2023年8月15日火曜日

2023/08/13 ニース第15日(帰国)

 帰国の日。我々が乗る便は15時55分ニース発だが、なにかあったときの用心のため、3時間前に空港に到着するように学校の送迎担当者に伝えておいた。送迎担当者は車で私たちが滞在している各家庭を回り、空港に送り届ける。正午頃に私の家に来ることになっているので、実質的に今日は何もできない。朝飯食べて、シャワーを浴びて、荷造りをしただけ。時間通りに送迎担当者はやってきて、12時半には全員が空港に集合した。エミレーツ航空のカウンターはもう受付を開始していて、私がパスポートを提示すると「ああ、日本人の11人のグループですね。あなたがリーダーですか?」とちゃんと話が通っている。搭乗チェックインは航空会社や空港、チケットの種別によってやりかたが違うのだが、今回は事前にオンラインチェックインできないとのことだったので、ちょっと不安があった。



エミレーツ航空のエコノミーは一人あたり30キロまでの荷物を無料で預けることができる。通常、エコノミーの場合は23キロまでが無料の航空会社が大半なので、エミレーツはかなり気前がいい。一人、書籍類を大量に購入したため、スーツケースの重さが34キロを超えた学生がいた。団体で飛行機に乗り込むので、一人、二人の荷物が規定重量オーバーしても大目には見て貰えるのだが、32キロ以上の荷物は預かることができないという規定が航空会社にあるため、その学生は数キロ分の書籍は機内持ち込み手荷物に移し替えた。機内持ち込み手荷物の重量制限は10キロなのだが、これはよっぽど大きな荷物を持ち込まない限り、計測されたりはしない。
搭乗カウンターあたりの様子が分からないので、手荷物検査と出国手続きをさっさとすませたのだが、私たちの搭乗カウンターのあるフロアはサンドイッチ屋とスタバとお土産物店が一軒あるだけだった。90分以上、冷房のあまり効いていない搭乗フロアで時間をつぶすはめになった。私はサラミハムのサンドイッチとクロワッサンを購入して、それを昼食とする。
ニースからドバイまでは6時間。ドバイで成田行きに乗り換えだが、ドバイの手荷物検査を終えたあとで学生一人が携帯を機内に忘れたことに気づいた。すぐに戻ってこないかもしれないなと思ったが、空港警察の人が取りに行ってくれて、30分ほどで置き忘れの携帯を取り戻すことができた。エミレーツ航空は素晴らしい。ドバイの乗り継ぎは2時間弱だった。私はたいしてお腹は減っていないのに、ハンバーガーを食べてしまった。
ドバイから成田までは9時間半のフライトだ。長い。3時間ほど眠ったか。食事は二回出た。映画は阿部サダヲが出演している『死刑にいたる病』を見た。サイコパスもの。
日本時間17時半頃、ほぼ予定通りの時刻に成田に到着。解散のあと、私は1時間ほど空港で時間をつぶし、1900円の池袋行き空港リムジンを使って帰宅した。

色々なことが凝縮された二週間で、日本を出発したのがはるか前のことのように思える。今回は三年半ぶりの実施で、夏に学生をニースに連れてきたのは初めてだった。自分としては「試運転」の感じもあった。学校の状況も変わっているかもしれないし、新型コロナ禍を経験した学生のメンタリティも3年半前の学生たちとは違うだろう。再実施のためには、団体用の航空チケットの手配を依頼する代理店や学校とのあいだで必要となるけっこう膨大なやりとりを再整理・検討しなくてはならなかった。
本当はこれまでのように二月ないし三月に実施したかったのだが、今年は私がケベックに行くことになったため、二月の実施はできなかった。もしケベック行きがなかったとしても、新型コロナへの対応が今よりもずっと過敏だったので、実施にはいろいろ困難が伴っただろう。この研修は私個人が企画して、学校や代理店と打ち合わせのうえ、プログラムを設計しているオーダーメードのものだ。いくつかの偶然が重なってこの研修を八年前(いや、もっと前からかな?)からやっているのだけど、こういう研修は私しかやらないだろうし、私にしか出来ないだろうと今回、改めて思った。
学校との交渉とか学生を病院に連れて行ったりとか、いろいろ大変だが、こうした面倒なやり取りを通じ自分がフランス社会のリアリティとじかに向き合わざるを得ないことで、フランス語教員あるいはこういうイベントのコーディネーターとして確実に鍛えられているのを感じる。またこうした「格闘」は私にとっては実はおもしろいもの、楽しいものという側面もあり、ゲームの困難なタスクを消化していくような達成感もある。
フランス語教員としてはやはり一年に一度は、フランスに行って、タフな状況でフランス語を利用する機会を持つことは重要だろう。こうした経験をしているからこそ、教室で自信をもってフランス語やフランス語圏の文化について、語り、伝えることができるように思うからだ。

参加する学生たちにとってもかなりタフさが要求される環境でのフランス体験だったと思う。この研修はきわめて教育的な研修であると思う。教室で学んだフランス語の向こう側には、その言語を使って生活を営んでいる人たちがいて、そこではわれわれの常識や経験とは異なる日常や文化が存在している。この研修はそうした現実を体験するための機会だ。これまで経験していないであろう世界を自分の目で見て、そのただなかに身を置くことになるこの二週間の研修は、学生たちに自分と世界のありかたについての検討の機会を提供するものであり、彼らに何らかの発見をもたらすきっかけとなって欲しいと思う。
今回、再開できて今後もやっていける目処はついた。ただ次回の研修は例年通り、二月末か三月に実施したいと思う。夏のバカンスシーズンは航空券、滞在費とも高くつくし、それにニースの暑さも想定以上だった。東京の酷暑に比べると、最高気温32度ほどで空気も乾燥しているので穏やかだともいえるのだけど、夏の強い日差しのなか、町歩きをするのは思っていた以上にきつかった。学生たちが後半、バタバタと体調を崩したのは、この暑さのせいもあったのではないか。また夏はバカンスを兼ねてニースにフランス語を学びに来る人が多く、学校のスタッフもかなり慌ただしく、疲れている様子があったので。

いつかケベックにも学生を連れて行ってこのような研修をやりたいと強く思うのだけど、ケベックがそもそもほとんど日本で知られていないので、参加を呼びかけても人が集まりそうにないのが難点だ。少人数で採算度外視ででも一度、試験的にやってみたいなとは思う。やはり現地に行かなくてはねえ。

2023年8月13日日曜日

2023/8/12 ニース第14日

暑い日だった。昨日金曜日で学校のプログラムはすべて終了である。ヨーロッパ諸国の受講生の多くは研修が終わった当日かその翌日には帰国するのだが、東京から20時間かけてニースにやってきた我々としては研修終了の翌日に帰国というのはもったいない気がするので、研修終了日と帰国日のあいだに一日間の予定フリーの日を置いた。

今日は私の企画、希望者のみ対象でニースから20キロほどの山間に入ったところにある高台の城壁町、サン=ポール=ド=ヴァンスに遠足に行った。サン=ポール=ド=ヴァンスはニース近郊で人気のある観光地の一つだ。城壁に取り囲まれた石造りの小さな村の景観はピトレスクで、街中には数多くのレストラン、画廊、お土産物屋がある。この町はシャガール終焉の地でもあり、海を望む村の墓地にはシャガールの墓がある。また町から歩いて20分ほどのところには、ホアン・ミロをはじめとする現代美術の傑作のコレクションで知られるマーグ財団美術館がある。
ところがニースからサン=ポール=ド=ヴァンスに公共交通機関で行こうとするとこれが案外大変なのだ。ここには過去数回来たことがあるのだけど、トラムの新設やバス路線の廃止などで、行こうとするたびに行き方が変わる。7、8年前に最初に行ったときには、ニースの海岸沿いのメリディアン・ホテルの近くのバス停からサン=ポール=ド=ヴァンス行きのバスが出ていた。このルートで2回ほどサン=ポール=ド=ヴァンスに行ったと思う。3年半前に言ったときにはニース市街から空港方面に伸びるトラム二号線が完成していた。その影響でニース市内からサン=ポール=ド=ヴァンスへのバス路線は廃止になり、ニースから空港近くのパーク・フェニックスまでトラムで行き、パーク・フェニックスからサン=ポール=ド=ヴァンス行きのバスに乗るというルートになった。
数日前にサン=ポール=ド=ヴァンスの町の公式ウェブページで町へのアクセス方法を確認したところ、3年半前と同じく、ニースからトラムでパーク・フェニックス、そこから400番のバスに乗ってサン=ポール=ド=ヴァンスに行くと記されていた。リンクが張られていたバスの時刻表も確認して、これで万全と思っていたのだけど、昨日昼に変な予感がして急に不安になった。ニース駅前にニースのバス・トラムの営業所があったので、そこに行って紙媒体の時刻表を貰って、さらにルートも再確認しようと思った。ところが営業所にはパーク・フェニックスからサン=ポール=ド=ヴァンスに向かう400番のバスの時刻表がないのだ。窓口の人に聞いたところ、400番は655番に変更になった、今はSNCFの駅であるカーニュからサン=ポール=ド=ヴァンスに行くバスに乗ると、ウェブ上で確認した情報とは異なることを言う。Google mapで検索すると、655番のバスを使ってのサン=ポール=ド=ヴァンス行きのルートは表示されず、カーニュ駅からタクシーないしUberを呼ぶという風になっていた。トラム/バス会社の担当スタッフが言うことなのだから間違いはないと思うのだけど、今ひとつ釈然としない。営業所から1分ほどのニース駅前にあるニース市観光案内所でさらに念のために確認することにした。そこでようやく、パーク・フェニックスからサン=ポール=ド=ヴァンスに向かう400番のバスは数ヶ月前に廃止され、その代わりにカーニュ駅からサン=ポール=ド=ヴァンス方面に行く655番バス路線が新設されたことがわかった。ニースからサン=ポール=ド=ヴァンスに公共交通機関で行くには、まず鉄道でニース駅からカーニュ駅まで行き、カーニュ駅から655番のバスに乗る。しかしこの「標準的」ルートはネット上ではなかなか出てこないのだ。帰宅後調べて見たところ、マーグ財団美術館のサイトにはこの情報が掲載されていた。
学生には9時集合と伝えていた。9時14分発のカンヌ方面行きの各駅停車に乗る。これを逃すと次の列車は40分後になる。
ニース駅舎には8時40分ぐらいについて、今日、サン=ポール=ド=ヴァンスへのツアーに参加する学生の分も含め、チケットを購入した。ニースの駅舎には数年前から入場時に自動改札になっていて、チケットに記載されたバーコードをスキャンしなければホームに入れなくなっているのだが、こ自動改札のスキャナーの精度がひどくて、何度やってもバーコードを読み取ってくれないことがしばしばある。先週の遠足では、学校の引率スタッフであるローラがこのスキャナと格闘しているうちに予定の列車に乗れなかった。今回、私が購入したチケットもバーコードを読み取ってくれない。改札の横にあるカメラ付きインターフォンで駅員に状況を説明して、改札を開放してもらった。
カーニュからサン=ポール=ド=ヴァンス方面行きのバスは、途中停留所にほとんどバスが停車することがなかったため、思っていた以上に早く目的地についた。サン=ポール=ド=ヴァンス村に行く前に、道をはさんで別の側の山のなかにあるマーグ財団美術館に行った。今回はたまたまモントリオール出身の抽象表現主義の画家、ジャン=ポール・リオペルの特別展をやっていた。モントリオール美術館ではごく数点しかリオペルの作品を見ることができなかったが、南仏の私立の美術館ででこれほどの規模のリオペル作品に出会えるとは。大規模な秀作がそろった見応えのある展示だった。

ミュージアムショップでリオペル展の図録とミロの作品の絵柄のTシャツを購入した。マーグ財団美術館には1時間ほど滞在した。美術館からサン=ポール=ド=ヴァンス村に移動し、観光案内所で町の地図を貰った後、観光案内所のすぐそばにあるレストランで食事を取った。私は牛肉ミンチの入ったラビオリの赤ワインソース。google mapの評価は高かったものの、典型的な観光地の観光客向きのレストランだった。かなり割高、味は普通というか平凡。食後、村の中心部にあるフォロン礼拝堂と郷土史博物館を学生たちと一緒に見てから、バスの時間まで自由行動とするつもりだったが、ちょうどフォロン礼拝堂受付の昼休み時間だった。1時間後に戻って来ることにして、一度解散した。そんなに長い距離は歩いていないのだが、今日の町歩きは日差しが強くてバテた。1時間後、まずフォロン礼拝堂を見る。礼拝堂の内部を装飾する小さなタイルによるモザイク画がベルギー出身でカンヌに居住していた画家、ジャン=ミシェル・フォロンのものだ。フォロンはオレンジや黄色を基調とした明るいパステル調の色彩による幻想的でユーモラスな絵画で知られてた画家で、日本でも二回ほど展覧会が行われたことがあるはずだ。この礼拝堂の装飾では、サン=ポール=ド=ヴァンスの遠景モザイク画がそのスタイルで表現されている。礼拝堂の奥側と手前には彫刻もあった。左右の壁面や天井は淡いパステル調の色彩で可愛らしいイラスト風の絵が描かれていた。礼拝堂の向かいの建物は、郷土史博物館になっていて、マネキンによって表現された町の歴史の展示はかなりおもしろいのだけど、今回は臨時休館だった。
フォロン美術館のあと、バスの出発時間まで自由行動とする。
帰りのバスは運転手の頭がおかしかった。普通、ニースのバスの運転手は不正乗車のチェックは行わないのだが、この運転手はチケットなしの乗車客をチェックしていて、一通り乗客が乗り込んだあとで「金を払ってないやつがいる。無賃乗車の人間はすぐにこのバスから降りてくれ。降りないのであれば私は車を出発させない」と運転エリアから出て乗客に向かって大声で言った。一人の若者が出ていったが、「まだもう一人、いるはずだ!」と言って、乗客一人一人を恫喝しながらチェックしはじめた。フランス語のわからない英語話者観光客がどうやらお金を払わずにバスに乗ってしまったらしい。その乗客を前に呼び出し、色々言っている。乗客は英語しかできないのでオロオロしていた。すると私の隣に座っていたヨルダンと描かれた赤いユニフォーム(サッカーかな?)を着ていたおばさんが、運転手に向かい「検札はあんたの仕事じゃないだろ。早くバスを出しなさい」と前に出て、運転手と激しい調子でやりとりをはじめた。彼女は英語ができたので英語話者乗客をこの狂った運転手から助け出そうとしていた。運転手もぎゃあぎゃあ言っていたが、結局英語話者乗客はこのヨルダン人の婦人のおかげでバスに乗ることができた。
しかしその後の運転手の運転の荒いこと、荒いこと。いちいち急ブレーキ、急ハンドルで、車体をガンガンゆらしながら、麓の町へ下っていった。
カーニュからニースへのローカル線の車内では、珍しく検札官に遭遇する。怖そうな女性数名とごつい男たちが、チケットを一人一人確認していく。私たちはチケットを購入していたので問題はなかったが、同じ車両で二人、無賃乗車で問い詰められている乗客がいた。
4時半頃にニースに戻る。私はいったん家に戻る。今日の夕食は家主のAnnickと彼女のパートナーと一緒にレストランで取ることになっていた。家に戻ってシャワーを浴びると急激に眠気が襲ってきた。20分ほど寝る。
夕食は車でアンティーブの手前の町にある港に行った。個人所有のレジャーボートが並ぶこの港には、多数のレストランが連なっていた。本日のおすすめメニューに「かえるの脚」があったので私はそれを選んだ。フランスでは蛙を食べるとは聞いていたが、これまでレストランのメニューでカエル料理を見たことがなく、食べたことがなかった。カエル自体は日本の焼き鳥屋で注文して食べたことがある。カエル料理はカエルの脚に小麦粉をまぶして、ソテーしたものだった。ハーブや塩こしょうで味付けしてある。鳥のささみとうさぎの中間みたいなあっさりした味だった。まあこんな味だろうなとは思っていたとおりの味。普通に美味しいけれど、敢えてまた注文したいとまでは思わない。でもフランス料理のカエルをようやく食べることができてよかった。
デザートを食べているときに、アンティーブの海岸から花火が上がった。20分ぐらい花火は上がっていたと思う。私にとってはニース滞在最後の夜を締めくくる洒落た演出になった。

2023年8月12日土曜日

2023/8/11 ニース第13日

 学校は最後の日。午前中は学校企画でニースから列車で10分ほど東に行ったところにあるボーリュへの遠足だった。モナコの手前にあるこの小さな町には、古代ギリシャのデロス島にあった邸宅の遺跡を模して作られた別荘、ヴィラ・ケリロスがある。ヴィラ・ケリロスは日本ではほとんど知られていないと思うが、私はニース近郊の観光ポイントのなかでも、カップ岬にあるロスチャイルド家別荘とともに、必見の場所だと思う。




ヴィラ・ケリロスは、20世紀初頭の二人の古代ギリシャ文化愛好者による傑作である。考古学者のテオドール・レナークと建築士のエマニュエル・ポントレモリは、徹底的な歴史的考証と優れた美学的創意によって古代ギリシャの邸宅を6年間の時間をかけて再現した。その室内装飾の豊かさとセンスのよさは驚異的だ。室内のディテールまで徹底して装飾が施されているが、見事な調和と落ち着きがあり、フランスの歴史的建造物の装飾にあるような過剰なうるささはない。いったいどのような指示を職人たちに与えれば、このような装飾が実現できるのだろうかと思う。Azurlinguaの遠足ではじめてこの別荘を訪れたときは、訪れる前は「金持ちの好事家が作らせた古代住宅の複製なんか見たってしかたないだろうに」と思っていたのだけど、建物の中にはいってすぐにその極度に洗練された装飾に驚嘆した。以来、ニースに来る度にヴィラ・ケリロスには行っている。何回見ても素晴らしい。ヴィラ・ケリロスには1時間ほど滞在した。
昨日、病気で休んでいた男性三人組も午前の遠足には参加した。新型コロナ感染の診断を受けた学生はお腹の調子は悪く、食事はあまり取れていないようだったが、解熱剤なしでも平熱になったということでマスク付きの参加を許可した。他の二人はこの学生と同居しているので、これから成田空港に着くまでは「三位一体」で行動してもらうようにした。
昨日から休んでいる女子学生一人は、午前中の遠足は休んで貰った。熱は平熱にほぼ戻ったとのことだったが。彼女も午後の授業にはマスク付きで参加した。
昼食は学校近くの食堂で。今日のメニューは羊肉のミートボール(ケフタ)とクスクスとほうれん草の煮込み。美味しかった。
午後は最後の授業である。私が聴講しているクラスを担当しているニコラが今日は用事で休みということで、代わりの教員が授業を行った。始終ニコニコ笑顔の先生であったが、「日本は非常に階層化されている社会だ」、とか「日本人の学生はおとなしく勤勉だが、仕事をするようになるとだらしくなくなるんだろ?」とか「日本は明治天皇が和魂洋才と行って、西欧の技術/思想を受け入れて近代化しつつ、独自の伝統文化を守っている」といった通俗的でフランス人的偏見に満ちたことを言ってこちらに意見を求めるので、「そういったことがらについて、簡単に答えることはできない」と返答した。すると「複雑すぎる問題だからか?」と言うので、「いや逆だ。そうした質問は、むしろものごとを単純化しすぎているからこういう場ではわたしは答えないんだ。この種の議論を本当にしたいのだったら、サイードの『オリエンタリズム』を読んでからにして欲しい。いくらでも議論する用意はあるから」といくぶんイライラした調子で返答した。彼はサイードの名前すら知らなかった。「サイードはどんなことを言っているのだ?」と言うので、「興味あるならWikipediaで調べればいい」と答えた。けっこう辛辣な調子で返答したのだが、彼はずっとニコニコしていた。別に私も怒ってはいない。やれやれと思っただけだ。こういったことはちょくちょくある。
いくぶん保守的な思想傾向がある人で、フランスにおけるparité(男女同数)のあり方や、男性でも女性でもない「無性」の三人称人称代名詞ielやこの他の包括的書法 écriture inclusiveについて批判的な意見を述べたりもしていた。個人としてどのような思想、宗教、イデオロギーを持っても構わないのだが、教員がそれを教室で表明する際には慎重にしなくてはならないなと改めて思った。語学学校の「大人」相手のクラスだと、教員も受講生も対等の立場で意見交換できるようには思えるのではあるが、やはり教えるー教わるの関係性のなかでは権力性から抜け出すことは難しい。教室内では教員は常に自分の権力性を意識して、できる限り中立的姿勢を示すことが必要であるように私は思う。
今回は10日間の授業のうち、8日間に出ることができた。授業内のつたないフランス語のやりとりであっても、そこに各自の人間性や知性は感じ取ることができる。言葉での表現がもどかしいがゆえに、余計、感受性が研ぎ澄まされるというのもあるのかもしれない。この10日間、同じ教室で学んだチェコ人の二人の若い学生、ドイツ語圏スイス出身で現在はアメリカで「国境なき医師団」のスタッフとして働いている女性、アゼルバイジャンからドイツに移住している大学生の女性はとても印象的で、どこかピンと通じるような感じがあった。ニコラの授業技術、そして人間性も素晴らしかったのだが、こうした受講生のおかげで私は授業を楽しんで受けることができたし、学んだことも多かった。
授業プログラムが全部終了するとやはり解放感がある。
授業後は3人の学生とニースを見下ろす城山で夜9時から行われる野外劇を見に行く予定だった。ケバブと飲み物を買って、山に登り、町を見下ろす城山の展望台から夕陽を見て、そのあと城山での野外巡回劇を見て帰るという予定だった。
ケバブ・サンドイッチは、ネットで調べてニースで最も評価が高いケバブ屋に買いに行ったのだが、ケバブが売り切れていた。ケバブ屋でケバブ売り切れとは。ケバブ・サンドイッチを食べる気満々だったので、google mapで検索し、付近にあるケバブ屋で高評価の店を探して、そこに向かった。ニースのケバブ屋は、小移民街であるSNCFの駅の近くに固まっている。探して行った店のケバブは若干高めでポテト付きが7.5€だった。他の店は6€というのが多い。
ケバブを仕入れて、野外劇が行われる城山に向かったのだが、城山を昇る階段の入り口の柵に人がいて、城山に入るにはイベントチケットの予約が必須だと言う。私は夜の野外巡回劇で、座席が必要なわけではないので、定員などはなく、その場でチケットを購入できると考えていた。ネットで早速サイトにアクセスして予約しようとしたのだが、今日の日付のチケットを予約するボタンを押すことができない。入り口にいたスタッフに、「予約したいのだけど、ウェブで今夜のチケットを予約できないのだが、どうすればいい?」と聞くと、電話してチケット担当に確認してくれた。するとなんと今夜のスペクタクルは満席で、当日券は出ないというのだ。「日本から来たんだ、なんとかならないか」と頼んでみたけど、ダメだった。
結局ケバブはニースの海岸に座って食べることになった。食べているうちに日が沈んだ。日暮れのニースの海岸沿いの道を、城山からネグレスコ・ホテルまで30分ほど散歩した。野外演劇を見られなかったことは残念だが、同行した3人の学生たちは夕暮れのニース海岸でのケバブ・ピクニックと散歩を楽しんでいたようでよかった。

2023年8月11日金曜日

2023/8/10 ニース第12日

 朝7時半起床。今日は午前中に授業、午後はモナコに遠足に行く日だった。

男子学生3名はまだ体調が快復していない様子だったので、午前中の授業は休んでもらった。新たに女子学生1人組が体調思わしくないと言うことで欠席。続々と病人が増えているのが気になる。せっかくフランスに来たのに、病気で家に閉じこもざるを得ないというのは可哀想だ。とはいえ海外で旅行中に集団的感染となると対応が非常に難しくなるかもしれないし。判断が難しい。
自分は毎日イベント続きで疲れてはいるけれど、規則正しい生活をして、美味しいものをたっぷり食べているせいか、元気ではある。
私が授業に出させて貰っているニコラの授業は今日が最後の日だった。授業は金曜日まであるが、明日はニコラは用事があって授業を行わないとのこと。今日は、ことわざ、格言、だじゃれ、文学的引用やもじりを多用するジャーナリスティックな文章の表現を拾っていった。日本の新聞などのメディアはどちらかというと中立的なわかりやすい表現で書こうとするが、フランスの新聞などの文章ではひねった表現が好まれる。想定外の、ときにとんちんかんな受講生の返答にも、すぐに反応して、即興的に関連する語や表現などを提示して、発展させていくニコラの技術はたいしたものだと思う。教材を準備した上で、必ずしも教材の内容に縛られない。ずっと神経を研ぎ澄ませて、受講生の言葉を拾い、ユーモアを交えてリズミカルに、トピックにつなげていく。巧いなあと思う。フランスのジャーナリスティックな文章は修辞的で、時事的な問題についての知識や文学的素養などもないと、文意を読み取ることができないことがしばしばある。自分の専門分野の学術的フランス語もちゃんと読めていないことは結構あるのだけど、こうした
「生きている」フランス語の読解については自分はフランス語教員としては全然修行が足りないなと改めて思う。
昼は学校近くのcantineで。鱈っぽい白身魚を食べた。私は先週通ったニース中心街のレストランの昼食より、学校近くのcantineのごはんのほうが好きだ。
カンヌへの遠足は午後2時に学校を出発した。私たちのグループ以外にも一般の大人の受講生も数人参加していた。昨日、病気で学校を休んでいた男子学生三人のうち、二人は遠足からマスク着用で参加。見た感じ、元気そうだ。昨日はかなりしんどかったようだが。遠足欠席は今朝から体調を崩している女子学生一人、二日前にコロナと診断された男子学生一人だった。男二人に、家に残っている男子学生の様子を聞くと、熱は下がっているものの、断続的に襲ってくる腹痛に苦しんでいるとのこと。休んでいる女子学生からは37度半ばの微熱があるという連絡があった。
モナコはニースから列車で20分ほどところにある。コートダジュールに観光旅行に来る人のほとんどはモナコに行くので、Azurlinguaのエクスカーションにもモナコは必ず含まれていて、私も来る度に行っている。コートダジュールの都市のなかでは、非常に人気のある町だが、私はモナコはあまり好きではない。あまりに人工的に観光客のために整備された町、超ブルジョワが実際に住んでいるディズニーランド、あるいはしっかりと掃除が行き届いたニースという感じだ。要はキレイだけど、あまり人間味を感じないのだ。
モナコの観光コースは、大公宮殿広場まで上って(けっこうな坂)、それから旧市街を歩いて抜けて、モナコ大聖堂を見学。そのあと海沿いの崖に沿って伸びるサン・マルタン公園を散策して、海洋博物館へというものだ。海洋博物館は海洋生物学者でもあったモナコ大公、アルベール一世が作ったものだが、海洋学に関わる展示のほか、水族館もある。今日の引率役はローラだった。彼女は2時半から6時のあいだにモナコの見所をできるだけ見せようとして、このあとさらにカジノやオペラ座があるモンテ・カルロ地区の見学も含めたコースを準備していた。夕方6時過ぎ発の列車に乗ってニースに戻らなくてはならいことになっていたらしく、けっこう駆け足のモナコ観光になった。海洋博物館のブティックには、コートダジュール近辺のこの主のミュージアムショップのなかでは可愛らしく、趣味のいい製品が並んでいるのだが、学生たちのショッピング欲は満たされただろうか?
モナコはどの観光ポイントも観光客が一杯で、しかもけっこう日差しが強いなか坂道を上り下りしなくてはならないため、私はけっこうバテバテになってしまった。モナコ自体、既に何度も行っている上に、関心もないので、今日はローラに任せて、自分は家で午後はのんびり過ごせばよかったと後悔した。帰りの列車はモナコに通勤する近隣のフランス人たちの帰宅時間と重なり満員だった。私は自分の滞在先の最寄り駅である、ニース駅の一駅手前の駅で降りた。
バテバテで家に戻ったが、家主のAnnickの手作りのニース料理の食卓で元気を取り戻す。前菜はオリーブ、タマネギ、アンチョビが具のニース独自のピザ、ピサラディエール。メインは昨日の昼、ニース料理のレストランでも食べたファルシだった。Annickの料理はお世辞抜きに昨日のレストラン並に美味しかった。少なくとも旧市街にある老舗惣菜屋のファルシやピサラディエールよりはるかに美味しかった。
病気で休んでいた学生に電話する。男子は食欲はなく、お腹の調子は悪いけれど、解熱剤なしでも平熱になったとのこと。明日の午前中はボーリュの古代ギリシャ別荘への遠足、午後は最後の授業だが、出席させるかどうかは迷う。明日の朝、平熱ならマスク着用で出席可とするか。女子は37度半ばの微熱で、明日の授業出欠については熱があれば休むということにした。

2023年8月10日木曜日

2023/8/9 ニース第11日

 午前8時起床。今日の午前中の予定は空白だ。ニース到着以来ずっと朝から晩まで詰まっていたので、予定のない時間があるとほっとする。これまでまだ行ったことのないニース市内の美術館や博物館がいくつかあるので、そこにひとりで行こうかなと思ったが、結局、家でダラダラと過ごした。昼飯はAzurlinguaの校長のJean-Lucと取る約束を先週、口頭でしたのだが、彼からは何の連絡もない。もしかすると忘れてしまっているかもしれないなと思いながら、12時半ごろに学校に到着すると、学校の入り口で彼は私を待っていた。

学校から歩いて5分ほどのところにあるニース料理店で一緒に食事を取った。ジャン=リュックの行きつけの店のようだ。前菜、パスタ、主菜、デザートとフルコースでニース郷土料理を食べる。小さくて庶民的な佇まいの店だが、いろいろ表彰されたり、取材されたりしている人気店のようだった。実際、料理は絶品だった。
食事中、ジャン=リュックからなにかビジネスがらみで話があると思えば、彼はあまり話さないし、こちらに話題を振るようなことも積極的にはしない。「あれ? 彼、こんなにしゃべらない人だっけ?」と思いながら、私が主に、とりとめのない話をダラダラした。私とこんな「社交的」な会話をして、それが彼に何の意味があるのだろうか、と思いながら食事をした。出てくる料理は絶品。高級料理ではないけれど、自分はむしろこうした庶民的な料理のほうが好きだ。80分ほどレストランにいたと思う。支払いはもちろんジャン=リュックのおごりだ。レストランを出て50メートルほど学校のほうに戻ったところで、ジャン=リュックは「あ、私は学校とは別の場所で約束があるから、ここで別れよう」と言う。そして私の手を握ると、「今度、おまえが研修でニースに来るときは、私かエリックに直接連絡するんだ。他の奴に連絡する必要はない。私かエリックだ、わかったか?」と力強い調子で言った。
3年半ぶりに行ったニース語学教育研修実施にあたっては、事務手続きでいくつか学校側の不手際があった。こうした正確さの欠如はフランスではよくあることなのだけど、入金確認についてかなり重大なミスがあったこともあり、私は、今回の研修の準備で私の対応をした日本人女性スタッフを介してクレームを学校側に伝えた。また先週ジャン=リュックに会ったときにも口頭で伝えたし、facebookの投稿でも言及した。こうした指摘を彼は実はすごく気にしていて、深く傷ついていたことに気づいた。最後のメッセージを伝えるために、彼は90分の会食を設定し、そこでたいした内容がない社交的会話を行い、何十€かを支払ったのだ。こうした「演劇的」とも言えるメッセージの伝え方には、胸をドンとつかれたような衝撃を受けた。なんとも言いがたい動揺というか。成功しているといっていい語学学校の経営者の強かさと繊細さを一挙に受け止めたような気がした。それにしてもたかが小グループの引率者に過ぎない私に。こんな経験ができるからニースはたまらない。
午後の授業では「国境」がテーマだった。アゼルバイジャン出身でドイツに移住した学生の話、チェコ人が語るスロバキアについての感情、カタローニャ人とスペイン人のやりとりなど、とても興味深かった。
夕食は、3年半前の前回のニース研修実施以前の三回の研修で、私が滞在先にしていたマダガスカル人の一家に食事に行った。今回の研修でニース到着当日に、偶然学校の前で、マダガスカル人一家のdameに出会ったのだ。前回の研修後、すぐにコロナ騒動となった。帰国後に彼女に一回メールを出したが、その後特に連絡は取っていなかった。
彼女の家には兄妹の二人の子供がいるのだが、この二人が大きくなって別々の部屋を与えることになったため、Azurlinguaの受講生の受入れは1年半ぐらい前にやめたと聞いた。
思いがけない再開だったので手土産は用意していなかった。日本で購入していたキットカット抹茶味二袋とニース旧市街でワインを買って持って行った。
4人家族のうち、息子は18歳の思春期後期で、夕食時なのに外出してしまっている。妹のほうは16歳になっていた。最初見たときはdameの妹かと思った。ベランダをテラス席にして、19時半から22時過ぎまで食事と歓談。最初は少々ぎごちなかったが、徐々に以前の感覚が戻ってきた。このマダガスカル人一家はまずご飯が異常においしかった。伝統的なフランス家庭料理だけでなく、中華風、インド風の料理、そして私のリクエストがあるとマダガスカル料理が出てきた。今回もマダガスカル料理を準備してくれていた。昼食で食べ過ぎたのでお腹が全然空いていなかったのだが、結局出てきた料理は料理は完食。主菜は豚肉と豆の煮込み。3年半ぶりに食べるこの家のごはんはやはり最高だった。
この家には二週間かける3回滞在している。一回の滞在で10回ぐらいは一緒に飯を食べて、食事中にいろいろ話をしているので、気心が知れている。他人に対してずっと心のどこかで用心しなければならないようなフランスで、この夫婦とは腹を割って、私のつたないフランス語ではあったが、日本人同士でもすることないような、率直な言葉のやりとりをすることができていたように思う。今回もとても安らかな気分で彼らと一緒に食事を楽しんだ。




2023/8/8 ニース第10日

 午前6時55分起床。

一昨日から発熱している学生の様子を確認する。やはりまだ熱が引かず、38度以上あるとのこと。その学生と同じ家に滞在してる別の学生に、ホストファミリーにタクシー呼び出しを依頼し、救急外来のあるパストゥール病院まで発熱している学生を連れてくるように伝えた。するとホストファミリーの旦那さんが車で病院まで学生を運んでくれることになった。私は救急対応窓口があるパストゥール病院に朝食を取った後に向かい、学生をそこで待った。学生が病院に到着したのは午前8時半頃だった。一般外来も受付が始まる時間だ。救急外来窓口ではなく、一般外来窓口で診察を受けることになるのかなと思ったが、救急外来の出入り口にいた職員に聞くと、予約がない場合は救急外来でいいと言う。大病院なので待たされることを覚悟していたのだが、以外にすんなり診察に入ることができた。


発熱学生はさすがに元気そうではなかったが、普通に歩ける。まず受付で病状についてかなり詳しい問診があった。そのあと、しばらくして診察室へ。若い男性医師が診てくれた。医師の問診のあと、採尿と鼻に綿棒を突っ込むウイルス検査を行う。ウイルス検査の結果、学生は新型コロナに感染していたことがわかった。この学生は日本出国の一週間前に新型コロナに罹っていたのだが、出国日の前にはほぼ回復していて、熱も咳もなかった。まさかその二週間後に新型コロナになるとは予想外だった。学生はかなりがっくりした様子。私もこれはもしかして日本に予定日に帰国できないなどかなりやっかいなことになるかもしれないと覚悟したのだけれど、フランスではコロナ診断確定後の処置は解熱剤を処方することだけだった。熱があってしんどいだろうから解熱剤を飲んで、治るまで家で寝ておけ、ということだ。これは数年前に連れてきた学生がインフルエンザに感染したときもほぼ同じ処置だった。

フランスの解熱剤は日本の解熱剤よりも効く成分が大量に入っているので、その効き目は非常に切れ味がいい。これまで二人、ニース滞在中にインフルエンザが発症した学生がいたが、解熱剤を飲んで熱をさげ、2日程度家にいたら快復していた。今回の新型コロナの彼もそうであればいいのだが。この学生は他に二人同室の学生がいる。二人とも発熱はないものの、昨日から体調がいまいちのようだった。おそらくかなり高い可能性で同室の二人も新型コロナに感染していると考えたほうがいいだろう。
フランスの医療については、フランス在住者で高い評価をしているのはあまり目にしないけれど、少なくとも私の経験ではいやな思いをしたことはない。私はフランスで入院経験があり、それ以外にも医者に行ったことは何度もあるし、ニースでもこれまで数人の学生を病院に連れて行った。医師の応対や診察は、日本で私が通うクリニックよりもおおむね丁寧だ。看護士や薬局の人たちも親切だった。今回も病院会計事務や誘導のスタッフも含め、とても感じがよかった。
そういえば、今回の滞在、フランス人対応はみんな感じいいよな、と思ったのだが、病気の学生をタクシーで家まで送ったときに、タクシーの運転手が到着後に、「追加料金」というボタンを押して、メーターに表示されている料金より10€上乗せしてきた。
「なんだ、この10€は?」と聞くと、これはニースのタクシーのミニマム料金だと言う。「そんなものはいままで見たことはない。冗談言ってるのか?」と言ったが、「これは決まったものでどうしようもない。ミニマム料金だ」とかわけのわからないことを言う。
運転手の名前と車の番号を控えておけばよかった。結局、領収書あれば保険で返還されるしと思い、そのまま請求額を払ってしまったのだが、むかついてしかたない。乱暴にバタンとドアを閉めて車から出ると、「しずかに締めろ!」と注意してくる。まあ、正当な注意かもしれないが、病人乗せているのをわかった上で、こちらが外国人であることにつけこんでぼったくる屑のくせに、何をえらそうに注意するんだと思い、「悪かったな。野蛮人だからドアの閉め方がわからなんだ」と答えた。
「ああ、なんていい人ばかりなんだ」という気分でいると、滞在中にこういう奴に遭遇しないことがまずないのだから、フランスは奥が深い。ある意味、最高というか、ホッとするというか、「ああ、これがフランスだよ」という気分になる。「ニースのタクシーとトイレは、最低だ」ということを改めて確認できた。
昼食は学校に戻り、学校のそばの食堂で取る。今日の昼食はムール貝+ポテトフライを選んだ。
午後の学校主催の遠足は、ニース現代美術館だった。ここには豊満な女性像の立体作品やポップで鮮烈な色彩表現が印象的なNiki de Sant Phalleの作品やニース出身で青色のモノクロームの絵で知られるYves Kleinの作品など、現代美術の優れた作品を数多く展示されている。案内役のLauraが鑑賞前に、背中に背負うリュックサックはもとより、貴重品などが入った小さなバッグまで受付の横の部屋にある無人のスペースに置いてある箱に入れていけと言う。美術館がそう要求すると言う。「いくらなんでも貴重品を入れる小さなバックもこんな無人の部屋の箱に入れて置くように指示する美術館はあり得ない」というようなことをいくぶんきつい調子で彼女に言って、学生たちには大きなリュックサックはともかく、それ以外のカバン類は美術館内に持ち込んで鑑賞してもかまわないと言った。美術館の受付の職員にもそれで問題ないことを確認した上で。案内役のローラは彼女なりに一所懸命に自分の任務を果たそうとしているのはわかるのだが、こんな馬鹿げた指示に従わされるのはがまんならなかったのだ。
意外だったのは、ローラは自分の過ちを認めて、謝罪するフランス人だったことだ。今回は私が彼女の面子を潰すようなことをしたのだが、あとで彼女は「自分がカバンについて変な指示をしたことはごめんなさい」と私に謝罪した。フランス人は、自分の責任が追及されるようなときは決して謝らないという固定観念が私にはあるので、ちょっとびっくりした。そういえば木曜日におそらく彼女のミスで、ボーリュへの遠足に行けなかったときも、彼女は謝罪していた。彼女がたまたまそういう人なのか、それとも最近のフランス人の若者はミスをしたら謝るようになったのか。
ニース現代美術館では90分ほど過ごして、学校主催の遠足は解散となった。
今日はこのあと21時から、学生たちを連れてニース高台にあるシミエ修道院の回廊でのジャズ・コンサートに行くことにしていた。ローラと別れたのが17時半頃だったので、コンサート開始まではまだ時間がある。1時間後にガリバルディ広場に再集合することにして、私は旧市街でジェラートを食べ、ニースの老舗オリーブ製品店、Alziariで買い物をした。
夕食はジャズ・コンサートに行く学生たちと一緒に、旧市街内のトルコ料理大衆食堂で取った。ケバブの類いの定食を出す店だ。普通のレストランに入ると食べ終わるまでに90分は見ておかなければならないんので、安くて早いケバブ・レストランを選んだ。ケバブは欧州留学者にとっては定番中の定番の軽食だし、日本でも最近はケバブ店を多く見かけるので、ニースの外食でケバブってのはもったいないなあと思っていたのだが、学生たちのなかにはケバブを初めて食べたという学生が数人いた。
食事後、バスでシミエ修道院へ。日の入りは20時45分ごろなので、コンサートが始まってもしばらくの間は外は明るい。コンサートの代金は25歳以下の学生が9€だった。当日券を購入したが、計算が面倒くさかったのか、私も9€の代金でチケットを購入することができた。コンサート会場はシミエ修道院の中庭回廊である。修道院の中庭には普段は一般人は入ることができない。この普段は入ることができない聖域でコンサートを楽しめると言うのが魅力だ。コンサートは21時過ぎにはじまり、23時頃に終了した。シミエ修道院からふもとのニース市街地までは歩いて30分ほどかかる。帰りをどうするかが問題だった。夜中でもバスはないことはないが、本数は少ない。
ニース駅の北組と南側の二組に分けた。北組は男性二人が女性二人をエスコートして滞在先まで送っていく。女性二人を送り届けた後、男性二人は自分の住処に戻る。南組の女性には私がつきそうことにした。南組は歩いて下るとなると、4キロ弱歩かなければならない。そこから私は自分の家に戻るとなるとさらに2キロぐらい歩くことになるだろう。帰宅が午前1時ごろになってしまうかもしれない。これはちょっと体力的に無理、と思い、Uberを使うことにした。Uberを呼び出すと5分ぐらいでやってきた。Uberはなんて素晴らしいんだ。行き先を指定した時点で値段も出て、カード決済なので、タクシーのようにぼられることもない。北組の学生たちにもあらかじめUberの使い方を教えておけばよかったと思う。彼らは暗い夜道を歩いて麓まで下ったのだ。

2023年8月8日火曜日

2023/8/7 ニース第9日

 二週目の最初の日。学生のなかに体調を崩す者が続々と出ている。私は今のところ、幸い、疲れているけれど、元気。

昨日から調子が悪かった男子学生一人が発熱のため、学校に出てこれなかった。
また別の学生は学校には来ていたけれど、吐き気と全身の倦怠感があるという。
午前中はニースから東に20分ほど電車に乗ったところにあるボリュ=シュル=メールに学校企画の遠足で行く予定だった。モナコの手前にある小さな町だが、高級ホテルや高級ブティック、カジノがあるお金持ち旅行者の町でもある。町自体には特に見所はないのだけど(景観は美しいが)、この町には20世紀はじめに美術史家と考古学者が歴史的考証にもとづいて再現した紀元前4世紀のギリシャ貴族の別荘がある。綿密な学術的成果に基づいた「複製」であるだけでなく、美学的にも恐るべき完成度の建造物で、個人的にはニース近郊の観光ポイントのなかで訪れる価値が高い場所だと思う。

9時35分ニース発の列車に乗ると、学校のエクスカーションの担当者は言っていたのだが、列車の予約でなにか問題が生じたらしく、結局、今日はボリュ=シュル=メールに行くことができなかった。ボリュ=シュル=メールへの遠足は金曜日の午前に延期されることになった。
午後の授業開始は14時45分からなので、遠足の突然の中止で、4時間以上の空白時間ができてしまった。

9名の学生のうち、2人は本屋に行ったらしい。私は残りの7人の学生とニース随一の高級ホテル、ネグレスコ・ホテルに行った。このホテルの広大な円形広間は学生たちにぜひ見せてみたい場所だった。ただこの円形広間を見るには、ネグレスコ・ホテルの客にならなくてはならないのだが、ネグレスコ・ホテルのカフェでお茶を飲むだけでもOKだ。珈琲が10€とかなり高額だが、奥の円形大広間見学のための費用も含まれていると思えば、それほど高くないだろう。カフェも内装も高級ホテルだけあってシックだ。3人と5人に分かれて座った。私は3人組のテーブルでカプチーノを注文した。珈琲にはナッツやチョコレートなどのおつまみがつく。私とは別のテーブルについた5人はマカロンやデザートも注文したようだった。飲み物を飲んだあと、奥にある円形大広間で20分ほど過ごす。調度品も広間の周囲に展示されている美術作品の数々も一級品だ。
昼食は今週から学校の近くのcantine 食堂でとる。cantineというと大学食堂や社員食堂を指すが、このcantineはAzurlingua他、この食堂の利用契約をしている周辺の幾つかの会社や官庁のスタッフが利用している。カフェテリア形式で、毎日メニューが代わり、前菜、主菜、副菜、パン、デザートを一つずつ選ぶことができる。ここの昼食はボリュームがあって美味しい。先週は工事でこの食堂を利用出来なかった。
私は三年半ぶりにこの食堂を利用したのだが、食堂スタッフのおばさんが私のことを覚えていて、声を掛けてくれたので嬉しかった。この食堂スタッフの人たちには、なぜか私が連れてきた日本人学生の評判がとてもよかった。確かに行儀のいい子ばかりではあったけど、日本人はニコニコ笑顔で挨拶するのが感じよかったらしい。
土曜日のカンヌ遠足のセント=マルグリット島往復の船代は、学校が払い戻してくれることになった。午前中にエクスカーション担当の若い女性スタッフに話したときは、「一般参加者が申し込むカンヌ遠足には島への渡航は含まれていない。あなた方グループが島に行くことになっているなんて知らなかった」と言っていたので、これはけっこうハードな交渉をしなくてはならないかと覚悟を決めていたのだが、もう一つ上の責任者に話し、船代の領収書を渡すと、あっさり現金で払い戻してくれた。もう一件、私たちのグループのニース滞在を土曜日までと各家庭に伝えていたことが、今朝、私の滞在先のマダムとの会話でわかり、日曜日までニースに滞在することをあらためて各家庭に確認しておいてくれ、というリクエストも行う。この確認作業は速やかに行われたことを帰宅後のマダムとの会話で知った。学校から電話がかかってきたとのこと。

午後は授業だったが、男子学生二人と女子学生一人が体調不良で学校を休んだ。疲れが蓄積している上、慣れない海外生活、他人の家での生活でストレスも大きいのだろう。男子学生二人の体調不良は、昨日、アフリカ料理屋で供された副菜、Attikéが原因である可能性が高いように思った。さっきネットで調べると、Attikéはタピオカの原料となるキャッサバを原料とするクスクスのようなものらしい。男子学生二人は、コートジボワール料理では定番のAttikéを副菜として選んでいた。というか一人は、自分でattikéを選んだわけでなく、ウェイターがコートジボワール料理のケジュヌを注文した私に供するはずだったAttikéを彼に出したのだ。私は自分に供された米をすでにケジュヌのスープに浸して何口か食べてしまっていたので、彼に「おまえは今日はattiké食べたらいいよ」と言ってattikéを心ならずも食べさせたのだ。もう一方の体調不良の学生のattikéを一口私は食べたのだが、そのとき「んん。クスクスみたいなものとウェイターは言っていたけど、なんか不思議な酸味があるなあ」と思った。あんまり美味しいと思えなかったので、自分は米でよかったと思ったのだ。もしかするとあのアッティケは作り置きで、ちょっと悪くなっていたのかもしれない。あの香りと酸味は腐敗が原因だった可能性がある。
午後の授業は先週に引き続きNicola先生のB2レベルの授業を聴講させてもらう。今日は前半は先週とりあげた語や表現から各自が一つずつ選び、その語・表現の意味の説明をし、その説明からその語・表現が何かを当てるというクイズをやった。後半はテレビのニュース番組のオープニング映像の聞き取りと内容把握、そしてそこで使われている語・表現を拾った。
授業が終わるのは午後6時。日が沈んで暗くなるのは8時半頃だ。すぐに家に戻るのはもったいない気がしたので、海岸まで歩き、海岸沿いの道を旧市街までぶらぶら歩いた。昨日のカンヌのサント=マルグリット島の透明度の高い海も美しかったが、淡い水色と濃い青がコントラストをなすニースの海も思わず嘆声をあげてしまうほど美しい。そして旧市街の町並みはやはりかっこいい。
今日の夕食は家で食べた。Annickがアルジェリア生まれの母親から受け継いだというクスクスを食べた。アルジェリア風のクスクスは初めてだったが、これが絶品だった。金曜夜に食べたChez Michelのクスクスに劣らない素晴らしいクスクス。Annickの母親はアルジェリア戦争のときにフランスに帰国したpied-noirだ。彼女は16世紀にスペインからアフリカに移住したユダヤ人の子孫だったが(この時期、スペインで大規模なユダヤ人迫害があって、多くのユダヤ人がフランスなど近隣地域に逃れた)、フランスでポーランド人の男性と出会い、結婚した。Annickの父はポーランド人なのでカトリックだった。カトリックとユダヤでは宗教的結婚はできない。二人は役所で非宗教的な民法上の結婚 mariage civil をし、その後お互い、宗教活動の実践をやめたとのこと。
調子の悪い学生たちのうち、特に男子学生一人の高熱が続いているという連絡が入り、心配になる。Annickに相談して、対応策を練る。
明日の朝まで様子を見て、熱が続くようなら、病人の学生には彼の住んでいるファミリーにタクシーを呼んでもらって、救急対応病院まで来て貰う。私が住んでいるところは救急対応病院の近くなので、私は病院に先に行って学生を待ち、学生が到着すると救急対応窓口まで連れて行くことにする。タクシー代や診察費などは海外旅行保険で補填されるはずだ。

2023年8月7日月曜日

2023/8/6 ニース第8日

 ニースに着いたのが一週間前の日曜日だが、もう大分前のことのように思える。

今日は日曜なので授業はない。学校企画の遠足もない。私の企画で、ニースの70キロほど北のアルプス山中にある城塞村、アントルヴォーに行くことにした。ニースからはローカル私鉄のプロヴァンサル鉄道で90分ほどで行くことができる。アントルヴォーには古代以来集落があったが、16世紀以降、スペイン、イタリア、フランスの国境の近くにあるこの村は重要な軍事的要衝となり、17世紀後半にはルイ14世治世下に数々の要塞を築いた天才築城家、ヴォーバンの構想のもと、村を見下ろす山頂に城塞が築かれ、村そのものも要塞化された。現在の人口は約800人の小さな村で、おそらく日本語のガイドブックではまだ紹介されていないと思うが、その軍事的要塞としてのいかめしい威容とふもとに密集した建物と路地が形作る村の景観の静謐な佇まいはなんともいえない魅力がある。ニース研修のときには学生たちを連れていきたい場所の一つではあるが、ニースからかなり遠いのと山頂の砦に登るのが体力的にけっこうきついので、私に体力がなかったり、スケジュールが詰まっているときは、ここには来ない。今回は体力的にはかなりバテバテなのだが、毎日夏の海しか見ていないので、気分を変えて山の風景を見てみたくなったので行くことにした。
アントルヴォー行きの列車は一日に数本しか出ていない。朝9時20分の列車に乗ることにした。学生たちには9時集合と伝えた。アントルヴォー行きの切符を確保していなかったので、早めの8時半すぎに駅舎に行ったのだが、駅舎は空いていたものの切符売り場の窓口は閉まったままだった。9時20分発のプロヴァンサル鉄道に乗るために駅にやってきた観光客が駅舎内に私以外に数組あったが、駅舎にある切符の自動販売機はニース市内のトラムとバスのものだし、切符購入の窓口は閉まっているしで、当惑した感じだった。フランス人が当惑するのだから、私も切符を事前にネットで購入しておけばよかったかなとちょっと焦る。あるいは今日はいきなり運行中止とかではないだろうなとちょっと不安になる。8時50分を過ぎたころにようやく駅員が切符購入窓口を開いた。
9時20分発の列車はほぼ満員だったが、全員、離れた場所だったが、座ることができた。11時前にアントルヴォーに到着する。中世風のコスプレをした住民が私たちを迎えてくれた。まず観光案内所に行き、村を見下ろす山頂の砦に行くのに必要なコインを購入した。さっきWikipediaで調べたところ、麓から山頂の砦までの高低差は156メートル、距離は800メートルに過ぎないのだが、強い日差しのなか砦までのジグザク道の急斜面を登っていくのは、私にはかなり大変だった。25分ほどかかったように思う。息が切れて、頂上では20分ほど休憩しなくてはならなかった。しんどい思いはしたけれど、この砦に登らなくてはアントルヴォーに来た意味がない。砦への道から見下ろす村とその背景にある岩山の風景美は圧巻だ。村に下りたのは1時前だった。昼食は三班に分かれた。ニースで買ったサンドイッチを村内で食べたのが二人、私と一緒にアントルヴォーの名物である牛肉の生ハム、セッカの定食を食べたのが私を含め三名、残りの六名はクレープ屋でガレットを食べたようだ。
私が昼食を取ったレストランは穏やかで感じのいい老夫婦でやっていた。サラダやパスタなどが配置されたセッカのプレートはお洒落だったし、味も悪くなかった。野外のテラス席での食事は気持ちがよかったが、小さな蜂がハエがプレートにあるメロン目当てで飛んでくるのがうっとうしかった。しかしアントルヴォー名物のセッカを食べられて大いに満足する。
昼食後はまた観光案内所に行き、そこから今度は要塞化された村の外壁の通路を散策した。通路内にはアントルヴォーの歴史やこの地域の風俗を説明する写真やマネキン人形などがところどころに展示されている。外壁通路ツアーのあとは、一時間強の自由散策時間とした。アントルヴォーの村はごく狭いので30分もあればほぼすべての路地を見て回ることができる。狭い路地によって形成された風景と村の静けさは、エズなどの観光地にはない魅力がある。過去の時代がそのまま固定化されたようなこの村は、単なる観光用の見世物ではなく、実際の生活の場でもあるのだ。小さな村だが村内には大聖堂があり、南欧特有のねっとりしたバロック様式の内装になっていた。
16時28分にアントルヴォーに到着するはずの列車は、10分遅れで到着した。列車は混雑していたが、なんとか全員座ることができた。車内で学生の多くは眠っていた。ニースへの帰着は予定より40分遅れになった。
夕食はSNCFのニース駅の南側、Azurlinguaの近くにあるアフリカ料理店 Chez Marie-Angeで取った。昨日11名分の席を電話で予約したのだが、18時過ぎにレストランから予約確認の電話がかかってきてちょっと焦る。コートジボワール料理がメニューに含まれているのでおそらくシェフはコートジボワール人だと思う。ヤッサ、マフェといった西アフリカのご飯のレストランで、店員はもちろん、客の大半は黒人だ。この店で私が食べるのは三回目だ。一回目は一人で、二回目は3年半前に学生たちを連れて食べに来た。東アジア人が団体でこの店で食事をすることはまずないだろうから、店の人は戸惑ったかもしれないが、陽気で親切な実に感じのいいホスピタリティでもてなしてくれた。この店では調理は女性が担当し、男性は給仕を担当する。店名のMarie-Angeさんとは食事後に挨拶して言葉を交わしたが、どっしりとしたボスの風格を持つ、ほがらかな女性だった。学生たちはヤッサないしマフェを注文した。飲み物として自家製のジンジャエールを注文したのだが、これがジンジャエールの原液みたいな濃厚さでそのまま飲むと喉がヒリヒリして、顔が火照ってくる。余りに強いジンジャエールだったので、最初4ボトルたのんだが、それを2ボトルに減らして貰った。それでも全部飲みきることができず、大量に飲まないままになってしまった。
前菜はサラダと魚と肉の揚げ物を注文した。魚と肉の揚げ物はどんなものかわからなかったので一皿ずつしか注文しなかったのだが、これが案外美味しい。激辛の調味料ピリピリを付けるとなおよし。メインのヤッサやマフェは、目に来てしまうような豪快なボリュームだった。私はヤッサ、マフェではなく、コートジボワールのシチュー、ケジュヌを注文した。ケジュヌはトマトベースのピリ辛スープの煮込みでほろほろ鳥が入っている。付け合わせは米かアチュケの選択。料理はおおむね学生たちにも好評だったようだが、とにかく量が多かった。「料理を残してはいけない」という精神的縛りでがんばって食べた結果、体調悪化させた学生も出た。学生を食事に誘うときはもっと慎重にしなくてはならないと思った。私としてはホスピタリティも含め、この店はとても気に入った。またニースに来たときは、食べに来ようと思う。
学生を送って家に戻ると23時を過ぎていた。Chez Marie-Angeでは19時にテーブルについたのだが、サービスがのんびりしていて、レストランを出たのは21時半を過ぎていたように思う。
ホストファミリーには昨日から家主の9歳の孫娘が、今日からは5歳の男の子の孫が、来ている。二人とも人なつっこくて可愛らしい。私が帰宅した時にはまだ起きていた。