2016年10月16日日曜日

2016年春ニース研修日記

2月28日(日)
二日目だけれど、語学研修は月曜からなのでまだ始まっていない。ニースのカーニバルの最終日なのだが、昼間のプログラムの花合戦は昨日で終わってしまったので、日中はソッカ(ニースの郷土B級グルメ)パーティという地味なプログラムしかない。夜にはみんなで巨大なカーニバルの王と女王を会場で燃やし、花火が上がるというクロージングのイベントを見に行くことにしていた。
日中はニースから鉄道で40分のところにあるマントンの行き、そこで行われているレモン祭を見に行くことにした。マントンはイタリアとの国境の町で、リタイアしたフランス人が大量に移住している町らしい。フランス方言地図で南仏は南仏方言あるいは訛りなのだけれど、マントンはパリ方言が有力だったようなことを覚えている。
マントンのレモン祭りは今年で83回目とのこと。2月のコートダジュールのイベントでは、ニースのカーニバルに次ぐ規模のイベントだ。プログラムは大きく二つでレモンとオレンジを使った巨大なオブジェの展覧会と海岸通り沿いの道のパレードである。パレードのコンセプトは基本的にニースの花合戦と変わらない。ただレモンとオレンジを使ったオブジェの山車がレモン祭では出る。
マントンに着くとまず観光案内書に行き、展覧会とパレードのチケットを購入する。セットチケットで一人17ユーロ。展覧会、パレードとも衝立で区切られていて、チケットがない人は中に入って見ることができないようになっている。これはニースのカーニバルも同じだ。無料にしたほうが盛り上がって楽しいのになと思うのだが。最初は展覧会を見た。10人でまとまって見ると大変なので、パレードの始まる10分前に再集合するようにした。食事も各自で取ってもらうことに。展覧会会場はかなりの人出だった。おそらく万単位の人間がいるのにトイレはしょぼい仮設が4基のみ。フランス人は外ではトイレを我慢するのだろうか。その仮設トイレの状態もひどいものだった。


展覧会自体は「チネチッタ」がテーマになっていてフェリーニの映画の場面が、レモンとオレンジのオブジェで再現されていたりして、入る前に思っていたよりも楽しめた。昼飯は近所のイタリア料理屋でラザニアの定食を食べた。サラダとラザニアとレモンのタルトで15ユーロ。まあこんなものか。味はそこそこおいしい。店はレモン祭りの観光客で大混雑。ウェイターが楽し気にユーモラスな調子でサービスしている。ある種の芸みたいな感じで。こういうところはフランスはいいなと思う。もっともパリの観光地のカフェやレストランでは、観光客をはなから馬鹿にした不愉快なウェイターもいるのだけれど(日本のサービス業ではありえない、あからさまに不誠実で差別的な)。トイレに行きたかったけれど、レストランのトイレは長蛇の列ができていた。やはりフランス人もトイレに行くんだ。外国人かもしれないが。いずれにせよこれだけの規模のイベントで仮設トイレ等のトイレ環境の貧弱さは、日本の感覚では考えられないひどさである。トイレ環境については世界でももしかすると日本が突出して素晴らしすぎるのかもしれないが、東欧諸国の人もニースのトイレ事情には不満を漏らしていたので、やはりフランスはトイレ後進国なのだと思う。せっかくレモン祭りを見にきて、トイレのことばかり書くのはなんかなという感じもするが。TOTOとかフランスでもっと精力的に営業してほしいものだ。


パレードは午後2時半から1時間半弱。椅子に座って見られるスタンド席ではなく、立見券を購入したがこれが正解だった。すぐ近くから山車を見ることができるし、演者からもいじられたりして楽しい。コンフェティ(花吹雪)を大量に振りかけられたりする。昨年のニースのカーニバルでは、初めて見るということもありスタンド席チケットを購入したのだけれど、上から距離をおいて見下ろす感じだったのでいまひとつ気分が盛り上がらなかったのだと思った。立ったままは疲れるけれど、立見でパレードを見上げるほうが圧倒的に面白い。学生たちも満足そうでよかった。
パレードが終わったのが午後4時前。このまま帰るにはちょっともったいない感じがしたので、私が愛用するフランスのガイドブック、Le Routardで必見となっているジャン・コクトーが内部フレスコ画で装飾をおこなったマントン市庁舎の結婚式場を見に行くことにした。しかし見に行ったら閉まっていた。ガイドブックを見ると週末は閉まっていると記述されていた。このまま町を一周して帰ろうかと思ったのだが、メンバーの一人の提案でジャン・コクトー美術館に行くことにした。「うーん、美術館か。時間も中途半端だしなあ」とあまり気のりしなかったのだが、結局行くことに。料金は10人グループ割引で4ユーロ。ジャン・コクトー美術館は思いのほか見ごたえがあった。作品はコクトーのものだけではなかった。演劇関係の絵が多かった。とりわけ見入ってしまったのは、ジョルジュ・バルビエによるニジンスキーの舞台のイラストだ。『バラの精』、『牧神の午後』、『シェヘラザード』等の舞台のイラストだ。


30分ぐらいさっと見て出るつもりだったけれど、1時間ぐらいいることになり、同じチケットで見られる城砦 le Bastillon の中を見ることができなかった。Le Routardによるとこの中に展示されているコレクションも素晴らしいもののようだが。また次回来るときに見ることにしよう。
夜のニースのカーニバルのフィナーレは、波が高くて危険ということで人形燃やしも花火も中止になってしまった。残念。来年春には見られますように。マントンからニースに戻ったのが午後6時ごろ。雨も強くなっていた。暗くなっていたので遠くのホストファミリーに滞在している子を送る。疲れたけれど、やはり夜遅く帰すのはよくなさそうなところだったので送ってよかったと思った。
明日からフランス語の授業が始まる。学生たちにとってはこっちのほうが本番とも言えるわけで、ちょっと緊張しているかもしれない。
2月29日(月)
今日から語学学校の授業が始まる。今年参加した研修生のうち一人はA2レベルのクラスに入ることになった。他の8人で一つのわれわれのグループ専用のクラスを作り、A1レベルで授業を行うことになった。実はこの8人のあいだでも言語運用能力にはかなり差がある。クラスを担当するのはGaël Crépieuxで彼は日本で何年も教えたことがあるので日本人学生のメンタリティはよくわかっている。教育経験も長い優れた語学教師だ。


昼は学校のそばにあるカフェテリア形式の食堂で食べる。Azurlinguaだけでなく近隣の契約企業数軒と共同で使う食堂のようだ。大学の学食よりボリュームがあっておいしい。前菜、主菜、副菜、パン、デザート、飲み物がつく。前菜、主菜、副菜、デザートは日替わりで数種類のなかから選ぶことができる。
午後はAzurlinguaのプログラムによるニース旧市街の見学ツアー。要所要所で解説が入る。パステルカラーの壁の建物のあいだに狭い路地が走るニース旧市街の町並みは、美しくて、人間くさくて、味わい深い。気候と自然景観と相談しながら美しい街並みを作った昔のイタリア人・フランス人の都市計画のセンスは本当に見事なものだと思う。何度来ても感嘆してしまう。ニースの何が素晴らしいといったら、私は都市とそれを取り囲む海と山が作る景観美だと思う。バランスのとれた調和を保ちながら、人間の暮らしと歴史を感じさせる猥雑さ、活気もある。


旧市街のいろいろな場所をめぐり、海岸沿いをかなり長く歩いたのでばててしまったが、途中からようやく晴れ間も出て(これまではずっと曇りがちで雨が時折降る天候だった)、ニースの景観を見る喜びが蘇ってきた。やはり来てよかったなあと思う。ニース近郊にはカンヌ、モナコ、エズなどの美しい小さな町や村がいくつもあるが、私にとってはニースが圧倒的に魅力的だ。今回はカーニバルは天候不順や飛行機の到着のせいで楽しむことができなかったけれど、実はカーニバルなんてニースにとってはおまけに過ぎないと私は思っている。カーニバルがなくてもニースの旧市街の夜は活気があって楽しい。そこにいるだけで映画や演劇のなかにいるようだ。
今日の遠足の最後は、フロリアンというニース屈指のお菓子屋のアトリエの見学と買い物。このお菓子屋はクレモンティーヌなど果物の砂糖漬け、スミレ、バラ、ジャスミンの花のジャムと砂糖菓子、チョコレートで名高い。アトリエでそれぞれのお菓子の工程を説明してもらったが、無添加の本物の材料を使って、丁寧に作っているのがわかる。味ももちろんいい。アトリエ見学の最後がお店で買い物となるのだけれど、やはり本物のお菓子はかなり割高なのだ。それでちょっとひるんでしまう。私はレモンとオレンジの皮の砂糖漬けを買ってしまったが。うまいことまんまと買わせてしまう流れを作っている。この流れの持っていきかたも老舗ならではという感じか。


かなり長い距離を歩いたので終了後は疲労困憊。ニースのカーニバル最終日は昨日だったが、予定されていたすべてのプログラムが悪天候で中止になったとか。マントンのレモン祭りに行ってよかった。一日遅れで今日の夜、人形燃やしをやるという話も聞いたのだが、カーニバルの公式ページやツィッターではそのような情報は見当たらない。夜に海岸に出てみたけれど、イベントが行われた形跡はなかった。
私の滞在しているホストファミリーは74歳のおばあさんと46歳のその娘の二人家族。おばあさんはかつては劇場で働き、舞台美術を作る仕事をしていたとのこと。夫はどうしたのかと思えば、離婚しているわけではなく、20年ぐらい前から別居しているそうだ。おばあさんの夫は、オランダ人なのだがチュニジアに住んでいる。かつては同じ劇場で働き、彼は劇場の宣伝関係の仕事をしていたそうだ。オランダ、フランス、スイス、モロッコで仕事をしたが、どこにも自分の居場所を見つけられず、20年ほど前に、妻子を置いて、ひとりでチュニジアにわたり、そこで一人で暮らしているという。税金関係の処理はおばあさんがフランスでやっているため、一年に一度くらい電話で話をしたりするそうだ。おばあさんとここまで書いたが、74歳だけども実はおばあさんという感じは私はまったくしていなくて、「おばあさん」と書くこと自体に違和感があることに今、気づいた。ジャックリーヌとファーストネームで彼女を呼んでいる。ジャックリーヌは引退後、それまで特にゆかりのなかったニースが気に入り、ここを終の棲家と決めた。海岸通りに近い贅沢なアパルトマンだ。7年前からホームステイ先として語学研修生の受け入れを始めたと言う。父親がイタリア人、母親がスロベニア人、自分はスイスで生まれたとのこと。兄弟一族は、カナダ、ブラジル、フランスと散り散りで、イタリアにはつきあいのある親戚はいないと言う。国籍はフランスだが、こういった多国籍で移動の人生を送っていたために、いわゆる「フランス人」にはかなり批判的だったりする。
Azurlinguaのスタッフの一人にジュリアンという若いハンサムな男がいて、彼はアルゼンチンとイタリアの二重国籍とのこと。スペイン語、イタリア語、フランス語が堪能だ。彼の両親はアルゼンチンへのイタリア系移民だそうだが、彼にとってはイタリア語はあえて学んだ言語で、国籍はあるもののあまりイタリア系を意識したことがないそうだ。
フランスでは排外主義のFNが勢力を伸ばしているけれど、人の移動が激しいヨーロッパではこのように国籍を超えて生きている人は数多いはずだ。国籍やナショナリズムっていったいどれほどのものだろうと思ってしまう。単なる生きていく上での「便宜」に過ぎないじゃないか。もともと私が無国籍のノマドな生き方にあこがれを持っているからこんな風に考えるのであるが。
3月2日(水)。
風邪ひいてのどが痛い。熱はなさそうだし、体のだるさもないのでインフルエンザではないと思う。でもちょっときつい。
学生は午前中授業だが、私は授業がないので朝寝坊した。昼前に学校に行って、学生たちの授業が終わるのを待って、一緒に昼飯を学校のそばの食堂で食べる。今日の午後は何の予定もない。天気がよかったのでそのまま家に戻るのももったいない感じがして、海岸通り沿いにある高級ホテル、ネグレスコ・ホテルのカフェに学生数人と一緒に行った。この前の夏の研修時に、ルーマニア人の先生がこのホテルのカフェに行った話を聞いていて、興味を持ったのだ。そのときにホテルのカフェの写真も見せてもらった。
ホテルの入り口から入ろうとしたら、「カフェはあっちだ」と30メートルほど離れた場所に行けと言われた。確かにカフェがそこにある。中でお茶を飲んだものの、内装は私が思い描いたものとは違う。壁の絵も装飾もどこか安っぽくて高級感が乏しい。値段はエスプレッソの大が8ユーロと少々割高ではあるがむちゃくちゃ高いというわけでもない。後で家に帰ってみると、私がルーマニア人に見せてもらたのはホテルにある「サロン」のいくつかであり、私たちが今日入ったカフェとは別の場所だ。彼女たちはどうやってあのサロンでお茶を飲んだのだろう? なんか私が聞き間違えをしていたのか。
一時間ほどカフェで過ごして、海をちょっと見てから、学生たちと別れ、家に戻る。途中のどの痛みを和らげるスプレー(よく効く)と酔い止めの薬を買った。家で1時間ほど眠る。
夜はニースで知り合った友人たちと食事。イタリア料理屋に行ったのだけれど、体調がいまひとつで食欲がない。せっかくおいしい料理だったのに、だいぶ残してしまった。おまけに彼らに渡すはずのお土産を家に置き忘れていた。金曜に彼らの家まで届けに行くことになった。


体調崩してさえない一日だった。一晩寝てよくなりますように。
3月3日(木)。
朝起きるとやはりのどがまだ痛い。若干熱っぽい感じもあり。体も重かったが、11時にAzurlinguaのスタッフと会う約束があったので家を出る。Azurlinguaはニースにある私立のフランス語の語学学校で、規模もそれほど大きくないのだけれど、毎年夏に世界中から先生を集めてフランス語教員向けの研修を行っている。私がこの学校と付き合いができたのも二年前にその研修に参加したのがきっかけだった。日本フランス語教育学会の告知でこの研修を知ったのだけれど、とにかく夏のバカンス時期のニースで二週間過ごせるのだったら素晴らしいではないか、と思ったのが応募の本当の動機で、研修内容にはあまり期待はしていなかったのだ。実際バカンス時期のニースの狂騒的な雰囲気は最高だ。しかし研修内容もこれまでブザンソンやケベックでの研修以上に実践的で内容の濃いものだったし、スタッフの歓待ぶりにも感激した。そして世界数十か国のフランス語の教員が同じ部屋で研修を受け、一緒に食事をし、遊びに行くという濃密な文化交流がとても刺激的で面白かったのだ。
この教員向けの研修を今年度はリニューアルして、Universités du mondeというより大規模なプロジェクトにしたいとスタッフは考えている。このプロジェクトの主催は、Azurlinguaという学校名ではなく、Bonjour du monde という名前で行っている。
今日の午前中、このBonjour du mondeの遂行スタッフとの話では、日本から10名のフランス語教員を夏のuniversités du mondeに招聘し、そのうち何人かには研修で講師を行ってほしいというものだった。その仲介役を私にやってほしいというリクエストだ。「講師招聘にはお金が必要だ、研修費用はどうするんだ?」と聞くと、まず日本の日本フランス語教育学会の責任者と連絡をとり、企画プレゼンを行い、さらに日仏学院やフランス大使館と交渉して予算を取って欲しいと言うのだ。私には荷が重すぎる任務だ。自分が一介の非常勤講師に過ぎないこと、フランス大使館に交渉しようにもそのつてがないことなど説明したが、日本よりもっと貧しい国からも派遣しているのだから不可能ではないと言う。うまくいくにせよいかないせよ、8月のはじめにまた私がニースに行くことはほぼ確定になった。彼の期待に応えることができないかもしれないけれど、とにかくできるところからこの仕事を進めていくことにした。
昼食を食堂で食べたあと、午後は学生たちとモナコへ遠足のプログラム。風邪でしんどかったけれど同行しないわけにはいかない。15歳のイタリア人の団体と一緒に行った。このイタリア人たち、日本人のわれわれに興味津々の様子だったので、話しかけて見ると、喜んでどんどんこちらに入ってくる。本当にうるさくて元気。フランス語の勉強に来ているのにほとんどイタリア語でしか話さないし。イタリアの学校の教室はさぞかし騒がしいだろう。


モナコ観光はコートダジュール観光でははずせないプログラムだ。治安がよくて、町は清潔。今日のモナコ遠足は出発時間が遅かったため駆け足で、モナコ公国宮殿広場とカテドラル、モナコ海洋博物館を見学する。崖を背にしてオレンジ屋根様式の建物が並ぶ景観は面白いけれど、個人的にはモナコ公国というのは大金持ち成金主義者のための人工的遊園地みたいで、コートダジュールの町の中でもつまらない町だと思っている。
モナコ観光しているあいだにだいぶ体調が回復してきたことを感じる。のどはまだちょっといがらっぽいけれど。夜はホストファミリーと食事。日本のことをフランスのテレビはよく報道している。ベッキーの不倫騒動もフランスのマスコミは、不思議な日本の事例として取り上げていたようだ。話題に出てきて最初何のことかと思えば、ベッキーの不倫の話でびっくりした。フランス人は好奇心旺盛だ。それが時に悪意のあるもの、あるいは善意ある誤解に基づく関心であっても、日本の文化や社会にこんなに関心を持っている西欧の国民はいないのではないだろうか? 
3月4日(金)。
今日で一週間が終わる。午前中はニースの友人の家にリクエストされていた帯と袴を届けに行った。帯は帯として使わず洋服の上から首からかけて腰に回して使うみたいだ。重そうだけど。袴はスカートとして履くのだろうか。帯は彼女が思っていたより立派なものだったらしく、喜んでいた。ただし古着の帯だったので二本持っていたうち一本はちょっと薄汚れたところがあった。グーグルで検索したネットショップで購入したものだったが、汚れについての記述はなかったように思う。ちょっと遺憾。値段は安かった。帯2本(古着)と袴で7000円くらいだったと思う。


食堂で学生たちと昼飯を食べる。食堂はカフェテリア形式で、前菜、主菜、副菜、パン、デザート、飲み物でかなりのボリュームがある。味も悪くない。こんなかんじである。


午後は学校主催の文化学習でニース現代美術館に行った。ここは面白い作品がコレクションされているだけでなく、空間をたっぷり使った作品の配置が上手い。私は現代芸術にはそれほど関心があるわけではないけれど、作品の魅力を引き出す見事なレイアウトのせいでじっくり見入ってしまう。2時間ぐらいはゆったり過ごせる充実した美術館だ。学生は入館料無料。コレクションの目玉はニース出身の単色の画家イヴ・クラインの作品だろう。白い壁面に配置されたクラインの鮮やかな青は圧倒的な存在感を示している。


ニース現代美術館のもう一つの目玉は屋上の庭園からの町の風景だ。現代美術館自体は7階建てのビルぐらいの高さしかないのだけれど、高層建築のないニースの街並みを一望することができる。オレンジ色の屋根の街並みが作るニースの景観美は本当に素晴らしい。美術館は下から順番に上ってみるのだが、この景観にそれまで見た作品の印象が薄れてしまうほど美しい。


二時間ほど美術館で過ごして解散。夜にニース国立劇場でクローデル『マリアへのお告げ』を一緒に見る学生3名と旧市街を散策してお菓子の買い物に付き合って、観劇前の早めの夕食をサレヤ通りのレストランで取った。本当はクスクスが食べたかったのだけれど、レストランの営業は通常7時からなのでそれを待ってから飯を食べると芝居に間に合わない。ノンストップのサービスをしているレストランを事前に調べていたのだが、行ってみると閉まっていた。それで旧市街でも観光スポットのサレイヤ通りのレストランに呼び込みに呼び込まれるままに入ってしまった。サラダ、ピザ、ムール貝、パスタ、パエリヤなど一通りあるいかにも観光客向けのレストランだったが、店員は愛嬌があって感じがよく、値段も高くなかった。私と学生一人はムール貝+ポテトを、別の二人の学生はニース風サラダを注文。料理もすぐ出てきて、意外なことにボリュームがあり、かなりおいしかった。もっともムール貝とサラダはどこで食べてもそこそこ同じくらいおいしいのかもしれないけれど。


値段はサラダ、ムール貝とも12ユーロ50サンチーム。80分くらいレストランにいて、劇場に向かう。日が暮れたあとの旧市街のくすんだオレンジ色の照明がかっこいい。この照明を選んだ人がいて、そして町全体でそれをそろえるというコンセンサスが形成されるというのは驚くべきことだ。チェックしていたジャズバーを見つけた。日曜夜に行くつもり。


クローデル『マリアへのお告げ』は2時間半休憩なしのノンストップの公演だった。チェロ2台の伴奏でのインストの音楽、そして俳優たちが歌う歌がとてもいい。しかしフランス語はほとんど聞き取れなかったことにショックを受ける。クローデルのことばは詩的で難しいとはいえ、なんということだ。事前に翻訳では読んでいたので、登場人物や舞台上で起こっていたことはほぼ理解して見ていた。ことばがわからないままで見た、暗めの照明が続くストイックな演出の舞台だったが眠くはならなかったのは、やはり俳優の力ゆえだろうか。今日、一緒に見た学生も翻訳は事前に読んでいる。彼らはどれくらい楽しめたのだろうか。
方向音痴でほかの学生とは外れた方向に住んでいる学生を家の近くまで送ってから、深夜バスを使って帰宅。
3月7日(土)。
今日は学校主催の遠足でカンヌへ行った。雨の予報が出ていたので今日行くかどうかはちょっと迷った。昨年はカンヌに行った日、カンヌ沖合のレラン諸島にいるときに暴風雨に遭遇しずぶぬれとなり、遭難しかけたという苦い体験があったからだ。突然の天候の急変だった。二時間近く濡れたまま掘っ立て小屋のようなところで立ったまま待機して、迎えの船を待った。空腹だったし、寒かったしで、「遭難しかけた」というのは誇張ではない。昨日、学校のレクリエーション担当の人と話し合って、雨でも予定通りカンヌには行く、ただし雨が強くなりそうなときは島には渡らないことにした。
ニースからカンヌまではローカル線で40分ぐらいだ。カンヌはニースよりこじんまりした町だが、ブルジョワが集まる観光地としてにぎわいがある。幸い天気予報は外れ、風は強かったけれども好天に恵まれた。最初はカンヌのマルシェへ。そこでいったん解散。自由時間30分ほどのあいだに、徒歩地域の商店街で昼ご飯となるサンドイッチ等を購入する。


正午丁度の船でカンヌの沖合15分ほどのところにあるレラン諸島のサントマグリット島に渡る。17世紀に鉄仮面が幽閉されていた監獄があるところだ。この監獄のある建物は博物館になっている。
港を守るための城塞が島内に築かれていて、城塞内には兵舎が並んでいる。この兵舎は今は臨海学校などの宿泊施設として使われている。オレンジ色の壁とくすんだエメラルド・グリーンの戸の配色がかっこいい。


島内で2時間ほど過ごしてカンヌに戻る。帰りは風が強くて海が大荒れだった。カンヌ映画祭のメイン会場の前で記念写真を撮る。カンヌ観光の定番だけれど、レッドカーペットは敷かれおらずあんまり雰囲気が出ない。午後3時半ごろ、カンヌ駅に戻る。列車がことごとく遅れていて、私たちが乗る予定だったローカル線列車がなかなか来ない。それよりさきにやはり遅れて到着したTGVがホームに入ってきた。ニースのあたりではTGVと在来線の線路が共用なのだ。TGVの乗車には予約必須で、われわれは乗ることができないはずなのだけれど、学校の引率者のエリックが列車の乗務員と交渉したところ、二駅だけだし、終着はニース駅だからということで、予約なしでこのTGVに乗り込むことの許可が出た(ようだ)。こういう融通が利くのがフランスっぽい。
夜は今回の私のグループの研修生のひとりが寄宿しているホストファミリーの旦那さんが俳優で、インプロビゼーションのショーをやるというのでそれを見に行った。この俳優の旦那さん、Henri Concasさんがインプロで何か演じるのかと思って見に行ったらそうではなくて、彼はアニメーター、司会進行役だ。巧みな進行でくじで観客を選んでステージに呼び、4人組を作らせて、これもくじでひいたお題に合わせて即興で劇を作り、演じさせるという観客参加のイベントだった。くじで私の名前が当たったらどうしようとどきどきした。扮装用の衣装が用意されていた。休憩をはさみ4人組で8組が演じた。午後8時からだらだらとはじまって終わったのが11時過ぎ。観客の大半がConcasさんの知り合いだったみたいだが、のりのりで即興演劇を楽しんでいる。観客席に座った観客の反応も大きい。


コンカスさんがこの即興演劇プログラムの優れたアニメーターであることはよくわかった。構成、即興のお題、演技に向かわせるためのキュー、出演者の紹介などにいろいろな細かい配慮がある。いくら知り合いが観客でのりがいいといっても、これだけの人数を舞台に上げてショーを成立させるのは大変なことだ。即興のプログラムは語学教育にも応用可能だし、語学教育以外の分野でももちろん応用可能であることがよくわかるプログラムになっていた。あとでコンカスさんに聞くと、語学教育研修や、医者の教育研修なども行っているそうだ。
今日のプログラムはコンカスさんが家族全員で準備していた。奥さんが女優と制作。そしてふたりの娘さんもかかわっている。まだ12歳の下の娘、オルネーラちゃんは司会進行役としても活躍していた。この子、司会進行ぶりが達者で、見た目も本当にかわいい。一緒に写真を撮ってもらった。コンカスさんとも終演後、一緒に写真を撮る。
3月6日(日)。
風邪をまだ引きずっていて痰がらみの咳が出る。あと日中、昼頃にお腹が張ってガスが出る。毎日出かけているので疲れが取れない感じがする。明日からの五日間は私も午前中の授業に出てみたいのだけれど迷っている。
今日は日曜なので学校のプログラムはない。午前中はシャガール美術館に行った。第一日曜は無料開館日なのだ。シャガール美術館はニースの美術館のなかでも足を運ぶ価値のある美術館だと思うのだけれど、どういうわけか学校のプログラムではシャガール美術館見学の活動は含まれていない。ここもフラッシュなしなら館内の撮影は可能である。明日の夜、シャガール美術館でピアノとバイオリンのコンサートがあるのだが、そのリハーサルを公開でやっていた。明日の夜のコンサートは学生数人と聞きに行く予定である。学生の料金は5ユーロ。


昼飯はニース駅近くのケバブ屋でケバブを購入。歩きながら食べた。午後1時ニース発の路線バスにのって、ニースの西側の山の上にある村、サン・ポール・ド・ヴァンスに行った。南仏のこのあたりにいくつかある中世っぽい景観の「丘の上の村」のなかでも、ニース東側にあるエズと並んで有名な村だ。シャガールが晩年をこの村で過ごしたほか、ブラック、ミロなどの多くの芸術家がこの村に滞在した。山の頂上付近に作られた石造りの城塞のような村の路地にはギャラリーやお土産物屋、レストランなどが並んでいる。観光化はされているけれど、村のたたずまいは観光と折り合いをつけ保持されている。



城塞の村を見学する前に、村から15分ほど歩いた山の中にあるマーグ財団美術館に行った。
ジャコメティ、ミロ、ブラックなどの現代美術のコレクションで知られている美術館だ。入館料はグループ割引きで一人10ユーロ。館内で写真撮影するにはさらに一人あたり5ユーロ支払わなくてはならない。作品点数はそれほど多くない美術館だけれども、展示された作品は選りすぐりで、その展示の仕方も贅沢で大胆な空間の使い方がされていて、楽しんでみることができた。立体作品が多い現代美術は見せ方の演出、展示のレイアウトが重要だ。トイレも清潔で、ニースとしては高レベル。


サン・ポール・ド・ヴァンスはエズよりは少し広い。2時間もあれば町全体を歩くことができると思う。人出はかなり多い。7月、8月のバカンス時期になると人込みのなかを歩くみたいな感じになるのかもしれない。中世ファンタジーの映画のセットのようなこの景観が、過剰な俗化に抗しつつよくこの状態でずっと保存されていたものだと感心する。ここには3500人ぐらいの住民がいるそうだ。でも正直、ちょっと観光地過ぎるところが気に入らない。ギャラリーが多いのだけど、中には観光客目当てのつまらない売り絵を並べたギャラリーもあってそういうのを目にしてしまうとちょっと興ざめしてしまう。しかたないのだけれど。人が比較的少ない今の時期に来てよかったと思った。



夜は家でご飯を食べる。家主のジャックリーヌはイタリア系なのでイタリア料理が多い。今日はサラダとラビオリにひき肉トマトのソースをかけたもの。ジャックリーヌの料理は絶品と言っていい。素材もいいのだと思う。サラダのドレッシングはオリーブ油とバルサミコ酢。この二つは日本にも買って帰ろうと思っている。夜の食事時のジャックリーヌとのおしゃべりが楽しい。
食事後は疲れていたけれど外出して旧市街に行った。学生のなかにジャズ研に所属してサックスを吹く子がいて、彼女のリクエストで旧市街のジャズバーにライブを聞きに行くことにしたのだ。私もどんな雰囲気だか知りたかったので彼女のリクエストに乗った。するとほかにも何人か行きたいという子が出てきて、サックス吹きの子だけを連れていくわけにもいかず、私を含め6名で深夜の旧市街のジャズバーに行くことになった。


行ったのはニース旧市街の奥にあるShapko Barである。いくつかあるジャズライブの店でここが一番よさそうな気がしたのだ。40席ほどのこじんまりした小屋だった。チャージはなく、ドリンク一杯で音楽を楽しむことができる。昨夜はベースのPierre Marcusを中心とするサックス、ピアノ、ドラムのカルテット。6人の日本人がぞろぞろ入ってきて「いったいなんなんだ?」って感じだったが、バンドも客も店もオープンな感じで歓迎してくれて感じがよかった。音楽はスタンダードなジャズをスタンダードなジャズっぽく演奏するという感じ。演奏のクオリティはかなり高いように思った。客は常連っぽい人が多かったが、ちゃんと音楽を楽しみに来ていることがわかる聞き方。小屋全体がフレンドリーでいい感じだった。ベースのピエールは昨年12月に大阪に来て演奏したそうだ。すごく気さくなかんじでライブの途中でこちらに声をかけてきたり、終演後はこっちの研修生に頼まれ一緒に写真を撮って、なんか話していた。
ちょっとした事件もこのライブであった。飲み物だが、私はこの研修ではアルコールは禁止にしていた。私自身は下戸なのでアルコールは飲めないし、やはり「先生」、引率責任者としてはアルコールを認めるわけにはいけないだろうと。しかしこのジャズバーでは、女の子たちにアルコールを頼む人がいたのには気づいていたけれど、見て見ぬふりをしていたのだ。カクテル一杯ぐらいだから、まあいいか、と思って。これがよくなくて、5人連れてきたうちのひとりがカクテル半分くらいしか飲んでなかったのだが、酔って腰が立たなくなってしまったのだ。ライブの途中からうつらうつらした感じだったので、疲れて眠っているのかなと思ったら酔っぱらっていたのだ。
深夜0時過ぎに店を出た。タクシーをその場にいた客のひとりが電話呼んでくれたが、徒歩地域の旧市街にどこからタクシーがやってくるのかまったく見当がつかない。10分ほど待ってタクシーが来る気配がないので、タクシー乗り場までとりあえず歩くことにした。ニースの場合、タクシー乗り場でタクシーが待機していることはまずない。そこから電話して呼ばなくてはならない。そのタクシー乗り場までの500メートルほどの道を、酔った子に歩いてもらうのが大変だった。奇跡的に流しのタクシーがあって、それを捕まえることができた。酔った子とその子と同じ家に住んでいる子はそのタクシーに乗せた。もう一組ちょっと遠いところに住んでいる二人がいたので、タクシーを電話で呼ぼうと思ったのだが、私のフランスの携帯電話の番号使用期限が切れていて電話できない。データ通信はあと20日ほど利用可能で、パケットにも余裕があったのだが、電話番号の使用期限は昨日で終わっていたのに気づいていなかったのだ。それでタクシーを呼ぶことができない。結局、ちょっと遠くに住んでいるその二人を家まで送り、さらにそれから自分の家に1時間ほど歩いて戻った。深夜1時台のニース市街は人がほとんどいない。逆にたまにいたりすると怖い。かもめがぎゃあぎゃあ鳴きながら飛んでいるのも不気味だった。また寒かったし。
夜だったのと疲労のためか、歩きなれたはずの道を間違えてしまい、家に着いたのは午前2時過ぎだった。
酔ってしまった子は深く反省していたようだが、これは私の判断ミスで、学生の監督の仕方が甘かったのだ。どこで線引きするかはきっちりとしなくてはならない。無事でよかった。今後の教訓にする。
3月7日(月)。
2週目に入った。私は先週の半ばから風邪をひいているが、学生にも風邪をひいている人が数名。みな同じ症状でのどの痛みが最初にあり、それからたんがらみの咳が続く。私の咳も続いているので薬局で薬を買った。ジャム状になっていて砂糖は入っていないけれど甘い。成分を見るとカルボシステインとなっている。日本で風邪をひいたときに処方されるものと成分は同じだ。ただし日本では一回分500ミリグラムであるのに対し、フランスの市販薬では750ミリグラムになっている。
昨日は深夜2時すぎに帰宅して、しかも長距離を寒い中歩いたためにぼろぼろの状態だった。なので今日は週初めのクラス編成替えだけれど寝坊。本当は二週目は私も授業に潜らせてもらおうとおもっていたのだが。今日の午後は何も予定がない。昼飯を食堂で食べたあと、学生たちは町に買い物に出かけたようだ。ただ月曜午後は旧市街の店舗で休みが案外多い。私はサレヤ通りで月曜だけに行われている古物市を冷やかしたあと、海岸に出て寝っ転がっていた。今日は快晴で暖かかった。海岸にはかなり多くの人が寝そべっている。小さな子供連れの家族もいた。水着の人もいる。すごくゆったりした気分で1時間ぐらい寝っ転がっていた。


夜は八時から学生三名とシャガール美術館にピアノとバイオリンのコンサートを聞きに行くことになっていた。予約は午前中に電話でしたのだが、「学生チケット三枚」と伝えたところ、「学生であることを証明するものを持ってきてください」と念押しで言われた。決済はカードで電話で番号を告げる(これがちょっと不安だった)。学生料金はたった5ユーロだ。一般料金は15ユーロ。これまでニースの美術館等で学生料金で払っても、学生証などを求められることがなかった。学生の多くは学生証は持ってきてないし、国際学生証など作っているものは一人もいない。まあそういった証明がなくても、彼女たちを見たら学生だってわかるのだが、こうした融通が利くのがフランスのいいところだ。今回のシャガール美術館のコンサートでは、電話で念押しされたのでもしかすると「見せろ」と言われるかな、そうしたらどうしようとちょっとドキドキしていた。
コンサートに行く学生とニース国立劇場前の広場で18時15分に待ち合わせしていた。しかしこの待ち合わせ場所は最悪だった。月曜はニース国立劇場もその正面にある現代美術館も休館。この休館日の劇場前広場は、やばそうな若い連中のグループのたまり場になっていたのだった。こんな不穏な雰囲気をニースで味わったのは初めてだった。一番最初に到着したのは私だったが、酔っぱらっているのからりっているのかわからない若い男から「犬を食ったか?」と絡まれる。ほかにも数グループ。がらんとした広場にはヒップホップがガンガン流れている。こんなところで若い女性と待ち合わせをするなんてどうかしている。
コンサートが始まる時間を考えると夕飯をとる時間はそんなにない。旧市街を歩いていたときにチュニジア料理屋を見つけた。ケバブ屋の前にある簡易食堂という感じの店だ。チュニジアというと私はクスクスしか知らなかったのだが、その店の看板にはオムレツみたいな料理の写真があって気になっていた。料理もすぐに出てきそうだ。そのオムレツみたいな料理以外は、甘そうなお菓子が十種類ぐらい売っていた。学生に時間がないので飯を食べるなら「ソッカか、ケバブか、チュニジア」と聞くと、これまで食べたことがないチュニジア料理になった。私も初めてである。



オムレツみたいに見えた料理はブリックというチュニジアの郷土料理だった。B級ファストフードだ。クレープに卵と葉野菜を包んでオリーブオイルで揚げたものだった。端っこは油っこくてぱりぱりしている。すぐに出てくる。そして私はかなりおいしいと思った。ソッカよりはこっちのほうが好きだ。ボリューム感はケバブほどではないが、油で揚げているので満腹感はある。一番簡素なものは5ユーロ。私が食べたいろんな具が添えられているのは10ユーロ。おじさんも愛想がよくて感じがいいし、またニースではこの店に寄ると思う。時間がないときにさっと食べられるものが増えるのはありがたい。
シャガール美術館のコンサートは、チェコ人のバイオリニストと日本人のピアニストのコンサートだった。チェコ人ではなくモラヴィア人というべきかもしれない。学生の身分チェックは結局なかった。受付で名前を言ったら、予約していた枚数のチケットと決済のレシートを渡され、それだけ。こういったルーズさはありがたい。
今日のプログラムはヤナーチェクの《ピアノとバイオリンのためのソナタ》、ラヴェル《ヴァイオリンソナタ第二番ト長調》、ベートーヴェン《ヴァイオリンソナタ9番イ長調》だった。ヤナーチェクの曲については演奏前に、モラヴィア民謡の引用やその変形のさせかた、子音が連続するモラヴィア語を模倣したパッセージなどいくつか説明付きで一部を演奏したうえで、全曲を聞かせるという念の入れようだった。ラヴェルの曲は超絶技巧が披露されるが、曲自体はとらえどころがなくて私はよくわからない。圧巻はベートーヴェンの9番だった。呼吸を合わせ、対話を行うように演奏を続ける二人の演者から発せられるオーラが会場全体を包み込み、音の流れに魂が持っていかれるような感覚を味わう。こういう感覚はライブでしか味わえない。こんな音楽をシャガールの巨大なステンドグラス、《魔笛》、《火の鳥》などの舞台デザイン画が展示された空間で聞くことができるなんて、なんという体験だろう。学生たちとこういう体験を共有できることを本当に幸せに思う。
終わった後の帰りがいつも問題。学生たちを二軒、別々の家に送ってから、40分ほど歩いて帰宅。タクシーを呼ぼうかともちょっと考えたけどやめた。タクシーだとニース市内の移動でもなぜか20ユーロぐらいはとられてしまう。タクシーもすぐにくればいいのだけれど、これがなかなか来なかったりするし。
幸か不幸かニースは歩いて移動可能なサイズの町なのだ。本当によく歩いている。夕方の国立劇場前の風景と昨夜の深夜の市内横断でちょっと怖い思いをしているので、今日も深夜人気のないニースの町中を歩くのは気が重かった。でも仕方ない。
3月8日(火)。
今日から午前中は私も授業に出ようと思っていたのだが、出るつもりのクラスが今日だけ午後開講だった。明日、明後日の二日間だけだけど、このクラスに出ることを教務担当の責任者に告げる。
昼ご飯を食べた後は、ニースから列車で20分ぐらいのところにあるアンティーブという町に遠足に行った。ニースを対岸に臨むこじんまりした町だ。しかし城壁が一部残る旧市街や海辺の風景は本当に美しい。ニースより落ち着いて静かな雰囲気がある。しかしさびれているわけではない。港には個人所有のクルーザーが数多く係留し、町中の商店街は賑わいがある。ピカソ美術館は石造りの立派な建物だけれど(確かかつては城塞だったはず)、ここに収蔵されているピカソの作品は後期の子供の落書きのような絵が中心であまり面白味がない。むしろピカソ以外の作家の作品のほうが面白いものが揃っている。この美術館での滞在時間は30分ほど。あとは町をぶらぶらと歩き、アイスクリームを食べたり、何軒かのお菓子屋さんやパン屋を冷やかして2時間ほど過ごした。


夜はニースの北部の山の手にある現代美術センター(ここは美術系の大学らしい)に行き、リトアニアのまだ若い女性映画監督、アランテ・カヴァイテの『夏』という作品を見に行った。監督が招かれたレクチャー付き上映会だった。この監督はパリに留学していたそうでフランス語が達者だ。とにかくよくしゃべる。
この上映会イベントは、昨年夏にAzurlinguaで受けた映画史のモデュールの講師 Kaloust Andalian 先生が関わっていて、アンダリアン先生からFBで招待されて知った。この先生の授業を20時間でフランス映画史のエッセンスを学ぶというもので、短い時間ながらしっかりと構築されていてとても映画の味方、分析の仕方をしるうえで勉強になった。それまで体系的に映画史を学んだことがなかった私は、フランス文化における映画というジャンルの重要性もこのモジュールを通して実感することができた。ニースの高台にある美術学校の入り口の門のところに先生がいて挨拶すると、再会をとても喜んでもらい、学校内をひととおり案内していただいた。


映画は10代半ばにして生きる意味を見失い、倦怠に陥った少女の不安定な心理を描いたもの。作品のテーマはあまり私の関心をひくものではなかったが、二人の少女の美しさは驚異的。音楽を使用しすぎるところが気になったけれど、抒情的で繊細で美しい作品だった。
夜は家の近所のレストランでクスクスを食べる。本当はモロッコ系クスクスを食べたかったのだが、入った店はチュニジア系だった。一人飯は私だけ。店員は感じよく、クスクスもおいしかった。

3月9日(水)
今日はフランス国鉄SNCFとパリ地下鉄RATPのストライキの日で、このほかにもいくつかの組合のストがあったらしい。ニースの交通機関もストだという話を聞いたがよくわからない。午後にはバスは走っていたがもしかすると間引き運転していたのかもしれない。
今日、明日と午前中はB1レベルのクラスに潜らせてもらうことにした。もっと高いレベルのクラスも開設されていたのだけれど、それらのクラスは人数が多くて潜るのは申し訳ない感じがして遠慮した。私が潜ったクラスはルーマニア人の女性二人、ドイツ人男性一人、ベルギー人女性一人プラス私で計5名。年齢はみな40歳前後だろうか。この学校ではだいたい12名くらいをクラス人数の上限に設定しているようだ。一週間単位で受講可能になっている。午前の授業は8時45分から12時まで。間に15分休憩が入るので大学の授業二コマ分ということになる。ヨーロッパ人、中南米人の受講生は、口頭表現はかなり達者だけれど、文法的知識はそれほどでもない。B1レベルのクラスでも日本の大学の初級文法をカバーできていない感じだ。今日は過去時制についての練習問題をやった。文法は初級だけれどその半面、絵や写真を見せて、そこからコンテクストを作り出し、会話を作るとか、テクストの内容について説明させたりするようなタスクでは彼らは積極的に発言する。日本の教室だと、人前で間違ったことを話すことを恥かしがる学生が多く(発音やつづり字の読み方、文法的な間違いなど)、言葉を引き出すのにすごく苦労することが多い。言葉をはっきり声に出して発音しないことには、外国語が上達しようがないのだけれど、これは学生の身に染み付いた文化なので、いくら口で「声に出さなきゃ伝わらない。間違っても恥ずかしない。たとえ間違ってたことを言っても声に出していうことが大事なんだ」と唱えてもだめだ。声を引き出すような仕掛けが必要なのだけれど、30人ぐらいいるクラスだと難しい。結局一年たってもフランス語のつづりと音の関係も身につかない学生が出てきてしまう。ネイティブの先生が教えても解決しない。
昼飯を食堂で食べたあとは、イギリス人遊歩道にあるニースを代表する高級ホテル、ネグレスコホテルに行った。この前の夏にルーマニア人の先生からこのホテルのカフェでお茶を飲んで館内の豪華な広間や美術コレクションを見たという話しを聞いて、先週学生と来たのだが、ホテルのドアマンに「ここは入れない。カフェはあっちだ」と言われて行ったカフェは、私がルーマニア人に見せてもらった写真とはまったく異なるどうってことのない内装のカフェだった。
ルーマニア人の先生にメッセージを送って聞いてみると、彼女たちが行ったのは私たちが行ったカフェとは別のホテルの館内にある別の場所のようだった。フランスのガイドブックを読むと「王のサロン」という場所の説明があって、ここがまさに私たちが行きたかったところのようだ。宿泊客でなくても見学できるようなことがガイドブックには書いてある。そこでもう一度チャレンジしてみることにした。私以外に学生二人と今回の研修に参加している武蔵の英語の先生一人が同行した。ネグレスコはニース随一の高級ホテルなので入るのはけっこうビビる。この前追い返されたホテルの入り口には掲示があってそれを読むと「客clientでない者は中に入ることができない」といったことが書いてあった。
この掲示を見てひるんでしまい「やっぱりだめなのかな?でもガイドブックには見られるようなことが書いてあるのに」と思い、レセプションで聞いてみた。するとやはり「客 clientではないと中に入れることはできません」という返事。ガイドブックには見られると書いてあると言うと、一年前から見られないようにしたんだ、とのこと。
「いったい客le clientってどういう意味ですか? ホテルの宿泊客でないとだめということか?」と聞くと「いやそんなことはない。レストランやバーの客、レセプションなどの客もわれわれの客だ」との返事。
「バーの客? それではバーで何か飲み物を頼めばいいのか?」と聞くと「もちろん」とかえってきた。それだったら問題ない。もとより何か飲み物は飲むつもりで来たのだから。ホテルのバーは午後2時から5時まで開いていて、ちょうど2時過ぎだった。バーの内装はカフェよりよっぽどリッチな雰囲気だった。客は我々以外には二組だけで空いている。バーは一般客にもオープンといっても、さすがにこんな機会でなければ私は入る勇気はなかっただろう。コーヒーは一杯7ユーロで、むちゃくちゃ高額というわけでもない。


バーでコーヒーを飲んだ後、バーの向こう側にある「王のサロン」を見学。なんという贅沢な空間。楕円状のサロンの周囲の廊下には数々の美術品が展示されていて美術館のようだ。トイレの内装も豪華絢爛。ぱちぱちと何枚も写真を撮る。王のサロンにいる客はわれわれを含め3、4組しかいなかった。ホテルの玄関の横には、王のサロンよりこぶりなヴェルサイユのサロンがあり、ここの調度品、装飾も見事だった。


ネグレスコ・ホテルのサロン見学の後は、道を挟んでネグレスコ・ホテルの隣にあるマセナ美術館に行った。もとはマセナ元帥一家の個人邸宅だった建物だ。20世紀初頭の建築だが、建築様式は19世紀前半のナポレオン一世時代のイタリア風別荘様式になっている。この美術館に入るのは初めてだった。今回入ろうと思ったのは、ここで行われている特別展のタイトルが「人生?あるいは演劇?」というもので、演劇関係の作品が展示されていると思ったからだ。画家の名前、シャルロッテ・サロモンについては私は全く知識がなかった。入館料は学生は無料、一般は一〇ユーロ。この一〇ユーロのチケットで四八時間以内ならニース市内の一四の美術館を見ることができる。


マセナ美術館の展示室は三階に分かれている。一階は建物の内部装飾と調度品を見るところ。ネオ第一帝政様式のこれらの装飾と調度の贅沢さも驚異的なものだ。思わず嘆声が漏れる。二階はこの館の持ち主だったマセナ一族の所蔵美術作品の展示だが、これは一族の肖像画と19世紀から20世紀にかけてのニースの開発の様子を描いたスケッチが中心で美術品としてはたいしたものではない。三階が特別展の展示場で、それがシャルロッテ・サロモンの『人生? あるいは演劇?』の展示だった。素晴らしい展覧会だった。
シャルロッテ・サロモンはユダヤ人女性画家である。ナチスの迫害を逃れるため、一九四〇年代にニースの隣にあるヴィルフランシュ=シュール=メールという小さくて美しい町に移住した。ヴィシー傀儡政権下の南フランスでニースとその周辺はユダヤ人の避難場所のようなところだったという。彼女以外にも多くのユダヤ人がこの町にやってきたに違いない。シャルロッテはここで結婚した。このとき、懇意にしていた町の医師にそれまでスケッチブックに書き溜めていた自分の作品を託した。「これは私の生涯すべて。安全に保管しておいてください」と言い残したと言う。一九四三年にナチスドイツがこの地域を支配するようになり、彼女は夫とともにアウシュヴィッツの収容所に送られ、そこで死んだ。妊娠五か月だったという。
彼女が医師に託した二〇〇枚以上の色塗りのスケッチは、「人生? あるいは演劇?」と題された彼女の自伝的物語になっていた。彼女はこの絵による物語を音楽劇として創作していた。決して実現はしないだろう上演を想定して、ナチスからの逃亡生活のなかで自伝的絵画を描き続けていたのだ。絵にはしばしばセリフやト書きが書き込まれている。


医師が保管することで奇跡的に残った彼女の作品は長い間ほぼ忘れられていた。彼女のこの画集が注目されるようになったのは、一九八〇年代後半以降だ。日本でも一度展覧会が行われている。
B4ぐらいの大きさのスケッチブックにかかれた厚く色塗られた絵が展示されている。最初はいったいそれがどういうものなのかわからなかった。しかし順々に見ていくうちにぐいぐいと引き込まれてしまう。解説パネルの文章を読むと絵の持っていた意味、絵に込められた彼女の思いが明瞭に浮き上がってきて泣きそうになった。
家のすぐ近くにある美術館なので帰国までにもう一度見に行こうと思っている。
3月10日(木)。
午前中は前日に引き続きB1レベルのクラスに出席する。早稲田の国際教養学部でフランスの出版社の教科書『Amical 2』を使っていてA2レベルとされているけれど、『Amical 2』の後半は実際にはA2よりかなり程度が高いことが確認できた。読解や表現・語彙ではB1-B2レベルぐらいに到達していると思う。今回B1のクラスでは文法のレベルはそれほど高くない。口頭と筆記の表現のレベルもそれほど。日本の大学で週4コマ一年間の授業しか受けていない学生でも、よくできる子なら受講可能だろう。ただ映像などを使った聞き取りはかなり難しい。自分が学生の立場で授業を受けていると、教室のアクティビティを盛り上げようとしながらも、その一方でやはり批評的な見方になる。正直なところ、今回のクラスはダイナミズム、進行のリズムが欠けている。自分の授業でも停滞を感じてしんどいときが多いのだけれど、何が原因なのか考えてみる。私の場合は、調子に乗ってしゃべっているときのほうが、いろいろ問題が多いような気もするが。
食事後はバスでニーズの高台にあるマチス美術館とシミエ修道院の庭園に行った。引率は学校のレクリエーション担当責任者のエリック。彼は日本人の学生と仲良くなり、彼自身も彼女たちとの遠足を楽しんでいる感じがする。マチス美術館があるシミエ地区までは、市の中心部からバスで20分ぐらい上ったところにある。海沿いの町ニースは坂道の町でもある。北側に山があって南に海があるという地形は神戸とよく似ている。


かなり高台にあり、眺めのいいシミエ地区はニースでも高級住宅街とのこと。ローマ時代の競技場跡がある付近が公園になっていてオリーブの木がたくさん植えられている。この公園のなかにマチス美術館とシミエ修道院がある。マチス美術館のコレクションは有名な作品もあるけれど、さして見どころのない美術館だ。マチス美術館のあとは、シミエ修道院付属の教会をさっと見た後、修道院の庭園へ。庭園も美しいけれど、庭園から見るニースのパノラマの風景が素晴らしい。庭園で30分ほど過ごしてから、バスで町に戻る。


旧市街でワインとチーズ、オリーブ・オイル、オリーブペーストなどお土産物をいくつか購入した。
3月11日(金)。
学校での授業は今日は最終日。私は午前中は確認事項やあいさつなどがあり授業には出ることができなかった。われわれの出発日は13日(日)なのだけれど、私の大家から昨夜「学校からメッセージが届いていて、土曜の昼に迎えに来るとなっていたのだけど」と言われたので、まずそれを確認に行った。ステイ先への連絡担当が日付を間違えて連絡していたのだったが、こういう責任を追及されそうなミスでは決して謝罪のことばがでないのはやはりフランス人だなと思う。今一度迎えの日時を確認してもらった上で、訂正の連絡を各ステイ先に送ってもらう。
それからAzurlinguaの管理部門のスタッフのところへ挨拶にいった。この部門の責任者のYannとのつきあいがあったからこそ私は昨年と一昨年の夏にフランス語教員の研修に招かれたし、学生引率の仏語研修も実現することができた。
毎年夏にAzurlinguaの国際交流プログラム部門Bonjour du mondeが行っているフランス語教員向け研修を今度の夏はリニューアルして規模を拡大し、Universités du mondeという名前で世界各国から教員を招き、仏語教育法研修だけでなく、教員同士の教授法の交換、文化交流などを行うプロジェクトを現在準備中だ。日本からも10名ほど教員を招聘したいらしい。日本のフランス大使館の文化部とはすでに連絡を取り、奨学金についてよい感触を得ているとのこと。私は帰国後、日本フランス語教育学会と連絡をとり、この夏に教員を派遣できるような体制を作る仲介を行うこと、プロジェクトと学校のウェブページ、パンフレットの日本語訳を作成することを頼まれた。8月の最初の2週に今年もまたニースでの研修に招待するというのが報酬となる。こういった大きな交渉事はこれまでやったことがないがとにかくできるところまでやってみようと思う。お金をひっぱってくるのは大変そうだけれど、作業の人出と手間については「お願いします」と丸投げではなく、私自身が動く意思を示し、実際に動けば何とかなるような気もしている。
また8月のはじめのバカンスシーズンにニースで過ごすことができるというのが魅力的だ。バカンス時期のニースは毎日がお祭りみたいに浮かれている。毎晩深夜1時過ぎまで人がぞろぞろ歩いていて、本当にこいつらはどうかしているんじゃないか、というぐらいみな楽しげだ。人生を楽しむすべを我々日本人よりはるかによく知っているヨーロッパ、中南米の先生たちとのつきあいも実に愉快で、刺激的だ。ニースに知り合いが増えたので、彼らと再会できるのも嬉しいし。できればこの夏は娘を連れて行きたいと思っているのだけれど、同意してくれるかどうか。
そのあとは学校のレクリエーションとホストファミリーの担当者と面談して、それぞれについて評価と意見を求められた。細かい連絡の行き違いはいくつかあったけれど、それが原因で大きな問題にはならなかったのでとりあえずよしとしなければならないだろう。ホストファミリーと授業については学生から今のところ不満は聞いていないが、帰国後にアンケートをとって問題がなかったかどうか確認が必要となる。
授業終了後、学生たちと彼らの先生との集合写真を撮ったあと、食堂で食事。この食堂での食事も今日が最後になる。ボリュームがあって、味もおいしかった。最後の食事は昨夏に映画を素材にした授業案のモデュールを担当した講師と一緒に食べて、授業の組み立て方などについて意見を聞いた。
午後は学校主催の最後の遠足プログラムがある。この遠足プログラムの出発前に、日本人の学生のクラスの授業を担当したガエルがもう一度学生たちと会いたいと言う。「なんで遠足行くっていうのに、またその直前に待ち合わせするんだ?」と思っていたのだが、彼は最後の三日間ぐらいの授業で学生に滞在中の写真付き日記をフランス語で書かせていて、それを今日の授業の終了後に大急ぎでまとめて(修正もしたようだ)簡易冊子を作っていたのだった。出発時刻直前になってもガエルが講師室から出てこないので呼びに行って「ガエル、もう出発するよ。学生たちがあんたを待っているよ」と呼ぶと、「印刷が遅くてまだ全員分の部数が刷り終わらない。とりあえず一部だけ。残りは後で渡す」と言って、出来立ての簡易冊子を私に渡した。「さあこれでガエルともお別れだよ。せめてこういうときくらいはビズbisou(ほほにする挨拶のキス)するもんだよ」と学生に言ったのだけれど、学生もビズにまだ慣れていないし、ガエルもなぜか照れて「いや、私は日本の習慣を尊重するから」と言って、学生と握手でお別れとなった。でも別れのあいさつをして学校の門を出たところで、二人の学生が「やっぱりビズしてガエルとお別れしたい」と言って、また戻ってガエルにビズした。一人はもしかすると初ビズだったのかな? その女の子はビズのあと恥ずかしさで照れて真っ赤になっていた。ガエルは幸せ者だ。こんなに心のこもった素敵なビズをしてもらった人は滅多にいないだろう。
駅で遠足の引率者のエリックを待っていると、先ほど別れたガエルが走ってやってきた。「やっとさっき刷り終わって製本できた」と出来立ての簡易冊子を人数分渡してくれた。つたないフランス語の文章によるささやかな冊子だけれど、学生たちは嬉しそうにそれを読み、宝物のようにカバンにしまっていた。
午後の遠足はニースから列車で15分ほどのところにあるボーリュシュールメールへ。このボーリュに向かう列車のなかでちょっとした事件があった。女子学生二人が「おい、カバンに気をつけなさい!カバンが開いてますよ!」と後ろの座席に座っていた乗客に突然声を掛けられた。見ると二人のカバンのチャックが開けられていたのだった。乗車するときに体を押し付けてくる女性がいて変だなあとは思ったらしい。幸い盗まれたものはなかったが、やはり駅では特に用心が必要だ。
ボーリュシュールメールはBeau-lieu-sur-merと書き、直訳すると「海に面した美しい場所」になる。ここを「美しい場所」と呼んだのはナポレオン一世だとエリックが説明した。確かに美しい町で、ベルエポック様式の贅沢な邸宅、ホテルが並ぶリッチな町だ。この町の観光の見どころは、海岸沿いに建つケリロス別荘だ。20世紀はじめに 歴史家Théodore Reinachと建築家Emmanuel Pontremoli が、紀元前二世紀のギリシャ貴族の別荘を、多くの考古学的資料と文献をもとにできる限り忠実に再現したものだ。この別荘を訪れたのは昨年の研修がはじめてだったのだが、そのマニアックで壮麗な装飾の数々に驚嘆した。まさに贅沢と趣味のよさの極致。本物のおたくが金を持つとこれほどのものを作ってしまう。いったいどんな指示を職人に与えたのだろうかと思う。床はすべて大理石のモザイク画である。壁にも天井にも装飾があるけれど、どの部屋も異なった装飾がされている。かなりごてごてと装飾で埋め尽くされているのにうるささを感じない。赤とクリームを基調とする配色の見事さは天才的だ。個人的にはニースに観光に来るのであれば、ここまで足を延ばすのはマストだと思っている。今日で3度目の訪問だが、いつ来ても入った瞬間に思わず感嘆の息が漏れる。


ヴィラ・ケリロスを見学した後はまた列車に乗って隣の駅のヴィルフランシュ=シュール=メールに行った。エリックとはここでお別れだ。列車のなかでの別れになったのでビズはなし。ヴィルフランシュ=シュール=メールは小さくて静かな湾に沿った美しい町だ。夏にはバカンス客でにぎわうが今の季節はひっそりとしている。パステルカラーの壁、建物の下でトンネル状になっている路地などでできている旧市街の街並みが面白い。ここは旧市街をざっと回って、海岸通りを散策し、町を守る城塞に上っただけ。


ニースについてから数人の学生を楽譜屋に連れて行った。古本中心。今回は楽器を演奏する学生が数名いたのだ。楽譜の点数は多かったが、珍しいものはなく、値段も日本よりもかなり割高とのこと。学生を家に送る途中にあった閉店間際のチョコレート屋でお土産のチョコを買う。見るだけのつもりだったのだけれど、お姉さんに誘導されて買わされてしまった。大きなサイコロサイズのいろいろな種類のチョコを20個ほど買って箱に詰めてもらう。20ユーロとかなり高額なチョコだ。有名な店なのかもしれない。
学生と別れて私は一人で旧市街で飯を食べる。中華っぽいものを食べたかったが見つからず、結局ケバブ屋に入る。頼んだのはケバブではなくて、「ケバブ皿」。包んでいないケバブで、副菜は米と赤い穀物っぽいもの。何て言うのか知らない。トルコ・ケバブの店ではよくあるのだが。ケバブ屋はひとり飯がけっこう多い。見に行く芝居の開演時間が20時半と遅かったので、一時間ほどケバブ屋でぼーっと過ごした。疲れていて呆然としていると、陽気なお姉さんになんかからかわれて笑われた。何て言われたのかよくわからない。支払いのときに「いくら?」って聞くと、笑顔で「45ユーロ、なーんちゃって」とか言っている。ケバブ皿とコーラとトルコ茶で14ユーロ。安くはないけど、まあこんなもんだ。
ケバブのあとは、ニース国立劇場に演劇を見に行った。演目はマッシャ・マケイエフによる『オデッサの光』。小規模な作品だったのだが、悲劇的かつ喜劇的で、叙事詩でありながら抒情詩でもあるような脚本の豊かさ、そして俳優の演技のすばらしさに、全身がしびれるような感興をひさびさに味わうことができた。疲れていたけれど見に行ってよかった。
オデッサはウクライナの港町でユダヤ人などが多く住んでいたところ。 エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』を通じてこの都市の名前を知っていたが、芝居を観た後でウィキペディアを見てみると1917年のロシア革命時にもこの都市は騒乱の場となったようだ。このオデッサ出身のユダヤ人作家、イサーク・バーベリのテクストとこのテクストにインスピレーションを得たフィリップ・フェンウィックのテクストから脚本が構成されている。バーベリはスターリンの大粛清によって1940年に殺された。
この作品、俳優三人(三人目の俳優はほんの少ししか出ない)とバイオリン奏者、アコーディオン奏者の5名よる小さな芝居だ。前半は女優一人の朗読劇の形態で、バーベリの自伝的テクストによってオデッサでの彼の少年時代、1917年革命前後の悲劇の様子が語られる。朗読の間、後ろのスクリーンにはエイゼンシュテインの『ポチョムキン』や当時の映像記録などが映し出されれている。朗読は45分間続く。感情を込めた読み方は避けれられる。しかし単調というわけではない。言葉をひとつひとつイメージを紡ぎだすように丁寧に発話しているような読み方だ。楽器奏者は舞台後ろの見えない場所で演奏したり、舞台に出てきて演奏したり。朗読のときにはマイクが使われ、言葉が明瞭に伝わるようになっていた。ほぼ動きのない朗読劇だったのだが、眠くはならなかった。休憩中はウォッカとお茶が観客にふるまわれた。
休憩をはさんで第二部には、男性俳優が登場し、彼には舞台下手側のエリアを与えられる。前半でバーベリのテクストを朗読していた女優は舞台右手がエリアとなる。二人の間は縞模様のテープで区切られている。時は2014年に設定されてた。二人ともMacBookを持っている。彼らはとある出会いサイトで知り合い、ネット上でメールのやり取りをしている。女性はマルセイユに住むユダヤ人で、彼女の一族はオデッサの出身のようだ。彼女は自分の一族のルーツであるオデッサに愛着はあり、深い関心を持っているがこの地を訪れる勇気がない。実際にオデッサに行くと彼女の頭の中にあるオデッサのイメージが毀損されてしまうことを彼女は恐れている。彼女の文通相手の男はオデッサに住んでいる。男はしきりに女にオデッサに来ることを勧める。彼らのメールのやり取りが舞台上で演じられる。そのメールのやりとりの過程でウクライナ騒乱が起き、オデッサの状況も混乱する。この騒乱をきっかけに逆に女はオデッサを訪ね、男と会うことを決めた。
このあとのどんでん返しの展開で最後までもっていく過程が本当に見ていてたまらない。体を乗り出して男と女に思わず話しかけたくなるようなそんな緊迫感があった。緊迫感といってもかなりユーモラスなものなのだが。
「よい虚構は、本当の人生の似姿であるはずがない。そうではなく人生こそが全力を使ってよい虚構の似姿であろうとしなくてはならないのだ」(イサーク・バーベリ)
「次から次へと恐ろしい出来事が起こる。歴史はあらゆるものをむさぼり食う。しかし文学は残る。そして詩人たちのささやかなユーモアも」(マシャ・マケイエフ)
3月12日(土)。
明日の午後の飛行機でニースを発つ。正午ごろには家を出なくてはならないので、明日の午前中は家の周りを散歩するぐらいしかできない。研修のプログラムは実質的に今日が最後となる。今日は学校のプログラムはない。ローカル私鉄のプロヴァンサル鉄道で90分ほど内陸の山の中に入ったところにあるアントルヴォという城塞村に行く予定を立てていたのだけれど、列車の本数が少なく丸一日つぶれてしまう。山の中の城塞のアントルヴォの景観は、海辺の景観とは趣が違うし、17世紀の天才城塞設計士ヴォーバンの代表作といもいえるアントルヴォの威容は圧巻で学生たちに見せたかったのだけれど、研修の終わりで学生たちにも疲れが見えたし、風邪をひいて体調を崩している者もいるので遠出はやめることにした。午前中はフリーにして、昼食をみなで一緒に取ったあと、ニースからバスで30分ほど行ったところにあるフェラ岬のロトシルド家別荘を見に行くことにした。ロトシルドはロスチャイルドのフランス語読みで、16世紀イタリアにまでさかのぼるヨーロッパを代表する金融系財閥である。20世紀初頭にこの一族の女性のひとりが、フェラ岬に贅の限りを尽くした別荘と庭園を建築し、そこを見学できるのだ。
午前中は近所にあるマセナ美術館に行き、ユダヤ人女性画家シャルロッテ・サロモンの展覧会をもう一度見た。開館直後に入ったので展示室にいるのは私一人だった。1時間ほどかけて最初から最後までゆっくりと彼女の「人生?あるいは演劇?」という不透明水彩のスケッチによる自伝的音楽劇を追った。


サロモン展のあとは、近くにあるチーズ屋に行き、妻へのお土産のチーズを買う。何を買っていいのかわからないので、店のおばさんに強いものから弱いものまでおすすめを5点選んで貰った。ここのチーズ屋はチーズの種類が多いだけでなく、薄くスライスしたものをいちいち味見させてくれるのがいい。ほかの店でも頼めば味見させてくれるのかもしれないが。ニースのチーズ専門店は、このほかに二店回ったが、今日私が買った店が品ぞろえは一番豊富だ。おばさんが気さくで話やすい。勧められるままに大量に買ってしまった。真空パックにしてもらったけれど、全部食べ切ることができるかな。


チーズを家において昼食。昼食はホストファミリーでは出ない。週日の昼食は学校近くの食堂だが、週末の昼食は自前になる。今日は全員で駅の近くにあるモロッコ料理屋Alounak http://alounak-nice.fr/ にクスクスを食べに行った。私がニースに来るたびに寄っている店である。昨夕、店に予約のために寄ったときは、店の主人が病気でよろよろしていて臨時休業していて大丈夫かなと思ったが、今日は昨夕よりは多少元気そう。この店は昼はグループで予約が入っているときしかオープンしない。今日の昼はわれわれ10人のためにランチ開店となった。事前に用意しておくので鶏肉か子羊のどっちを注文するのか昨夕に聞かれていた。全員のリクエストをその時点では把握してなかったので、子羊7、鶏肉3で注文しておいたら、私たちが席について間もなく10人分のクスクスが出てきた。ここのクスクスはモロッコ風なので、野菜のスープをかけて食べるチュニジア風と違い、クスクス、肉、野菜を一緒に蒸して出てくる。いろいろな香辛料の香りが立ち上ってきて食欲をそそる。学生たちの多くは初めてのクスクスだったみたいだが、好評だった。羊肉のクスクスを望む人が多かったので、私は鶏肉のクスクスを取った。すると店主が私に子羊肉を二塊サービスで添えてくれた。私はこの店でいつも子羊肉を頼むのを彼は覚えていて、今日は私が人数調整のためにあえて鶏肉を選んだことを察してくれたのだった。


昼食のあとはバスでフェラ岬にあるに。エフリュシ・ド・ロットシルド別荘エフリュシ男爵夫人ことベアトリス・ド・ロットシルドが20世紀はじめに建設したバラ色の壁のこの別荘の壮麗さについては、リンク先を見てほしい。海を挟んで対岸にある昨日見たケリロス別荘とこのロットシルド別荘はほぼ同時期に作られ、その贅沢さ、趣味のよさを競っている。莫大な財産を相続したベアトリスが、金に糸目をつけず、その美意識をすみずみまで徹底的に具現した驚くべき別荘だ。各国の庭園様式を取り入れた庭も素晴らしい。日本式庭園もある。この見事な別荘の敷地で2時間ぐらいを過ごす。この別荘のオーディオガイドは日本語もあった。入館料は学生10.5ユーロ、一般13.5ユーロ。


帰りのバスをバス停で待っていると、数日前から鼻かぜ、のど風邪の学生の一人が近づいてきて、おそらく鼻の奥の炎症のせいで片耳が詰まってよく聞こえない、明日の飛行機が不安だという訴えがあった。わざわざ言いに来るぐらいだからかなりしんどかったのだと思う。昨日まではそれほどではなかったけれど、今日になって症状が悪化したとのこと。病院に連れて行ったほうがいいと思ったが、折悪く土曜の夕方である。通常の診察所はやっていないだろう。こういうときに海外旅行保険の担当ダイアルに相談しても役に立たないことは昨年の経験でわかっていた。旅行保険が提携しているいくつかの病院しか彼らは紹介できないのだ。とりあえずニースまでバスで戻って、開いている薬局で休日・夜間診療をやっている場所を聞くことにした。フランスは薬局がやたら多く、そのすべては医師の処方箋による薬剤の販売を行っている。日本のドラッグストア的なものはない。土曜の夕方は多くの薬局が開いている。ニースで下車したバス停の近くの薬局に入り、今から診療可能な病院が近くにないか尋ねた。すると土曜の午後はどの診療所もやっていない、医者が必要なら医者SOSダイヤルに電話して往診を頼むしかないとのこと。見た目の症状はそれほど急性的には思えなかったので、SOS医者ダイヤルは適切でないような気がした。
「休日夜間診療をやっている病院があると思う。サン・ロック病院とか」と去年、学生を救急診療で連れて行った病院の名前を挙げて聞いてみた。サン・ロック病院なら学生が住んでいる場所からも遠くない。しかしサン・ロック病院は今は休日夜間診療はやっていないという答え。休日夜間診療なら、トラムの終点にあるパストゥール病院に行けばいいという答えを聞いた。
行ったところがない場所だし、もし行って診察をやってなかったりするようなことはないだろうな、とちょっと不安だったけれど、行くしかない。薬局の薬剤師は「絶対にやっているから」と言っているのだけれど。トラムに15分ほど乗って終点へ。終点の駅の名前もHôpital Pasteurで病院はそこからすぐそばにあった。昨年サンロック病院の救急診療に行ったときは、夜で暗かったこともあり、救急診療の受付窓口を探すのに手間取り、救急窓口で教えてもらった診療場所に行けば、真っ暗で診察をやっている様子がない。当直医が食事をだらだら取って30分遅刻していたのだ。そのためまた窓口に戻って場所を確認したりして、診察を受けるまでにかなり手間取った。
今回もそういったことを覚悟して行ったのだが、パストゥール病院はサン・ロック病院とは違う現代的な建物で、救急窓口も赤の大きな文字で「救急 URGENCES」と書かれてあったので一目瞭然だった。受付もスムーズに済み、到着して15分ほどで診察を受けることができた。医師の診察と説明も丁寧だった。これは昨年の遅刻医師もそうだったけれど。気管支炎と中耳炎を起こしているけれど重大なものではない。薬を今夜と明日飲めば症状はだいぶ治まるはず。飛行機に乗るのも問題ないとのことだった。ただ熱が39度あるとのこと。そんな高熱があるとは見えなかったので驚いた。病院に連れて行ってよかった。抗生物質と炎症を抑える薬、解熱鎮痛剤、そして飛行機の離着陸で気圧変化のときに耳がつんとするのを避けるためのスプレー薬を処方してもらった。
ひととおり説明が終わった後、「日本語で家を出るときと帰るときにどう言うのだったけ?」と医師が突然聞いてきた。「行ってきますと、ただいまですよ。なんでそんなことを聞くのですか?日本に行ったことがあるのですか?」と聞くと、「いや、行ったことはない。でも日本人女性と二年間一緒に暮らしてたことがあったんだ。そのときいつも『行ってきます』と『ただいま』という挨拶を耳にしていたのを思い出して」。
フランス語には「行ってきます」、「ただいま」に相当する挨拶の文句はない。
診察料は50ユーロ。これは帰国後に保険会社に請求して払い戻してもらう。病院の近所の薬局がまだ開いていたのでそこで薬を購入する。フランスの薬は日本より効く成分がたくさん入っている。医師の診察、説明は丁寧で、その見立てが間違っているとは思えない。これでよくなりますように。
家に戻ってマダムに聞くと、救急の担当病院は一年ごとに変わるのだと言う。昨年はサンロックで、今年はパストゥール。二年連続で救急病院に学生付き添いで行ってまた経験値が上がった。
明日で濃厚なニースでの二週間が終わる。この二年間のあいだに、夏と春に二週間ずつ、計4回、ニースに来ることができた。また8月の初めにニースに二週間滞在する。遠く離れたニースが自分の帰省先みたいになってしまった。
3月13日(日)。
帰国の日。昨年の研修の最終日の朝にニースの海岸で見た朝焼けの風景があまりに美しかったので、今回も最終日は早起きして海岸に出てみた。しかし夜のうちに雨が降ったのか、東の空には雲がかかっていて朝焼けは見えなかった。海岸近くの家に滞在している学生二人を見つける。彼女たちは6時頃から海岸にいたらしい。
家に戻って朝食を取り、荷造り。今回はだいぶ買い物をしてしまったのでスーツケースに入りきるかどうかちょっと心配だったが余裕で大丈夫だった。荷造りを終えた後はサレヤ通りの市場に行き、滞在していたアパルトマンのマダムに送る花束を買った。


サレヤ通りの市場は花と果物が多い。異なる色のバラをいくつか選んでそれを中心に花束を作って貰おうとおもったのだけれど、バラは10本一組でしか売らないと言う。一色だけだと面白くないなと思い、交渉して5本ずつ二色のバラで花束を作ってもらった。果物屋で売っていたフランボワーズがおいしそうだったの一箱衝動買いし、その場で食べた。花を持って家に戻る。途中でケバブ屋によってケバブを購入。これを昼食とする。ケバブができるのを待っているとケバブ屋の兄ちゃんが「その花は僕にくれるのか?」と聞いてきた。 「違う」 「僕がケバブをあげるから、その花束と交換だろう?」 「この花束は女性へのプレゼントだ。5€あげるからケバブをくれ」 みたいなやりとりをする。おれのことを気に入ってくれたのか、あのケバブ屋の兄ちゃんは。
Azurlinguaの送迎車がいくつかの滞在先を回って迎えに来る。飛行機出発時間は14時20分で、迎えの車がうちに回ってきたのは12時半ぐらいだった。滞在先の家族が車で送ってくれるところもある。学校の送迎車が一番遅く空港に到着した。12時40分を過ぎていたと思う。手荷物預けの列に並んでいると学生のひとりが
「あの〜、荷物40キロになってしまったんだけれど、大丈夫でしょうかね?」と聞いてきた。エミレーツ航空のエコノミーの受託手荷物は30キロまでが無料になっている。23キロが上限の会社が多いし、30キロとなると女性が持ち上げるのはかなり大変な重さだ。だからいくらお土産を買い込んだにしても、重量オーバーになる人が出るとは思っていなかった。
「40キロ? よく入ったなあ。グループのトータルで重量を考慮してくれ、と頼めば多分大丈夫だと思うけれど」 「そうだといいんですけど。皆にご迷惑かけて申し訳ない」 「まあ別にいいじゃない。荷物のチェックインのとき、俺もカウンターに一緒に行くから」
と言ったやりとりをした。私は楽観していたのだけれど、実際にはこの40キロが問題になった。カウンター横で彼女のスーツケースを計ると、確かに40キロになっている。カウンターの女性職員に 「超過しているけれど、10人のグループなんでトータルで考慮して欲しい」と言うと 「それはかまわないけれど、このスーツケースはこのままでは預かることができない」との答え。 「なんで?」 「荷物一個あたりの重量の上限が32キロと決められているから」 「ではどうすればいいのか?」 「8キロ分取りだして、機内持ち込み手荷物にすればいい。グループなら他の人で手荷物のバックを余裕に持って入れる人がいるだろう」
こう言うと彼女は「エミレーツ航空」の文字が入ったチャック付きのエコバックのようなものを二つ渡してくれた。重量オーバーの客にこんなものを渡してくれるサービスがあるとは知らなかった。
「もう搭乗時刻まで時間があまりにない。パスポートと搭乗券はカウンターで預かるので、早く詰め替えて」 ということで彼女はグループの友人数人と詰め替え作業を始めた。ところがそれがぐずぐずしていてなかなか進まない。
「あと5分で受付終了しますよ」
とカウンター職員がプレッシャーをかける。確かにもう搭乗開始時刻になっている。機内持ち込み荷物検査、出国審査を考えると時間の余裕がない。私は焦ってしまい思わず「何やってんだよ、早く詰め替えろよ、バカ」と乱暴な言葉が出てしまう。彼女の40キロの荷物の多くはスーパーで購入した食料品の類だ。帰国後に写真でその中身を写して送って貰ったが、行商人かとつっこみたくなるほど多様な食料品が大量に詰め込まれていた。写真だけでも思わず笑ってしまうような量。よくもこれだけの分量をスーツケースに押し込んだものだと感心した。ほとんど「アート」の領域だと言っていい。
大急ぎでスーツケースをチェックインし、手荷物検査場へ。手荷物検査場では、バターを手荷物で持って帰ろうとしていた学生がつかまってしまった。国際空港ではバターは「液体扱い」であり、100グラム以上のものは持ち込めないのだ。彼女は一家が乳製品好きということで、そのバターを持ち帰ることを楽しみにしていた。受託手荷物に入れておけば没収はされなかったのだけれど、ドバイ経由なので熱で溶けてしまうことを恐れ、保冷容器なども買ってわざわざ機内持ち込みにしたのだった。しかしそこまでこだわりを持っているのだったら、機内持ち込み可能かどうかも調査しておくべきだったが、まあ抜け落ちてしまうことはあるだろう。私も彼女がバターをお土産として購入し、手荷物で持って帰ることは聞いていたのだが、それが「液体扱い」になることはまったく頭から飛んでいた。チーズなども機内持ち込みはできないと聞いていたのに。バターは手荷物検査場で没収。彼女はショックでちょっと呆然としていた様子。検査官に「今からまた戻って受託荷物にするか?」と問われたが、そんなことをしている時間の余裕はなかった。可哀想だがバターは諦めて貰うしかなかった。
出国審査を終えた頃はすでに搭乗開始時刻をかなり過ぎていた。チェックイン済なのでまさか空港に取り残されはしないだろうと思いつつもやはり焦る。帰国を名残惜しむ余裕もない。幸いニース空港がこじんまりした小さな空港でよかった。搭乗口はすぐに見つかった。機内に乗り込んでほっとする。
ニースからドバイまでは約六時間のフライト。ドバイで三時間の乗り継ぎ時間があり、そこから成田までが約十時間のフライトになる。機内で五時間ほど眠ることができたので、予想していたよりも元気。東京には18時前に到着して、空港で解散した。
今年はテロの影響もあったためか、参加者が九名と昨年より少なかったが、個性的で面白い子が多かった。某ホストファミリーの人に「どんな感じでしたか? いい子にしてましたか?」と尋ねたら、「彼女たちは本当に素晴らしい excellentes !」と答えていたが、続けて「でも変わった子だったでしょう? Mais elles sont assez originales, n’est-ce pas ?」と聞くと爆笑していた。やはりフランス人の感覚からしてもかなり面白かったらしい。
私は美しくて、開放的で、そして過剰に人間くさくもあるニースの町が大好きなのだけど、この研修では自分の大好きなものを存分に他人に伝えることができてとても満足している。大好きなものを存分に他人に伝えることができるような機会なんて滅多にあるものではない。準備等はけっこう大変だし、毎日盛りだくさんで疲労したけれど、濃厚で実に愉快な二週間を過ごすことができた。