまったとあったが、古い部分はごく一部なのだろう。内部もふるさを感じなかった。
大聖堂に隣接して旧司教区博物館があってここは開いていた。しかも無料。古代ローマ時代に遡るこの地域の歴史を示す博物館だが、特別展でヴィヴィアン・マイヤーというアメリカの女性写真家の写真展をやっていたのでそれも見た。ベビーシッターとして働きながら、街角の人々のポートレイトを大量に撮ったアマチュア写真家で、その死後にその写真が世に知られるようになったという。彼女についてはこのページに詳しい。
https://www.artpedia.asia/vivian-maier/

この博物館を見てしまうと、もう他に開いている美術館/博物館はない。グーグルマップで「観光ポイント」にあげられていたヴィル公園に行ってみたが、文字通り単なる「町(ville)の公園」で特にみるべきものはない。今日は小雨も降る寒い日だったので、屋根のあるところに行きたかった。屋根があって、座れて、時間を潰せるとなると教会しかない。大聖堂と同じくらい古いサン=アンドレ参事会教会、17世紀の建築のサン=ルイ教会を巡った。信者の方が数名座って祈っているだけで、他に誰もいない。いったい観光客は今日、どこに行っているのだろう?

昼ごはんはパリ在住のソプラノ歌手、高橋美千子さんと取る約束をしていた。彼女は今日と明日、グルノーブルの劇場での公演に出演する。今回私がグルノーブルに寄ったのは、彼女が出演するバンジャマン・ラザール演出『エプタメロン』を見るためだった。
昼食のレストランは高橋さんが予約してくれていた。グーグルマップを見ると「高級」とあるフランス料理屋だ。19世紀に建築された邸宅を改築した洒落たレストランだった。こういう店は私ひとりではまず入ることはない。さすがクラシックの歌手となるとこういう洒落た店を知っているだなあと感心する。

ランチのコースを頼んだ。夜はかなり高そうだが、ランチのコースは町のブラスリーとそんなに変わらない。店の空間にふさわしい素晴らしい料理だった。ふだんは私はデザートは取らないのだけれど、今回はデザートを取って正解だった。レモンケーキなのだけれど、酸味と甘みのバランスが絶妙だ。生姜が入っているというソースが複雑で繊細な味わいを作り出している。ウエイターのサービスもとても感じがいい。会話を楽しみながら、素敵な空間で、おいしい料理を食べるという至福の時間を過ごすことができた。

昼食後、高橋さんと別れ、グルノーブル名物のロープウェイに乘って山上の要塞に行く。要塞からの眺めは素晴らしかったのだが、寒かった。観光客の姿はわたしのほか3人ほど。要塞付近のレストランや博物館などもことごとく休業だった。風がつよくてロープウェイのゴンドラがゆらゆら揺れるのが怖かった。

要塞から降りて、一度ホテルに戻る。
夕食はケバブ。グーグルマップで「グルノーブルで一番のケバブ」の評があるケバブ屋が、『エプタメロン』公演会場の近くにあったのでそこで食べた。店員が「シェイシェ」と言ったので、「私は日本人だからしぇーしぇーではなく、ありがとーと言ってくれ」と言うと「おれ、日本のマンガの大ファンなんだ。ドラゴンボールとか」といくつかのマンガやアニメのタイトルを挙げる。日本のマンガ・アニメはインターナショナルだ。
ケバブ屋の兄ちゃんはトルコ人だった。ケバブはグーグルマップの評通り、ボリューム満点で美味しかった。

『エプタメロン』は、語りの外枠をマドリガルの合唱に置き換え、音楽の枠組みのなかで『エプタメロン』のなかの挿話だけでなく、語り手の個人的な物語、『デカメロン』の挿話などが、語り・演じられるというスペクタクルだった。音楽劇としてはかなりユニークなものだ。合唱の歌手たちも俳優として挿話のなかに入ってくる。しかしその介入のしかたはギリシア悲劇のコロスとも異なる。
バラバラの挿話が、16世紀末から17世紀はじめのイタリア歌曲によって統一感のある世界を作り出している。舞台上で使われる映像も挿話と音楽と象徴的に結びつく。独立性と密度の高い挿話が音楽によって総合され一つの世界を作り出していく構造はフェリーニの映画も連想させるものだった。同じ手法で、オウィディウスの『変身物語』やヤコブス・ヴォラジネの『黄金伝説』などもできそうな気がする。
高橋美千子さんの使い方があざとい。天才的。彼女がフィーチャーされるシーケンスは、その演出的仕掛けゆえに、フランス人観客にはとりわけショッキングで印象的なものになっていた。

終演後、初日打ち上げに30分ほどおじゃなして、バンジャマン・ラザールと少し話をした。2ショット写真も撮った。

2020年3月10日火曜日

2020/03/09 グルノーブル

ダブリンを午前中に発って、フランスのグルノーブルに移動した。
朝はホテルのアイリッシュ朝食で腹を満たす。ホテルの近くに空港行きのバス停があるのでそれを利用したが、渋滞でなかなか来ない上、満員で立ったままだった。バスの乗車時間は40分ほど。ダブリンからリヨン行きの飛行機に乘った。飛行機会社はエア・リンガス。フライトは3時間ほどだったが機内ではほとんど寝ていた。
正午前にダブリンを発って、リヨン空港に着いたのが15時過ぎ。リヨン空港からグルノーブルまでは一旦リヨン市内に入り、そこから鉄道でグルノーブルに行くつもりだったのだが、Google mapで調べると空港から直接グルノーブルに向かうバスがあることがわかる。
3時過ぎにリヨン空港に着き、バスの出発が3時半とちょっと慌ただしかったが無事乗ることができた。リヨン空港からグルノーブルまでは一時間だ。案外近い。

リヨンにもグルノーブルにもこれまで行ったことがない。グルノーブルは思っていたより大きな町だった。アイルランドのゴールウェイ、スライゴーといった地方都市が、東武東上線上の「町」ぐらいの規模だったので、グルノーブルがよけい都会に思える。調べてみるとグルノーブルは人口15万ぐらいで、スライゴーの10倍ぐらいの規模の町だ。フランスの代表的な地方都市の賑わいというのはこんな感じなのだ。といっても練馬区の人口が70万人なので、フランスの地方都市はそれに比べると数分の一の人口規模なのだが。

ヨーロッパの地方都市というと私はフランスの都市しかほぼ知らないのだから、アイルランドのスライゴーの小ささを意外に思ったのだ。

グルノーブルのバス・ステーションは鉄道の駅のすぐそばにあった。鉄道駅やバス・ステーションは、フランスではたいてい町の中心地ではなく、はずれた場所にある。私が予約した宿は町の中心に近い。距離は1.3キロとグーグルマップで表示された。スーツケースのキャスターの一つが壊れかけていて、石畳の箇所などは気をつけて運ばなければならない。もう少し距離があるとタクシーを使うのだけれど。ゴロゴロとスーツケースを転がして、ホテルに歩いていった。

ホテルはおととい、booking.comで予約した場所だ。なるべく安くて、評価の高いところを選んだ。Hôtel Victoriaという古風な名前のイメージそのままの、古びた旅籠屋っぽい宿だった。エレベータはない。私の部屋は日本風の三階。古ぼけた宿だけれど、部屋が広くて、電灯が明るいのがありがたい。使える電源コンセントが一箇所だけというのが不便だが。古いけれど、掃除は相当丁寧にやっていることがわかった。まあ悪くない。

夜はやはりGoogle mapで見つけたチュニジア料理屋に行った。前菜にショルバという魚の出汁のスープ、主菜が骨付き羊肉と串焼きを添えたクスクス、デザートがチュニジアの菓子。これにミントティをつけた。25ユーロ。非常においしかった。ショルバははじめて食べたが、出汁と複数のスパイスが絶妙に混じり合っていて、味わいが深い。クスクスはオレンジ色のスムールの味がよかった。スムールだけを食べて「おいしい!」と思った。
おじさん一人のワンオペだったが(クスクス屋はおじさんのワンオペが多いような気がする)、静かに丁寧に話す人でそのサービスも感じがよかった。
アイルランド飯も悪くなかったけれど、同じようなものしかないのが難点だ。フランスはフランス料理はもちろん素晴らしいが、それ以外にもいろんな国と地域の料理が楽しめるのがいい。

2020年3月9日月曜日

2020/03/08 ダブリン

ダブリン2日目。明日の朝にフランスに飛ぶのでダブリン観光の日は今日しかない。ダブリン観光の超定番といえるところを回ろうと思ったのだが、日曜は美術館・博物館の類の開館時間が遅い。そして閉館も概して早い。
フランス語のガイドブック、Guide du routard での評価を参照して回るところを探す。立ち寄りたい場所の多くは午前11時以降にしか開かない。とりあえずリフィー川の南側にあるセント・ステファンステーキ ・グリーンに行くことにした。単なる公園なんだがGuide du routard では高評価が付いていた。
移動にはレンタル自転車を利用した。ダブリンの観光ポイントを回るにはやはり便利だ。昨日レンタル登録手続きをしておいてよかった。

セント・ステファンズ・グリーンはまあ楽園的にのどかで綺麗でいいところではあった。ただ特筆すべき観光ポイントかというとそうでもない。Guide du routardは、レストランとホテルの評価はおおむね信頼できるのだけど、観光ポイントの評価は微妙だ。日本人とフランス人の観光の感覚の違いを感じることがしばしばある。

ナショナル・ギャラリーに行くことは決めていたので、ギャラリーが開館する11時ごろまで公園で40分ほど時間を潰した。ナショナル・ギャラリーは、Guide du routardで星3つの最高評価。展示作品が豊富で見応えがあった。アイルランドの画家以外にヨーロッパの大家の作品もかなりあった。スペインこバロック期の画家ムリーリョの《放蕩息子の譬え》の連作は特に興味深かったが、イエイツの弟、ジャック・イエイツの絵が特に気に入った。フォヴイスムの画家、ヴラマンク風のタッチで書かれた人物画など。イエイツの家は父親も画家だし、確か姉も画家だったはずだ。ジャックの絵はスライゴーのイエイツ記念館で、水彩とペンによるイラストが何点か展示してあっていい絵だなと思っていたが、ヴラマンク風の油絵は違った雰囲気だがとてよかった。表現主義的でムンクっぽい雰囲気もある。

朝飯はホテルでボリュームたっぷりのアイリッシュ朝食だったので昼飯は取らず、ナショナル・ギャラリーのあとは、アイルランド最大の教会である聖パトリック大聖堂に行った。日曜はミサがあるためか、大聖堂の一般開放時間が変則的だ。10時半で一旦閉まり、次に開くのが12時半から2時半の2時間になる。

聖パトリック教会は11世紀に建築が始まったとあったが、造りはあまりふるさを感じない。フランスのゴティック様式教会のようなゴテゴテ感があまりない。入場料が必要というのもフランスの教会と違うところだ。
実は聖パトリック大聖堂に着くまで、その名称からこの教会はカトリックだと思いこんでいた。ダブリンにあるもう一つの大きな教会、クライスト・チャーチがアイルランド国教会に属し、聖パトリック大聖堂はカトリックなのかと思っていたのだ。実際には聖パトリック大聖堂もアイルランド国教会、すなわちプロテスタントの教会だ。聖パトリック大聖堂のなかでググってみると、アイルランドはカトリックがマジョリティにもかかわらず、その首都ダブリンにはカトリックの司教座は「臨時」のものしか置かれていないことがわかった。

信者ではないが研究上の関心からカトリック贔屓の私はこうしたことを知ってしまうと、聖パトリック大聖堂のありがたみがとたんに薄れてしまった。

聖パトリック大聖堂のあとはトリニティ・カレッジ図書館に行った。ここは日曜は正午開館で午後4時半に閉まってしまう。ケルズの書で有名なところだが、ケルズの書の本物は展示されていなかった。ケルズの書や他の中世写本の挿絵については、パネル展示の部屋で詳しく解説されているが、原本はない。ケルズの書の複製は二階の「長部屋」に提示されていた。ケルズの書の本物は見られなかったけれど、二十万冊の書籍が書棚に収納されている長部屋の長大な空間は圧巻だった。両側の本棚にびっしりならぶ重厚な装丁の古書の威圧感がすごい。

トリニティ・カレッジを出るともう午後4時を過ぎていた。この時間から見られる場所は限られている。リフィー川沿いの繁華街、テンブル・バー地区にアイルランド・ロック博物館というのがあり、Routardで推していたのでそこに行くことにした。行ってみるとガイドツアーしかやっておらず、自由に見て回ることができないという。「ゆっくり説明してくれるんだったらわかると思うのだけど」と言うと、「大丈夫」ということなので申し込むことにした。ガイドツアーは約一時間ごとにある。ツアーで回ったのは、私以外はバンドをやっているというアメリカ人の4人組とフランス人老夫婦とその息子の3人、そして私の計8名だった。ツアーの時間は90分ほどだったが、ガイドが早口で半分くらいしかわからない。名調子で朗々と語るタイプの解説だった。フランス人老夫婦もよく理解できていない様子で、息子が適宜フランス語で説明していたが、情報量が多くて息子のフランス語訳も簡単なレジュメという感じ。アメリカ人4人はガイドツアーを楽しんでいた様子だったが、私はかなりつらい90分だった。ツアーが終わった後、フランス人老夫婦にフランス語で話しかけると、向こうの表情が明るくなり、生き返ったような感じに見えた。
またアイルランドに来たいので、英語はもっとちゃんと学習しておきたい。とりあえず観光旅行での最低限のコミュニケーションはなんとかなるのだけれど、もうすこし滞在を深く楽しめるようになりたいものだ。

ロック博物館のツアーが終わったのが夕方6時。あと近くで開いているのは国立の蝋人形館だ。蝋人形館はRoutardでは紹介されていなかったが、Google mapでひっかかった。夜10時まで開いている。蝋人形館は東京にもパリにもあるがこれまでわざわざ入ったことはなかった。なんとなく興味はあったのだが

アイルランドの有名人の蝋人形と2ショット写真を撮れるというのは案外面白いのではないかと思った。蝋人形館はいくつかのセクションにわかれていて、アイルランド有名人セクションではシン・リジィのフィル・リノット(ロック博物館でもフィル・リノットについては激推ししていた。アイルランドのロック界の始祖のような扱いだ)、ヴァン・モリソン(これもアイルランドでは尊敬されているミュージシャンだ)、オスカー・ワイルドと一緒に写真を取った。ジョイスとベケットもいたが、ジョイスは位置的に2ショットが難しく、ベケットは立像で背が高すぎて2ショット撮影ができなかったのだ。
あとローマ教皇のフランシスコと写真を撮った。楽しいが中年男が一人でこんなことをやっているのは虚しくもある。
蝋人形館の他のセクションでは恐怖コーナーもあって、これは実に悪趣味でよくでてきた。Routardの取材者にはあえて記述する価値なしとされた博物館だが、私は案外楽しむことができた。

夜はアイルランドっぽいものを食べたかった。Routardをめくると近くにダブリンで有名なフィッシュ&チップスの店があることがわかり、そこに食べに行った。カウンターでまず注文してお金を払って席に座ると、紙の容器に入ったものが出てくるというレストランというよりは軽食スナックの店だった。スモークしたたらのフィッシュ&チップスを注文した。衣がさくっとしていてうまい。魚の塩味も絶妙だ。B級ローカルフードとしてはなかなかのもの。しかしこれが値段が12ユーロする。
12ユーロ出せば、日本だと四谷のたけだでこれよりはるかにうまいものが食べられる、ということを考えてしまった。もちろんローカルB級を食べるということ自体、意味があることなんだが、なまじたけだに「サーモンフライ定食」という似た料理があるのでつい比べてしまう。

川沿いの繁華街のテンブル・バー地域には、ミュージックパブも密集している。せっかくダブリンに来たのだからアイリッシュ・トラッドのライブを聞きたいなと思ったのだけど、ライブが始まるのは午後9時過ぎだ。飯を食い終わっても2時間ぐらいどこかで時間をつぶさなくてはならない。
一度ホテルの部屋に戻ることにした。しかしホテルに戻ると、外はけっこう寒いのでまたテンプル・バー地区に音楽を聞くために戻るのが億劫になってしまう。ホテルのバーでもライブをやっている。テンプル・バー地区まで行くのが面倒になって、ホテルのバーにライブを聞きに行くことにした。

ホテルのバーのショーは夜9時過ぎから開始だった。私がバーに入ったのは9時15分ごろ。アイリッシュ・トラッドではなくて、アコースティック・ギターの弾き語りだった。時折観客にリクエストを聞いて、それを歌う。歌は上手だったけれど、こういう音楽は私は別に聞きたくない。そもそもホテルのバーなんてまともに音楽を聞きたいような観光客が行くところではない。これはテンプル・バーでも店を選ばないとそうかもしれないが。サイモン・アンド・ガーファンクルとかU2とかボブ・デュランとかがたらたら歌われる。よっぱらいたちが陽気に騒ぐなかで、一人でアイスティを注文して、こんな音楽を聞いているのはけっこうきついものがあって、一時間ほどでバーを出た。
やはりこんなことで手を抜いてはだめだ。まあこの間の悪さというかいたたまれなさというのも一人旅の醍醐味と言えなくもない。
明日の朝ダブリンを発ち、グルノーブルに向かう。




2020年3月8日日曜日

2020/03/07 ダブリン

2泊したスライゴーを出発して、ダブリンに。ダブリンでも2泊する。
ダブリンはアイルランドの入り口なので29年前にも当然行っている。やはり2泊ぐらいしたはずなのだけれど、記憶にあまり残っていない。ユースホステルに泊まったこととデ・ダナンのコンサートに行ったことだけ覚えている。

スライゴーからダブリンまでは鉄道を使った。ダブリン行きの鉄道は日に5本ほどある。バスも同じくらいの本数があって、所要時間はほぼ同じ、料金は鉄道より割安なのだが、一回ぐらいは鉄道に乘ってみたかった。スライゴーとダブリンは180キロぐらいの距離だが、3時間ほど時間がかかる。

午前11時発の列車に乘って、午後2時過ぎにダブリンに着く。駅から予約しているホテルまではグーグルマップでは歩けそうな気がしたが、スーツケースのキャスターが壊れかけているのでタクシーを使った。実際はグーグルマップでの距離感よりかなり駅から離れたところにあった。タクシー代は10ユーロ。

ホテルは一昨日、booking.comで予約したところだ。直前で週末だったため、空きのある手頃な値段のホテルは限られていた。宿泊したキャッスルホテルは市内の便利なところにあるが、かなり古びたクラシックなホテルだった。床がところどころペコペコになっている。部屋はスライゴーのホテルに比べると狭く、シャワーだけだが、まあ悪くない。値段はそこそこ高い。一泊一万円弱する。

ダブリンは人口130万の都市だ。人口だけだとほぼ神戸市と変わらない。市内観光のための移動は歩きだけだとちょっと広い感じがした。ネットで調べてみると、市内に百箇所ほどあるステーションに乗り捨てできるレンタルサイクルがある。三日間で5ユーロと安い。バスやトラムでその都度チケットを購入したり、路線を調べたりするより便利そうな気がした。クレジットカードで利用登録できるとのことだったので、これを利用してみることにした。

ホテルで荷解きしてから外出するともう16時を過ぎていた。今晩はとにかく芝居を見ることに決めていた。日曜日には芝居の公演がないので、ダブリンで芝居を見るとなると今夜しかないのだ。昨夜スライゴーの宿で調べてみたかぎりでは、特に見てみたい演目は上演されていなかった。アイルランドは演劇の国というイメージがあったのだが、ネットで調べる限り、劇場の数は10もない。人口が神戸市と同じくらいと考えれば、いくら演劇が盛んといってもこんなものか。
特に見たい演目が上演されていないなら、イエイツとグレゴリー夫人が創設したアベイ劇場での公演を見に行こうかと思い、昨日の夜スライゴーのホテルで予約しようとしたのだが、どういうわけか劇場のチケットページで私のクレジットカードがはじかれてしまう。こっちではこうしたことがちょくちょくある。公演ページをみた感じではアベイ劇場の演目はかなり空席があったので、劇場窓口で直接チケットを購入しようと考えた。レンタル自転車でアベイ劇場に向かうが、劇場近くの自転車ステーションが満杯でそこに自転車を返却することができない。結局劇場からはかなり離れたステーションに自転車を返却したのだが、そのときにツィッターをみるとゲイティ劇場で今晩、マクドナーの『イニシュモアの中尉』という作品が上演されると情報が目に入った。どうせなら知らない作家の作品をアベイで見るより、マクドナーの作品を見たほうが楽しめそうだ。しかも演目は、私がついこのあいだ行ったアラン諸島のイニシュモア島を舞台にしたものだ。

その場でゲイティ劇場のページにアクセスして今夜の公演のチケットの予約を試みた。空席があったので申し込んだのだけれど、これもクレジットカードの登録ではじかれてしまった。もう一度試みると今度は「満席」になっていて予約できない。ゲイティ劇場までは2キロぐらいあったが、またレンタル自転車を借りて、ゲイティ劇場のチケット窓口まで行ってみることにした。

ゲイティ劇場近くの自転車ステーションに自転車を返却したあと、もう一度その場でウェブページからの予約を試みる。やはりクレジットカードの登録ではじかれる。劇場のチケット窓口に行って聞くと、「うーん、今夜はもう満席なんだけど」と言っていたが、一席だけ空席があってそこを取ることができた。

19時半開演だが、開場は18時半とやけに早い。チケットを購入した時点では時間は17時半だった。昼ごはんを食べてなかったので、観劇前に近くで腹ごしらえをした。海外ではできる限りローカルフードを食べることを原則としているのだけれど、安くて短い時間でさっと食べられそうな店を付近に見つけることができず、心ならずもバーガーキングに入ってしまった。

18時半すぎに劇場に行くと、やはり観客はまだ来ていない。劇場は開場したけれど、客席開場はまだ、劇場内のバーで時間を潰してくれと係員に言われる。バーの客も私一人。何も頼まずにバーにいると居心地が悪いのでコーヒーを頼んだ。開演30分前の19時過ぎになるとバーにもたくさん客がたまるようになっていた。

マクドナーには『イニシュマンのビリー』というアラン諸島を舞台とする戯曲があることは聞いたことがあった。今回私が見たのはアラン諸島が舞台の別の作品で、『イニシュモアの中尉』というものだが、この作品は『ウィー・トーマス』というタイトルで日本で複数回上演されたことがグーグル検索でわかった。『ウィー・トマース』はWikipediaの日本語版に詳しいあらすじの記述があったので、開演前にそれをしっかり読んでおいた。過激なことばが飛び交うマクドナーの戯曲のセリフは、聞いても理解するのが難しいように思ったからだ。実際、上演が始まると、絶望的なくらいセリフが聞き取れなかった。Wikipedia日本語版の行き届いた詳細なあらすじのおかげで、人物関係や場の展開は追うことができた。

劇の舞台は1993年のイニシュモア島だ。主人公のひとり、パドレイクはこの島出身だが、アイルランド共和国軍(IRA)の過激派テロリストの分派のメンバーで、この分派でもその凶暴さゆえに恐れられている男である。この男は残忍で暴力的な人間だが、故郷の島で飼っている猫(その名前がウィー・トマース)を溺愛している。ところが彼の父の父親ドニーと近所の少年デイヴィは、その愛猫の脳天が打ち砕かれて死んでいるのを発見し、途方にくれている。これが最初の設定である。

上演中は暴力と残虐さが強調された悪趣味なギャグに観客は大受けで、最初から最後まで爆笑が沸き起こっていた。言葉が聞き取れない私は笑えない。言葉によらないドタバタギャグも多かった。演技も喜劇性が強調されたくどいものだった。

この戯曲は、直線的でわかりやすいプロットや類型的な人物、ベタでひねりのないギャグという見かけの単純さの裏側に、さまざまな象徴によって北アイルランド問題といった政治状況への風刺が盛り込まれている。作品として高い評価を受けたのは、政治的アレゴリー劇として優れていたからだろう。

しかし今日のダブリンの観客の反応を見て思ったのだが、観客がこの芝居を喜んでいるのは作品の形而下的な表現であり、そのわかりやすさの背景にある象徴は必ずしも読み取っていないではないかということだ。
マクドナーはアラン諸島やコネマラなどアイルランドの西側にある地域を舞台にした作品をいくつか発表しているが、今回の『イニシュモアの中尉』にしても他の作品についても、彼はアイルランド西側を後進的で野蛮な田舎として提示していて、これらの西側の土地への愛着はあるにしてもそれは相当屈折して、ひねくれたものだ。シングがこれらの地域の取材に基づき創作した『西の国のプレイボーイ』はアイルランド農民の後進性を嘲笑するものだと捉えられ初演時には騒動になったそうだが、マクドナーはこうした挑発を意図的にやっている。

ダブリンの観客がマクドナーの『イニシュモアの中尉』を喜んだのは、田舎者をバカにして笑うという古今東西に存在する素朴な笑いの型を踏襲したものではないか。

この作品の内容はフィクションだが、1993年でも(そして今もなお)アラン諸島や西側の田舎者たちは、こんなおろかで野蛮な奴らなんだという田舎への蔑視の感情が、ダブリンやイギリスの観客にはあるのではないか。マクドナーはそうした観客の差別意識も見据え、そうした差別感情を浮き上がらせることを密かに意図して、アイルランド西部を舞台とする喜劇作品を書いているような気がした。

今日、ダブリンのコノリー駅からホテルに向かうときに乘ったタクシーの運転手に、「ダブリンに来る前にアラン諸島に行ってきたんだ」と言うと、「オールド・スタイルを見に行ったんだ」というようなことを言われたことを、『イニシュモアの中尉』の公演を見ているときに反芻した。運転手がそういったときは「オールド・スタイル」という言葉がちょっとひっかかっただけだったのだが。



2020年3月7日土曜日

2020/03/06 スライゴー

スライゴーは「イエイツの故郷」と呼ばれるが、イエイツはスライゴー出身ではないし、スライゴーでずっと生活していたわけではない。イエイツの母の出身地であり、とりわけイエイツが弟とともにその少年時代の長期休暇を過ごしたこの町が、「イエイツの故郷」と呼ばれるのは、彼の多くの詩作品の発想の源泉となったのがこの地だからだ。

しかしスライゴーの町並みの風景は、市内を流れる川や低層のカラフルな建物が立ち並ぶさまは魅力的と言えないことはないとはいえ、ありふれた小さな町に過ぎない。イエイツがどちらかといえば散文的ともいえるこの風景からインスピレーションを得て、あの幻想的で神秘的な世界を生み出したというのがちょっと不思議に思える。

イエイツのいくつかの有名な詩の題材となった場所は、スライゴーの郊外の自然のなかに散らばっている。最もよく知られている詩のひとつである「湖島イニシュフリー」のあるギル湖はそこに行く公共交通機関がない。ツィッターでつながっている人のひとりがレンタル自転車で行ったと情報をくれたが、湖を一周してスライゴー市内に戻ってくるには40キロ以上走らなければならないことがわかり、これは断念した。土地勘のない場所でそんな長距離を自転車で走るのは不安だったし、体力的に無理しないほうがいいと思ったので。

レンタカーを利用できれば近隣の観光ポイントを効率よく回れるのだが、私は公共交通機関を使うしかない。午前中はイエイツの墓があるドラムクリフに行った。スライゴー市内からは8キロぐらい北のところにある。ここに行くバスは2時間に一本ぐらいしかない。バスで20分ほど。小型のバスには10人ほどの乗客がいたが、ドラムクリフで降りたのは私だけだった。
ここにはプロテスタントの教会があり、イエイツの曽祖父がここで牧師をやっていたそうだ。教会の周りは墓地になっていて、そこにイエイツの墓がある。この墓地の背景には、切り立った稜線が印象的なベンブルベン山が堂々たる存在感でそびえている。
イエイツは1939年に南仏で死んだが、その10年後に「ペンブルベン山のふもと」の末尾で要求したとおり、この地に遺体が運ばれ埋葬された。その墓石は周囲の他の墓と比べて特に立派というわけではない。墓石には「ペンブルベン山のふもと」Under Ben Bulbenで作者が望んだとおりの文句が刻まれている。

Cast a cold eye
On Life, on Death,
Horseman, pass by!
冷たい視線を投げかけろ、
生に、そして死に
騎乗の人よ、通り過ぎるがいい!

墓地の駐車場にカフェ&お土産屋があったので、帰りのバスの時刻までそこで時間を潰した。カフェには4組ぐらいの客がいた。自分の親戚の墓参りに来たひとなのか、それともイエイツ詣に来た人なのか。墓地にはかなり広い駐車場があって、私以外は自家用車でここに来ている。

バスでスライゴー市内に戻る。バス停のすぐそばにイエイツ記念館があったので入った。イエイツとその家族、イエイツ周辺の文学者についてのパネル展示が主な地味な文学館なのだけれど、入場料は3ユーロ必要。記念館スタッフのかたが一通り展示について説明してくれた。彼女の説明の半分くらいしか理解できなかったが、「オー!」とか「イエス」とか相槌を打ってごまかしながら聞いた。親切に説明してくれたのにさっさと出ていったら申し訳ないような気がして、彼女の説明が終わった後もパネル展示をひととおり自分としては丁寧に読んでいった。売店でイエイツの詩集を購入した。

昼飯はグーグルマップのおすすめに従ってハンバーガーを食べた。肉厚でジューシーでおいしいハンバーガーだった。
午後は「さらわれた子供」というイエイツの詩で言及されているロッシズ・ポイントに行った。ここもスライゴー市内から8キロぐらいのところにある。今になってこれくらいの距離だったらレンタル自転車を探してそれで行けばよかったと思う。ロッシズ・ポイントはバスの終点で15人ぐらいの乗客が降りたのだが、みなバスを降りるとどこかに消えてしまった。あたりにはイエイツ・カントリー・ホテルという立派なホテルとレストランぐらいしかない。みんなそこに入ってしまったのか。

ロッシズ・ポイントは海辺の岬だ。北側のかなたにはペンブルベン山が見え、南側の海にはオイスター島が浮かんでいる。ガランとしていて、広大で、美しい風景ではあるけれど、やはりイエイツの詩が頭にないとありきたりの海辺の風景でしかないかもしれない。この岬が言及される「さらわれた子供」はウォーター・ボーイズの歌曲で私は知ったのだった。この歌曲が含まれるアルバムはmixiで知り合ったスコットランド狂のかたに教えてもらった。この曲と詩は大好きで、自分で訳している。

Where the wave of moonlight glosses
月光の波がその光で
The dim gray sands with light,
くすんだ灰色の砂を照らす場所で
Far off by furthest Rosses
ロッシズのはるかかなたで
We foot it all the night,
私たちは一晩中その砂を踏みしめる
Weaving olden dances
古いダンスに身体をゆらし
Mingling hands and mingling glances
手を絡め、視線を交わす

Till the moon has taken flight;
月が向こうに行ってしまうまで
To and fro we leap
いたるところで私たちは跳ね回り
And chase the frothy bubbles,
水の泡を追いかけて遊ぶ
While the world is full of troubles
そのとき世界は苦悩に満ち
And anxious in its sleep.
その苦悩が眠るときには不安に陥る

Come away, O human child!
さあ行こう、人の子供よ
To the waters and the wild
水辺へ、そして森の中へ
With a faery, hand in hand,
妖精と一緒に、手を繫いで
For the world's more full of weeping than you can understand.
なぜなら世界は君が理解できないほどの悲しみで満ちているのだから

イエイツの文学的・魔術的テクストの描写を踏まえてこの風景を見ると確かに、ありふれた海辺が豊穣な幻想で満ちた世界に見えてくる。
ロッシズの北のかなたに見えるペンブルベン山にはそのときちょうど雨雲がかかって霞んで見え、その雲は強い風に流され移動していた。雨雲が通り過ぎたあとの海側にペンブルベン山に向かって大きな虹がかかった。私の周囲には人がいない。私がこの景色を独占している。もうこの風景を見れただけで、スライゴーに来た意味はあったのではないかと思った。

バスで市内に戻り、夕方はスライゴーの町中をぶらぶら散歩した。
夜はホテルのそばのパブで夕食を取る。「ステーキナイトだからステーキがおすすめだ」というのでステーキを頼んだ。アイルランドの牛肉はおいしい。しかしすごいボリューム。でも全部食べてしまう。
がやがやと多くの人が談笑しているなか、一人でステーキを食べているとさすがに寂しい気分になった。楽しげにみんなやってるなかでぽつんとアジア人中年男がひとり。こういうとき酒が飲めないのは不便だなと思ってしまう。
あと30分ほどそこにいたら音楽のライブも始まるみたいだったが、この喧騒のなかでひとりというのが耐え難くて、勘定を払ってホテルに戻った。

2020年3月6日金曜日

2020/03/05 スライゴー

イニシュモアから本土のロッサヴィール行きのフェリーは今の時期は、朝8時15分と夕方17時の一日二便だ。私は朝の便で戻った。B&Bでの朝食が7時半からだったので(朝8時15分の便で出る客の朝食は7時半と決められていた)、アイリッシュ朝食をちょっとあわてて食べることに。ダブリン空港のホテルで最初の日に食べたときはアイリッシュ朝食のバラエティと量に感動したが、ちょっと重すぎるなあと思うようになった。ちょっと胃もたれするというか。それでも全部食べてしまうのだけど。朝がアイリッシュだと昼を抜いて、夜の食事を早めに取ればそれで十分だ。

ロッサヴィールに到着したのが9時頃。それからバスでゴールウェイ市内に向かう。この朝の帰りのバスは路線バスと共用になっているのか、二階建てバスで高校生っぽい若者が大量に乘っていた。アイルランド人の女性は(少なくとも若い人たちは)みなロングヘアーであることに気づく。

ゴールウェイに着いたのが10時。観光案内所にまず寄ってスライゴー行きのバスの停留所を教えてもらう。時刻表をもらうと10時半出発になっていた。案内所を出て昨日まで二泊していたホテルに向かい、預けていたスーツケースを受け取る。スーツケースを預けるときは「チェックアウト当日しか預かることができないんだが」とグズグズ言っているのを、無理やりという感じでお願いして預かって貰ったんで、スーツケースを受け取るときに5ユーロのチップを渡そうとしたのだが、昨日グズグズ言っていたお兄さんは「いや、お前はいいやつだから」とか何か言って5ユーロ札は受け取らなかった。

ゴールウェイからスライゴーまではバスで2時間半かかる。長距離長時間にも変わらず、間に停留所が十数か所あったので、いわゆる「長距離バス」ではなく路線バスの車両で、スーツケースを入れるトランクスペースがなかったらどうしようとちょっと心配だったのだが、ちゃんとトランクスペースはあった。観光案内所で渡された時刻表には「デリー行き」とあったので、乗るときに運転手に「スライゴーに着いたら、おれに着いたよって言ってくれ」と念を押すと、運転手は一緒にいた友人らしき人と大笑いした。到着してわかったのだが、私の乘ったバスはスライゴーが終点だった。

イエイツ研究者の知り合いに「スライゴーの見どころを教えてください」とメッセージを送ると、「見どころと言ってもイエイツの詩を知らない人がいっても面白いところだと思えないんだけど」というネガティブな返事が戻ってくる。

今回はアイルランド行き自体一月末に突然決めたのだが(ニースでの研修を終えた学生の出発を空港で見送った後に、ダブリン行きの直行便に乗ることができることを見つけたので)、当初はアラン諸島に行くことしか決めていなかった。スライゴーに行くことにしたのは、ずっと前からイエイツ戯曲を上演している平原演劇祭の高野竜さんがスライゴーでイエイツ作品を上演する企画があるらしく、「アイルランド行くんだったら、スライゴーも寄ってよ」とツィッターで言われたのがきっかけだ。あと今回のアイルランド旅行の主要ガイドブックである渡辺洋子先生の著作『アイルランド:自然・歴史・物語の旅』のなかでもスライゴーとその周辺にかなり多くのページが割かれていて、それを読んで寄ってみようかなと思った。
イエイツの詩は、ウォーター・ボーイズのマイク・スコット(今は女性性器アートで知られるろくでなし子の夫になっている!)が企画したイエイツの詩に基づく歌曲アルバムで取り上げられているものしか知らないが、そのなかにはスライゴー近辺の風景を歌ったものがあるので、それを思い浮かべながら見て回ることにしよう。ちなみにこのアルバムはmixiで知り合ったスコットランド大好きな人に教えてもらったものだ。

スライゴーは私が想像していたよりずっと小さい町だった。私は自分が行ったことのあるフランスの地方都市、アラス、レンヌあたりをなんとなく思い浮かべていたのだが、バスターミナルで降りて「え!」という感じだった。3階建ての可愛らしい建物が並んでいる田舎町だ。規模的には東上線の成増あるいは大山ぐらいか。イエイツのような大作家がまさか成増・大山と所縁が深いなんてことは考えにくいのだが、イエイツの神秘的・幻想的な世界とはかけはなれた北国の田舎町という感じだった。

とりあえずホテルに行って荷物を置く。Booking.comで昨日夜に予約したのだが、案外開いているよさげなホテルが少なくて、予約可能なホテルのなかで評価が比較的高いホテルを選んだ。ダブルベッドとシングルベッドが置かれた広い部屋で、私にはもったいない部屋だった。浴槽もある。一人旅なんでもっとわびしい宿のほうが自分にはふさわしいのだが、なまじbooking.comなどのサイトで利用者評価があるとその点数を気にしてしまう。評価と値段ははっきりした相関関係があって、安くていい部屋というのはまれだ。フランスで何回かホテルに関してひどい目にあっているので、それがトラウマになってつい評価の低いものは避けてしまう。

荷解きをしてから観光案内所に向かう。スライゴー近隣のいくつかの場所への交通手段について確認した。フランスでは行くところや何をやるかはほぼわかっているので観光案内所では無料の観光地図を貰うぐらいだが、アイルランドはほぼ未知の場所で、何がどこにあるのかも知らないため、これまで何回か観光案内所で問い合わせをした。「フランス語か日本語で説明してくれないか?」と一応言ってみるが、どこも英語だけだ。普段英語を話す機会がないのでなかなか単語が出てこなかったりするが、どこも親切につきあってくれる。観光案内所だから当たり前じゃないかと思う人がいるかもしれないが、フランスでは必ずしもそうではない。

サービスについてはフランスでは人や状況によるムラがはげしい。親切な人に当たればいいんだけど、不親切で無責任なサービスにあたって不愉快な思いをすることもけっこうあるのだ。アイルランドはそのムラがあんまりない。こちらは英語も拙いし、手順や習慣などわからないのでまごまごすることがけっこうあるのだが、どこでも普通に親切で愛想がいいので、安心してものを聞くことができる。フランスだと常に「なめられたらアカン」とどっかで構えているので。これは私のフランス人に対する偏見が入っているかもしれないが。

観光案内所のあと町中をぶらぶら。たしかに観光的な見どころはない。イエイツがらみでないと何の変哲もない田舎町だろう。まあ私はそれでもかまわない。毎日せっせと観光に励む必要はないし、暇つぶしのしかたは他にもあるので。
町の現代美術館を見たあと、市内の重要な観光史跡である修道院廃墟に向かったのだが、修道院廃墟はオフシーズンで閉まっていた。復活祭の時期に再オープンするそうだ。まあ一人旅ではありがちのことだ。グーグルマップを信用しすぎていた。フランス語のガイドブックを読むとちゃんと冬期は休館と書いてあった。

夜はグーグルマップのおすすめで出てきた中華料理屋に行く。アイルランド料理はちょっと今夜はいいやという気分だったので。中国人がやっている店かと思ったら、店員は全員アイルランド人だった。サービスも洋食屋風だ。はしは出てこない。
前菜に手羽先のからあげ、主菜にエビチリとチャーハンを食べた。洋皿に盛られ、ナイフとフォークとスプーンで食べる中華料理だったが、味は普通においしいかった。量がかなり多い。レストランでの食事は多すぎるのだけれど、出されたら全部食べてしまう。こんな食事をしていたら、四旬節ダイエットどころではない。すでにベルトが苦しくなっている。
明日からはレストランでの食事はなるべく避けるようにしようと思った。

2020年3月5日木曜日

2020/03/04 イニッシュモア島

ゴールウェイを離れ、昨日に続きアラン諸島に行った。今日はアラン諸島で一番大きい島、イニシュモアに一泊する。
イニシュモアから戻ったあと、ゴールウェイにもう一泊するかどうか迷ったが、明日の午前中に一度ゴールウェイに戻ったあと、そののままバスでスライゴーに移動することにした。
イニシュモアにはスーツケースを持って行きたくなかった。ゴールウェイの宿にチェックアウト時に明日の午前中までスーツケースを預かってくれないか尋ねると、チェックアウトの日の数時間ならともかく、まる一日預かることはできないとの返事。
そこを何とかとお願いしたら、渋々だったが了承してくれた。イレギュラーな依頼を無理やり承諾させたかたちになったので、明日ちゃんとスーツケースがあるのかどうかちょっと不安だ。イニシュモア島にはリュックサックに一泊分の荷物を詰め込んで行った。




昨日同様、9時半にシャトルバスに乗りゴールウェイからロッサヴィールに向かう。10時半発のフェリーに乘って、イニシュモアに着いたのは11時15分頃だった。イニシュモアは観光の面でもアラン諸島で最も重要な島だ。島の人口は800人弱。昨日のイニッシュマン島と違い、港のすぐそばいに建物が何軒かある。ここで降りた観光客も20名ぐらいはいたように思う。島は東西に12キロぐらいの長さがある。レンタサイクルを借りた。値段は一日10ユーロ。それから観光案内所により、無料の地図をもらい、島のみどころを教えてもらう。
宿は港から600メートルほど離れたところにあった。B&Bだ。敷地に入ると犬が迎えに来たが、B&Bの主人は呼び鈴を出しても出てこない。犬といっしょに家の周りをうろうろしていると、B&Bの主人が出てきた。今日の宿泊客は私だけのようで、部屋は広くてきれいだった。浴槽付きなので久々に風呂に入れる。
まず近くのバーに昼飯を食べに行った。メルルーサという白身魚の揚げ物を食べる。それから自転車で観光に出かけた。イニシュモアで一番の見どころは、断崖絶壁にある要塞、ダン・アンガスだ。港からは8キロほどの距離がある。島のなかほどの道を選び、まずダン・アンガスを目指すことにする。

ダン・アンガスに行くまでの道のりの風景も壮大で魅了されたが、絶壁を取り囲むように築かれたダン・アンガス要塞の廃墟の風景は圧巻としか言いようがない。この地に人が住んでいたことは、考古学的調査により紀元前1000年から1500年ころまで遡ることができるらしい。しかしなんでこんな岩でできた不毛の島にわざわざ居住しようと思ったのか。

地面が岩で土がほとんどないこの島では、畑や牧草地を作るために、海から海藻を地上に運んできて、それを砕いた岩と混ぜて土を作ることから始めなくてはならなかった。強風によってせっかく作った「土」が吹き飛ばされてしまうことを防ぐため、石垣を作って風よけとした。緑の牧草地を四角く区切る石垣が延々と続くさまが、アラン島の独特の景観を形作っている。この風景ができるまでに何百年のときが必要だったのだろうか。緑の大地を区切る黒い石垣の風景は、風よけという実用を超えた審美的な空間を作り出している。広大な自然環境を素材とする芸術作品だ。

ずっと私が探していた風景にようやく出会えたような感じがした。こんな素晴らしい景観にもかかわらず、本当に人がいない。シングの時代から100年以上たっているというのに、本気で観光で人を集める気がないのか。昨日のイニッシュマンには観光客は私一人だけだった。アラン諸島観光の中心であるイニッシュモア島に今日やってきた観光客もせいぜい3、40名だろう。いくらシーズンオフとはいえ、なんでこんなに人が来ないのか。
ダン・アンガスのあとは、その2キロほど先にある7つの教会の跡地に行った。この教会廃墟も古いものだ。廃墟の横には島の人々の墓地があった。墓地には杖を使ってよろよろ歩いている老夫婦がいた。どちらも足元がおぼつかないが、おばあさんのほうが少し足が達者だ。おばあさんが「スティーブン、こっちだよ。こっちを歩けばいいよ」とおじいさんを案内し、手を引いている。おじいさんはもしかすると少しボケているのかもしれない。私に二回挨拶して、「どこから来たんだい」と二回同じ質問をした。

他にもイニシュモア島には見どころはあるのだけれど、この2つの遺跡を見ただけで今回は十分だ。29年前にはじめてアイルランドに来て、ゴールウェイに滞在したときに、アラン諸島を訪ねていたらなあと思った。私のその後の人生で今とは違った選択をしたかもしれない。イニシュモア島の風景はまさにわたしがずっと待望していた、夢想していた風景だったのだから。でも50歳を過ぎてアラン諸島に来ることができて本当によかったと思った。私はまたアイルランドに来るはずだ。イニシュモア島の他の遺跡や今回足を運べなかった一番東側にある小さな島、イニッシュエアは、次回アイルランドに来るときのために取っておくことにしよう。

午後5時までにレンタルした自転車を返さなくてはならなかった。帰りは海岸通りの道を通った。この海岸沿いの道からの風景も本当にすばらしいものだった。
私はこれまでの人生で、こんなに景観に魅了されたことはない。これほど風景を美しいと思ったことはない。厳しい自然環境との対峙することで長い年月をかけて作られたイニシュモアの風景は美しいだけでなく、われわれの存在の意味を問いかけてくるような思索性も感じてしまう。

夕暮れから夕闇の時間帯の海の風景も素晴らしかった。引き潮であらわになった濡れた砂地が、空の明るさを反射して白く光っている。イニシュモアに一泊してよかったと思った。できれば明日の朝の船ではなく、夕方の船にして、ゴールウェイにもう一泊するのでもよかったと思ったけれど、しかたない。また来ればいいのだ。

夜は宿近くにあったバー&レストランで食べた。スープとスモークチキン。スモークチキンにはマッシュポテトと人参が大量に添えられていた。ケベックのレストランで似たようなものを食べたような気がする。


2020年3月4日水曜日

2020/03/03 イニシュマン島


私がこれまで読んだ紀行文のなかで最も美しく、感銘を受けたのが、ジョン=ミリントン・シングの『アラン島第一部』である。29年前にアイルランドに来たのはもっぱらアイリッシュ・トラッド音楽への関心からで、このころ私はシングのこの紀行文を読んでいなかった。もし読んでいたら、ゴールウェイにかなり長く滞在していたのだから、そのときにアラン諸島には行っていたはずだ。アラン島の人々にとって、英語を話し、プロテスタントのインテリだったシングは、異邦人だ。彼は異邦人としての慎ましさを保ったまま、島の人たちと交流をもち、その生活と風土を、島の語り部がかたる民話とともに記録した。語り部の物語の豊かさは驚くべき魅力を備えている。ヨーロッパ大陸で古代から伝承されてきたさまざまな物語が、アイルランドの西の端のこの地で、ケルト的な神秘性とともに独自の熟成をとげ、島の人々の生活とつながっていく。

シングは1898年から1902年にかけて毎年アラン島を訪問している。そこで彼が特に好んで滞在したのは、アラン諸島三島の真ん中にあるイニシュマン島だった。アラン三島のなかで一番大きいのが西側にあるイニシュモア島であり、アラン島の観光もこの島が中心となっている。イニシュモア島には明日から一泊の予定で行くことにし、今回はシングのアラン諸島における本拠地であるイニシュマン島に日帰りで行くことにした。

アラン三島のなかでイニシュマン島が最も観光資源に乏しい島のようで、私の持っているフランス語のガイドブック、Guide de routardでもこの島の記述は3分の1ページしか割かれていない。

ゴールウェイからはまずフェリー会社のシャトルバスでゴールウェイから一時間ほどのところにあるロッサヴェールという港まで行く。そこからイニシュマン島・イニシィア島行きのフェリーに乗る。フェリーは10時半に行きの便が出て、夕方16時半に島から帰り便が出る。シャトルバスには40人ほどの客が乘っていたが、そのほとんどはイニシュモア島に行く観光客で、イニシュマン島に行くのは私一人だけだった。イニシュマン・イニシュア島行きの船には私以外に数組の乗客が乘っていて、その大半はイニシュマン島で降りたが、私以外はみな島の人たちのようで波止場に着くと、迎えに来た車に乘ってすぐにいなくなってしまった。Guide de routardにはイニシュマン島の人口は150人とあった。

イニシュマン島まではロッサヴェールの港から45分ほどで着く。20世紀はじめのシングの頃には3時間以上かかったようだ。波が荒くてかなり揺れる。デッキに出ると油断すると海に振り落とされそうだ。風と波が強くて欠航というのもしばしばあるらしい。アラン島を舞台にしたシングの戯曲『海に騎りゆく者たち』が思い浮かぶ。
私は港は人口150人の小さな島の中心地にあり、港付近には何軒かの店などがあると思っていた。フランス留学中に友人たちと行った大西洋のベルイル島の様子を思い浮かべていたのだ。アラン諸島はゴールウェイ付近の有名な観光地だし、辺境といってもそれなりの賑わいはあるだろうと。シングは大作家なので、シング所縁の土地として、私のようにこの島を訪れる人はかなり多いに違いないとも思っていた。

しかしイニシュマン島の港には本当になんにもなかったのだ。店も家も一軒もない。船に乘ってやってきた親戚あるいは知り合いを迎えに来た車が数台停まっているだけだ。下船したもののいったいどこを目指せばいいのかわからない。グーグルマップもほぼ白紙であるし、アイルランド文学研究者の先生に頂いた手書きの島の地図を見てもどこに行けばいいのか見当がつかない。


車で波止場に迎えに来ていたおばあさんが車のなかから私に声をかけた。「どこにいくつもりかい?」と聞かれたと思う。「ここに来るのは初めてでいったいどこに行けばいいのかわかりません」と答えると、はるかかなたを指さして「あのへんに村があるから、そこに向かっていけばいい」と言う。
「それじゃあ歩いて行きます」と言ったが、村まで車に乗せてくれないかと頼めばよかったと後から思う。波止場から村のある場所までは、3キロほどの距離があり、その間は石垣に区切られた荒野が果まで続くほぼ無人の地だったのだ。
私以外誰一人歩いていない。確かに向こう側に家らしきものがポツポツ見える。しかし自分が歩いている方向で本当にいいのか、悪いのかわからない。見たこともない壮大な風景には感嘆したが、じきに一人ぼっちで見知らぬ荒野を歩いていく不安のほうが大きくなってきた。本当にとんでもないところにとんでもない時期に来てしまった。

グーグルマップでようやくレストランの表示を見つけた。村と言っても人は誰も外を歩いていない。こんなところでレストランなんて本当にやっているのだろうか、と思いながらその場所に行くと、レストランは工事中だった。工事のひとに「ここはレストランなんだよね?グーグルマップがそう示しているんだけど」と聞くと、「うん、そうだけど、シーズンオフなんで営業はしてない。今はどこもしまっているけれど、ここから5分ほどいったところに店がある」と言う。
「そこで飯を食べられるのですか?」と聞くと、
「いやそこはshop店だよ。飲み物や食料品は売っている。昼休みになると閉まるから行くならすぐに行ったほうがいい」と言う。

その休業中のレストランで飼っている犬が、私を道案内してくれた。shopは食料品のほか、ちょっとだけだが文具やお土産ものも売っているなんでも屋だった。郵便局も兼ねているようだ。おじいさんが店番をやっていた。水とビスケット、チョコレートなどを購入する。島の地図も売っていたのでそれも買った。
店主のじいさんがその地図で島のみどころを一通り説明してくれた。「コーヒー飲むか?」と言われたので、「飲む」と言うとインスタントコーヒーとお湯があるところに連れていかれ、そこで自分で好きなように作れと言われた。

風が強く、寒い日だったが、天気がよかったのが幸いであった。雨だったら雨宿りするような店もなくどうしようもなかっただろう。
イニシュマンは思っていたより大きな島だった。店で買った地図とgoogle mapを頼りに、古代の城塞やシングの滞在していた家などいくつかの観光ポイントを歩いて回った。島のみどころは、島の中央を東西に走る道沿いに固まっている。とにかく歩くしかない。ひたすら歩いて、へとへとになった。しかし石垣で区切られた緑の大地の雄大さ、そして美しいい海の風景は格別なものであり、これまで私が見たことのないような圧倒的な景観だった。おそらく今日、この島にやってきた観光客は私一人だ。
右側がシングが滞在したコテージ

船が出るのが16時半と昨日、フェリー会社のカウンターの人に言われていた。パンフレットにもそう書いてある。この夕方の船に乗り遅れると翌朝8時まで船はない。島に一泊するはめになるのだが、果たして島に一軒のB&Bが営業しているのかどうか定かでない。イニシュマン島に一泊することも考えていたのだが、日帰りにしておいてよかったと思った。一泊しても面白かったかもしれないけれど。
とにかくフェリーに乗り遅れたらたいへんだということで、4時過ぎにフェリー乗り場に着くように歩いたのだが、村とフェリー乗り場のあいだは石垣に区切られた荒涼とした野が続くだけで、グーグルマップはあったものの自分が正しい道を歩いているのかどうか不安で仕方なかった。

4時過ぎにフェリー乗り場に着くはずが、時間が思ったよりかかり、着いたのは4時15分ごろになっていた。ところが船着き場には誰一人いない。
アラン島への船はしばしば欠航になると聞いていたし、Guide de routardにもそういうことが書いてあったので、もしかすると風が強くて突然欠航になってしまったのではという不安に襲われる。4時半になっても私以外誰もいないし、船の姿も海に見えない。さすがに心配になってフェリー会社に電話をかけてみた。すると「船は動いてます。あと数分で着くから大丈夫」との返事。
4時40分頃に車で地元のひとが数組港にやってきた。そのうちの一人に聞くと「心配しなさんな。いっつもこんなもんだよ。船は来るよ」と言う。
船がやってきたのは4時45分だった。本当に心臓に悪い。家に帰ってから調べてみると、16時半はイニシィア島の出港の時間であり、そのあとでイニシュマン島に船がやってくるのだった。イニシュマン島の到着時間はウェブページやパンフレットには書かれていないのだ。昨日のフェリー会社の人は、私が行くのはイニシュマン島というのはわかっていたのに16時半だけを繰り返し言っていた。私が言っていたことをよく理解できていなかったのかもしれない。
イラストのなかのテクストはシング『アラン島 第一部』の一節。
この一節そのままのすばらしい風景を味わうことができました。

ゴールウェイに着いたのが19時前だった。今日はよく歩いたので流石に疲労困憊だ。ちょっと中華っぽいものを食べたかったけれど、グーグルマップではひっかからない。マップで評価の高いアイルランド料理の店に入った。「手頃」となっていたけれど、グーグルマップのレストランの「手頃」は、ヨーロッパでは私には高級すぎる。「安価」だとピザ屋やケバブ屋のようなところしか出てこないのだが。
スープと羊肉のローストを注文した。昼がピーナッツだけだったのでちょっと奮発したのだ。疲れすぎてあまり食欲がないのだが、無理やり食べた。

2020年3月3日火曜日

2020/03/02 ダブリンからゴールウェイに

空港ホテルに着いたのが深夜だったので、昨夜寝たのは午前2時前になった。
それでも朝8時に起きる。ホテルの朝食はバイキング形式だったが、さすがアイルランドの朝食。バラエティに富んでいて、量も豊富で、しかも美味しい。ホテル代は朝食込みだったので盛大に食べた。昨夜はビスケットの夕食だったのでその挽回だ。

ホテルは11時にチェックアウトし、シャトルバスで空港の長距離バス乗り場まで送ってもらう。ゴールウェイ行きのバスに乗る。料金は20ユーロで時間は3時間ぐらい。ホテルの人は無愛想だったが、バスの運転手は普通に親切で、運転も丁寧だ。ニースのバスとは全然違う。バスはダブリン市内を経由してゴールウェイに。バスに乗ると一気に気分が高揚した。

アイルランドに来るのは29年ぶりだ。大学4年のときに1年間パリに語学留学して、5月の終わりに語学学校の授業が終わったあと、3週間ぐらいアイルランドに行った。ゴールウェイ近郊の城館で行われたケルト音楽の講習会に出て、ティンホイッスルの講習を泊まり込みで一週間受けた。そのときに私にマンツーマンでレッスンしてくれたミュージシャンはも70すぎのおじいさんということになる。私もおっさんになった。嘘みたいだ。
22歳のころのアイルランド3週間は夢のような時間だった。灰色と青と緑のがらんとした空間に魅了された。人もみな優しくて、親切で、8ヶ月過ごしたパリよりはるかにアイルランドのほうが居心地がよくて楽しかった。また絶対来ようと思っていたのだが、その後、29年来る機会がなかったのだ。今回来ようと思ったのは本当になんとなくなのだ。

ゴールウェイの宿はバスステーションのすぐ目の前にあった。一泊40ユーロほどで安いが、朝食はついてない。エレベーターも壊れている。ただ安いわりにはシャワー・トイレ付きだし、部屋も広い。ここに2泊してから、アラン諸島のなかで一番大きい島、イニシュモア島に一泊する。その後の宿は予約していない。
とりあえず明日は、アラン諸島の真ん中にある島、イニシュモア島に行くことにした。シングが滞在した島だ。バスステーションの近くにあったアラン島のフェリー会社に行き、島行きの船が出るロサヴェールまでのバス往復と船の往復の切符を購入した。

スーツケースのキャスターの車輪の一つの外側のゴムが剥がれているのに気づいた。ごつごつとしていて運びにくいなあと思っていたのだ。買い換えるかどうか迷う。ゴールウェイ市内のショッピングセンターのカバン屋に安いスーツケースが売っていて、どうしようか20分ほど迷ったあげく買わなかった。明日の夕方、店が開いている時間までに町に戻って来れれば買おうと思う。閉店が18時と早い。

早めの夕食をフィッシュアンドチップスの店で取る。ついでに生牡蠣も食べた。地元の劇団であるドルイド・シアターによる『桜の園』の公演があるという情報を教えてもらったので、タウンホールまで行った。タウンホールに行くと、公演はそこから800メートルほど離れたボックス・シアターであり、当日券もそこで買えと張り紙がしてあった。小雨のなかてくてくと歩いていく。ゴールウェイはかなり寒い。防寒対策が甘かった。
ボックスシアターに着くと、劇場入り口は開いていたけれど、チケットカウンターらしき場所は閉じたままで、待合のホールもくらい。着いたのは18時半ごろだった。公演のポスターが貼ってあったが開演時間が書いていない。カウンターの前でぼーっと立っている人がいたので聞いてみると、その人は劇場関係者らしく中に入って声をかけ、チケットカウンターのかかりの人を呼び出してくれた。来るのが早すぎたようだ。開演は20時からとのこと。当日券を確保したあとは、会場までホールで待つことにした。

ドルイドの『桜の園』は、アイルランドの劇作家、トム・マーフィーの版によるもの。どのへんが改変されたのかはよくわからなかった。リアリズムの舞台装置だが、舞台中央に木の柱で枠を作った赤い幕を張ったプロセニアムを設置して、芝居という虚構性を視覚的に示している。ドルイド・シアターの舞台は、10年ほど前に東京でシングの『西の国のプレイボーイ』を見たことがある。そして29年前にゴールウェイに来たとき、この劇団によるジョン・オズボーンの『怒りを込めて振り返れ』を見たことを覚えている。
今回の『桜の園』は不器用な登場人物のちぐはぐな言動の滑稽さを強調して観客の笑いをとりつつ、原作の品格の高さはしっかりと維持され、登場人物の心理の動きを丁寧に描き出した素晴らしい舞台だった。笑いのなかで、思い通りにならない人生の悲しみ、喪失の寂しさが静かに増大していく。ゴールウェイでの最初の夜にこんなに繊細で美しい芝居を見られて幸せだ。

終演は22時半だったが、劇場から宿までは歩いて15分ほどというのもありがたい。

2020年3月2日月曜日

2020/03/01 ニース研修第16日 最終日、ダブリンへ

二週間のニース語学研修の最終日。学生たちは14時30分ニース発の飛行機に乘って、ドバイ経由で帰国する。私は空港で学生たちともう一人の引率のKさんを見送ったあと、ダブリンへ飛ぶ。

コロナウイルスの不安のなかの研修だった。日本では2月はじめは横浜に停泊していたクルーズ船と武漢からの帰国者を中心とした感染者だったのだが、研修に出発した2月14日(金)には感染経路のはっきりしない感染者の存在が判明していた。学校やホストファミリーはこの点については配慮があり、嫌な思いをすることはなかったが、研修中に発熱したりする学生が出るとちょっと面倒なことになるかもなあということは覚悟していた。例年、二週間の研修期間中に体調を崩す学生は必ずいるし、昨年は二人のインフルエンザ感染者が出た。今年は幸い病院に学生を連れて行く必要があるような事態はなかった。

これまでと違い、今年は武蔵大学で同僚のKさんに同行してもらったのも心強かった。武蔵大学の学生が今年は多かったし、女性の参加者が大半なので、Kさんがいたことで学生も安心感が増したと思う。私には訴えにくいこともKさんにならということもあったに違いない。私ととしても、企画や遂行については従来通り自分がすべて責任を持ったにせよ、もうひとり信頼できる同僚が同行していることで、精神的な負担感は大幅に軽減された。彼女はタフで真面目で、しなやかでふるまいに品がある。私とは異なるタイプの人間だし、先生なのだけれど、彼女に思い切って声をかけて正解だったと思った。

学生たちの乗る飛行機は14時半発だが、免税手続きや荷物のチェックインなどで時間を取られることを懸念して、学校の送迎係には11時半には飛行場に着けるように迎えに来るよう依頼していた。予定通りの時間に全員が空港に集合したが、受託荷物の重量オーバーでもめた学生が一人いた。エミレーツ航空はエコノミーで30キロと荷物制限はゆるやかなのだけれど、それを超えてしまった学生がいたのだ。トータルで40キロぐらいになっていたのか。超過分は支払うつもりだと学生が言っていたのでそれでいいんじゃないかと私は思っていたのだが、Kさんがカウンターで交渉してグループ一括ということで考慮してもらいオーバー料金は取られなかった。

見送るときに学生たちから寄せ書きのメッセージカードを貰った。研修をはじめて6回目だが、こういうのを貰ったのは初めてだ。学生たちは12時半すぎに搭乗手続きのエリアに入ってしまった。

私のダブリン行きの便は21時半の出発だったので、9時間空港で時間を潰さなくてはならない。ニース空港ターミナル2のカフェテリアが空いていたので、そこで食事を取って午後5時前までいた。飯を食べたあとは、イラストを描いたり、本を読んだりしていた。ダブリンにはLCCのライアンエアーを使う。ライアンエアーのターミナルは1なので、午後5時過ぎに移動。このターミナル1は新しいターミナル2と違いチェックインエリアでないフロアには、居心地のよさそうなカフェテリアはない。さっさとスーツケースを預けて、チェックインして、なかで夕飯を食べたかったのだが、ライアンエアーのスーツケース受付は出発時刻の2時間前の19時半開始だった。しかもカウンターが一つだけで時間がかかる。19時半ちょっと前から待機していたのだが、私の番が回ってきたのは20時を過ぎていた。

20キロの荷物を預けてもらう料金を払っていたのだが、私のスーツケースは23キロぐらいあった。おまけしてくれるのかなと思ったら、そうはいかず3キロ分、機内持ち込み荷物のほうに移動させろと言う。面倒だから超過料金払う、と言うと、「15ユーロもするんだから。移し替えてください」と言われ、それに従った。

アイルランドはEUなので、パスポート・コントロールはないのかと思ったら、ニースでもダブリンでもパスポートチェックがあった。
ニースからダブリンまでは約3時間のフライトだった。時差が一時間あるので、ダブリンに着いたのは午後11時過ぎだった。今日は空港の近くのホテルを予約していた。空港からシャトルバスがありそうなのだけれど、どのバスに乗ればいいのかわからない。印刷しておいた予約票には「ダブリン空港」とあるので歩いて行くことにしたけれど、15分ぐらいスーツケースを転がして歩かなくてはならなくてちょっとしんどかった。

アイルランドに来るのは29年ぶりだ。大学4年のとき、フランスに5月までいたあと、6月の一ヶ月間をアイルランドで過ごしたのだ。そのときはゴールウェイの郊外にある城館B&Bに一週間滞在し、ティンホイッスルの講習を受けた。そのときの音楽の師匠はもう70歳ぐらいのおじいさんになっているのだ。私もおっさんになった。信じられない。
あの一ヶ月間のアイルランドは夢のような時間で、またいつかアイルランドに来たいとずっと思っていた。それが29年後になるとは思っていなかったが。
飛行機のなかでシングのエッセイ「アラン島」を読み返した。29年前はシングのこと走らず、ゴールウェイに2週間ぐらいいたのにアラン諸島には行かなかった。今回はアラン諸島訪問が一番の目的である。29年前には演劇もそんなに見る方ではなかったが、ゴールウェイでジョン・オズボーンの『怒りをこめて振り返れ』、ダブリンのアベイ劇場でブライアン/フリールの『貴族階級』を見たことは覚えている。あとダブリンでケルト音楽のグループ、De Dannanのコンサートに聞きに言ったことを思い出した。

今回は一週間の滞在になる。明日ゴールウェイに移動し、アラン諸島に行く以外は予定を決めていない。芝居はできるだけ見て帰りたいと思っている。



2020年3月1日日曜日

2020/02/29 ニース研修第15日 サン=ポール・ド・ヴァンス

帰国日の前日の今日は、サン=ポール・ド・ヴァンスへの遠足をミキオ企画として出したのだが、学生の参加者は3名だけだった。そのうち1名は元教員で私と同い年のSさん。あとは付添を頼んだ同僚のHさんで、5名での小規模遠足となった。
研修の疲れも溜まっているだろうし、帰国前日でショッピングなどをしたい人もいるだろうしということで、もとよりあまり積極的にこの遠足はアピールしてなかった。

サン=ポール・ド・ヴァンスに行くのは二年ぶりで四回目だ。昨年は行かなかった。ニースからは400番のバスに乘っていくが、一昨年まではニースの海岸沿いのアルベール1世公園からサン=ポール・ド・ヴァンス行きのバスが出ていたのだが、トラム2号線が開通した今年はサン=ポール行きのバスの始発が空港近くのフェニックス公園に移動していた。それに気づいたのが昨日である。トラム→バスの乗り継ぎが必要になってちょっと面倒になった。だいたいニース市の中心からは90分ほどかかる。
サン=ポール・ド・ヴァンスは高台にあり、バスは山道をうねうねと曲がっていく。城壁で囲まれた村に行く前に、村とは道路を挟んで反対側の山のなかにあるメーグ財団美術館に行った。ミロなどの現代美術のコレクションで有名な美術館だ。サン=ポール・ド・ヴァンスのバス停の一つ前で降りてから、かなり急な坂道を20分ほど登ったところに財団の美術館がある。人が空いていてゆったりと作品を鑑賞することができた。ミロのいい作品が揃っている。ミロの絵は子供の落書きっぽいが、Tシャツやトートバックなどのグッズにするとデザインとして映える。お土産ものをほとんど買わない私だが、ここでは娘の土産にミロの絵がプリントされたTシャツを購入した。
メーグ財団美術館で1時間ほど過ごしたあと、サン=ポール・ド・ヴァンスの村内に移動して食事を取った。5人だと食事を取る場所を探すのも楽だ。グーグルマップで「お手頃」で評価の高いレストランに行ったが、昼の定食が30ユーロ弱とあんまり「お手頃」ではなかったので、その近くにあったクレープ屋に入った。クレープ屋といっても、ガレットや普通のフランス料理も出すレストランだ。ちょっと中華料理っぽいものを食べたい気分だったのだけれど、サン=ポール・ド・ヴァンスにはフランス料理とイタリア料理の店しかない。私はホタテの貝柱とエビの串焼きを食べた。今日のオススメメニューとして店員に進められたものだ。見た目もフランス料理っぽくきれいでおしゃれで、味もおいしかった。他の4人はそば粉のクレープであるガレットとデザートを食べていた。私はデザートを取らず、コーヒーのみ。
5人だけの外出だと気分的な解放感が違う。すごくゆったりした気分で食事を楽しむことができた。食事後は村内を5人で途中、お土産物屋に入ったりしながらぶらぶら散策。人が多すぎなくていい感じだ。石造りの道と家々がとても風情がある。画廊もたくさんあっておしゃれで落ち着いている。今日は曇り空だったが、その空の色とも町の風景はマッチしているような感じがした。ジャン=ミシェル・フォロンがモザイク画を残した礼拝堂と町の歴史をマネキン人形で見せる博物館を見たあと、40分ほどの自由時間をとり、ばらばらになった。礼拝堂のそばの教会もいい。街全体が歴史博物館のような趣がある。
サン=ポール・ド・ヴァンスからニースに戻ったのは午後5時過ぎ。ニースの海岸に行って30分ほど海を見てから家に戻った。曇り空の下のニースの海もいいもんだ。空と海がとけあってターナーの絵のような風景だった。
夕食は家で食べる。マダガスカル料理だった。干しエビのだしで煮込んだスープ。これをご飯にかけておじやのようにして食べる。ニースではおいしいものをたくさん食べたけれど、私は家の飯が一番好きだ。今日のご飯は、フランス語よりむしろ日本語で「うーん、うまい」と言いたくなるような料理だった。実際に「うまい」と思わず声に出していってしまったのだが。

2020/02/28 ニース研修第14日 マティス美術館とオペラ

金曜日で今日が授業最終日となる。
この学校にとある用件の進捗状況について問い合わせしたけれど、返事がないので事務所に行って担当者にあって確認してくれないかという依頼が知人から入った。

この件についてメールのやりとりをしていた担当者に聞くと、「私はメールを受け取ったけれど、実際にことを進めているのは別の人間なので、そちらに聞いて欲しい。私はメールを受け取り、その内容を伝えるだけなんで」と言う。業務について責任を追求されそうな事態になると、相手がこうした責任回避の言い訳をする、あるいは返答しないで放置される、というのはフランス人と仕事をした多くの人が経験することではないだろうか? 

もちろん日本でもこういうことはしばしばある。しかしなにか面倒な事態が起こったときにこういう応対をされるのはフランス人相手のほうがはるかに多いように感じる。
この担当者にしても気さくでいいやつなのだけれど、こういうことを平然と言う。私はこうした態度は、この学校のスタッフだけでなく、フランス人全体に蔓延する宿痾ではないかと思っている。そういうものだという前提でいたほうが、こちらの精神衛生上いい。
とりあえずメールのやりとりをしていた彼には、即座に今すぐ状況の進捗・停滞についてメールで返信するように要請した。彼のいう真の担当者はまだ出勤していなかったので、そのあとまた改めて事務室に行って会い、この用件について依頼者に状況説明するように伝えた。

午前の授業が終わるまえに、学校の宣伝用ビデオ映像の撮影に駆り出される。「なんでこの学校を選んだのか?」とかいくつかの質問に答えるというもの。拙いフランス語であまり面白くないことを撮影され、公開されるのは、正直勘弁して欲しいのだけれど、まあこれくらいの協力はしないとあかんかなと思ってつきあっている。それから学校の管理部門の担当者と面談で二週間の研修の総括を行った。おおむねこの学校の研修プログラムには満足しているし、スタッフと私の関係も良好なのだが、予定の変更などについて十分な説明がされないこと、問い合わせに対してレスポンスが遅いことがあること、などを不満として述べた。

学生には二週間の研修の受講・修了証明書が教室で授与される。その様子を写真に撮りたかったけれど、こうしたインタビューを受けているうちに授業が終わってしまった。

午後は私の企画で、ニースの高台にあるシミエ地区にバスで行き、マティス美術館、考古学博物館、シミエ修道院庭園を見に行った。参加者は13名。シミエ地区にはバスで行ったがニースのバスは運転が荒い。ぐねぐね道を20分ほど上るのだけれど、車に弱い学生はぐったりしていた。バスの運転手はかなりスピードを出すし、急発進、急停車で、乱暴にハンドルを切る。スムーズな運転をする気はさらさらないみたいだ。

マティス美術館、考古学博物館では、学生は無料になるが、二年前、三年前は、マティス美術館の受付が日本の大学の学生証を認めず、交渉が必要だった。「中国語のカードを見せられても、それが学生証かどうかわからない。だからだめだ」という言い方だった。他の美術館などでは日本の大学の学生証で問題になったことはない。だいたい学生の姿見れば、学生だと見当はつくわけだし。フランスでは担当者個人の裁量で融通が効くことが多いが、たまに杓子定規に規定をたてに高圧的にふるまう人もいる。
昨年はそうした戦いは回避できたように思う。今年も大丈夫だった。日本の大学の学生証でOK。国際学生証というものを2000円ぐらい出して作ればこうしたことは回避できるわけだが、マティス美術館のためだけにこんなものを作らせるのは、戦わずして降伏みたいでシャクだ。実際、交渉でなんとかなった実績があるわけだし。
マティス美術館は作品点数はそれほど多くないが、展示室の薄暗いオレンジ色の照明の加減が絶妙だ。

高台で今はニースの高級住宅街にあるシミエ地区には古代ローマ時代の遺跡がある。入り口には円形競技場跡、そして考古学博物館には広大な公衆浴場跡がある。『テルマエ・ロマエ』というマンガがあがるが、古代ローマは現代の日本人のように入浴を楽しむ文化があったのだ。この入浴文化はローマ帝国崩壊後、ヨーロッパでは失われてしまい、フランスは風呂にあんまり入らない文化の地域になってしまったわけだが。
そのせいか、日本人の目からすると興味深い古代ローマ公衆浴場遺跡は、フランス人の関心を引かないようで、いつも空いている。前は私はアジュールリングァの学校の遠足でシミエ地区に来ていて、そのときはマティス美術館とシミエ修道院庭だけ見て、考古学博物館はすぐそばにあり、無料にも関わらず素通りだった。柵の外から見える古代公衆浴場跡の景色が興味深かったので、その翌年から学校主催の遠足からシミエを外し、自主企画遠足としてシミエに行くようにした。

シミエ修道院はフランチェスコ会の修道院だ。修道院付属の教会と庭園には一般人も入ることができる。シミエ修道院付属の聖母被昇天教会は16世紀ぐらいの建築だったはずだ。天井の装飾画が素晴らしい。祭壇はバロック様式で、隔壁によって遮られ、一般人が入ることができる身廊から内陣の様子は見えにくくなっている。大きな教会ではないが、厳かで重厚な空間だ。修道院付属の庭園からはニースの町の東側を見渡すことができる。修道院庭園は聖書の楽園を模したものらしい。
地味な遠足企画だが、私はこのシミエ散策はとても好きだ。毎年行っているが飽きがない。

バスでニース旧市街まで降り、夕食はソッカ屋でニース名物のソッカの他、ニース名物のピサラディエールやブレットという野菜の入ったタルト、ファルシなどのおつまみっぽいものをみんなで分け合って食べた。ソッカはひよこ豆が材料の塩味のクレープみたいなもの。ソッカはニースに来たときは一度はニースに敬意を払う意味で食べることにしている。正直なところ、嫌いというわけではないが、それほど美味しいものだとは思わない。ニースに来たのでとりあえず食べるローカルフードだ。ブレットは日本語ではフダンソウというらしい。葉っぱを食べる。

夜はオペラを見に行った。演目はチャイコフスキーの《スペードの女王》。演出はオリヴィエ・ピィ。オペラ公演はこの研修を始めた6年前から毎年行っている。ニースオペラ座で毎年定期的に見に来る日本人団体客はわれわれのグループだけに違いない。学生は学生券で見る。最上階のサイドで若干見にくい場所だが、料金は5ユーロだ。オペラの学生券は本来なら、公演の48時間前までに劇場窓口に本人が出向き、学生証持参で購入という条件があるのだが、われわれの団体は劇場の教育プログラム責任者の裁量で事前にメールで予約して、チケットを確保してもらている。5年前に「日本から語学研修でニースに連れてきた学生にオペラを学生券で見せたいけれど、公演48時間前までに劇場窓口に行くことはできない。どうにかならないか?」とメールで問い合わせたら、担当者が便宜を図ってくれたのだ。

研修の疲れもあって、オペラ座に連れて行っても学生の多くは眠ってしまう。でも眠ってしまってもいいと思っている。海外に研修にやってきてオペラを体験し、あの空間の雰囲気を知るだけでもいい経験になると思う。オペラの集団での鑑賞は、帰りが深夜となり、しかもわれわれの研修はホームステイなので、別々の場所に帰らなくてはならないところが難点になる。ヨーロッパの都市の深夜は治安面で問題があるので、学生たちをバラバラに自由に帰らせることには不安がある。同じ方向のいくつかのグループに分けて、できるだけ男子学生が女子学生に付き添うかたちを考える。
研修での夜の外出、それも集団での外出はいつも悩ましいのだけれど、それでもやはり私としては、昼間の観光だけでなく、ヨーロッパの都市のスペクタクルの世界を学生たちに知ってもらいたいという思いがある。夜にレストランに飯を食べに行ったり、芝居やコンサートを楽しむというのは、海外に旅行すればやってしかるべき活動ではないかと私は考える。また実際に夜に遊びに行くことで、ヨーロッパの夜の町の危険というのも感じとって欲しいというのもある。
研修の夜プログラムは、面倒とやりたいの板挟みのなかでやっている。
今年は出発日前日夜に行く予定だったカーニバルがコロナウイルス不安で中止になり、ニース国立劇場の演劇公演やオペラ座でのコンサート公演が滞在中になかったので、グループ全体での夜外出は今回の《スペードの女王》だけだった。

開演が20時で、終演が23時半ごろだった。学生に付き添って家まで戻ったら午前1時を過ぎていた。ニースはなまじタクシーを使うほど広くはないため、市内の移動がかえって面倒なことがある。市内を走るタクシーの数が少なくて、呼んでもなかなかやって来ない。
私はvélobleuという市内の自転車レンタルサービスをしばしば使っている。事前登録とフランスの携帯電話番号が必要だが、月10ユーロで乗り放題となるサービスだ。トラムは深夜まで走っているが、夜は本数が少ないので、遠くに住む学生を送ったあとなどに、このレンタル自転車サービスを利用する。

オリヴィエ・ピィ演出の《スペードの女王》は、観客を敢えて混乱させるような演出上のしかけによって、最初のうちは人物関係が把握できなくてつらかったのだが、徐々に演出上の仕掛けが見えてきて引き込まれた。プーシキンの原作は読んでいたが、オペラ版を見たのはこれが初めてだった。オペラの概要も読んではいたけれど、ピィの仕掛けによって状況が混沌としていて最初はなにがなにかよくわからない。演出については観客からブーイングも飛んでいた。オペラ化による原作の改変(このオペラへの翻案の語法もとても興味深いものだった)、ピィの挑発的な演出によって、物語は原作よりはるかに複雑なものになっていた。