2017年2月28日火曜日

ニース研修春2017 (9) 2/27

心乱れたこともあったが最後は平穏な日だった。

午前中は寝坊して起きて、1月にやったインタビューの文字起こしをやっていた。とりあえず文字起こし終了。これから整形して記事にしていかなければならない。6月にやる学会発表の要旨執筆の締切が迫っていてこれもニースにいるあいだに書き上げなくてはならない。
今日の午後は学校のプログラムでニース現代美術館に行く予定だったのだが、待ち合わせ時間を確認するためにスタッフの部屋に行くと、担当者に
「ごめん、今日、ニース現代美術館は休館日だった。明日に変更するから、学生たちに言っといて」
と言われた。
午後の予定がぽっかり空いてしまった。ショッピングなどをしたかった学生にはこの突然の自由は大歓迎だったようだ。月曜はサレヤ広場で雑貨などの蚤の市をやっているので、それに行きたがっていた学生もいた。
学校企画でなく、私の企画で午後にニースの高台にあるシミエ修道院付近の散策を提案したところ、4人の学生が来ることになった。

昼飯は食堂でいつものように。アレルギーを持っている学生と食事についてちょっと議論。

飯を食ったあと、シミエ修道院行きを選択した学生4名とバスでシミエへ。ニースの高台にあるこの地域はニースでも屈指の高級住宅街だ。フランシスコ会のシミエ修道院とその付属教会・庭園のほかマティス美術館、考古学博物館がある。古代ローマ時代からこのあたりには集落があり、直径150メートルほどの円形劇場跡と広大なローマ浴場遺跡がある。

マティスは後半生をニースで過ごし、ニースで没した画家だ。ニースのマティス美術館には彼のフォヴィスム時代の油絵の代表作はないが、初期から後期の切り絵を使った単純なフォルムと色彩のデザイン的な作品まで、彼の画家としての生涯をたどることができる。展示されている作品そのものよりも淡いオレンジの色彩の壁の開放感のある展示室の雰囲気がいいように私は思う。後期の色紙の切り絵みたいな「作品」はそれだけ見るといいも悪いもないのだけれど、画家のキャリアの変遷とともにそれらをとらえ、画家がその表現に引き受けてきた美術史の流れを思うと、こうしたシンプルでたわいない作品の面白さもなんとなくわかってくるような気がする。


マティス美術館はアジュールリングァ主催の遠足でこれまで何度も行ったことがあった。ここはニースの美術館のなかでは例外的に写真撮影禁止で、二年前にはじめて来た時、それを知らずに写真を撮っていたら厳しく注意されたことがあった。それで学生たちにも「ここは写真禁止だからね」と事前に注意しておいたのだが、イタリア人の学生グループがパシャパシャ作品の前で写真を撮っていて、それを美術館のスタッフは注意しない。美術館スタッフに「あの、写真を撮ってもいいのですか?」と聞くと、
「いいんです。マティスの遺族と交渉していたのですが、一週間前に写真解禁となりました」
ということだった。

マティス美術館に入る前にちょっとトラブルがあった。マティス美術館は学生は無料なのだ。ニースの美術館は学生無料のところが多い。これまでは日本の大学の学生証を見せればそれでOKだった。国際学生証を見せろと言われたことは一度もない。なので今年も学生には、「日本の大学の学生証を必ず持ってくること。でも国際学生証は作る必要はないからね」と言っていたのだ。
ところが今日のマティス美術館のチケット係のおばさんは、日本の学生証を提示したところ、
「私には中国語は読めない。いったいこれが学生証なのかどうかどうやって判断すればいいのか?」と言うのだ。
大学名はローマ字で書いてあったので、それを指さすと
「この学生証の有効期限はいつまで?年号が書いてあるけれど、それが何を意味するのか私には理解しようがない。これでは認められない」
と言うではないか。これまでこうしたやりとりはまったく経験したことがなかったので戸惑った。
「いや、去年も同じように日本の学生証を出したけれど、ニースの美術館で問題になったことはなかったので」
「そんなことは私は知らない。いずれにせよ私にはこのカードが意味するものがわからないのだから、認められるわけはない」
とかたくなだ。そこで
「わかりました。まったくあなたが正しい。ただ私たちは遠い日本からやってきたのです。次からは国際学生証を持ってきますので、今回はどうか」
と低姿勢でお願いしたら
「あなたがた年齢は何歳?」
と年齢を確認した後で、「今回だけは私の裁量で認めてあげましょう。でも次回はだめです」
ということになった。

マティス美術館のあとは、隣にある考古学博物館に入った。ここも学生は無料。入り口のスタッフのおじさんたちに、日本の学生証をておそるおそる提示すると、ちらっとみて「あはは(こりゃ何が書いてあるかわからんという笑いだと思う)」と笑って、「OK」とそのまま学生無料チケットをくれた。やはりニースではこっちのほうがスタンダードなはずだ。


考古学博物館の裏側には、広大な古代ローマ浴場跡がある。フランス人は浴場遺跡には興味がないのか、わたしが愛用するガイドブック「ルタール」でもここの評価は☆ひとつ、アジュールリングァの遠足コースからも外されていて、この博物館自体がらんとしている。しかし日本人であるわれわれの目からはこの規模の大きな古代ローマ浴場遺跡とこの地から発掘した資料を展示してある博物館の展示は興味深いものだ。


考古学博物館のあとは、シミエ修道院へ。付属の教会の内部に入ったが、暗くて人はわれわれ以外いない。静謐で暗い教会内の天井、壁面から内部装飾がじわじわと迫ってくる感じだ。修道院の建物内にあるフランシスコ会修道会博物館をさっと見学し、修道院の美しい庭をぐるっと回った。庭からの眺望がすばらしい。


行きはバスを使ったが、帰りは下りなので歩いてニースの町に戻る。








2017年2月27日月曜日

ニース研修春2017 (8) 2/26

平穏で幸せな一日だった。
日曜日で学校主催のプログラムはない。
この日はイタリアとの国境の町、マントンにレモン祭を見に行くことにしていた。昨年はじめて見に行って面白かったので。内容はパレードと展示で、パレードはニースのカーニバルとほぼ同趣向のものだが、レモンとオレンジを使ったオブジェが出るというのがマントンのレモン祭の特徴だ。今年で84回目の開催になる。

昨日のことがあったので、マントンに行くのが億劫な気分だったが、行くと約束したので行かなくてはならない。昨日夜中にLINEにごちゃごちゃ怒りのメッセージを残しておいたので、駅での待ち合わせで学生も多少神妙にしているように見えた。
マントンまではニースからイタリア方面にローカル線で40分ぐらい。ニース駅で列車は満員になった。モナコでだいぶ降りるだろうと思ったら、大半はマントンまで乗車していた。レモン祭めあての観光客みたいだ。

マントンに着いたのは11時15分ごろ。まず旅行案内所に行き、レモン祭のチケットを買う。レモン・オレンジを使った巨大オブジェの野外展示とパレードのセット券が17ユーロ。ニースのカーニバルも有料だが、祭なのに有料というのが南仏カーニバルのつまらないところだ。地元の人たちの祭というより、完全に観光客ターゲットの祭になってしまう。実際、ニースのカーニバルの観客に地元の人はあんまりいないと思う。ニースのカーニバルは昨年までは無料プログラムもあったが、今年は有料のみ。昨年夏のトラック轢殺テロで警備が厳しくなっていて、カーニバルの活気もいまひとつように思った。

最初に展示場を見てから、食事をして、それから14時半からはじまるパレードを見るつもりだったが、展示場の入場口はかなりの混雑だった。人がかなり多く、レストランも混雑しそうだったので、先に食事をしてから、そのあとパレード、最後に展示の順番にした。われわれのグループ14人で食事をできる場所を探すのは大変そうだったので、適当に分かれて飯を食うことにした。先週の木曜、モナコ遠足ではぐれた子は私の後ろをずっと追っかけている。私の後ろにくっついていくと決めたみたいだ。そのほうが私も安心だ。私はその子と彼女のルームメイトと旧市街の入り口にあるレストランに入った。メニューを見て値段を確かめていたら、引き入れられてしまったのだ。迷い子のルームメイトの子が昨夜ムール貝が食べたかったけれど食べられなかったので、ムール貝がメニューにあったこの店に入った。
天気がよかったのでテラス席に座った。二軒のレストランが小さな四角い広場に向かい合っていて、その真ん中ではクラシックギターを延々と演奏し続けるミュージシャンがいた。


私は魚のスープとムール貝、学生の一人はニース風サラダとムール貝(私と二人で分けるつもりで注文したのだったが、ちゃんと伝わってなくて二人前出てきた)、残りの学生はかものささみの胡椒ソース。魚のスープは大好きなのだが、食べるのは久々。濃厚でうまい。ムール貝はどこで食べても同じようなもんだと思っていたが、昨日食べた店よりもこの店のほうがおいしかった。貝自体がちょっと違う気がしたし、味付けが違う。鴨肉の胡椒ソースは一切れ分けてもらったが、これが「え!」と声が思わず出るくらい美味しかった。こっちを私も頼めばよかったとちょっと後悔。
いかにも観光客向けの雰囲気の店で、観光客が頼むようなメニューを頼んだだが、これが意外にうまい。値段も高くない。サービスもきびきびしていて気持ちよかった。
そして明るい陽光のテラス席、クラシックギターの演奏も聞ける。途中、フラメンコ・ダンスというスペクタクルもあった。バカンスの昼飯っぽい昼飯を楽しむことができて大満足。
食事後海岸に行く。淡いミルクが混じったような水色の海の色が美しい。マントンの黄色い建物の壁の色と青空とのコントラストも。旧市街の奥側の斜面のたたずまいやコクトー美術館もすばらしいのだけれど、今回は見に行く時間がなかった。


レモン祭パレードは14時半から90分ほど。パレードの山車はニースのものよりこぶりのものが多い気がするが、観客の楽しませ方はレモン祭のほうがうまいように思った。紙吹雪、コンフェティの量も大量だ。学生たちがパレードを楽しんでいる様子を見て、レモン祭に来てよかったと思った。私は個人的にはニースのカーニバル(特に今年のようにものものしい警備のもとで行われると)よりも万トンのレモン祭のほうが好きだ。
レモン祭のあとは、一キロほどの長さの広い敷地にいくつもの巨大なオレンジ・レモンの彫刻が並ぶ展覧会場に行った。
学生のなかにパレード入場での荷物チェックで、お土産としてかったレモン入りワインとレモン・シロップが瓶入りだっため、没収された者がいた。パレード入り口であずかり、あとで観光案内所で返却すると言われたという。ただし引き換え表も何ももらっていない。商品に彼女たちの名前も書いていない。こんなことで本当に戻ってくるとは思えなかったのだが、彼女たちに付き添いワインとシロップを取りに行った。最初、観光案内所に行くと、奥にconcierge(管理人室?)があるからそこに行けと言われる。行くと返却を求める人の行列ができている。
没収された商品の特徴を告げると、係員が探しに行った。結果的にはレモンシロップはあったけれど、一緒にあずけたはずのワインはないという。こんな適当なシステムで、所有者がはっきりしないものが戻ってくるほうが奇跡に私には思える。ワインはレモン入りでマントン特産のものだったらしい。学生はこのワインがあきらめきれなくて、この後同じ店に同じ商品を買いに行った。すると店のおばさんは学生のことを覚えていて、「なんで同じものをまた買いにきたんだ?」と聞いたらしい。事情を話すとおばさんは憤って、「私が話を聞いてい来る!」と言って店を出て、係員を問い詰めたそうだ。しかし結局、ワインは出てこなかった。









18時ごろ、まだ明るいうちにニースに戻る。
ステイ先の夕食は、前菜がタコがたくさん入ったサラダ。主菜がソーセージがたくさん入ったカレー風味のチャーハン。実においしい。おかわりをついしてしまう。



マニアは息子のエヴァンの宿題につきあっていた。フランス語の宿題だ。小説を読んでその内容をまとめるといったことをしているらしい。マニアの指導は厳しくて粘り強い。4時間以上にわたってエヴァンの宿題につきあい、コメントする。答えを教えるという安易なものではなくて、そのコメントや指導は、まさに教育というものだ。エヴァンはこれまで家では私がいるときはサッカーゲームばかりやっていたが、宿題については文句を言わず、母親と議論しながらおとなしくやっていた。

ニース研修春2017 (7) 2/25

夜にいろいろ想定外のことがあって、どろどろに疲れた日だった。
土曜なので学校での授業はないが、学校主催の一日遠足でカンヌに行った。体調が悪い学生一人が不参加。ガイドは木曜のモナコのときに我々に同行した19歳のレア。
ニースからカンヌまではローカル線で30分ほど。
映画祭で有名なカンヌは、コートダジュール有数のリゾート地だ。町の規模はニースよりもかなり小さいが、そのブルジョワ濃度はニースより高い。
カンヌへの遠足も私はこれが4度目か5度目。2年前に学生をはじめてカンヌに連れて行ったときは、船で渡ったサント・マルグリット島で暴風雨に遭った。ずぶ濡れの状態で、10畳ほどのバラック小屋に30人くらいの人間が避難し、雨風が収まり、船が来るのを二時間ほど待った。本気で遭難するかと思った。
今回は快晴だった。



レアの案内ではいつもと回る順番が違った。最初にカンヌ中心部海岸沿いにある映画祭のメイン会場に行った。ここのレッドカーペット階段で記念写真を撮るというのが定番なのだけれど、今回は国際ゲーム・フェスという催しで階段に上ることができない。さらに階段にはアニメ映画のキャラクターの人形が並べられていて、レッドカーペットを背景とした写真もパッとしない。
映画祭メイン会場の後は、旧市街の高台でカンヌで最も古くからの地域、le Suquetに行った。ここには中世に建築された教会と塔があるのだけれど、改修工事中で趣が損なわれていた。
カンヌ遠足にはカンヌ沖合にあるレランス諸島のサント・マルグリット島も含まれている。島への船が出る14時まで、自由時間となった。市場を見学した後、港近くの公園にいくつかあったスナック・スタンドの一つでハンバーガーを買い、カンヌの浜辺近くで食べた。巨大でおいしいハンバーガーでおなかがいっぱいになった。

レランス諸島のサント・マルグリット島はカンヌの港から船で15分ほどで着く。ここには17世紀にルイ14世の弟ともいわれる鉄仮面が幽閉されていた牢獄がある。この牢獄は今は博物館の一部になっている。鉄仮面幽閉の話は、フランスではアレクサンドル・デュマの長編歴史小説『ダルタニャン物語』を通じてほぼ誰でも知っている話だ。日本でも仏文専攻なら「常識」として読んでおくべき作品だと篠沢秀夫先生が文学史講義の本で書いていたように思うが、私は読んだことがない。この牢獄では鉄仮面と同じ時期に、ユグノーの聖職者6名がカトリックへの改宗を拒み投獄されたことでも知られている。ああそういえばルイ14世がナントの勅令を廃止したというのがあったなあとなんとなく思い出す。



サント・マルグリット島には19世紀の兵舎が何棟も残っていて、オレンジ色の屋根のこの兵舎の建築と海と空の青、木々の緑が作り出す景観が私は好きだ。この兵舎は現在は、夏の臨海学校で子供が宿泊する施設として使われている。
2時間ほど島で過ごして、カンヌに戻る。レランス諸島の一つ、サント・マルグリット島の次に大きな島であるサントノラ島には、5世紀から続くガリア最初の共住修道院がある。私としてはサント・マルグリット島よりもむしろサントノラ島を見てみたいのだけれど、サントノラ島には今も修道院があって、一般人は入島できないそうだ。

午後6時過ぎにニースに着く。夜はカーニバルを学生たちと見ることになっていた。カーニバルは夜9時開始だが、入場時のチェックが厳しくなっているので8時頃には会場内に入っておきたい。となると食事を取る時間が中途半端になる。学生は一人が体調がいまひとつということでカーニバル参加をとりやめた。二人はカーニバル会場のすぐそばに住んでいるので、ステイ先で食事を取る。残り私を含めて11人がどこで飯を食べるかでちょっと迷う。
旧市街にあるノンストップ営業のレストランで、サラダや軽食を食べようかと思っていたのだが、カーニバルでマセナ広場横断ができなくなっていて、旧市街に行くには大きく迂回する必要がありそうだ。フランスでは外食夕飯サービスはおおむね午後7時半以降、しかもゆっくりサービスで食事時間を90分ぐらいは見ておかないといけない。
駅前の中華バイキングの店が開いていたのでここでいいかと思って入ったら、料金が18ユーロと案外高い。ニースの中華バイキングで18ユーロは払いたくない。結局、駅前の多民族地域にある殺風景なレストランに学生8人ぐらいと入った。ムール・フリットとピザが食べられる店だったので、貝の苦手な学生はピザを、そのほかの学生はムール・フリットを注文した。場末感に満ちた大衆食堂だったけれど、案外うまい。もっともムール・フリットはどこで食っても同じようなもんかもしれないが。注文して料理が出てくるまでに30分、食べ終えるのに30分。


20時過ぎにカーニバルの会場に入る。入場チェックはかなり厳しい。かばんの中身を見せるだけでなく、金属探知機、身体を触ってのチェックもある。身体チェックがあるため、入場は男女別だ。チェックの警官の態度はいかめしく乱暴で感じが悪い。へらへら笑って適当にやられるよりはいいが。

座席は立見席だ。すでにかなり疲れていたので椅子席にしておけばよかったと後悔する。入場が早すぎて、パレード開始までの待ち時間が長かった。またパレード開始も遅れた。観客をあおるテンションの高いDJが同じようなことを何回も繰り返し言ってる。昼間はかなり暖かかったのだが、夜のマセナ広場はかなり冷え込んだ。疲労もあって、パレードがはじまっても気分が盛り上がらない。
パレードが始まって30分ぐらいしたところで、学生の一人がトイレに行きたいと言う。
「トイレあるでしょうか?」
と聞かれた。
「うーん、知らない。会場スタッフに聞いてみな?」
と答える。その学生が15分ぐらい戻ってこない。どうしたのだろうと思っていると、姿が見え、こちらいにやってきた。トイレを探し回ったけれどそれらしきものはない。スタッフに聞いたら「トイレはない」と言われたと言うのだ。
夜の野外で、おそらく数万人規模の観客がいるのに仮設トイレがない。フランスというのは恐るべきところだ。私も近くにいたスタッフに聞いてみたら、やはり「ない」との答え。どうかしている。
いったん会場の外に出て、近くのレストランかカフェでトイレを借りてまた戻ってこようと思い、ゲートを出ようとしたら、ゲート警備の警官に呼び止められた。彼が言うには一度ゲートを出たら再入場はできないとのこと。
学生に「どうする?」と聞くと、「あと30分ぐらいだったらなんとかがんばれる」と言う。しかしかなり切羽詰まった様子に見えた。
一度退場してどうせ戻ってこれないのであれば、速足で歩けば15分ほどで着くこの学生のステイ先に戻るのが、近所のレストランでトイレを借りるよりいいように思った。
レストランで何の注文もしないでトイレだけ借りるというのが、断られてしまうような気がしてちょっと気が重かったのだ。なお有料の公衆トイレもカーニバル会場付近にあるのだが、夜は閉まっている。トイレ環境についてはフランスは本当にひどい。


問題はここで私と学生が会場を出てしまうと、会場に残った学生たちと再会が難しくなることだ。携帯では学生がwifi環境にないと連絡が取れない。学生たちにはパレード終了後、会場内の目印となる場所に集合するように伝えていた。

数名の学生が固まってパレードを見ていたので、そこに行き、これから私はトイレ限界の学生と会場を出て、彼女を家まで送ったのち、また戻ってくる。会場内には再入場できないので、出口のところで待っているので、ほかの学生にもこのむねを伝えて一緒に出口に出てきてほしいと伝えた。

「出たら戻ってこれないけれどいいんだな」と警備警官に念押しされてから、会場の外に出る。そこから速足で彼女をステイ先まで送り届ける。会場に戻るには、レンタル自転車Velo Bleuを利用した。

さて会場出口付近に戻ってくると別の女子学生が一人でそこにいた。
「お前、なんで一人でここに出ているんだよ?」
と聞くと、
「あー、先生よかった。おなか痛くなって出てきたんです。これから一人で家に戻ろうとしてたところなんです」
と言う。こういうイレギュラーな退場はかなわんよなと思ったが、彼女にたまたま出会えたのは運がよかったとも言える。彼女をステイ先まで送り、また会場出口に戻る。夜は気温が低く寒い。近くにカフェみたいなものが開いていればいいのだが、カフェっぽい店はみな閉まっている。出口そばにレストランがあったのでそこに入ってコーヒーでも飲んで、カーニバルが終わるまで待っていようと思って中に入ろうとすると、おやじウェイターが
「なんのようですか?」
と聞く。
「コーヒーを飲もう思ったんだ」と言うと
「申し訳ないがもう終わりなんですよ」
と答えた。
ほんとかよ?と思ったが、仕方ない。しかしその後、その店を見ていると新たに入店している客がいるではないか!あのくそおやじ、うそを言って俺を追い返しやがったなと、めらめらと怒りの感情が芽生える。また中に押し入ってやろうかと思っていると、出口から学生三人が出てきた。まだカーニバルは終わっていない。


「おい、ほかのやつはどうしてるんだよ?なんで途中で出てきたんだ?」
と聞くと
「もう寒くて寒くてがまんでいないので途中で出たんです。私たちだけで帰りますから」
と言う。3人のうち2人は同じホストファミリー、1人はトイレで私が家に送った学生と同じところに住んでいる。2人組のほうは、駅の北側の地域であんまり女子だけで帰したくなかった。でも出てきたらもう再入場はできない。彼女たちにはトラムの切符を渡して、走ってさっさと帰るように言った。残りの一人は寒さで震えていて、すぐにでも一人で家に帰りたそうだったが、女の子をこの時間一人で帰らせるわけにはいかない。
それで先ほど、私を追い出したレストランに彼女と一緒に入ることにした。先ほどうそを言ったおやじウェイターとは別の若いウェイターが入り口のところに言った。飲み物だけというとまた追い返されたらいやなので、「二人だ」とだけ言ったら席に案内してくれた。
席に着くと注文を取りにきたのはさっきのおやじウェイター。
「コーヒー二つ」
と言うと
「ムッシュー、飲み物だけでは」とか言いかけた。それを最後まで言わせず
「コーヒー二つ、お願いします」と繰り返すと、
「はい、コーヒー二つですね」
と言って向こうに行った。

私が連れてきた女子学生は入り口付近でフランス人おやじの客につかまってダンスの相手をさせられていた。この店はDJー歌手が音楽をかける店でもあった。酔っ払い気味の客と一緒にあとで《イマジン》を合唱する。

コーヒーを飲んで、トイレに行って、女子学生の体が温まったところで外に出る。カーニバルはちょうど終わっていた。
私が外で待っているように他の学生にも言伝を頼んだ学生二人がいた。
「どこにいたんですか?向こうまで探していたんですよ」
とか言っている。
「お前ら、他のやつは? ほかのやつにおれが外にいるって伝えたよな?」
と聞くと
「えー、そんなこと言われても。終わったらここで待つってことじゃないんですか?」
とか言っている。
伝言が伝わっていないとなると、他の数人の学生は最初の約束通り、会場内のとある場所でわれわれを待っているはずだ。
「ふざけんなよ、お前らがのこりの学生に伝えなきゃ、どうやってあいつらはここまで出てくるんだよ。中で待ち合わせだと思っているから、そこに待っているに決まっているじゃないか」
と怒る。
会場内に入って中で待っている学生を呼びに行きたいのだが、警備の警官に事情を説明しても「再入場はできない。向こうを回れ」とかなり横柄な口調で追い返される。
「おい、あいつらが自分の判断で違う出口から出て、勝手に帰ってしまったら、それが確認できるまでこっちは動きをとれんだろうがっ。どうすんだよ」
と会場外に出てきた学生たちにキレていたところで、取り残された学生たちが出口から出てきた。

帰りは三方向に分かれる。寒さで途中で出てきた学生は取り残された学生二人のすぐそばで、そこまでの道のりは夜遅くまで開いているレストランがたくさんあってあまり危険性はないので、3人一緒に帰らせる。駅の北側に住んでいる女子は、やはり駅の北側に住んでいる男に送らせる。彼らは途中までトラムを使う。残りの二人は、私を含め、ほかの学生たちとは逆の方向でかなり遠くに住んでいる。私は彼女たちの家まで同伴した。そこからの帰りはレンタル自転車velo bleuを使って自分の家に帰った。このレンタル自転車システムがなければ、帰りは歩きで40分ぐらいかかったはずだ。velo bleu登録しておいてよかった。

トイレ、寒さは不可抗力の事態と言えるが、こうぞろぞろと複数の学生が不規則な動きをするとこちらはお手上げだ。こうした不規則事態が生じることを想定したうえで、計画を立てるべきだったのだ。

過去数回、夜の外出後の送りはとりあえずうまくいっていたので何とかなるもんだと思っていたが、女子学生を集団で夜外出させる難しさをあらためて認識した。自分の考えが甘かったのだ。こういう事態、パリとかだったら洒落にならない。ニースでもダメなんだけど。
自分はスペクタクルが生活の一部になっているような人間なので、学生にもスペクタクルの喜びを、夜に外出する際のリスク管理の重要性とともに、知ってほしい、知っておくべきだと思っているのだけれども、やはりなかなか大変なことだ。






2017年2月25日土曜日

ニース研修春2017 (6) 2/24

平穏な日だった。
月曜日から木曜までいろいろ行事があって歩き回ったので、今日の午後は敢えて何も予定を入れなかった。
午前中は家で自分の仕事をした。マニアとギヨームは朝から仕事だし、子供たちはマニアの母のところにいるので、家のなかには私一人で集中できる。1月に静岡でやった俳優の三島景太さんと通訳・翻訳の平野暁人のインタビューの文字起こしをやる。彼らが12月にリモージュで行った演劇公演についてのもの。インタビュー文字起こしは手間がかかるのでやるのが億劫なのだが、この二人のインタビューを聞き返してみると、自分が聞き手なのだが、面白くてしかたない。演劇公演に関わるプロとしての自負が彼らのことばから感じられる。このインタビューの掲載先は決まっていないのだが、何とかしてかたちにして、できるだけ多くの人に彼らの活動を伝えたい。

昼前に学校に。契約食堂に学生と一緒に飯を食べに行く。ここの食堂のおばさんがとても感じがいい。昼飯はステーキ。美味しかった。昼食後、日本円を両替したいという学生がいたので、駅近くの外貨両替所まで連れていく。私はこの2年に6回ニースに来ているが、こちらで両替をしたことがない。滞在はいつも二週間ぐらいでユーロは日本で4万ほど購入し、こちらではできるだけカードで支払うようにしている。両替は日本でユーロを買うのがいいのか、それともこちらでユーロを買うのがいいのだろうか。

学生と別れて、電話会社オレンジの販売店に行って、データ通信3ギガ分をsimにリチャージする。3ギガが一ヶ月使用できて、25ユーロ。けっこう高い。でも日本からの海外wifiレンタルだと一日1000円ぐらいみたいなので、それよりは安いか。今こちらで使っているsimは、フランスでの音声通話電話番号(SMSサービス付き)も付与されるものだ。これが20ユーロで二週間。1時間の通話時間と1メガのデータ通信がついている。ただ1メガだとけっこうすぐに使い切ってしまう。それでデータ通信分3ギガを追加購入したのだ。二週間の携帯のトータルコストが45ユーロ、6000円くらいか。計算してみると、日本で日常的に使っているのとくらべるとかなり割高だ。
それでもこちらにいるとが電話を使うことがあるので、番号付きsimはやはりありがたい。


書店によって私が愛用しているバックパッカー向けのガイド、「ル・ルタール」のコートダジュール2017年度版を買った。新版では最初のほうに写真のグラビアページが追加されていた。文字と地図だけのガイドだったのだが。このガイドのホテルとレストランの評価は、私の感覚とほぼマッチしていてはずれが少ない。安ホテル、安レストランの情報が掲載されているのがありがたい。観光の見どころの評価は、フランス人感覚と私の感覚の評価のずれを感じるところがあるが、それはそれで興味深い。歴史背景などの文化的情報はかなり充実している。

書店で1時間ほど時間をつぶしたあとは、ぶらぶらと旧市街を散策し、16時頃に家に戻る。


家にはマニア、息子のエヴァン、娘のティメア、マニアの母と妹がいた。エヴァンとマニアはサッカーの試合を見に行ってそのあとは母の家に泊まるので今日は家に戻らないと言う。エヴァンはEwanとつづる。フランス人ぽくないファーストネームだ。マダガスカルの名前か?と聞くと、ケルト系の名前だと言う。なんでこの名前にしたのかと聞くと、ギヨームが『スターウォーズ』のファンで、出演者の一人ユアン・マクレガーから自分の息子の名前を選んだのだと言う。エヴァンはこの名前があまり好きでない、むしろ「マテオ」と呼んでくれと言った。
マテオは、もう一つの名前なのかと聞くと、自分が勝手に自分につけた名前だとのこと。エヴァンのことをマテオと呼ぶ人間は当然家族には一人もいない。


6時過ぎにティメア以外は全員、外出してしまった。7時過ぎにギヨームが仕事から戻ってくるまで、ティメアと折り紙をしたり、テレビを見たりして時間をつぶす。夕飯はマニアが下ごしらえしておいたものを、ギヨームが調理した。前菜はニシンとジャガイモのサラダ。主菜は骨付き豚バラを焼いたものにチャーハン。チャーハンが出るのが意外な感じがしたが、マダガスカルは米食地域で、しかも中国系住民が多いので中華系料理も普通に食べるようだ。マニアの祖父は中国系移民なので、マニアの家庭では中華系もよく食べていたのかも知れない。
「ここに来た日本人はみなよく食べる」とギヨームが言っていたが、マニアの料理の腕前がかなりのものであるに加え、味付けや雑食的感覚が日本人に近いように思う。醤油も調味料として普通に使う。実においしい。外に食べに行くのが馬鹿みたいに思えるくらいおいしい。
それで今日も食べ過ぎてしまった。


飯を食べたあとは、「スターを催眠術にかけてどっきりさせる」というくだらないテレビ番組を、ギヨーム、ティメアと三人でだらだらと見ていた。




2017年2月24日金曜日

ニース研修春2017 (5) 2/23

一昨日のエズ山下りの疲労から回復。しかし学生一人が昨夜から風邪っぽい症状と聞いて、朝、風邪薬を持っていく。幸い風邪薬がよく効いたみたいで、午後のモナコ遠足のときにはこの学生は多少元気を取り戻していた。薬で症状を抑えているだけかもしれないが。

午後のモナコ遠足の引率は19歳で観光学専攻のレア。こちらが連れてきている学生も19-20の女性が多いが、彼女と同じ年には見えない。彼女が「19歳」と知ると、思わず「えっ!」と声があがった。日本人学生は見た目もふるまいも、フランス人の平均よりもはるかに幼く、子供っぽい。レアはまじめでしっかりとした受け答えのできる子だった。

モナコは、コートダジュール観光では欠かすことができないポイントであり、アジュールリングァの研修プログラムでも必ず遠足に組み込まれている。しかし実は私にとってはモナコは一度行けば十分で、あまり興味を持てない町だ。来るたびに言っているのでこれで6度目のモナコなのだけれど。
街並みは周辺のコートダジュールの町と共通するものがあるが、モナコが「外国」であることは、駅に降りるとすぐ感じることができる。町が清潔で、整然としている。モナコはいかにも観光用に調整され、整備されているような、人工的な感じで、私には今一つつまらない場所だ。警官がたくさんいて、監視カメラもいたるところにある。おかげで治安はとてもいいらしい。


まず海洋博物館へ。20世紀はじめに海洋生物学者であったモナコ大公あるベール一世が作ったもので、地下は水族館になっている。モナコの代表的観光ポイントの一つだ。一時間ほど海洋博物館にいたあと、大聖堂、それからモナコ大公宮殿。時間があったのでさらにモンテカルロ・カジノ前広場まで。モナコの観光コースを一通り回る。F1のコースで有名な「ローズ・ヘアピン」で、F1ファンの父親のために写真を撮りたいと言っていた子がいたのだが、その子の願いをかなえることができた。私は6度目のモナコではじめてこのヘアピン・カーブの存在を知った。F1ファンにとっては聖地みたいなところなのだろうか。

カジノやオテル・ド・パリのあるモンテカルロはモナコの高台にある。そこからモナコ駅までは歩いて15分ほど。その15分のあいだに学生一人がはぐれてしまった。モナコ駅のホームに続く地下道のなかで気づく。ガイド役のレアが走って探しに行くが、5分ほどで戻ってくる。はぐれた学生は見つからない。それで今度はレアに学生を託して、私が探しに行くことになった。携帯で連絡が取れればいいのだけれど、学生が持っているのは日本の携帯でしかもフランスで音声受信ができる設定にしてあるかどうか未確認だった。

来た道を逆に行き、モンテカルロまで上ったけれど見つからない。そこで海外wifiを契約している学生からLINEが入った。はぐれた学生からLINEで連絡があったと言う。はぐれた学生は道に迷い、それからどうやってか知らないけれど、我々とは違う駅の入り口に到達し、ホームにいた。不可抗力のことによるトラブルならともかく、こんなことで振り回されるとさすがに「ふざけんなよ、ばかやろう」と言いたくなる。肉体的にも精神的にも疲れた。彼女は海外wifi契約していないようだ。「機内モードにしていたけれど、LINEはwifi環境でなくてもつなぐことができるので」と言っていたが、モバイルデータ通信の海外ローミングサービスがもしかしてオフになっていないかもしれない。これまでに何度か「ローミングオフにしとけよ。とんでもない請求が来るかもしれんよ」と注意しておいたのだが。いずれにせよ今回はLINEで連絡が取れたので何とかなった。ローミングをオフにしていなかったらLINEはできなかったわけで。仮にパケット海外ローミングでこの学生に高額請求が来たとしても、それは仕方ない。「確認するように」と改めて注意したけれど、「よくわからない」とのこと。私も見てみたがアンドロイド端末でどこの設定を見るべきかよくわからなかった。

18時にはニースに戻る予定だったのだが、このトラブルでニース駅着が40分ほど遅れた。日が落ちて暗くなっていたので、ニース市街西側に住んでいる学生をトラムで送る。それから私はレンタル自転車のvelo bleuで自分の滞在先に戻った。一方通行や自転車専用道路がよくわからなくて、ちょっと怖い思いをした。帰宅は20時前になった。

帰宅すると学校のバカンス期間中、リヨンの祖父宅に滞在していた二人の子供が戻っていた。上が10歳の男の子でEwann、下が7歳の女子でTimea。上の子は私の息子と同い年だ。日本から買ってきたノートと折り紙、そして竹とんぼを渡した。エワンは竹とんぼにはすぐ飽きて、テレビゲームのサッカーゲームに夢中。私はティメアの竹とんぼの練習に付き合う。折り紙はフランスでも盛ん(いやむしろフランスのほうが盛んかも)で、フランス語の折り紙の本が置いてあった。
二人の子供のほか、マニアの母親、マニアの幼馴染も来ていて、一緒に夕食を取った。マニアの母親と幼馴染はマダガスカル人で、マニアとは時折マダガスカル語で話していた。夕食は前菜がモナコ名物のラビオリ、バルバジュアンとサラダ、主菜が牛肉の赤ワイン蒸し、ドーブ。ドーブは通常、ラビオリやパスタとともに食べるが、今夜はマダガスカル風に米と一緒に食べた。リゾット風になって、米とよく合う。さらにマダガスカルから送って貰ったという唐辛子ベースの薬味をつける。この薬味はかなり辛いが、実に美味しい。ドーブとよく合った。マニアは料理がうまい。今日のドーブは、あたかも私のために作られた料理のようにおいしかった。



2017年2月23日木曜日

ニース研修春2017 (4) 2/22

昨日のエズ村からの山下り、そしてそのあとのオペラ三時間立ちっ放しの疲労が残り、体調が今一つの一日だった。
起きたのは午前10時半。朝寝坊した。十分寝ているのだけれど、体がだるい、重い。
昼食も食欲がなくて、副菜のブルグル(砕いた小麦を蒸したもの)を残す。しかしデザートのパンナコッタは食べた。
今日の午後はカーニバルのプログラムのひとつ、花合戦を見学した。花を摘んだ山車がパレードして、沿道の観客に花を投げるというもの。山車は花車だけでなく、ほかにもいろんなアトラクションがあるのだが。昨年夏のトラック暴走テロの影響で、花合戦の経路は大きく変更されていた。入場警備も厳しくなっている。開演の一時間前にゲートに行ったが、荷物と身体チェックで入場に30分ぐらいかかった。
花合戦は一昨年ニースに来た時に見に行った。昨年は日程の関係で見られなかった。客の数はこころなしか一昨年より少ない感じがした。


2時半から花合戦のパレード開始。ニコニコ笑顔でスタイル抜群の美しいお姉さまたちが次々と現れる。今回の花合戦は立見席を買った。値段は12ユーロ。入場料を取るというのがニースのカーニバルの残念なところだ。一昨年ははじめてのカーニバルだったので、様子がわからなくてスタンドの椅子席で見た。椅子席だと楽なのだが、パレードとは距離があって今一つ「参加」している感じが乏しい。それで今回は立見席にしたのだ。

一昨年はもっとがんがんコンフェティと呼ばれる紙吹雪や紙テープが飛び交っていたように思うのだが、今年は客いじりがちょっと大人しめな感じがした。花合戦は1時間ほどで出しがコースを一週する。二週目に山車に積んでいる花を観客に配っていく。

私は立ち続けるのがしんどくて、二週目がはじまってしばらくすると、後ろの歩道への小さな段に座って見ていた。2時間ほどで花合戦のプログラムは終了。

昨日がハードだったので、今日は体力回復のため、花合戦終了後、解散とする。私は疲れていたので、どこかカフェに入ってお茶を飲みたかった。
ニースを代表する高級ホテルであるネグレスコ・ホテルの「王のサロン」を見たいと言っていた学生がいたので、学生4名と一緒に海岸沿いの散歩道、プロムナード・ザングレにあるネグレスコ・ホテルまで行く。
「王のサロン」は楕円形の広大なスペースで、サロンの周囲には数々の美術品が展示されている。中央の楕円スペースには何脚が椅子があるだけのゆったりとした贅沢な空間だ。丸天井の装飾、シャンデリアも素晴らしい。20世紀初め、ベル・エポック期のブルジョワ文化の極みのような豪華で洗練された空間で、私はニースの観光ポイントのなかでも好きなところだ。


このサロンに入るには、ネグレスコ・ホテルの「客」でなくてはならない、とホテルの入り口に書いている。ニース随一の高級ホテルで、入り口には制服のドアマンが待機していて、入るのにはちょっと勇気がいる。昨年の研修のときにこのサロンを初めて見学したのだが、一度はドアマンに「客でないとここは利用できない」と追い返されそうになった。
「客というのは、要するにここに泊まっている人しか中に入れないのか?」
と聞くと、
「いや、そういうわけではない。ホテルのバーの客もホテルの客だ」
という答えが返ってきた。

それでホテル一階のバーの客になった。バーの内装もシックで自分は場違いだったし、高級ホテルだけにすごく高かったらどうしようと思ったのだが、コーヒーが8ユーロぐらい。高いと言えば高いけれど、びっくりするほど高いわけではない。サロンとそこで展示されている美術品の観覧料込だと考えれればいい。

今回もみすぼらしい格好の日本人4人でのこのこバーに入っていったわけだが、こういう高級ホテルだとかえってウェイターの対応も慇懃ですきがなく、こちらを馬鹿にするような態度は見せない。バーで飲み物を飲んでから、その奥にあるサロン・ロワイヤル「王のサロン」そしてホテル玄関横にある「ヴェルサイユのサロン」を見学した。

ホテルを出たら日が暮れていた。西側の岬に向かって大きく湾曲する街灯の連なりが美しい。本当に何度ニースに来ても、美しいなあと思う。

月曜、火曜と外食だったので、到着した日の日曜以来で、ステイ先で夕食を取った。帰宅するとマニアとギヨーム夫妻のほか、近所に住むマニアの母(マダガスカル人)と二人の友人の女性がいた。マニアの母が飼っている犬、チワワが私を見て興奮してぎゃんぎゃん吠える。犬の名前は「ミキ」、私と一文字違いだ。
マニア母と二人の友人女性は夕食前に帰った。
私は夕食前に洗濯機を使わせてもらう。フランスでは洗濯物を外に干さないと思っていたのだけれど、この家は乾燥機がなくて、外に洗濯物を干す。しかし物干しざおがなく、スチールの洗濯物かけがあるだけ。洗濯物かけは高さがないので、シャツやトレーナはハンガーに吊るせないので、これでいいんかなと思いつつ、横に広げておく。洗濯ばさみがなかったので、風でパンツが飛ばされたりしないのかちょっと心配だ。

夕食は前菜はかなり濃い味のチーズを添えたサラダ、主菜はブッフ・ブルギニョン。あとおまけで鶏肉をバジルソースにからめたものも食べた。作ったのは妻のマニア。彼女は料理がうまい。週末にマダガスカル料理を作ってもらうことを改めてリクエストしておいた。
マダガスカルは、フランスの旧植民地で、インド系住民、中国系住民が多いので、料理もこの三つの料理の要素のアマルガムのようだ。唐辛子を使うと言っていたけれど、一般的にフランス人は辛いものに弱いので、多分私は大丈夫だろう。
「私はフランスでダイエットしようと思って来たんだけど」と言うと、マニアは
「それは無理だ。ダイエットは日本でしなさい」

マニア、ギヨームともモナコで働いている。マニアはアルツハイマーの老人の介護をしていて、仕事時間は不規則とのこと。ギヨームがスーパーチェーンで、商品の配送の手配の仕事をしている。
明日、学校のバカンスでリヨンのギヨームの父の家に滞在している彼らの二人の子供が返ってくる。上が10歳の男の子、下が7歳の女の子だ。バカンスは今週いっぱいで、学校が始まるのは来週からだそうだ。明日の夜は、金曜朝にマニアが早く出勤しなくてはならないので、子供二人は近所に住むマニアの母のところに泊まるらしい。
親が恋しくなっている子供から電話がかかってきて、長電話していた。子供二人は私のことも気になってしかたないみたいだ。

2017年2月22日水曜日

ニース研修春2017 (3) 2/21

肉体的に疲労困憊の一日だった。
授業が始まって二日目。主任と担任と話し合って、学生のクラスは、レベルの差は多少あるけれど、われわれのグループだけの閉鎖クラスでやっていくことに決めた。ちょっとがんばって上のレベルでいける学生もいるのだけれど。

午前中は学校の管理部門スタッフのところにキットカット抹茶味を持ってあいさつに行く。毎年夏に行っているフランス語教員向け研修に日本人教員を8名招聘したいと昨年からアンスティチュ・フランセ東京のスタッフと交渉を続けているのだが、うまくいっていないようだ。この計画では大使館から予算を取ってこなければどうしようもない。そのパイプをアンスティチュ・フランセ東京のスタッフに頼んでいたのだけれど、その頼んでいたスタッフが別のスタッフにこの件を押し付けて、その後、進展していないみたいだ。
「宙ぶらりんの状態なんだね?」と言うと、
「宙ぶらりんではない。交渉は昨年から継続してやっているし」と言って、その場で日仏スタッフにメールを打っていた。

ニースにはVélo bleuという自転車レンタルシステムがある。使用するには事前にウェブで氏名、連絡先、使用日数、引き落としカード番号、携帯電話番号を登録しておく必要がある。私は東京では10キロ圏内なら自転車で移動するのが常だし、それよりはるかに狭いニースは自転車で移動するのに適した広さの町だ。バスの本数は必ずしも多くないので、自転車移動できれば便利だと思い、日本で登録作業をしていた。しかしこのときに日本の携帯電話番号を登録したら、日本の携帯番号ではこの自転車レンタルシステムがこちらでは使えないことが、こっちに来ていざ使ってみようとしたときにわかった。
昨日、iPhoneのsimをフランスのorangeの旅行者用simに変更し、フランスの携帯電話番号を取得した。vélo bleuの登録携帯番号をこのフランスの番号に変更してもらうために、vélo bleuの事務所に行った。
「携帯契約書がないと、変更できない」と言われたが
「旅行者用のsimなんでそんなものはない。端末上で処理するだけなんで」と粘ったら、
「特例ということで、変更してあげる」ということになった。

それで早速vélo bleuを借りて、ニース駅からマセナ広場まで移動してみたのだが(マセナ広場でカーニバルのチケットを買う用事があった)、フランスでは自転車は車道ないし自転車専用道を走らなくてはならない上、日本と違い右側通行、さらにニース市内は一方通行がやたらと多いので、東京の町を自転車で走るのとはかなり勝手が違った。車も自転車のそばを通るときにスピードを落とさない。慣れたらどうってことはないのだろうが、最初の走行はかなり怖かった。

昼飯を食堂で食べたあと、午後はエズ村に遠足だった。行きはトラムとバスでエズ村に行ったが、帰りはエズ村から海辺のふもとのSNCFの駅まで岩だらけの山道を50分ほどかけて歩いて下った。

エズ村に着くと、最初はルイ15世時代から続く香水メーカー、フラゴナールの工場を見学した。見学したあとは、お店で香水を買わせるという流れで、昨日のフロリアンお菓子工場と同じ流れなのだが、こうしたガイドツアーに参加するたびに、フランス人というのは本当に教え好きだなあと思う。どのガイドツアーでも教育プログラムとしてきっちりとした流れの手順があって、見学者は勉強させられてしまう。



香水については私はまったく予備知識がなかったので、フランス語で説明されて、それを学生に日本語で訳すときに、よくわからないところがちょくちょくあった。先に進んで説明を聞いて、「ああ、さっき話していたのはこういうことだったんだ」と後になってわかったり。
フランスにはパリ、ヴェルサイユ、グラースの香水職人養成学校を出た香水士が300人ほどいるとのこと。一日の労働時間は4時間だが、それでかなりの高額の収入を得ることができるらしい。ただ香りに関わる仕事のため、生活はかなりの制限を受ける。配偶者は化粧ができないし、本人はコーヒー、香辛料などの香りのきついものは食べることができない。もちろん鼻かぜなんかをひいてはならない。

香水はフランス文化のなかで私たち日本人が考えるよりはるかに重要な意味を持っているということがわかった。というようなお世辞を言ったからというわけではないだろうが、石鹸やらなんやらいろんな無料のお土産を貰った。私は買わなかったけれど、学生たちのなかには石鹸や香水などを購入した人がけっこういたようだ。

香水工場見学の後は、エズ村に入る。石造りの城塞のような集落が山の斜面に作られていてきわめてピトレスクなところだ。一昨年に学校のツアーではなく、自由企画でエズ村には行った。昨年はエズ村ではなく、サン・ポール・ド・ヴァンスというやはり山の頂上付近に作られた別の城塞村に行った。
エズ村は村のつくり自体も面白いが、頂上にある植物園から眺める地中海が絶景だ。


帰りは学校の遠足担当のエリックの提案で、エズ村から海の近くのふもとにあるSNCF駅まで「ニーチェの散歩道」(ニーチェがニースに滞在時にここを散歩したとか)と呼ばれる山道を歩いて下ることになった。
「眺めはいいけれど本当にたいへんな道だから。スニーカーで来ること」
と事前に注意されていたが、思っていた以上に岩だらけの大変な山道で疲労困憊した。ふもとに降りるのに50分ほどかかった。膝から下ががくがくという感じだ。

ニースには列車で戻る。着いたのは5時半ごろ。
疲労困憊だったが、今夜はオペラ座で《エフゲニー・オネーギン》を見ることになっていた。このオペラ鑑賞は全員が参加する。こんな状態で果たしてまともにオペラを見ることができるのかと思ったけれど、仕方ない。
オペラ開演は20時からだけれど、7時過ぎまでには取り置きを頼んである学生団体チケットを劇場窓口に引き取りにいかなければならない。学生チケットだとParadisと呼ばれる最上階の席だけれど、5ユーロでオペラを見ることができるのだ。劇場担当者の計らいで本来なら到着スケジュールや入金の問題で購入することができなかった学生チケットを今回確保することできたのだ。


大人数でさっさと飯を食べなくてはならない。毎年オペラの前の食事は、旧市街のガリバルディ広場のそばにあるソッカ屋に決めている。ニース名物のソッカとファルシ、様々な種類のピザなどをテイクアウトできる店だ。テイクアウトした食べ物は道を挟んだ場所にあるカフェで飲み物を注文すれば食べることができる。

イレギュラーなやり方で確保してもらったオペラ座学生チケットだったが、劇場窓口にはちゃんと話が通っていてスムーズに受け取ることができた。フランスだと担当者同士の引継ぎができてなくて「そんな話は聞いてない」なんてこともちょくちょくあるので、ちょっと心配だったのだ。


学生席はParadisすなわち天井桟敷だとは聞いていたが、天井桟敷でも正面の席ではなく、サイド側の席が学生5ユーロ席に充てられていた。座席番号はふられていない。これはちょっと予想外だった。天井桟敷でも正面席だろうとなんとなく思っていたのだ。
ニースのオペラ座は馬蹄型のイタリア式劇場なので、サイド席だと死角が大きい。二列目になると、立たないと舞台を見ることができない。席が空いていれば、もっと見やすい席に移動しようと思ったのだが(フランスの劇場は空席の移動に寛容)、あいにくかなり席は埋まっている。
私は結局二列目の席からずっと立ち見で《エフゲニー・オネーギン》を見た。過酷な山下りで疲労しているのに、立ち見のオペラ3時間超はかなりきつかったのだが、演出、演奏とともにかなりいい舞台だったので、疲労にも関わらず、引き込まれて集中してみることができた。学生たちは私とは離れた場所に座っていたのでどんな感じだったかはわからない。疲れて寝ていたかな。終演後にあえて聞かなかったが。

8時開演で終演が11時20分ぐらい。ホームステイなので、分散した場所に住んでいる学生たちを家に帰すのが、いつも悩ましい。今回は7箇所に学生を送り返す必要がある。
ほかの学生たちとは違う方向でちょっと遠くに住んでいる学生がいる。この家の人はとても面倒見がいいし、信頼できるので、遠くてはずれにあるけど3年連続で学生を預けている。ただ夜の外出のあと、どう帰すのかがいつも難しい。
昨年、一昨年はタクシーを呼んだのだが、ニースはタクシーの台数が少なくて、タクシー乗り場から電話で呼んでもなかなかやって来ない。とりわけカーニバルのパレードの後は、交通規制がかかって、さらに大変だ。値段も距離を考えるとすごく高い。
今年は周りのニースの人の意見も聞いて、Uberを初めて使ってみた。日本だと無認可の「白タク」扱いとなりUberのサービスはあまり広がっていないし、イメージもよくない感じがしてこれまでUberを使ったことがなかった。



実際に使ってみると、タクシーよりはるかに便利だし、値段も安い。ユーザーによる運転手の評価も明示されているので、タクシーの運転手より安心な面もある。Uberアプリで近くにいる運転手を探し、コンタクトを取ると、すぐに自分たちのいる場所にやってくる。そもそもフランスのタクシー、とりわけニースのタクシーの状況、運転手の質がひどいものなので(私は何回かいやな思いをしている)、既存のタクシーがUberに今後対抗できるとは到底思えない。

7組の学生の夜の帰り経路を確立。週末の夜のカーニバルもこれで大丈夫だと思う。
ニースはこじんまりした町で、治安がそんなに悪いわけではないけれど、夜遅く、女子だけで帰宅となるとやはりいろいろ気を遣わなくてはならない。



2017年2月21日火曜日

ニース研修春2017 (2) 2/20

ベッドのお尻の部分が凹んでしまうのが気になったがよく眠れた。今日は学校のはじまる初日なので早めに学校に行って学生たちを迎えようと思ったのだが、学校まであるいて1分の場所に住んでいるためかえって油断してしまい、集合時間の八時半ぎりぎりに学校に到着。

13名の学生を連れてきたけれど、会話については同じようなレベルだろうということで、私たちのグループだけで一つのクラスを作ってもらった。昨年、一昨年は、最初の一時間ほどの授業で教師が個々の学生のレベルを見極めて、よくできる学生がいればその学生だけ違うクラスに変更するというやり方でやっていた。

二週間しかいないのに最初にレベル判別テストで時間をとってしまうのはもったいないので、このやり方が効率よかったのだ。今年も同じようにやってもらおうと思い、そういう風に伝えたら(メールでこのようにやって欲しいとリクエストは出していたのだけれど、伝わってなかった)、
「閉じたクラスで授業をやるように言われている。そういうやりかたをするのなら、教育プログラムの主任指示がないとできない」
という。神経質そうな女の先生だ。それで旧知の主任の先生のところに言って、昨年一昨年同様にやってくれと頼んだ。そうすると主任の先生がインタビューテストを後でするので、とりあえずその女の先生には授業を始めてもらってくれという指示が出た。

ところがそのあと、主任と女の先生のあいだでなんか議論があった挙句、女の先生がテストをやることに。結局、筆記と聞き取りとインタビューの本格的なテストと採点、評価で、今日の授業は終わってしまった。結論は「文法知識はかなりある子はいるかもしれないけれど、オラルの能力は全員低い、ほぼ同じレベルと言っていい。ただ一人二人は別の上のレベルのクラスが可能かも。それは明日、主任と相談する」ということに。
しっかりレベル判定テストをしたので、明日以降のプログラムは目標設定が明確になったかもしれないけれど、こちらとしては言わずもがなの結論(メールでこの件については事前に伝えていたのに)でやれやれという気分になった。

昼食は近くのカフェテリアで用意される。このカフェテリアの飯はボリュームがあって、そこそこおいしい。

午後は、遠足などのレクリエーション担当のエリックの引率で、ニース旧市街の散策とお菓子工場・販売店フロリアンの見学の遠足があった。私はニースで一番素晴らしいのは、パステルカラーの壁の建物のあいだの路地が作り出す旧市街の景観だと思う。昼間の旧市街もいいが、日が暮れたあと、オレンジの照明で照らされる旧市街の風情も大好きだ。





旧市街をひととおり廻ったあと、ニースの町を一望できる城山に上る。これまで私がニースに来たときは城山のエレベータが工事中で利用できなかったのだが、今回はエレベータで上ることができた。この時点でかなり歩き回って疲れていたので、エレベータはありがたかった。城山の頂上から一望できるニースの町のパノラマは、ニース絵葉書の定番風景の一つだ。私は来るたびに上っているのだが、毎回、このパノラマの見事さには感嘆してしまう。この城山の頂上から見おろす夜景も美しいと思うのだが、夜にこの城山に上るのはちょっと怖い。フランスの公園ぽいところは昼と夜でまったく表情が違ったりするので。昼はのどかで平穏な公園・広場が、夜はアル中や薬中っぽい若者たちのたまり場で怖い思いをしたことが何度かあった。ニースの城山公園はどうだか知らないけれど。


城山を降りて、ニース港の近くにあるお菓子工場・販売店フロリアンに行った。果物や花びらのシロップ漬けで有名な店だ。アトリエで代表的な菓子の作り方を解説付きで見学したあと、試食、そして販売という流れになる。ここの菓子は確かに天然素材だけを使って、丁寧に時間をかけて作られている。味も素晴らしい。でも当然、そこそこ高い。
http://www.confiserieflorian.com/
工場での製作工程を説明入りで見学して、味見なんかをすると、ついつい買ってみたくなり、過去の二回は私も購入したのだけれど、日本にお土産で持って帰ってもなかなかこの菓子のありがたみをわかってくれそうな人がいない。という私自身もこんな高級菓子を日本で買って食べることはまずないわけで。レモン皮の砂糖漬けとかやはりかなりおいしくて好きなのだが、こんな高価な菓子を買ってさらに太るのもなんかな、という気がして、今回は購入を見送った。お土産菓子もこんな気取ったものでなくて、スーパーで売っている板チョコでいいかなと。


夕食はステイ先ではなく、二年前の夏にニースに来た時に知り合った友人とインド料理屋に行った。二年前、夏の研修が終わった後、これでニースに来ることはもうないかもしれないと思い、ホテル(というか安民宿みたいなすごいところだった)に三泊した。ホテルの近くのレストランで一人で飯を食べていたときに、隣に座っていたフランス人夫婦と仲良くなり、その後、ニースに来るたびに彼らと食事を取っていた。昨年夏にニースに行った時も、娘と私、そしてその夫婦とその娘の5人で飯を食べた。ところがこの食事の半月後に、夫婦の夫のほうの不倫が発覚し、この夫婦は離婚してしまったのだ。この夫は美容師で地元で美容院を経営していたのだが、同じ店で働く美容師(子供二人あり)と昨年春ごろから不倫関係にあったのだと言う。地元美容院ということで、生活と仕事の場が近いこともあって、この不倫関係の関係者、友人たちはみな知り合いというちょっと地獄っぽい感じだ。

不倫が発覚して、おそらく相当激しい修羅場があって、すぐに離婚となったわけだが、夏に一緒に食事をしたときはそういった雰囲気はみじんもなかったので、私はとても驚いた。エキセントリックで個性的な妻を、ハンサムで温厚な夫が面白がっているという雰囲気の夫婦だった。夫は今は不倫の相手と一緒に暮らしているそうだ。地元に根付いた美容院なので、不倫発覚というスキャンダルでも店をたたむわけにはいかない。美容院はもちろんまだ健在だ。女性は離婚していたそうなので、たぶんニース市内の彼女の家に今は一緒に住んでいるのだろう。

二人の娘は14歳だ。こうした離婚の場合、日本だとほとんどの場合は、妻が子供と暮らすことになると思うのだが、フランスではそうはならない。子供は週に二日は妻のもとで暮らし、のこりの五日は夫のところで暮らす。行ったり来たりで落ち着かないように思うが、こうした家庭はかなり多いようなので、そういうものだとして子供も受け入れるのだろう。

私が今夜会ったのは妻のほうだった。待ち合わせ場所で会うとまず「今夜は私のボーイフレンドも一緒に食事するから」と言う。彼女にボーイフレンド、恋人ができたという話は聞いていなかった。昨年の11月からフェイスブックの共通の友達を介して知り合い、付き合い始めたらしい。前の夫にこのことは絶対言わないで欲しいと約束させられる。離婚はしたのだけれど、法的にはまだ決着がついていない部分があるらしい。相手に自分の状況を知られたくないからということだった。

彼女の恋人は10分ほど遅れて車でやってきた。不動産会社勤務のハンサムな人だった。「前の夫に似てるって言う人がいるんだけど、どう思う?」と聞かれた。そういわれれば確かに雰囲気はちょっと似ている。顔だちも。
駅の近くのインド料理屋に行き、三人で食事を取りながら、不倫発覚後の修羅場から、新しい恋人との出会いまでの経緯を聞く。新しい恋人には二人の子供がいるそうだが、この二人も週に二日は彼の家で、残りは元妻の家で過ごすとのこと。
この恋人の存在は、彼女の元夫は知られたくないわけだが、彼女の娘にもまだ伝えていないそうだ。娘に恋人のことを言うと、当然、元夫にも伝わってしまうわけで、それで秘密ということなのだが、こういう重要なことを娘に話せないというのも苦しいところだと思う。ただ来週からこの二人は三週間の休暇を取って、キューバで過ごすらしい。そうなると新しい恋人の存在は言わなくてもバレバレになってしまうと思うのだが、もうそれはそれで構わない、二人の燃え上がった気持ちを優先させるということなのだろう。


彼女の新しい彼氏は悪い人ではなさそうではあったが、私にとっては興味深いと同時にちょっと居心地が悪い食事でもあった。二人の関係も三か月前に始まったばかりということもあり、まだ不安定というかお互いに様子を探っている感じでもあった。

2017年2月20日月曜日

ニース研修春2017 (1) 2/19

今回で3回目の春季ニース語学研修旅行。
今年の参加者は13名。去年より4名多い。男子学生が一名で残りは女性。
出発日は昨年より一週間早い。飛行機の便は過去二年と同じ。
22時成田発ドバイ行きのエミレーツ航空EK319便に乗る。団体チケットを取ったのだが、昨年は事前に座席番号の連絡があったのだが、今年は空港でチェックインするまで座席がわからないという。学生にはとりあえず割り当てられた座席にそのまま座るように指示した。

エミレーツ航空のカウンターは混雑していて、思っていたよりもチェックインに時間がかかる。われわれが乗る便は満員とのことで、私は中央の四人並び席の内側を割り振られた。ドバイまでは10時間の長時間フライトなので通路側がいいのだが。隣が自分の学生だったら変わってもらおうかなと考えたりしたのだが、隣は見知らぬ人だった。フライト中、トイレに二回行った。
ドバイ行きの乗客の多くは日本人。隣に座っていた人は、ドバイからマドリッドに行き、そこからサンチャゴ・デ・コンポステラに行く巡礼観光客だった。

夜発便でフランスに行くときは、機内で眠れると翌日の行動が楽になる。とはいっても行きの飛行機のなかでは、出発の興奮もあってなかなか眠りにつけないことが多い。今回は幸い、ドバイまでの11時間のうち、5時間ぐらいは眠ることができた。
映画も2本見ることができた。眠る前に、三浦大輔監督の『何者』。これは昨秋見損ねていた映画。美男美女ばかりの出演者にちょっと抵抗を感じていたが、三浦大輔のシニカルさがいい塩梅で取り込まれていて面白い作品だった。
眠って起きたあとは、フランス映画の「ニースのブリース3」。黄色い服ばかり着ている馬鹿サーファー、ブリースの珍道中映画。フランスの伝統的なおバカコメディの王道的作品。失笑もののお約束ギャグとルーズで行き当たりばったりの展開の本当にくだらない作品だが、フランスでは大人気のようだ。エロネタがほとんどないので、子供も楽しめるだろう。最後のひねりがちょっとフランス風。

ドバイで乗り継ぎ。ドバイからニースまではおよそ6時間のフライトとなる。
また中央4人並び席で内側、しかも隣は恰幅のいいアラブ人のおやじ、ということで、デブ二人が並ぶのかよとうんざりしたのだが、4人並びのうち2席に乗客がいなかった。一人2席確保できることになりラッキーだった。2席確保できるとさすがに快適だ。 3時間ぐらい熟睡できたと思う。起きたあと、是枝裕和監督『海よりもまだ深く』を見た。これも昨年、見損ねていた作品。離婚したものの、前菜に執着があるダメ男の話。元妻のひややかで拒否的な態度が見ていてたまらない。うちもちょっとあんな雰囲気があるので。ラストの場面がいい。阿部寛演じるダメ男の寂寥感、しかし彼はこの寂しさをひきうける覚悟はできている。

ニースには予定通り19日(日)の十二時半に到着。スーツケースを受け取って、一時過ぎに空港を出る。13人の学生は、一人部屋の男子学生一人を除き、二人ずつ、異なった家にホームステイする。私もホームステイ。8組に分散して二週間過ごす。うち4組は昨年、一昨年から世話になっている家庭だ。

私が昨年、一昨年過ごしたステイ先は引っ越してしまったので、今回は初めての家だ。学校のすぐそばのアパルトマンの8階。30台半ばぐらいの若い夫婦と10歳の男の子、7歳の女の子の4人家族。私が到着したときには、奥さんは外出中、子供二人は今学校のバカンス中でリヨンの祖父の家に木曜まで滞在していると言う。やさしげな旦那さんが一人で私を迎えてくれた。

昨年、一昨年、私が滞在した家は、海岸に近い場所の高級アパルトマンで、部屋も広いし、おばあさんとその娘さんも感じがよくて、とても快適だった。今回は部屋に案内されてその狭さと前のアパルトマンの一室と比べると殺風景でみすぼらしいものだったことに正直がっかりした。
ただ迎えてくれた旦那、ギヨームは親切で感じがいい。彼はリヨンで生まれたが、母親がマダガスカル人、父親がフランス人で、幼少期から高校まではマダガスカルで過ごしたそうだ。妻のマーニャは、父親はパキスタン人、母親は中国人とマダガスカル人のハーフ。マダガスカルにはインド系と中国系の移民が多数住んでいるそうだ。マダガスカルでは生粋のマダガスカル人が半分、残りの四分の一が中国系、四分の一がインド系という話だった。

彼女は20年くらい前にフランスに移住した。実の父はマダガスカルに住んでいたが今はもう死んでいる。母親はパキスタン人の夫と別れ、フランス人と結婚し、そのフランス人の仕事の関係でマダガスカルからフランスに移住することになったらしい。そのフランス人の義父も4年前に亡くなったとのこと。
ギョームの父は現在、リヨンに住んでいる。彼の両親も離婚した。母親はマダガスカルにずっと住んでいる。両親は二人とも、現在は別のパートナーと生活している。

マダガスカルの形容詞が、malgacheであることを知った。マダガスカル語もmalgacheだ。
マーニャはインド系の名前らしい。インド映画の登場人物から取られたそうだ。彼女の家庭ではマダガスカル語が話されていた。私の個室環境は前のステイ先に比べるとかなり落ちるけれど、彼らのこうした出自の話を聞くと非常に興味深い。

荷ほどきをし、ギヨームからひととおり生活の仕方について説明を受けた後、町に出た。ほかの学生たちとはちょっと離れた下町地域にステイし、今回はじめて学生を預ける家庭に滞在する学生二人と待ち合わせて、街歩きをする。海岸まで降りて、プロムナード・デザングレを歩いて、旧市街まで行った。ニースの名物、ソッカの露店が出ていたのでソッカを買い、ベンチに座って食べた。
それから旧市街のサレヤ通りのカフェに入り、リンゴタルトを食べた。トラムで学生の滞在先の近くまで行き、学生を送る。二人が滞在するのは老夫婦の家庭だ。部屋の写真を見せてもらったが内装がシックでかっこいい。部屋も広々した感じだ。おじいさん、おばあさんもはっきりものを伝える人で感じがいいとのことだった。

自分のステイ先に戻ると、マーニャが夕食の用意をしていた。
シャワーを浴びて、飯を食べながら、上に書いたような興味深い話を聞く。夕食はサラダとパスタ、それからチーズ。ボロネーゼ風のパスタ(パスタは細長いものではなく、ニョッキ)はなかなかおいしかった。あとフランスパンがとてもおいしい。
私の滞在中にマダガスカルの料理を作ってもらうようにお願いしておいた。唐辛子を使うけれど大丈夫か?と問われたが、私は問題ない。マダガスカル料理はまだ食べたことがない。

10年前からアジュールリングァの生徒を受け入れているとのこと。私は彼らが受け入れる4人目の日本人だそうだ。彼らがホームステイをはじめて、最初に受け入れたのが日本人の二十台の女性だったそうだ。この日本人女性は最初に紹介された滞在先が相性が悪く、次に紹介されたのがギヨームとマーニャの家だった。フランス語も英語もほとんど話すことができなかったという。でもその日本人女性も何とかコミュニケーションを取ろうとしていた。彼女は一週間、ギヨームとマーニャの家に滞在した。そのあと、イタリヤへの自由旅行に出かけたらしい。
最初に受け入れた学生が、彼らにとっては未知のアジア人女性、それもほとんどフランス語も英語も話せない人だったので、彼らもいろいろと気を使ったらしい。
その日本人女性は、イタリア旅行のあと、またニースに戻ってきた。そのとき、ギヨーム・マーニャのところにやってきて、学校とは関係ないけれど、日本に帰国するための数日間、また二人の家で過ごしたいと頼んだそうだ。二人は喜んで彼女を受け入れた。
これで二人はホームステイ受け入れをその後も続けてやっていけると思ったそうだ。