2019年2月20日水曜日

2019/2/18 ニース研修2019春 3日目

月曜日。今日から授業が始まる。
他の国の学生と混じったインターナショナルなクラス編成が好ましいのではあるが、事前に学校の担当者と打ち合わせしたところ、私が連れて来る学生はほとんどがフランス語の勉強を始めて1年の初級者なので、特に会話のレベルに差があって他の国の学生と混ぜるのは難しいとのこと。19人のうち初級の16人を2クラスに分け、中級とみなされる3名をインターナショナルのクラスに入れることになった。

私も授業に出たいのだが、今回は自分の論文の準備をニース滞在中に進めなくてはならない。語学の授業に生徒として出るのは何よりもまず楽しいし、フランス語力の向上だけでなく、他人の教え方を通して学ぶこともたくさんあるのだけど。

午後は学校主催の遠足でニース旧市街の散策とニースで名高い菓子工房の見学。ニースの町並みと海の美しさには、学生たちは感嘆の声を上げていた。私は何回も見ているけど、来るたびになんで美しいんだと思う。学校主催の遠足のあと、学生数名とお茶を飲んで休む。かなり長距離を歩いたので疲れた。

夕方は一人で遅れてニースの研修にやって来る女子学生を空港に迎えに行った。土曜のことがあるので、学校の送迎係だけでは不安だったので、私も同行することにしたのだ。今日の送迎は土曜日にいい加減な送迎をやったロシア人の青年だった。空港に向かう車の中での会話で彼がオケの指揮者であり、作曲家であることを知る。奥さんはバレエダンサーでモナコの劇場の専属とか。彼はニースの音楽院で教えつつ、語学学校の送迎のバイトをしているとのこと。

女子学生を彼女のホストファミリーに送ってから帰宅。夕飯は炒飯、八角を使った中華風スペアリブだった。これにキャベツのサラダがついた。美味すぎる。食べ過ぎた。マダガスカルは中国系移民も多く、中華風料理も私のホストのギヨームとマニアのレパートリーなのだが。このスペアリブとチャーハンに、マダガスカルの親戚が送ってきたという激辛の唐辛子ペーストを少しつけて食べると風味が一気に増してさらに美味しくなる。体重という面では実にやばい。今週の金曜夜はマダガスカルの料理を作ってくれると言う。実に楽しみだ。

土曜に高熱を出して病院に連れて行った学生の状態を確認する。急な高熱、悪寒などの全身症状、鼻水と咳、喉の痛みという風邪症状がぜんぶ揃った感じで、インフルエンザではないかと思ったが、病院の医師が処方してのは、アスピリン一回1000mgを1日3回を三日間というものだった。これに痰切り薬のカルボシステインのシロップとアスピリンでも熱が下がらなかった時に飲めという別の解熱鎮痛剤。
日本ではインフルエンザの解熱剤としてはアスピリンは推奨されていないはずだ。しかもアスピリンを1日1000mg×3回なんて処方はまずありえないだろう。
薬局で薬剤師にも一応確認したら、「インフルエンザは薬で治らないから、対処療法しかない。アスピリン飲んで寝るしかない」と言う。あとで別のフランス人に聞いたが、フランスでもタミフルなどとのインフルエンザ治療薬を出す医者はいないわけではないが、アスピリン大量投与で熱下げて苦痛を取り除くというのは普通のやり方のようだ。アスピリン3000mg/日は、やはり強力で土曜の翌日の日曜日夕には熱は平熱に戻ったとのこと。咳も大幅に改善したとのこと。多分カルボシステインの容量も日本より多いのではないか。

月曜日の今日は念のため家で休んでいたけど、熱は上がらず、咳も減ったとのことなので、明日から学校に来るように伝えた。アスピリンは万能薬だ。こちらは薬は全て箱売りなので、まだ余っているはず。余った薬は貰おうと思った。わたしが立替払いしたのだから別にこれくらいはいいだろう。
抗インフルエンザ薬に頼らなくても、アスピリンでインフルエンザを制圧できるのだ。

2019/2/17 ニース研修2019春 2日目

ニース研修2日目。
朝9時集合でプロヴァンス鉄道でアントルヴォーに行った。私を含め月曜夜にニースに来る学生を除く全員の19名で行く予定だったが、病気で不参加の男子学生が1名。そしてマイペースかつ寡黙な中国人留学生の女性学生は、「寝不足なので寝たいです」との連絡があり不参加。そしてさらに日本人女子学生2名が列車の出発時間になっても来ない。連絡もない。ニースに着いたばかりなので学生を野放しにしたくはなかったのだが仕方ない。
4名不参加で私をふくめて15名で行くことになった。

本来ならニースからアントルヴォーまでローカル私鉄のプロヴァンス鉄道で行けるのだが、区間工事中ということで30分ほど列車に乗った後は、1時間ほどバスに乗ってアントルヴォーに行くことになっていることを駅に着いてから知る。乗り物に弱い学生がいてそれを聞いて憂鬱な顔をしていた。昨日のニースが暖かったため、かなり薄着の学生もいた。アントルヴォーへ向かう路線は山の中に入って行くので、バスへの乗り換えの時はかなり寒かった。寒くなる可能性も考えといてくれよと思ったが、「暖かい格好をして来てくれ」と事前に言うのを思い浮かばなかったのを後悔する。

アントルヴォーに着くとなんと観光案内所が休み。日曜なので当然開いていると思っていたのだが。観光案内所で町を囲む城壁の外周と山頂の要塞に登る道のチケットを買うはずだったのだが、これでは購入できない。日曜は数少ないレストランや売店の多くは休みで村はひっそりとしている。観光しか無いようなアルプスの村だけど、日曜は休んでしまうところが、フランスらしい。かろうじてお土産物屋一軒とクレープや一軒が開業していた。

観光案内所休みでどうしたものかと途方にくれたのだが、開いていたお土産物屋のマダムに聞くと、山上の要塞に登る道に必要なジュトンは要塞道入口の自動販売機で購入できるという。ただしカードでの購入はできなくて、1ユーロか2ユーロの硬貨しか受け付けないとのこと。ジュトン一枚が3ユーロなので、我々の場合、45ユーロ分の硬貨が必要になる。昨日ニースに到着したばかりの我々は硬貨をほとんど持っていない。お土産物屋のマダムは「申し訳ないけど私の店にも硬貨はない。さっき別の旅行者に両替してしまったから。そこのスーパーに頼んでみなさい」と言う。

おじいさんか一人がレジにいる村のスーパーに入って頼んでみると、「日曜にここに来たのは運が悪かったな」と言って、おじいさんは電話して奥さんに50ユーロ分の1ユーロか硬貨の筒を届けるように言った。奥さんが硬貨の筒を持って5分後に到着。これで山上要塞に登ることができる。ありがたい。

ふもとから要塞まではジグザグの急な石畳の坂道を登って30分ほどかかる。私は汗だくになった。全員が山上要塞まで登ってから16時のニース行きのバスが出るまで自由行動とした。昼飯を食べなくてはならないが、村で空いているレストランはクレープ屋一軒のみ。ここの店内には15名ほどしか入ることはできない。学生の中にはサンドイッチの弁当を持ってきたものもいたけれど、われわれ以外にも観光客はチラホラいたので、昼飯はこのクレープ屋争奪戦となる。ということを思った私はさっさと降りて、クレープ屋に向かった。私と一緒に来た学生が7名。ちょうど7名分のテーブルが空いていた。セッカと呼ばれる牛肉の生ハムのようなものが入ったガレットを食べた。セッカはアントルヴォーのローカルフードだ。

私たち7名より遅れてクレープ屋にやってきた学生集団は、中で食べている私たちを恨めしそうに外から見ている。ここ以外で飯をとることのできるレストランはないので、寒いのにテラス席に座って注文を待っていた。私たちが食べ終わった時点でまだ彼らの注文は届いていなかったので、私たちと入れ替わりに彼らがレストランの中に入った。


レストランから出たのが2時過ぎて、帰りのバスまで2時間以上時間がある。ぶらぶらと村内を散策して時間を潰した。静かでひっそりとしていて実にいい感じだった。

午後4時20分にプロヴァンス鉄道の代替バスが来たのだが、バスが満員でわれわれのグループはバスに乗ることはできないと言う。次のバスは2時間後だ。
「それは困るよ。哀れな日本人グループはプロヴァンス鉄道に見捨てられるのか?」と言うと「いや、今すぐあなたたちを乗せるバスをここにもう一台呼ぶから」と言ってプロヴァンス鉄道の人は言う。そして私たちの目の前で電話をかけてバスの追加を要請した。
電話を切ったあと「大丈夫だ。もう車を出したって」と言うが、ここに置いてけぼりにされたらかなわんと不安で、「何分ここで待てばいいんだ?」とさらに聞いた。フランス人の仕事はどうも信用できない。するとまた電話して「15分だ」とのこと。本当に来るのかなと思っていたら、案外すぐに追加のバスが来た。

バスの中の様子で、学生たちが学校や性別、学年の違いを超えて、仲のいい雰囲気になっていることを確認できた。行きと逆のルートで列車に乗り換えると、その車内に朝、来なかった2名の女子学生が乗っていた。事情を聞くと、シャガール美術館が30分ほどで見られると書いてあったので、美術館に寄ってからプロヴァンス鉄道の駅に行こうと思ったら時間が過ぎてしまったとのこと。帰宅してから調べるとシャガール美術館の開館は10時から、こちらの待ち合わせは9時からなので、彼女たちの言い分がよくわからない。最初から遅れて行くつもりだったのか。

彼女たちは午後の列車とバスでアントルヴォーに行き、合流するつもりだったのだが、バスを乗り過ごしてしまい、アントルヴォーの先のアノーまで行っていたとのこと。電車一本で行けるはずだったのに途中からバスに乗せられるし、降りたところは聞いたこともない町だしということで、かなり心細い思いをしたに違いない。

今日の夕飯は旦那のギヨームによる貝類のパスタ。ペスカトーレと言うのだっけ? いやあ、絶品。あまりにおいしくて食べ過ぎてしまった。

2019/2/15-16 ニース研修2019春 1日目

5回目のニース研修。今年は例年より多く19名の参加者となった。
ニースまでは日本からの直行便はない。例年はドバイを経由するエミレーツ航空を利用していたのだが、今年はイスタンブールを経由するターキッシュエアラインズを利用してのニース行きとなった。今年はヨーロッパ便の航空運賃が全般に高くて、昨年まで利用していたエミレーツ航空が利用できなかったのだ。ターキッシュエアラインズを利用するのは私個人でも今回が初めてだった。成田からイスタンブールまでは12時間ほど、イスタンブールからニースまでは3時間ほどの飛行時間だった。イスタンブール空港での乗り継ぎ時間が約3時間。

2/15(金)にターキッシュエアラインズでニースに向かったのは私を含め20名のうち、18名。1名は同日のカタール航空でニースへ、もう一名は2/18(月)のスイス航空でニースに来る。

21時25分に成田発。現地時間午前4時過ぎにイスタンブール着。寝不足の状態で飛行機に乗ったので機内ではよく眠ることができた。イスタンブール便では6時間ぐらいは寝ていたはずだ。イスタンブール空港ではまずニース行きの飛行機の出発ゲートを確認し、そこまで移動してから、いったん解散する予定だったのだが、イスタンブール空港の掲示板には搭乗予定時間の2時間ほど前にならないとゲートが表示されない。とりあえず大きな電子掲示板の前を集合場所に設定して、搭乗予定時間の1時間半前を集合時間にして解散とした。私はハンバーガーショップでハンバーガーを食べる。ケバブ屋は空港にはなかった。

集合時間になると男子学生の一人が「飛行機に乗り込む前からちょっとへんな感じだったのですが、調子がよくないです。ニースに着いたら医者に連れて行ってくれませんか」と言う。熱を測ってみると37.7度あった。このまま熱が上がらなければ持参している市販の風邪薬を飲んで様子を見ようと言ったが、あとから考えてみると彼自身、「これはちょっと普通の風邪とは違う」という感じがあったから、医者に連れて行ってくれと言ったのだろう。

イスタンブールからニースまでの飛行時間は3時間ほどだったが、ここでもよく眠ることができた。機内で睡眠を十分にとることができたので、かなり元気な状態でニースに到着することができた。ニースに着くと「帰ってきた」という感じになり、気分も高揚する。
空港には学校の送迎担当者が2名、ホストファミリーが1名迎えに来ていた。この学校の送迎担当への連絡がいい加減で、空港であった時点から、リストにある学生の名前が間違っていたり、送迎担当者が学生の送り先を間違えて女子学生二人を送るはずの家に男子学生二人を託し、男子学生二人のはずの家に女子学生を置いていったり。さらに午後に別の便で到着する学生の迎えも要請していたのだが、その学生の名前を間違えていて学生は空港で待ちぼうけの状態になった。私のところに学校の担当者から「迎えにいったけどいない。どうなっているんだ?」と連絡が入ったけど、そっちが違う学生の名前で探しているんだろうが。学生は英語はかなりできる人だったのだが、送迎者のほうはフランス語オンリーだったので、空港で会っているにも関わらず、話が通じなくて二人とも茫然としていたらしい。

男子学生と女性学生の入れ違いについては、最初に女子学生を間違えた家に届けたものの、受け入れ家族のほうも性別が違っているのに頼りない送迎係に言われるままに学生を受け入れるもなんだかという感じだが。女子学生二人は自分たちが言われているのと違う家に受け入れられたことに気が付かなかったらしい。男子学生二人はすぐに気づき、LINEで連絡をしてきた。そのとき、私は調子が悪くなった学生を休日診療の大病院に連れて行って診察待ちだった。男子学生の大家と女子学生の大家に電話したところ、別にこのままで構わないという。男子学生も女子学生がよければこれでいいとのこと。女子学生には連絡がなかなかつかなかった。女子学生には事前にホストファミリーの情報を伝えていて、そこが海岸に近いブルジョワ住宅地帯にあるかなりいい家であることを知っていたので、ちょっと難色を示していたのだが、そのままそこに滞在することを承諾してくれた。

調子が悪い学生は幸い私の滞在先のすぐ近くの家に滞在していた。自分の滞在先に荷物を置き、海外旅行保険会社に保険金請求の手続きについて確認したあと、その学生のホストファミリーへ向かう。土曜日だったので、救急受付のある病院に行くしかない。マダムに休日診療の病院を聞く。熱がだいぶあがっていてしんどそうだったのでタクシーを呼ぼうと思ったのだが、マダムはすぐ近くのバス停からバスに乗れば終点で降りればいいだけ、バスなら1.5ユーロだからと言ってタクシーを呼ぶことに反対する。それでバスで病院に行ったのだが、バスは混んでるし、運転は荒いし、経路もじぐざぐで遠回りで時間がかかるしで、タクシーを呼ばなかったことを後悔した。

診察までは一時間ほど待った。待っている間にも熱が上がっているようで、かなりしんどそうに見えた。発熱、悪寒、咳、鼻水と風邪の諸症状が全部そろっているという。症状の悪化が急で、熱が高そうなので、インフルエンザの可能性を疑った。彼の周りに何人かインフルエンザ罹患者がいて、出発前にそうした人たちと会ったとも言っていたので。
診察待ちのあいだに、午後到着便で一人でやってきた女子学生から学校の迎えが飛行場にいないという連絡が入る。この対応で呼び出しを気にしながら、学校の緊急連絡先に電話したり、送迎係に連絡したり、学生と連絡したり。学校の送迎係は送迎係で私のステイ先に何度も電話したりしていたそうだ。

診察があって、熱を測ると39度だった。「これはインフル確定かな」と思って、医者にもその可能性を伝えた。医者は問診、触診ともにかなり丁寧に診察する。
しかし既往症や薬へのアレルギーを確認した後、医者が処方したのはインフルエンザ治療薬ではなかった。一回1000ミリグラムのアスピリンを毎食後、それでも熱が下がらなかった場合、アスピリン服用のあいだに飲む別の解熱鎮痛剤、そしてたんを切るカルボシステインのシロップ。

「インフルかもしれないけれど、これでいいんですか?」と聞く。私自身、一か月前にインフルになったとき、ネットで検索した情報ではインフルでは熱をむやみに下げないほうがいい、解熱剤としてアスピリンは勧められないというのを読んだことがあったからだ。
医師は「熱を下げて、養生するしかないんですよ」と言う。診断した医師が言うのだからそれに従うしかない。しかしインフルにアスピリン、しかも指示された服用量は一日3000mg。日本ではこんな大量のアスピリンを処方することはまずないはずだ。さらにプラスして別の解熱剤。

診察料は50ユーロだった。これはあとで保険で返ってくるはずだ。
医者に出してもらった処方箋をもって薬局で。薬局でも念のため、聞いてみた。
「インフルっぽいんですけど、アスピリンを出すのが普通なんですか?」
「うん、結局インフルは薬で治らないから、熱をさげて養生するしかないんですよ」と薬剤師も医者と同じことを言う。

薬剤師にタクシーを呼んでもらってタクシーで学生の家に戻った。ホストファミリーのマダムは、受け入れ学生がインフルの可能性があると伝えると、「なんでそれならタミフルを出さないんだ?」と言う。医師はインフル治療薬については一言も言わなかった。あとでほかの人に聞いてわかったのだが、フランスではインフルは薬で治らない、対処療法しかないということでアスピリン大量投与だけする場合がけっこう多いが、タミフルなどを出す医者もいないわけではないらしい。

マダムは学生が病気ということで、「うちの夫は気管支が弱くて、うつされたら困る」など正直にかなわんなあ、迷惑ですよという雰囲気で言ってきたが、それでも預かってもらうしかない。よろしくお願いしますと頭を下げる。近所のスーパーに行って学生に飲み物やすぐに食べられる食べ物を買って渡す。

その学生と同室の別の男子学生は一緒の部屋に日中ずっといると彼にとってもよくないということで、外に連れ出し、疲れてはいたけれど二人で海岸をぶらぶらと散歩する。この学生は私がフランス語を教えた学生ではなかったが、名古屋出身で父親はテレビのドラマや小さな舞台で活動する俳優だという。

海岸通りで午後に一人でやってきた女子学生から連絡が入る。ホストファミリーにたどり着くことができたとのこと。一人で海岸にいると中年フランス人男性からナンパされて、一緒にいるという。こちらも海岸にいるなら会いたいというので、待ち合わせをした。
中年おっさん男性と彼女がやってきた。おっさに「私の娘をナンパしたのか?」と聞くと、別に悪びれた様子もなく「いや、そんなわけではないけど。それじゃあ」とその男は去っていった。
その女子学生は十九時半に大家と待ち合わせして、中心部のレストランで飯を食べる約束になっていると言う。彼女につきあってその待ち合わせ場所までぶらぶら歩く。

初日の到着直後からずっと歩いている感じがする。帰宅すると疲労困憊。夕飯はラクレットだった。

2018年9月4日火曜日

フランス修道院宿泊ガイド:ル・バルー聖マドレーヌ大修道院滞在の記録 その2(2018/07/25-27)

5.ル・バルー聖マドレーヌ修道院の歴史

ル・バルー修道院の歴史は浅い。設立したのはジェラール・カルヴェ師 Gérard Calvet (1927-2008)だ。1970年8月24日にベネディクト会修道士のカルヴェ師はスクーターに乗ってル・バルーのそばにあるベドワンBédoin村にあったうち捨てられた小さな礼拝堂にやって来た。この礼拝堂は聖マドレーヌに捧げられたものだった。ここで彼は聖ベネディクトゥスの戒律に則った修道生活を行おうとしたのだ。すなわち祈り、沈黙、労働、ラテン語の聖務日課、伝統的な典礼を行う日々だ。彼を敬愛する若い修道士たちがすぐにベドワンに次々とやって来た。
ラテン語による伝統的な典礼を行っている修道院がどれぐらいフランスにあるのか私は知らないが、カルヴェ師の伝統回帰は1960年代の第二バチカン公会議で、各国語による典礼が認められたあと、大半の教会がラテン語での典礼を捨て去ってしまったことへの反動だろう。またスク—ター一台で移動し、うち捨てられた礼拝堂に身を寄せる彼のもとに、多くの修道士が次々と集まり、共同体を形成する過程は、修道院の歴史からみれば原点に戻ったと言えるが、60年代70年代のヒッピーたちのコミューン形成の動きとの類似も感じられる。

彼らは礼拝堂周辺の粗末な小屋で生活していたが、増え続ける修道士にそうした生活も限界に近づいた。
1978年にカルヴェ師はル・バルー村に30ヘクタールの土地を手に入れる。募金活動で資金を集め、ル・バルーの地に新たな修道院の建設がはじまる。1981年に修道士たちはベドワンを離れ、ル・バルーに移る。1989年にようやく教会が建ち、ローマから大修道院として正式に認可された。

6.祈りの時間

修道院の生活は聖ベネディクトゥスの戒律に則って行われる。聖ベネディクトゥスは5世紀末から6世紀前半に生きたイタリア中部ヌルシア出身の修道士で、モンテ・カッシーノ修道院の創設者である。ベネディクトゥスの戒律は「祈りと労働」を核とする修道士の共同生活のルールを定めたものだ。この戒律は西ヨーロッパの修道生活の規範となった。「戒律」は中世にはおそらく聖書に次いで広く読まれたテクストであり、私が大学院修士課程に入ったときに最初に読んだのが「戒律」の古仏語版だった。指導教授が修道院思想の研究者だったのだ。文学研究科フランス文学専攻なのに、文学性の乏しい修道院戒律の古仏語版を授業で読まなくてはならないのは、宗教的なものに関心が薄かった当時の私には苦痛だったが、まさか今になってこの戒律に立ち戻ることになろうとは。

一日に八回、祈りの時間がある。週日は朝3時半に朝課、6時に賛課、7時45分に第一時課、9時30分に第三時課と歌ミサ、12時15分に第六時課、14時15分に第九時課、17時30分に晩課、そして19時45分に終課。

各聖務日課の開始前には教会の鐘が鳴らされる。静修者はこれらの聖務日課への参席が義務づけられているわけではない。別に来なくても何も言われない。基本的に最初に宿泊する部屋に案内された後は、修道士はこちらの行動には介入しない。聖務日課に出る出ないは各人の自由なのだ。私はせっかくの機会なので、3時半からの朝課と14時15分からの第九時課を除くすべての聖務日課とミサには参席した。

聖務日課とミサは修道院附属の教会で行われる。町中の教会との大きな違いは、聖職者のみが入ることができる内陣が広く取られていることだ。教会内部の2/3は聖職者専用の聖域になっている。修道士たちは内陣で左右に分かれ、向かい合って座る。修道士は六〇名くらいいるだろうか。各課によって参席する修道士の数は異なる。
[修道院附属の教会の内部。修道士たちは右側から入場し、左右に分かれて座る]

ル・バルー修道院の修道士以外の人は、手前の身廊に座る。この身廊には女性も入ることができる。聖務日課とミサのときだけ、外からやってくる信徒もいた。服装は「教会での祈りにふさわしいもの」という注意書きがあるが、短パンTシャツのバカンス・スタイルで出ても問題はないようだ。女性はもうちょっとちゃんとした服を着ている人が多かったように思ったが。ただ短パン・Tシャツのラフな格好で来ている人もよくみれば足元はサンダルでなく、みな靴を履いていることに気づいた。サンダルでは来ないというのが暗黙の服装コードなのだろうか。

聖務日課は各課とも基本は詩篇の朗唱だ。この詩篇の朗唱の合間に旋律のついた讃歌などが挿入される。もちろんすべてラテン語で行われる。曜日によって各課で朗唱される詩篇や歌は決まっていて、身廊の入口には各課別のラテン語(仏語対訳)の聖務日課書抜粋冊子が置いてあるのだけれど、聖人の祝日などに従って同じ曜日でも取り上げるテクストが異なるようで、その冊子の該当ページにあるテクストが取り上げられなかったりすることが多い。冊子と違う詩篇や聖歌が取り上げられるときは、修道士の一人が参席者にその日のテクストを印刷したパンフレットを配付して回る。これらの冊子やパンフは貸し出し制なので、祈りの時間が終わると返却しなくてはならない。

自分で聖務日課書やミサ典書を持っていて、それを見ながら典礼に参席する信徒もいる。
祈りは内陣の修道士が行うものので、身廊にいる人たちは聞いているだけだ。教会堂内は反響が大きい。ラテン語の詩篇の朗唱や聖歌の響きが実に美しく、心にしみ通る感じがする。日々何回も祈っているのだから当たり前といえば当たり前だが、ラテン語の発声と歌は、日本の聖ピウス十世会のミサの聖歌隊よりはるかに上手だ。ル・バルー修道院の聖務日課は、ウェブ上でリアルタイムでも、後になってからも聞くことができる。修道院で聖務日課とミサに出ると、これらの美しい朗唱と歌声がまさに神を賛美し、神に捧げられたものであることが実感できる。中世に典礼の枠内ないしその周辺で聖職者たちによって演じられた典礼劇もそのような精神のもとで作られ、演じられたはずだ。

フランスはカトリックの国とはいえ、今では教会に通う人とは本当に少数で、こうして静修のために修道院に泊まるような人は相当熱心な信者のはずだ。祈りの手順はよくわかっている人ばかり。身廊にいるのはこうした熱心な信者と他の修道院から来た修道士だけだ。周りが立ったり、座ったり、十字を切ったりする度に、私はおたおたと慌てて真似をした。祈りの時間の様子を写真や映像で取りたかったが、厳粛そのものといった感じで、とてもiphoneを取りだして傍若無人に撮影できそうな雰囲気ではなかった。

7.修道士との食事

聖務日課やミサは、手順を知らなくておたおたすると言っても、「観客」としてその様子を眺めていればいいだけだ。修道士との食事はそうはいかない。修道院では朝食は女性も入ることができる食堂で、朝6時から8時半のあいだに自由に(ただし沈黙を守ったまま)取るのだが、昼食と夕食は修道士たちと修道院の奥の修道士エリアにある食堂で取ることになっている。この食事の時間は、祈りの時間以上に強烈なカルチャーショックの時間だった。
[修道士たちと食事を取った食堂。外側が修道士たちのすわる場所。内側が静修者の座るテーブル。ル・バルー大修道院のウェブページより]

私は午後3時に修道院に到着したので修道院で最初に取ったのは夕食だった。夕食の開始時間は18時半である。18時半の5分前に修道院内の回廊に集合する。滞在中、修道士と会話することができるのは、最初の受け入れ時と昼食・夕食の前後の短い時間しかない。修道院生活がはじめての私にとっては、修道士との会話は失礼で場違いなことを言っていないだろうかとヒヤヒヤしながらのもので、がちがちに緊張した。
[ル・バルー修道院回廊]

静修者全員が揃うと、当番の修道士の先導で食堂に並んで入る。食堂に入ると話しはならない。静修者たちは食堂の中央にテーブルに座る。テーブルの椅子には各静修者の名前が書いたカードが置いてある。修道士たちは静修者を取り囲むかたちで、壁際に座る。
全員が席に着くと、食べ始める前にラテン語の祈りを唱える。唱える文句は各自の座る席の前に置かれたカードに書いてある。祈りが終わると食べ始めるが、食べている間は一切会話してはならない。一人、朗読役の修道士がいて、その修道士は食事時間中ずっと聖書の一節とかその日に関係する聖人のこととかを独特の抑揚でずっと話している。この朗読はフランス語だ。

食事は前菜、主菜、デザート。ワインと水も出る。給仕係の修道士がテーブルの周りを移動し、料理を出してくれる。4人で一つの大皿からとりわけて食べる。「もっといる?」「いや、もうけっこうです」といった合図を無言で行いながら。前に座っている人の後ろには、壁際に座る修道士たちがこちらを向いて黙々と食べている。話すのは禁止なので、文字通り黙々と食べるしかない。

食事は前菜にはハムも出た。初日の主菜はラビオリのクリームソースだったように思う。豪華な食事というわけではないが、味は悪くない。美味しいと言っていい。ただ修道士に囲まれ、無言の厳粛な雰囲気のなかで食べるので、味を楽しむ心理的余裕はなかった。

食事時間は30分。30分で全員が食べ終わる。食事終了後は短いラテン語の祈り。そのあと静修者たちは修道士の先導され、一列になって食堂から出て行く。一列に並んで出て行くのが初日夕食ではわからなくてぼんやり座っていたら、私の前に座っていた修道士から肘で合図され、どきっとした。

二日目の昼は私が到着後、最初の昼ご飯ということで、食堂に入る前に大修道院長に手を洗って貰うというサービスがあった。これは私にだけの特別サービスではなくて、静修者が最初の昼食を取る時に行うとのこと。

この緊張感に満ちた食事の様子こそ写真や映像に取っておきたかったのだが、とてもiphoneを取り出せるような雰囲気ではなかった。

8.ル・バルー村散策と修道院土産

[修道院の売店で購入したお土産]

滞在二日目は第三時課とミサが終わったあと、修道院敷地内にある売店に行ってお土産を買った。売店は修道院の建物から5分ほど離れた別の場所にあった。売り場はかなり広くて、日本の小中学校の教室ぐらいの広さがある。売っているのはキリスト教関係の書籍の他、オリーブ関連商品、ワインやビールなどの飲料、バター、チョコレートなどの食品である。食品類は必ずしもこの修道院で作られたものではない。私はオリーブ油で作った石けん、板チョコレート、そして聖務日課書を購入した。
二日目は第六時課と昼食のあと、第九時課は欠席して、修道院から2キロほど離れた場所にあるル・バルー村を散策した。修道院は木々に囲まれた丘の上にあり、周囲は森とオリーブ畑とぶどう畑が広がっている。修道院からふもとに向かって坂を下っていると、オリーブ畑から修道院に戻る修道士とすれ違った。おそらく気温は35度くらいの暑い日だったが、修道士はそんな暑さのなかでも黒い修道服を身につけている。

修道院から丘を下に降りて、また高台に上ったところにル・バルー村はある。
ル・バルーは人口650人の小さな集落だ。高台の頂上には城塞があるが、立派な城塞にも関わらずフランスではこれくらいの城塞は珍しくないためか、国の文化財にも指定されていない。町の有志で作った委員会がこの城塞を管理しているらしい。
[ル・バルー城]
[ル・バルー城]

ル・バルー城の建設は一六世紀まで遡ることができるらしいが、何度にもわたって襲撃を受け、中はかなり荒れ果てている。第二次大戦中にはドイツ軍にも焼き払われたそうだ。小学生ぐらいの男の子、中学生ぐらいの女の子とおじいさんが入口にいて、入場料を取っていた。
「どこの国から来た?」と聞かれたので「日本から」と答えると、事務室からクリアファイルに入った日本語のパンフレットを持ってきたのでちょっと驚いた。ここまでわざわざ観光でやってくる日本人がいるとは思えないのだが。
城塞内を見学したあと、ル・バルーの村のなかを散策する。南仏には高台の上の方に密集している村が多い。城塞から下に降りるとカフェがあったので、そこでちょっと休んだ。暑い日だった。村の中は静かで人の気配がしない。
[ル・バルー村]
[ル・バルー村]

9.チェックアウト

聖務日課のなかでも晩課は重要なので、ル・バルーを散策したあと、晩課の時間までには修道院に戻った。暑い日だったので坂を上り下りするのでだいぶバテた。汗をだいぶかいたのでまずシャワーを浴びた。翌日の朝チェックアウトなので、電話でタクシーを予約し、朝9時に修道院まで迎えに来るように頼んだ。
お菓子の時間だったので一般の人も入ることのできる食堂に行き、テーブルにあったアプリコットを何個か食べる。冷蔵庫には冷たい水もある。食堂で他の静修者とも会ったが、大声でのお喋りは憚られる感じで、ぼそぼそと小さな声で二三ことばを交わしただけ。無口で信仰に篤いフランス人にこれまで会ったことはなかったが、修道院ではそうした例外的フランス人と出会うことができる。二〇代から三〇代の若い人がけっこう多い。しかもなぜかみなハンサムだ。

晩課、それから夕食。初日の夕食には30人くらい静修者がいたように思うが、二日目はその半分ほど。人数が少ないと、修道士たちに囲まれている圧迫感がますます強くなって、食事の緊張度が増した。食事が終わった後、修道士に「お前は明日出るんだよね。昼食は取るのか?」と聞かれる。
「いや、昼食はとらずに修道院を出ます」
「それではこれでお別れだね。修道院はどうだった?」
「いや、日本で想像していたのとはまったく雰囲気が違いました。もっと厳かで静かで。ラテン語の響きの美しさに魅了されました。今度はもっと勉強してから来ようと思います」
自分にとっては特異な体験で、色々思うところはあったのだが、ことばが出てこない。無難でありきたりのことしか言えなかった。

終課が終わるのが20時過ぎ。夏時間のため日はまだ明るいが、終課とともに修道院の一日は終わり、修道士は眠りに就く。修道院の扉に鍵がかかり、外出ができなくなる。

最終日、3時半の朝課を告げる鐘で一旦目ざめるが、教会には行かず、眠ってしまう。6時からの朝課と7時45分からの第一時課には参席した。
部屋の掃除と次の人の為のベッドメイキングをし、郵便箱に二日滞在したお礼として80€入りの封筒を入れた。ちょっと少なすぎるかなとも思いつつ。

修道院の受付は午前のミサのあとにしか開かないので、修道士に出発の挨拶をすることなく、修道院を出て入口でタクシーを待った。
タクシーが果たして時間通りに来てくれるのかどうか不安だったが、予約した時間の5分前に、私を迎えに来た。

2018年9月1日土曜日

フランス修道院宿泊ガイド:ル・バルー聖マドレーヌ大修道院滞在の記録 その1(2018/07/25-27)

[ル・バルー聖マドレーヌ大修道院。修道院Webページより]

1.なぜ修道院泊をしようと思ったのか

2018/07/25から27までの二泊三日、南フランスのル・バルー村にあるベネディクト会修道院、聖マドレーヌ大修道院に滞在した。アヴィニョンから北東に40キロほどの場所にあるこの修道院ではラテン語による典礼が行われている。

中世フランス演劇研究をしている私は、「典礼劇」と呼ばれるカトリック典礼の枠組みのなかあるいはその周辺で聖職者たちによって演じられていた対話体の音楽劇に関心があった。
しかし「典礼の枠組み」と言っても、キリスト者でない私には典礼がどのようなものなのかよくわからない。ミサの式次第さえわかっていないのに、中世の典礼劇の研究するのも何かなあと思い、信者の友人の導きでラテン語でトリエント公会議で決められたやり方に沿ってミサを執り行っている聖ピオ十世会のミサに何回か出てみたりした。東京カテドラルで年に一度行われる荘厳ミサにも行ったし、フランスに行ったときは都合が合えばラテン語でミサが行われる教会に行ったりもした。
ミサについてはラテン語で行われているものに接する機会はあるのだけれど、日々の祈りである聖務日課については修道院に行かないとその様子はわからない。
今、行われているミサや聖務日課は、ラテン語で行われ、グレゴリオ聖歌が歌われていると言ってもその手順は16世紀後半のトレント公会議で定められたものに基づくもので、私が研究対象としている中世の時代の典礼とはかなり異なるのだけれど、それでもそこから中世に典礼劇が教会で上演されていた状況ぐらいは想像できるかようになるかもしれない。そうした体験があることは、テクスト読解のときに想像力を膨らます上で重要であるように私は思ったのだ。

カトリックの信者の友人から修道院泊について聞いた私は、自分もラテン語で典礼が行われている修道院に滞在して、聖務日課に立ち会いたいと思うようになった。
[ル・バルー聖マドレーヌ修道院の教会。撮影:片山幹生]

2.修道院宿泊の手順

1960年代までカトリックの典礼はトリエント公会議で決められた手順に従い世界のどの教会でもラテン語で行われていたが、第二バチカン会議以降、自国語での典礼が認められて移行、ほとんどの教会はラテン語での典礼をやめ、自国語での典礼を行うようになった。聖歌も中世以来伝えられてきたグレゴリオ聖歌ではなく、自国語の歌詞の新しく作曲された聖歌に置き換わっている。

日本の宿坊のようなかんじで外来者の宿泊を受け付けている修道院は多い。ただラテン語で典礼を行っている修道院はそんな多くはない。ラテン語で典礼というとパリとナントのほぼ中間地点にあるソレム大修道院は19世紀におけるグレゴリオ聖歌復興で名高く、外来者の宿泊も受け付けているが、今回の渡仏はアヴィニョン演劇祭、エクサンプロヴァンス音楽祭という南仏で行われる二つのフェスティヴァル訪問が予定に入っていたので、そこからわざわざソレムまで足を伸ばすはルートとしては無駄が多いように思った。

修道院宿泊はフランスではかなりポピュラーな観光(と言うのが適切かどうかわからないが)らしく、ネットで検索してみると滞在可能な修道院を検索できるページがあった。そこで出てきた修道院の情報を見てみると、アヴィニョン近郊でラテン語で典礼を行っているル・バルー聖マドレーヌ大修道院を見つけた。ちなみに外部者の修道院滞在をフランス語ではretraite spirituelleという。直訳すると「霊的な隠遁」ということになるだろうか。仏和辞典では「静修」という訳語が当てられていた。
修道院ページに「滞在」séjourというタブがあり、そこから「個人の滞在」retraites individuellesに入る。宿泊の予約は電話、FAX、メール、あるいはこのページにリンクが張ってあるフォームへ記載することでできる。フォームに氏名や到着日など必要事項を記入して送信すると、まもなく修道院の宿泊担当修道士から了解の返事が届いた。私が予約を入れたのは滞在のほぼ一ヶ月間、6/20だった。この時点では交通手段を調べていなかったので到着時間がいつごろになるかわからなかった。修道院からは「できれば扉が閉まる17時までに到着して欲しい」とあった。

3.修道院へのアクセス

7/19(木)から7/23(月)までアヴィニョンに滞在し、7/23(月)から7/25(水)までエクサンプロヴァンスに2泊した。エクサンプロヴァサンスから修道院のある村ル・バルーに行くには、またアヴィニョンに戻らなければならない。交通経路を調べて、修道院には宿泊前日にメールで25日(水)の午後2時半頃に到着すると伝えておいた。
エクサンプロヴァンスからアヴィニョンまでは90キロぐらいの距離がある。この2都市間の移動は長距離バスが安くて便利だ。時間は90分ぐらいで、運賃は18€だ。バス車両は新しくて快適だし、空いていた。アヴィニョン中央駅からカルパントラ Carpentras 行きのローカル鉄道に乗ると、30分ほどでカルパントラに到着する。ローカル線の車両も新しくてきれいだ。

[カルパントラ駅行きの列車の車内で自撮り]
[カルパントラ駅のホーム。ここがこの路線の終着駅]

カルパントラから修道院のあるル・バルー村までは15キロあるが、タクシーを使うしかない。13時半にカルパントラ駅に到着したが、修道院の受付は14時半以降なのですぐに行っても仕方ない。カルパントラの町の中心は駅からだいぶ離れた場所にあり、駅の周辺はガランとしている。駅から歩いて15分ほどのところにあるマクドナルドに入り、昼飯を取った。修道院のウェブページにカルパントラのタクシーの電話番号がいくつか載っていたので、その一番上にある名前にマクドナルドから電話した。15分ほどでタクシーがマクドナルドまで迎えに来る。
タクシーで修道院までは20分ほどかかった。タクシー料金は35€(約4500円)。修道院はル・バルー村から2キロほど離れた山のなかにある。修道院の周囲は森とオリーブ畑、ぶどう畑が広がっている。修道院には14時半に到着すると伝えていたが、15時過ぎになった。

[ル・バルー聖マドレーヌ大修道院外観]

修道院の宿泊受付は11時〜12時、14時半〜17時のあいだだ。宿泊担当の修道士が案内してくれる。

4.修道院にチェックイン

修道院には男性しか宿泊することができない。男性なら私のように信者でなくても受け入れてくれる。修道院の建物のなかは三つの領域に分けられていて、女性や宿泊者(静修のために来た者)でなくても入ることのできるエリア(修道院内の教会の身廊も含む)、修道士と宿泊者しか入ることができないエリア、修道士しか入ることのできないエリアの三つである。
私が到着したときにはガールスカウトの少女たちが数名と静修のために来たフランスからやってきた青年が一人、修道院受付にいた。彼らは自由に立ち入るところのエリアまで、私と一緒に着いてきた。静修者ための食堂まで女性も入ることができる。

[宿泊者が朝食を取る食堂。おやつの時間もここで]

部屋の扉にかける私の名札を準備するのでしばらく食堂で待っておくようにと修道士に言われ、その間に青年と食堂で話をした。彼はこのあたりの出身で子供の頃はしばしばこの修道院に来ていたそうだ。今は北フランスに住んでいる。職業は船員とのこと。ハンサムでさわやかな青年だった。この修道院には、村を離れたあとも、一年か二年に一度やって来て過ごすのだと言う。滞在日数は三泊とのこと。私は何泊滞在するか迷ったが、他の静修者に聞いたところ、二三泊が多いようだ。
静修に来るのは修道士と一般の信徒。若い人が案外多い。私の滞在中は老人はいなかった。この食堂には来たいときにいつでも来ていいそうだ。朝食の時間帯にはパンや飲み物、ジャムなど、お菓子の時間帯にはクッキーやチョコ、飲み物が置いてあるので、自分で取って飲み食いしていいとのこと。使った食器は各自が洗い、食器棚に戻しておく。
修道士は朝食は取らないので、朝食は静修宿泊者が6時〜8時半の間にやってきて、自由に取る。ただし食事中は会話をすることは禁止である。昼食と夕食は修道士たちと、修道院の奥にある別の食堂で取る。
基本的に修道院は沈黙の場所なので、他の人たちと大声でおしゃべりしたりはしない。おかし時間は食堂で他の静修者と会話可能だが、小さい声でぼそぼそとしゃべる感じだ。

宿泊担当の修道士が戻ってきた。部屋の鍵と私の名前が書いたカードを持っている。食事や祈りの時間など滞在にあたってのごく簡単な注意があった。私の部屋は二階だった。静修者の部屋はすべて個室だ。30部屋ぐらいあるようだが、私が泊まった初日はほぼ満室だった。一ヶ月前に予約しておいてよかった。シャワー、トイレは共用で、20時以降、朝の6時まではシャワーを浴びることはできない。

[部屋の扉に付けられた名札。私は聖ヤコブの部屋]

[部屋の内部]

部屋の広さは8畳ほどか。ベッドと机と衣装ロッカー、洗面台があった。簡素だが室内は清潔だ。エアコンはついていない。部屋の窓は回廊のある中庭に面している。静修中は基本的には教会で日々の祈り、聖務日課やミサに出るか、飯を食うか、そうでなければこの部屋に引きこもって静かに過ごすことになる。携帯電話の電波は弱くて不安定。修道院内のwifiは使える。ただしこのwifiは夜8時以降は朝まで電源が切られてしまう。
宿泊の費用だが、これが決まっていないのだ。修道士のほうからお布施を要求されることはない。三食付個室で、ミサと聖務日課も参席できるとなれば、それなりのお布施を置かなければ申し訳ないような気がする。
宿泊者謝礼としてのお布施は、宿泊担当修道士か門番修道士に直接渡すかそうでなければ宿泊棟の郵便受けに入れておけばいいとのこと。渡すときに修道士に「相場」みたいなものを聞こうかと思ったが、私がチェックアウトする時間帯には修道院受付はまだ開いていない。金額は迷ったが一泊あたり40€、二日で80€を封筒に入れて、郵便受けに投函した。
宿泊者はチェックアウト時に次の人のために、部屋を掃除し、ベッドのシーツを替えるルールになっていた。

[修道院内の応接室のようなところ。ここには誰でも入ることができる]

修道院というと古い石造りの建物をイメージする人がいると思うが、このル・バルー聖マドレーヌ修道院の建物は1980年代の終わりに建てられたもので新しい。建物内外とも清潔だ。


2017年7月26日水曜日

デレク・ジャーマン『セバスチャン』DVD 鑑賞(7/31月16時20分〜)

デレク・ジャーマンの『セバスチャン』(1976年、イギリス)のDVD鑑賞を以下の通り行います。
古代ローマの軍人で殉教した聖セバスチャンを主人公とする作品です。この映画の台詞は全篇ラテン語です。英語字幕での上映となります。

場所:早稲田大学戸山キャンパス34号館452教室
日時:2017年7月31日(月)16時00分〜17時40分

無料の上映会ですが、一応映画史・映像論の授業の枠組みでの上映となります。鑑賞をご希望される方は片山幹生(mikiokat@gmail.com)までに事前にご連絡下さい。



クラフトワーク 3-D THE CATALOGUE コンサート映像鑑賞会(7/29土12時より)

クラフトワークが2012年から2016年にかけて世界各国で行った、8枚のアルバムを8日間にわたって全曲演奏するコンサートの映像を鑑賞します。コンサートはBlu-ray2枚に収録され、収録時間は約5時間です。途中1回休憩を挟んでだらだらと上映します。


コンサートは3D映像で、Blu-rayも3D映像が収録されているのですが、今回の鑑賞会では2Dの上映になります。
無料ですが、鑑賞をご希望される方は事前に、片山幹生(mikiokat@gmail.com)にご連絡をお願いします。

日時:2017年7月29日(土)12時〜17時45分
場所:早稲田大学戸山キャンパス 34号館4階452教室 (スロープを上がって一番奥の建物)

このディスクについての詳細は以下をご覧ください。http://amass.jp/87728/

2017年3月15日水曜日

レンヌ・カン・パリ2017春(10)3/14

明日、水曜の午後2時半パリ発の飛行機に乗り、ドバイ経由で東京に帰る。東京着は3月16日(木)の夕方になる。
昼前には空港に向かわなくてはならないので、明日は飯を食べた後、荷造りで時間がつぶれてしまう。実質的に今日がパリ、そして今回のフランス滞在最後の日であり、旅日記もこれが最終回だ。


朝8時半に起床し、朝食を食べた後、フランス国立図書館へ行く。お土産の類を買いたかったし、本とDVDもパリにいるあいだに見ておきたかったので、14時ぐらいに図書館からでる。宿舎の近く、ショワジー門のそばにある大型スーパーでお土産用の板チョコを仕入れる。日本からフランスへのお土産もチョコ、その逆もチョコ。土地土地で色んなバリエーションがあって、かつ誰でも安心して食べることができるので、チョコは万能のお土産だ。カカオ原産地では、児童労働が問題になっていて、現地の人はチョコを口にすることがほとんどないという話をどこかで読んで気になってはいるが。フランスは板チョコのバリエーションは多く、そして安い。チョコ専門店のチョコは店によって個性があっておいしいのだけれど、やはりけっこう高い。


一度宿舎に戻り、パソコンやスーパーで買ってきた食料品などを部屋に残す。本とDVDを見ておきたかったのでサン・ミシェルのジベール・ジューヌに行ったが興味を引く本やDVDは見つけることができなかった。レアルのFNACに行ったが、やはり自分の関心を引くようなものは見つからなかった。娘のお土産で「ジョジョ」のフランス語版を2冊、そして自分の授業の教材資料としてアメリー・ノトンの日本を題材とした小説のアンソロジーを買う。DVDとしては、ジュネの『女中たち』のモデルとなったパパン姉妹の殺人事件を題材とした映画が数本あって(そのうちの一つがシャブロルの傑作『沈黙の女』)、FNACにあれば買って帰るつもりだったのだが、売れ線ぽい映画しか店には並んでいない。デレク・ジャーマンの全編ラテン語映画『セバスチャン』やオリヴェイラ『繻子の靴』も売っていないかなと思ったけれど、売っていない。

ちょっと考えてみればこうした自分の嗜好に合うものは3000円ぐらいの送料はかかるとはいえAmazonでは注文できるわけで、実店舗でぐだぐだ時間をつぶしたのはもったいなかった。娘の土産の『ジョジョ』フランス語版もノトンの小説もamazonで帰る。スーパーで買った板チョコも、買おうと思えば高くはなるけれど楽天の店や成城スーパーでは売っているらしいし。現地でしか買えないものなんてほとんどない。

せっかくフランスに来て最後の日だというのに、現地でしか買えないというわけではない買い物に時間をつぶすなんて馬鹿みたいだった。美術館にでも行っていればよかったと思う。


レアルのFNACからバスティーユに向かう。途中、マレ地区のサン=ポール サン=ルイ教会に寄った。ちょうど晩課の祈りがはじまる時間だった。身廊には5人ほどの人間がいた。教会のなかに祈りの文句が反響する。外の通りの喧騒とはまったく別の静謐な美しい時間だった。


最後の夜は、バスティーユ・オペラにバランシン振付の『夏の夜の夢』を見に行くことにした。バレエの『夏の夜の夢』を見たことはないし、バランシンの作品も見たことはない。この三月は竹中香子さんが出るギヨーム・ヴァンサンの『夢とメタモルフォーゼ』を見て、帰国後はRoMTの『夏の夜』、そしてSPACの野田版『真夏の夜』を見ることになっている。カクシンハンも同時期に『夏の夜』を上演する。そういうことなら『夏の夜の夢』のいろいろなバージョンを見比べてみようと思ったのだ。それにせっかくパリに来たのだからやはりオペラ座には足を運んでスペクタクルを見ておきたい。滞在の締めくくりにこうした大きなスペクタクルは悪くないような気がした。


バランシン版『夏の夜の夢』は信じられないくらい感動してしまった。一幕目で夢心地だった。一幕目で『夏の夜の夢』のエピソードはほぼ完結している。休憩後の二幕目は40分ほどの長さしかない。二幕目は3組のカップルの結婚式の枠組みを利用した華やかなレビューだった。しかし最後はやはり原作通り、パックのソロで締めくくるのだ。この最後の場面の緊張感に満ちた美しさには、見ていて心臓がどきどきした。いったいなんなんだ、これは!終わった瞬間、自分で自分のほっぺたを思わず叩いてしまった。バレエの良しあしを判断できるほどの本数を自分は見ていない。しかしこれはまさにその劇世界が提示するように、その夢幻的な世界のなかで陶酔に浸ることができる最高のスペクタクルだった。フランス滞在の最後の夜をこんなスペクタクルで締めくくることができて私は幸せだ。


夕食はバレエの後、宿舎の近くの料理屋で、今、パリではやっているというボブンという麺料理を食べた。ヴェトナム風まぜそばという感じである。春巻きや肉がたくさん入っている。甘酸っぱい汁をかけて、まぜて食べる。あっさり味だ。美味しかった。
今回、中華街の端に宿を取ったのは正解だった。夜遅くなると暗がりに元気な若者がたむろっていてちょっと怖い雰囲気はあるけれど、中華ヴェトナム飯は比較的安いしおいしい。サービスも早いし、一人でも入りやすい、しかもかなり夜遅くまで飯を食べられるというのがありがたい。そして私は中華街の雰囲気が好きだ。レストランで働く人たちやここらへんを歩いている人たちのどこかふてぶてしくて、自信に満ちた表情や動きが、とても好きだ。


パリにはずっと苦手意識があった。私の二回の留学先はいずれもパリだったのだが、大嫌いになってもしかたがないようなつらい出来事や不愉快な出来事が留学の最後の時期にいくつかあり、その後、二回、短期滞在したときも、フランス人相手に戦闘態勢を取らなければならないようなトラブルがあった。パリに俺は愛されていないなあと思っていた。パリはつらい片思いの相手で、こっちは大好きだって言っているのに向こうは俺に意地悪なことばかりやってくる、ということで憎悪も倍増という感じだった。今回、10年ぶりのパリ滞在だったのだが、この間にこうした嫌な記憶が自分のなかで増幅していた。だからパリに着くまえは、「またどうせ嫌なことがあるに違いない」とちょっと憂鬱で不安な気分だった。


10年ぶり、わずか6日間の滞在のパリだが、やはりパリは別格に面白い、刺激的な町だ。美術館やスペクタクルなどの観光資源が充実しているだけではない。さまざまな民族的出自の人間、そして観光客を含めさまざまなスタイルで町を歩く人たちがいて、その多様性がパリならではのダイナミズムを作り出している。いろんなタイプの人間にパリの町では出会うことができる。私の滞在した13区の中華街や昨日ヘミさんと食事をしたアフリカ系移民の多いサンドニ界隈の町の独特の風景や香り、雰囲気には、気持ちが高揚する。ちょっと緊張感を維持しつつ、互いの距離を測りながら多種多様な人間がパリでは集まり、それが町に活気をもたらしている。気取った美しさも猥雑で庶民的な親しみやすさも、そして未知で異質なものの怖さもある。メトロや街並みの薄汚れたところが実にかっこいい、これがパリだ。街角のいたるところがそれぞれの個性を主張している。落ち着いたなまぬるさがない。とんがっていて、アグレッシヴな魅力にみちている。パリにいると自分の感覚が研ぎ澄まされていくような感じがする。
ニースは気さくで親しみやすく、そして美しい町だ。しかしその感覚は20世紀はじめのベルエポックのブルジョワ文化で停滞している感じがする、パリと比べると。パリは今もなお、刷新の活力を失っていないように見える。


くそみたいに不愉快な人間に出会う確率も多いが(今回の滞在では幸いなかった)、あと私にはあんまり優しくない町ではあるけれど、パリは最高だ。この町で暮らすと言うのは特権的な体験だと思う。ああ、私もまたここで長期滞在できればなあ。




2017年3月14日火曜日

レンヌ・カン・パリ2017春(9)3/13

昼にア・ラ・プラスのチェ・ヘミさんと昼食をとる約束をしていた。フランス人の配偶者がいる彼女は、日仏を行ったり来たりしていて、ちょうど3月末までパリに滞在中だった。
午前中はルーブル美術館に行こうと思っていた。それで実際にルーブル美術館まで行ったのだが、午前10時すぎに着くと入場待ちで長蛇の列ができている。15分ほど並んだが、こんなことをしていたら時間がもったいない、ヘミさんとの約束の時間が気になって絵も落ち着ついて見ることができないと思い、列を離脱。

メトロで移動し、ジベール・ジョゼフで本を見ることにした。ダリオ・フォ『滑稽聖史劇』イタリア語版、バカロレア試験対策用のセネカ『パエドラ』ラテン語仏語対訳本、セネカ『メデイア』仏訳+解説、ダリオ・フォー『虎の歴史』仏訳、デュポン『ローマ演劇』、ブシャール『農場のトム』、マヤコフキー戯曲仏訳を購入した。


ヘミさんとの待ち合わせはメトロ4番線のシャトー・ドーの地上出口。ヘミさんのパリでの住居がこの近くにあるらしい。待ち合わせ時間5分くらい前に駅について、地上に出ると、メトロ出口付近には大量の黒人青年がたむろっている。正直なところ、やばそうで怖い感じがした。じっと立っていると彼らから声をかけられたらいやだなと思い、出口付近をうろうろする。3分遅れぐらいでヘミさんがやってきた。

「ここにたまっている、こいつら悪い奴らですか?」
「うん、悪い奴じゃない。このあたりは黒人用の美容室がたくさんあって、その客引きのためにメトロの出口で待ち構えているのよ。だから白人やアジア人はスルーで黒人女性にしか声をかけないよ」
とヘミさんが教えてくれた。後で観察してみると、確かに彼らは黒人女性がそばを通ったときに「マダム」と声をかけている。
「このあたりは黒人が多いし、ほかにもいろんな民族が入り混じっていて慣れないとぎょっとするかもしれないけれど、実は案外危なくない。日本の雑誌にも最近とりあげられていて、おしゃれでセンスのいい店も多い通りなのよ。それがわかってきたから日本人でこここらへんに住む人も増えてきた」

サン・ドニ門の近くにあるモロッコ料理屋に入った。昼のスピード・ランチが、前菜、クスクス、デザート、ミントティがついて9.8ユーロ。これは安い。ヘミさん曰く、ここらへんは物価が全般的に安いらしい。クスクスはスープをかけるタイプ。スープをかけるのがチュニジア風、数種類のスパイスとともに具材とクスクスを蒸し上げるのがモロッコ風だと思っていたがそういうわけではないみたいだ。クスクスの調理法がいくつもあるというだけの話のようだ。味はまあまあ。クスクスはどこで食べてもそこそこ美味しい。量はたっぷり。


ヘミさんにはフランスでの生活、ここしばらくの彼女の演劇活動について話を聞いた。そして昨年からヘミさんの夫がフランスを本拠地とすることになったので、今後、日仏でどうやって演劇活動と家庭生活を続けていくかという話など。3時に子供を迎えに行かなければならないというので、預けている場所まで一緒について行く。4歳と7歳の子供がヘミさんにはいて、3時に迎えに行ったのは4歳の男の子だ。人見知りで私とはあまり話をしてくれなかったけれど、実にかわいらしい子だった。


ヘミさんと別れてから、サン・ドニ界隈の道をぶらぶら歩く。こうした気取らない庶民的な町なみ、雑然としていてアナーキーな雰囲気の地区こそ、パリの魅力だと改めて思う。異質のものがとんがった雰囲気で交じり合っている。地区ごとに表情がまったく違うのが面白い。

ルーブル美術館へ。閉館が18時、その2時間前に行くと入場口は空いていて、すぐに入ることができた。ここ数年、新約聖書、聖者伝とギリシア・ローマ神話を題材にしたテクストをいくつか読んできたので、それにかかわる主題の絵画を重点的に見た。ルーブル美術館は10回目ぐらいだと思うが、そのコレクションの巨大さ、膨大な数の名画、そしてそれを収める建物の規模には毎回圧倒される。2時間だと駆け足で見て回るという感じになる。歩き回って疲れた。パリの巨大美術館は本当に疲れる。アプレイウスの『黄金のロバ』の「アモルとプシケ」の物語を読んでいるところなので、フランソワ・ジェラールのこの主題の有名な絵画を見つけた時はちょっと感動する。図像ではこれまでに見たことがあったけれど。ジェラールは、ウェヌスを嫉妬させるほどの美女、プシケーのイメージを裏切らない。マンテーニャの『聖セバスチャン』も本物を見ることができて満足。ざっと駆け足で見たが、18世紀のブーシェなどのロココ絵画に限らず、近代以前のヨーロッパ絵画に官能的な絵が多いことにあらためて気づく。


せっかくパリにいるのだから今日もスペクタクルを見に行くかとも思ったのだが、ルーブルで疲れてしまって気力がない。ショワジー大通りにある有名なフォーの店、フォー14で早めの夕食を取って、宿舎に帰った。フォー14、やはり家の近所の店のフォーより美味しかった。これでフランスで食べたかったものはほぼ食べた気がする。断食・節制の四旬節ダイエットどころか、とんでもないご当地B級グルメの滞在になってしまった。



2017年3月13日月曜日

レンヌ・カン・パリ2017春(8)3/12

日曜日。
午前中は5区にあるサン=ニコラ・デュ・シャルドネ教会のミサを見学に行った。17世紀の建築のこの教会は1977年2月に、16世紀のトレント公会議で定められたミサ形式に固執する伝統主義カトリック信者集団に乗っ取られ、以降ここでは16世紀以来のラテン語ミサが行われている。このカトリック伝統主義者集団は、聖ピオ十世会である。私の友人(日本人女性)に聖ピオ十世会に所属する信者がいて、彼女にシャルドネ教会のことを教えてもらった。聖ピオ十世会はローマ・カトリック教会からは破門されているが、最近になって教皇フランシスコのとりなしで和解の道が模索されているらしい。

カトリック教会では中世以降、ミサなどの典礼はすべてラテン語で行われていたのだが、1960年代の第二バチカン公会議で各国語でミサが行われることが認められて以降、ラテン語でミサを行うことは、全くなくなったわけではないが、きわめてまれになった。聖ピオ十世会はこの決定に反対し、トレント公会議以来のミサ形式を遵守している。東京では公民館のようなところを借りて、月に一、二度、フィリピンから司祭を呼んでミサを行っている。

この一年ぐらい中世の典礼劇に興味を持って読み始めているのだが、典礼劇の多くは典礼儀式の一部だったと考えられているので、その式次第がどうなっているのかが気になった。現在行われている典礼と中世の典礼では、伝統主義者の聖ピオ十世会のものであっても相当大きな違いがあるのだが、実際にミサに参加してその式次第や雰囲気を知ることは、典礼劇理解にとって重要なことではないかと思っている。本当は修道院の聖務日課の様子を知りたいのだけれど、とりあえず信者でなくても参席できる日曜ミサから始めてみることにした。今回は四旬節の時期のミサ典書(もちろんトレント式のミサのもの)をコピーして、シャルドネ教会のミサに参席した。しかし実際のミサは、私の持参したミサ典書のコピーに記述されない式次第も含んでいて、結局よく把握できないまま。まだまだ勉強が足りない。通常文テクストのキリエ、クレドなどは、歌えたのでよしとするか。
日曜日はこの教会では朝8時から「読むミサ」「グレゴリオ聖歌を歌うミサ」「大ミサ」と三つのミサが続くのだがその違いがわからない。私はグレゴリオ聖歌のミサと大ミサに参加したが、大ミサでもグレゴリオ聖歌は歌う。中世ラテン語宗教劇を研究していて、ミサの式次第も頭に入っていないというのはちょっと恥ずかしい気がする。また機会を見つけて出てみたい。

シャルドネ教会のミサでは少年聖歌隊が聖歌を内陣で歌う。当たり前だがすごく上手だったので「おお」と感動。


意外だったのはミサの参加者の数だ。これまでガラガラの教会しか見ていなかったし、フランスでは特にカトリック離れが激しいと聞いていたので、聖ピオ十世会というカトリックでも異端的集団のミサだけあって、ひっそりと少人数で行われていると思っていたのだ。ところがそうではなかった。10時半から始まる大ミサには、ミサの身廊の席がほぼ埋まり、おそらく1000人以上の信者が集まっていたのだ。教会の正面大扉が開かれるのも初めて見た。シャルドネ教会は、聖ピオ十世会の活動拠点であり、おそらくパリでは唯一ということもあって、熱心な信者が集まるのかもしれない。

カトリック教会は政治的保守主義と結びつくことが多いが、カトリックのなかでも急進派である聖ピウス教会もその傾向があり、フランスの極右政党であるFNの党首マリーヌ・ルペンの三人の子供はここで洗礼を受けたとウィキペディアに記述があった。マリーの父親であるジャン=マリー・ルペンも定期的にこの教会のミサに出ているそうだ。カトリック教会(に限らないか。アメリカではプロテスタント教会は保守主義に近い)が政治的保守主義となぜ結びつくのかについては、いろんな人の解説があるはずだ。以前調べたような気もするのだが、帰国したらまた調べ直してみたい。

昼食はパリで長年ガイドをやっているジュリーさんと一緒に教会近くのカフェで食べた。ジュリーさんはパリの軽犯罪情報についてツィッターで流しているのにまず興味を持ち、それからFBで交流を持ち、昨年夏に彼女が日本に来た時に会って大衆演劇を一緒に見にいった。私と同い年のパワフルな女性だ。彼女はカトリック信者なので、カトリックから見た聖ピオ十世会の話であるとか、ガイドでのいろいろなエピソードなど興味深い話をいろいろ聞いた。


ジュリーさんと別れてから、ノートルダム大聖堂とクリュニー美術館を見学し、それからRERのB線に乗ってパリの南郊外、ソーSceauxにあるジェモーLes Gémeaux劇場に芝居を見に行った。ここでカリブ海にあるフランス海外県、マルティニーク島の大作家、エメ・セゼールの『クリストフ王の悲劇」が上演されることを昨日知って、予約を入れたのだ。今日の公演が千秋楽だった。

文学者であり政治家でもあるエメ・セゼールについてはその名前ぐらいは知っていたけれど、興味を持ったのは昨年春にカリブ海文学を専門とする立花英裕先生の講演を日仏文化協会で聞いたのがきっかけだ。彼は1960年代に何編かの戯曲を書いていて、その紹介を立花先生がその講演でしたのだ。世界最初の黒人国家、ハイチ独立についての戯曲『クリストフ王の悲劇』はセゼールの代表作であり、日本語訳も出版されている。立花先生の話を聞いた後、日本語訳を読んだのだが、今回、上演を見られるのはとてもラッキーだった。日本ではまずこの戯曲が上演されることはないだろう。フランスでもそんなに頻繁に上演されるとは思えない。
マルティニークの俳優たち、カンパニーなのだろうか、数多くの登場人物がいる芝居だが俳優はほとんどが黒人だった。そしてそのフランス語も、フランスのパリのフランス語とは明らかに異なるなまりがある。上演時間は2時間40分ほど。休憩はなかった。舞台奥にはピアノ、チェロ、ベース、ドラムのバンドがいた。

ハイチ独立達成後に、民族的英雄から独裁者と変貌してしまい、その政治的矛盾のなかで窮地に陥っていくクリストフ王とハイチ民衆の姿が描かれている。フランスのことばの演劇の伝統を引き継いだような膨大なセリフ量で表現もかなり詩的だ。正直なところ、耳での理解は相当な集中力が要求され、私のフランス語力では単語や表現の意味はとれても、それを詩的に連鎖させて理解するのが追い付かない。

芝居のできは、劇評では絶賛されていたようだが、私には今一つに思えた。俳優の練度が今一つ。ここ数日のあいだにフランスで見た数本の芝居の俳優の演技の巧みさ、洗練と比べると、演技のクオリティは明らかに落ちる。俳優の練度が低くても(練度が低いは正確ではないかもしれない。表現のニュアンスが乏しいというか)それを生かす演出というのがあるはずなのだが、演出上の工夫も乏しい。
セゼールの代表作をマルチニークの俳優たち(おそらく)で見られたということは重要な経験だったが、舞台としてはあまり楽しめなかった。
観客は大喝采だった。ただフランス人の観客はどこでもなんでも大喝采しているように思える。大喝采することまで含めて楽しんでいる感じというか。ごくまれに自分たちの思っていたのと激しく異なる表現にブーイングというのがある。

夕食は近所でフォー(ではないかもしれないが)を食べる。チャーハンやおかずものは、日本の大衆中華でも食べられそうなので、パリの中華街飯はフォーを選んでおこうと思った。