2025年3月6日木曜日

2025/03/04(火)モロッコ第2日

 

朝8時に起きる。食事はリアドの一階に用意されていた。客室は2階に4部屋。朝食時に他の宿泊客にも会う。いずれもカップル(若いのと中年)でスペイン人で、フランス語は話せない人だった。


朝10時からの「文化と歴史の町歩きツアー」のグループツアーに申し込んでいた。待ち合わせ場所のフナ広場のカフェ・ド・フランス前には大勢の観光客がいて、ガイドも数名いる。しかしフランス語でのガイドに問い合わせたところ、私の名前はリストに入っていないという。昨夜のタクシーのように、また自分の予約したガイドに出会えないかと不安になった。英語のガイドのリストに私の名前が登録されていたことが判明し、英語のガイドがフランス語のガイドに交渉して、無事、ガイドツアーに参加することができた。フランス語のツアー参加者は10名くらいだった。

 




ガイドがメディナの形成やモロッコ王国について説明したあと、フナ広場を南に下って、まず観光名所のひとつバヒア宮殿に向かった。入場料は100MAD。バヒア宮殿は19世紀後半のモロッコの宰相の邸宅だったそうだ。2023年9月にモロッコで大きな地震があり、この地震のせいで宮殿内の多くの部分が修復工事中だった。宮殿のなかは観光客でかなりの人手だった。ガイドの解説付きで各部屋を回る。タイル文様と精密な漆喰細工の壁面がすごい。ガイドの解説付きでひととおり見るのに1時間ほどかかった。






バヒア宮殿のあとは、ユダヤ人地区(といっても今はほとんどいないらしい)を歩き、16−17世紀にかけてのモロッコの王朝、サアード朝の墳墓群を見に行ったが、ツアー参加者のうち半数は歩き疲れたのか、この墳墓群は見ないで出口で待っていると言う。この墳墓群の見学に参加したのは私と母親と子供二人の親子連れ、それからおそらく50代の夫婦だった。最初にトイレに行ったがこのトイレがけっこうな行列で20分ぐらいかかる。それから墳墓を見るための入場の行列があった。ガイドは自分はなかには入ることができないといって、その場から離れてしまった。出口で待つということらしい。






ところがこの行列がなかなか進まない。しびれをきらして親子連れは20分ほど並んでいたものの墳墓を見学することなく出口から出ていった。私とフランス人夫婦は30分ほど並んだ。修復の関係か見ることができたのは、黄金王とよばれたアルマン・スール王の王廟のみ。壮麗な建築だったが、中に入ることはできず、外から2分ほど眺めて、写真を撮っただけである。墳墓の外に出ると、ガイドも墳墓を見なかったツアー客もいない。フランス人夫婦は散々ガイドの悪口を言っていたが、タクシーに乗ってどこかへ行った。私も歩いて宿に戻ることにした。宿までは30分ほどの距離がある。途中、スーパーで水と簡単な昼食を買って帰ろうと思ったが、旧市街にはスーパーぽい店がないのだ。旧市街は本当にカオスで、石畳の道や広場にバイクが走り回っていて、気を付けないと危険だ。喧噪と無秩序が町を支配している。一度宿に戻って1時間ほど休憩した。





新市街にある有名観光地、マジョレル庭園とあと時間があればその近くにあるイヴ・サン=ローラン美術館に行こうと思った。歩けば35分。新市街地に向かうバスに乗って行こうと思ったのだが、フナ広場を出たところにあるはずのバス停が見つからない。結局バス路線の道筋を15分ほど歩く。疲れて歩くのは嫌だったけど。市役所前でようやくバス停を発見して、バスに乗ってマジョレル庭園の近くまで行った。近くといってもそこから12分ほど歩かなければならない。これだったら最初から歩いた方が早かった。








マジョレル庭園に行くと入場者行列が出来ていた。チケット売り場には人がいない。入り口に立っていたスタッフに聞くと、「チケットはあっちで買えば」と指さされた方向には、標識が立っていてそこにQRコードが掲示されていた。オンラインでチケットを予約購入しろということらしい。やってみると、今日の入場はマジョレル庭園、ローラン美術館ともに満員で売り止めだった。疲れているなかやって来たのになんということだ。結局、マラケシュでも人気観光ポイントは事前にチケット予約するか、高い金を払ってガイドツアーを申し込むしかないと見ることは難しいのだ。

庭園横にあったカフェに入って、これからどうするか考える。今夜は昨夜見損ねたchez Aliの食事とショーを申し込んでいる。19時45分にメディナの外側にあるホテル前で待ち合わせだ。それまで2時間半、時間を潰さなくてはならない。せっかくだからメディナのなかのスークをぶらぶら見て回ることにした。バスでメディナの西の外れにあるクトゥビア塔を見て、それからスークに行き、宿で一休みしてから、chez Aliツアーの待ち合わせ場所に行くことに決めた。

Google mapで表示されたバス停まで歩くが、やはりバス停らしき表示は見当たらない。仕方ないので路線上を歩いていると、数人の現地人が道端に立っている。聞くとバスを待っているとのこと。なんとマラケシュの市内バスにはバス停標識がそもそもないところが多いことがわかった。利用者はなんとなくその辺と考える位置に立って、バスが来ると手を上げて「とまれ」と示すのだ。

バスは超満員だった。バスは4MAD、60円ほどと安いが、こんな感じでは明日、フナ広場の外から駅までバスで行くのはやめた方が良さそうだ。モロッコのタクシーはタチが悪くて料金交渉が必要なようだが、タクシーを使うしかないか。

クトゥビア塔の近くまで来て、ベンチで休んでいると通りがかりのモロッコ人から「こんにちは、日本人?」と声をかけられたが無視をする。マラケシュには観光客はウジャウジャいるが、そのほとんどは欧米人で、東アジア人は見当たらない。フランス人よりスペイン人の方が多いような印象。

疲れてはいたがスークを30分ほど巡って宿に帰る。一日、マラケシュを歩き回ってヘトヘト。現地ガイドにはサアード朝墳墓で置き去りにされるし。しかしこの街の面白さがだんだんわかってきた。観光客で溢れていて、浅草や京都のような感じでもあるが、その喧騒と無秩序が作り出す空気ははるかに濃厚で混沌としている。

人がごった返す旧市街メディナのなかの細い路地をバイクがけっこうなスピードで通り過ぎるので気が抜けない。

マラケシュの最大の見どころは何かと言えば、それはメディナのスーク(市場)のアナーキーな賑わいだろう。マラケシュはショッピングの町だ。旧市街の喧騒と無秩序は息苦しいほど濃厚でエネルギーに満ちている。ここではよっぽどタフでないと生きていけないような気がする。

宿で30分ほど休憩してから、chez Aliツアーの待ち合わせ場所に向かった。chez Aliは、マラケシュ市街から車で30分ぐらいかかるところにあった。広大なアラビアン・テーマパークみたいなところだった。中に入ると民族衣装を着たパフォーマーに迎えられる。ツアーの参加者は私を含めて10人ほど。私は料理のコースは羊の丸焼きを頼んでいた。料理のメニューごとに、テーブルが振り分けられ、私は一人で来ているロシア人男性、お母さんとロシア人の妻と一緒に来ているスペイン在住のブラジル人の3人組と同じテーブルだった。









羊の丸焼きは、出てきたときは「おっ!」と思ったが、味は単調だし、肉はパサパサ、脂の旨味も薄くて、あんまり美味しくなかった。まあツーリストにショー見せるレストランで出す料理だから、作り手の思い入れもないだろうし、味に期待しても仕方ない。

食事のあと、30メートル×400メートルくらいある馬場で、曲馬やダンスのショーが40分ほど。映画のセットのようなアラビアンナイト風空間のスケールはすごいが、照明が暗すぎて何をやってるかよく見えない。ショーの構成も工夫がない。

TripAdvisorのような旅行者のサイトでも低評価が多いが、料理、スペクタクルともにこの内容ではわざわざ見に行くこともないかなと。客も100人くらいで広大なレストランも観客席もガラガラ。

観光と演劇の取材を念頭においてツアーに申し込みしたが、chez Aliの食事とショーはこのままでは、先は長くないだろう。帰宅は深夜0時前になった。

一日、マラケシュを歩き回って地理感覚ができてみると、昨夜、よくぞスーツケースを転がしてメディナ(旧市街)の奥にあるリアド(リヤド)まで辿り着けたものだと思う。モロッコ到着後に無事e-simが開通して、Google mapを利用できたからこそだが。Google Mapがない時代だったら、どうやって辿り着けたのだろうか。





タクシーが、遠くに降ろしやがってと怒っていたが、今日歩いてみてあの場所にしか降ろせないことがわかった。リアドはメディナのスーク(市場街)の脇道にある。道案内で金をせびってきた兄ちゃんに「小銭がない」と言ってお金を渡さなかったが、あの兄ちゃんがいなければおそらくリアドに到達できてなかった。今思うと、50MADくらい払っても然るべきだった。

古都マラケシュに泊まるんだったら当然、メディナにあるリアドだろうと思って宿を取ったが、マラケシュ初心者にはハードルが高かった。素敵なリアドだけど。

2025年3月4日火曜日

2025/3/3(月)モロッコ第1日

昨日、学生たちをニース空港で見送る。今回参加した16名のうち、1名だけは高校時代に一年間ホームステイしていたスイスに向かったが、他の15名はドバイ経由で成田に戻る。朝8時半に起床。朝ご飯はホテルで食べた。ビュフェ形式の品数とボリュームのある朝食だった。フランスの朝食はホテルでも、フランスパンとクロワッサン、それに飲み物というシンプルなものが出てくるものだと思っていたので、ちょっと驚く。ホテルは空港からトラムで3駅のところにある大型のホテルだ。朝食から部屋に戻ると、帰国の途についた学生から成田に着いたという連絡がLINEで入っていた。

今日の夕方16時10分発の飛行機でマラケシュに向かう。ホテルのチェックアウトの時間は正午までだったので、ギリギリまで部屋にいた。朝食でお腹いっぱいになるまで食べたので、昼食は抜くことにした。夜はマラケシュで食事付きのスペクタクルを予約していて、かなりボリュームのある食事が出そうな感じがした。またeasyJet機内で一回食事がつくと記述してあったような気がした(これは勘違いで、機内では食事は出なかったのだが)。

スーツケースを預ける開始時刻は14時だったので、それまでは空港のカフェで時間を潰した。チェックインはすでにしてある。冬の今の時期は通常、モロッコとフランスの間には時差がないのだが、日曜日にラマダンが始まってからはモロッコの時間がフランスより1時間遅くなる。マラケシュ到着予定時刻は現地時間で18時15分となっていた。食事付きスペクタクルの迎えの時間は20時だったので、飛行機が多少遅れても間に合うと思っていた。




飛行機は18時30分頃に空港に到着する。入国審査とスーツケース受け取り、両替を終えて、空港出口に出たのが18時50分ぐらい。予約していたタクシーが迎えに来ているはずだが見当たらない。19時15分まで待っていたが、結局私を迎えに来ているはずのタクシーが見つからないので、その場でタクシーチケットをあらためて購入して、空港待機のタクシーに乗った。すると乗って2分ほどしたところで、予約したタクシーの運転手からメッセージが入る。いったいどこで何をしていたのだ、こいつは?

宿泊しているリヤドはメディナの中にあるから車で行くことができないと、メディナから15分ほど離れた場所でタクシーを降ろされる。Google Mapを頼りにリヤドを目指すが、案の定道に迷う。暗くてどの道に入ればいいのかよくわからない。メディナの路地をうろうろしていると、若者が声をかけてきて、案内してくれた。もちろん単なる親切ではなく金を要求されたが、小銭がないと言うと、諦めて帰って行った。





食事付きスペクタクルの迎えの車の運転手からはWhatsAppで電話がかかってくる。予定時刻には待ち合わせ場所に行けないので私を置いてレストランに行ってくれ、と伝える。「後で現地で合流できるか?」と聞くと、「もちろん。店のドアの前で待っている」との返事。

リヤドの受付はゆったりで20分ぐらいかかってしまった。食事付きスペクタクルの店、Chez Aliを検索すると、宿泊しているリヤドから歩いて15分ほどの距離にあると出てきた。これなら車でわざわざ行くことはないじゃないかと思って、チェックイン後、Google Mapを頼りに歩いて行くが、途中数百メートルにわたって、照明のない真っ暗なスークの中の道を歩かなければならず、かなり怖かった。そしてGoogle MapでChez Aliとなっている場所に着いたのだが、そのあたりを何度ぐるぐる回ってもそれらしき店はない。そのあたりにいた人、何人かに聞いたが誰もChez Aliを知らない。いったいどうなっているのだ?と思っていたら、なんとスペクタクルの行われるレストラン、Chez Aliはここから数キロ離れた場所にあることが判明した。Google MapのChez Aliは同名の別の店なのだ。スペクタクルの店に行くにはタクシーか何かを利用する必要があるが、どこでタクシーを拾えるのかもわからない。あとでわかったが私は、スークの中で迷っていたのだ。代金は支払い済みだったが、結局スペクタクルはあきらめて、宿のほうに戻ることに。あの真っ暗な道を歩くのはいやだったが、しかたない。昼を抜いていたので、お腹がペコペコだ。時間は21時半を過ぎていた。Google Mapで近くにあって、評価の高いレストランを探し、そこに入る。牛肉とプルーンとアーモンドのタジンを食べた。お茶と水込みで110ディルハム、だいたい10ユーロ。おいしかったが腹一杯という感じではない。






雨が降り始めていた。とりあえずリヤドに戻る。到着早々、モロッコに振り回される。早速モロッコの洗礼を受けた感じだ。

2025年3月3日月曜日

ニース研修2025 03/02(日)第16日 最終日

 2025/03/02(日)第16日 最終日

今日、学生たちは帰国の途につく。ただし16名のうち1名だけは、高校時代にホームステイしたスイスに向かい、1週間滞在してから帰国する予定だ。

私は学生たちを空港で見送ったあと、ニースにもう1泊滞在し、明日3日(月)の夕方の便でモロッコのマラケシュへ向かう。

Annickの風邪はかなり辛そうだった。モロッコ行きの便の都合でニースに1泊多く滞在する必要があることは、だいぶ前から分かっていた。1月初め、私はAnnickに「次のステイの予定がなければ、50ユーロ払うので1泊延泊させてくれないか」と頼んだところ、「料金は不要、泊まっていい」と快諾してくれた。

ところが渡航前日に、「日曜からイタリア人の子どもを2人預かることになったので、ソファベッドで寝てもらってもいい?」という連絡が来た。少し迷ったが、一泊だけ他の宿を探すのも面倒なので、「迷惑でないならソファベッドで構わない」と返事をした。

ところが金曜の午前中にAnnickから再度メッセージが入り、「子どもたちが安心できるよう、やはり日曜には出て行ってほしい」とのこと。直前になって何なんだ、とは思ったが、向こうがそう言う以上仕方がない。「わかった。日曜朝に出て、適当なホテルに泊まる」と返したものの、やはり少し嫌な気分だった。



浴槽の修理代は金曜に現金で渡したが、それも何かしこりになっていたのかもしれない。いずれにせよ、こうなった以上、多少費用がかかってもホテルのほうが気楽だ。Booking.comで空港近く、1泊60ユーロの安ホテルを予約した。Annickの家には今回で3回目の滞在だったが、次に来ることがあっても、もう泊まらないだろう。

こういう関係の切り方に見える、フランス人特有の合理主義的な態度は、これまでにも何度か経験している。もちろん、日本人同士でも似たようなことはあるが、フランス人はより露骨に、ざくっと関係を断ち切る傾向が強いように感じる。

今日は学生を空港で見送ったあと、空港からトラムで3駅の場所にある安ホテルに移動した。

学生たちは行きと同じエミレーツ航空で、ドバイ経由で成田に向かう。日本到着は3月3日17時。ドバイで日本行きの便に乗るまでは、団体行動をお願いしておいた。




見送りは午後1時半ごろに終わり、ホテルにチェックインしたあと、近くのカザフスタン料理店で昼食を取った。注文したのはラグマンという麺料理。美味しかったが、こういうB級グルメでも13ユーロ(約2000円)してしまう。

昨夜のレユニオン料理も美味しかったが、言ってみればカレーライスのようなもので、それに15ユーロ(約2300円)支払わなければならない。日本は本当に外食が安い国だと実感する。高田馬場ならあの料理が1000〜1500円で食べられるだろう。



今回のニース語学研修旅行は9回目の実施だった。物価高や円安、航空運賃の高騰もあり、コスト削減のため、学校近くの契約カフェテリアでの食事を省き、学校主催の近隣へのエクスカーションの申し込みも見送った。

管理部門のエリックがとりわけ冷淡だったのも、このコストダウンが影響していたのかもしれない。滞在中に何度か顔を合わせたが、今回は「ボンジュール」と挨拶した程度だった。

遠足はすべて私が計画し、引率した。思っていたより交通費がかさんだのは誤算だった。美術館の入場料も値上がりしている。ただ、自分で引率したことで、学校スタッフがルーチンでこなすだけの遠足より、ゆったりと充実した時間が過ごせたように思う。

この研修は、毎回平穏無事に終わることがない。
今回は、二人の学生を受け入れるのに一つのベッドしかない家庭があり、現地で調整して別のホスト家庭を手配させた。また、男子学生二人が朝食を食べられていない件が発覚し、家庭訪問や学校への厳しいクレーム対応を行い、学校の管理部門との関係がぎくしゃくした。

さらに、自分自身が浴槽で転び、壁から浴槽が剥がれてしまい、修理対応をめぐって大家と気まずくなったり、学生がiPhoneをすられて警察に同行したりと、滞在中はトラブルが続いた。

こうした問題対応は確かに面倒でストレスも大きいが、それでもフランス的な現実に向き合うことで、自分の経験値が上がっていると感じる。この研修を続けているおかげで、フランス語力の維持にもなっているし、旅行計画や手配の経験は、自身の調査・研究にもおおいに役立っている。

現地のリアルに向き合っているからこそ、教室でも自信を持ってフランス語を教えられる面がある。フランス語で生計を立てている以上、面倒でも自分に必要な研修機会だと思っている。もちろん、気分転換になるし、楽しいこともたくさんある。

学生と離れ、やりきった解放感と満足感は大きい。ただ、論文がまったく進んでいない。これが憂鬱だ。科研費の不採択も、心にずっしり重くのしかかっている。

明日からはモロッコ。純粋な観光の一人旅ではあるが、この状況では勉強も少し進めなければと思っている。

ニース研修2025 3月1日(土)第15日

 2025/03/01(土)第15日

明日は帰国日なので、実質的に何もできない。今日は日中、昨日観光案内所で確認したサン=ポール・ド・ヴァンスへの遠足だ。希望者のみの参加としたのは、連日の授業やイベントで疲れている学生や、最終日はショッピングを優先したい学生もいるだろうと思ったからだ。
もし誰も参加希望者がいなければ、一人でイタリアのサンレモにでも行こうかと考えていたのだが、5人の参加希望者がいた。
午前9時にニース駅に集合し、3駅先のカーニュ=シュル=メールで路線バスに乗り換える。このバスの情報は、公共交通機関を管轄するLignes d'Azurのウェブサイトでは見つけられなかった。カーニュからサン=ポール・ド・ヴァンスまではバスで25分ほど。道中、徐々に坂道となる。
村に行く前に、手前のバス停から徒歩20分ほど山道を登り、マーグ財団美術館へ向かった。Maeghtと綴って「マーグ」と読む。1964年、出版社・画商・画廊オーナーだったマーグ夫妻が設立した美術館で、規模こそ大きくないものの、ジョアン・ミロ、アレクサンダー・カルダー、フェルナン・レジェ、ジョルジュ・ブラック、アルベルト・ジャコメッティ、マルク・シャガールといった20世紀前半の巨匠たちの超一級の作品が厳選されている。
これまで何度も訪れているが、改めて素晴らしいと美術館だと思った。1965年の建造物なので、天井が低いのがちょっと難点だが、野外風景と野外彫刻の調和やゆったりとした作品配置など。午前10時の開館直後に入場したこともあり、人も少ない。こんな傑作群を、こんなにゆったりと味わう機会は滅多に得られるものではないだろう。






その後、サン=ポール・ド・ヴァンスの村へ。コート・ダジュールに点在する「鷲の巣」村の一つで、丘の頂上に要塞化した石造りの村が広がる。坂道ばかりのエズ村と異なり、城壁内は比較的平坦だ。
20世紀前半には多くの芸術家が滞在し、シャガールが最期を迎えた地でもある。村を囲む墓地には彼の墓があり、そこからの眺望が素晴らしい。
村は30分もあれば一周できるほどの広さ。まずはクレープ屋で昼食。外のテラス席で食べたが、少し寒かった。フォワグラとイチジクのジャムのガレットを頼んだものの、味は普通。観光客向けのレストランという印象だ。ガレットはもともとブルターニュ地方の素朴な軽食で、正直、積極的に食べたいほど美味しいものだと思ったことはない。
食後にシャガールの墓を訪れ、村をひと回りする。今回は6人と人数もほどよく、動きやすかった。





村の中心にある城塞跡は現在、役所と博物館になっており、その隣にはベルギー出身の画家ジャン=ミシェル・フォロンが内装を手がけた礼拝堂がある。ぜひ見せたかったが、14時まで昼休みだったため、ここで一度解散し、14時半に城壁外で再集合することに。礼拝堂を見たい人には14時に来るよう伝え、私は向かいの教会で休憩していた。
14時、礼拝堂の再開時間になっても鍵を管理する博物館は閉まったまま。「あと10分で戻ります」とのメモがドアに貼られていた。5人のうち3人が来てくれ、少し待つとスタッフがコーヒー片手に戻ってきた。
フォロンの展覧会は日本でも何度か開催されていて、私も以前に見たことがある。淡いパステルカラーが印象的な、可愛らしい絵を描く画家だ。この礼拝堂では、オレンジとレモン色を基調にしたモザイクで、奥にサン=ポール・ド・ヴァンスの遠景が描かれていた。



15時前のバスで村を後にし、16時頃ニースに戻る。
水曜に財布をすられた男子学生は今日は自宅待機。鍵を持っているルームメイトは遠足に参加しているため、彼は一人で外出できない状況だ。スマホがないので居場所の確認も難しい。家のタブレットで連絡を取り合い、16時にFNACで合流することにした。
夜はカーニバルの最終日で電飾パレードもあったが、チケット確認が不十分だったため、自然消滅的に中止に。楽しみにしていた学生には申し訳なかった。結局、男子学生2人と一緒に過ごすことに。
FNACで無事合流したものの、すぐに「部屋の鍵をちゃんとかけたか不安なので戻ります」と言い出した。FNACから家までは徒歩20分。
「部屋の鍵なら大丈夫じゃない?貴重品もないだろうし」と言ってみたが、盗難に遭ったばかりでナーバスになっており、一度確認したいとのこと。MONOPRIXの2階で再集合することにして、私は免税手続きを済ませる。
対応してくれた黒人の若い女性スタッフは初めての手続きだったらしく、40分もかかってしまったが、最後に「長く待たせてしまって本当にごめんなさい」と謝られ、気持ちが和らいだ。
MONOPRIXで再合流し、お土産用のチョコレートを購入。時刻は17時半。ニース城山へ日の入りを見に行くことにした。
エレベーターは既に停止しており、急いで登ったので汗だくに。日の入りには間に合ったものの、雲が地平線を覆っており、夕日はその中に沈んでしまっていた。それでも、夕暮れの街並みを一望できたのは満足だった。

夜は学校近くのレユニオン料理店へ。5〜6年前、学校長に連れて行ってもらった店で、気になっていた。予約なしで入れるか不安だったが、19時過ぎに行くと準備中。30分後に再訪し、無事入店できた。
「初心者なので、典型的なレユニオン料理をお願いします」と頼む。前菜はサモサと餃子風の揚げ物、豚の血と脂の腸詰めブーダン。メインはココナッツソースの鶏、豚のマサラ、仔羊のカリー。ご飯に野菜や豆の副菜を添え、メインをかけて食べる、まさにご飯がすすむ料理。実に美味しかった。






感じの良い店員さんとも写真を撮り、常連客とも会話が弾み、楽しい夜となった。
22時半からの王と王妃の焼却と花火は、疲れすぎて諦めるつもりだったが、食後にちょうどいい時間になり、浜辺まで出ることに。
海岸は大勢の人で賑わい、燃やす儀式は遅れて23時頃に始まったが、少し遠くて見づらかった。花火は20分ほど続き、ニース滞在の締めくくりにふさわしい夜となった。
帰りは疲れ切ってUberで帰宅。深夜0時半、大家のAnnickは風邪で寝込んでいた。

ニース研修2025 02/28(金)第14日

 2025/02/28(金)第14日

昨年の夏、精魂込めて作成した科研費の申請が不採択であることを確認し、大きく落ち込む。人生、思い通りにならないものだとはわかっているが、今回ばかりは本当に悔しい。20人もの研究者を巻き込んだ大規模なプロジェクトで、意見の調整を含め、申請書執筆には、膨大な時間と労力を注いできたからだ。他にも自分が研究分担者として参加していた申請がすべて不採択だったことも判明した。来年度はおとなしく、ひっそりと過ごすしかなさそうだ。
締切が今日の論文は、絶望的に進んでいない。他にもやることは山積みだ。そもそもマルチタスクが苦手なのに、今はマルチタスクを強いられている状況。
今日は語学学校の最終日。明日は終日フリーなので、もともとニースから15キロほど東にある鷲の巣村、サン=ポール・ド・ヴァンスへ行くつもりだった。ところが昨日、旅程を確認したところ、Google Mapで表示されたバス路線が、ニース近郊の公共交通を担うLignes d'Azurの公式サイトには見当たらない。iOSのマップでは全く別ルートが表示されるが、それだと山道を40分歩かなくてはならない。他のサイトでも調べてみたが、土曜日にニースからサン=ポールまで公共交通で行けるのか、はっきりしない。
サン=ポールは知る人ぞ知る名所で、ニース近郊でも人気の観光地だが、年々アクセスが難しくなっている。私が語学研修を始めた10年前は直行バスがあったが、いつの間にか廃止され、乗り継ぎも年々変わっている。行きづらいほうが観光地化が進まなくていい、という面もあるが。
サン=ポールが無理なら、列車一本で行けるグラースに行こうかとも考えた。ただ、20年ほど前に友人の別荘で食事をしただけなので、土地勘がない。
観光案内所で確認すると、カーニュからサン=ポール行きのバスは確実にあることがわかった。グラースへの行き方も尋ねると、列車よりバスを勧められる。「なぜバス?」と聞くと、「駅が町の中心から遠いから」とのこと。確かにフランスの駅は町外れにあることが多い。
少し考え、サン=ポールに行くことに決めた。実は、もう一つ気がかりなことがあって気分が晴れなかったが、それはまた別の機会に書こうと思う。





正午に学校に着く。今年は14人のクラスで、担当はブランディーヌ。上のクラスに進んだ2人はニコラのクラスだった。ブランディーヌが日本人グループを担当するのはこれで4回目。初級のクローズドクラスは、できれば彼女にお願いしたいとリクエストしている。
初級クラスといっても、イタリア人やスイス人相手のクラスと、日本人だけのクラスでは雰囲気がまったく違う。ブランディーヌは日本人学生の特性を理解し、柔軟に対応してくれる。以前、別の先生が担当したときは、日本人の気質に配慮がなく、怖じ気づいてしまう学生もいた。ブランディーヌなら、みな安心して授業を受けられる。
ニコラは私自身がこれまで何度も受講してきた先生で、発想が豊かで、生徒の発言を拾って授業を展開する柔軟さがある、優れた語学教師だ。人間的にも信頼している。今回の学生たちは、先生に恵まれていたと思う。


Azurlinguaの講師陣は良いのだが、運営面は仲間内のなれ合いが目立ち、問題が多い。改善の兆しも見えない。今回はホームステイの手配や連絡でかなり厳しくクレームを入れたので、運営スタッフとはギクシャクしている。責任者のエリックは、私とまともに話そうとしない。だが、仲良くなったところで対応が良くなるわけでもない。こちらからきちんと主張しなければ、察して動いてくれることはフランスではまず期待できない。
昼休みにブランディーヌやニコラと写真を撮り、昼食はケバブサンドで済ませた。
午後のマントン遠足には、これまで何度も学生を預けているイザベルさんも参加。午前中に「私もマントンに行っていい?」と連絡があり、「もちろん」と返した。今、お願いしているステイ先の中で、最も長く付き合いがある。コロナで研修が中止になった3年間に多くの家庭がホストをやめてしまったが、イザベルさんは続けてくれている。
60代の陽気な女性で、フランス人には珍しく、裏表のない善意そのもののような人。彼女の家なら安心して学生を預けられる。
彼女とは学校で何度か会った程度だが、FBではつながっている。ちょうど滞在時期が誕生日に重なるので、昨年と今年はお礼を込めてチョコレートを贈った。それもあって、今回会っておきたいと思ってくれたのかもしれない。昨年は食事に招いてくれたが、体調が悪くて行けなかった。


マントンはイタリア国境近くの町で、ニースからは列車で40分ほど。コート・ダジュールの町はそれぞれ美しい旧市街を持っているが、私は特に、斜面に広がり海を望むマントンの旧市街が最も美しいと思っている。建物が重なり合う様子や、漆喰の壁の色合いの調和が見事だ。
マントンでは、ニースのカーニバルと同じ時期にレモン祭が開かれる。ニースのように山車のパレードがあるが、マントンでは特産のレモンやオレンジの実で作られたオブジェが並ぶのが特徴だ。最初の頃はパレードの日に訪れていたが、近年は混雑を避け、パレードのない平日に訪れるようにしている。
まず観光案内所前の公園に展示された、高さ6〜7メートルほどのレモンとオレンジのモニュメント群を見学。数年前まではこの果実モニュメントの展示も有料だった。
その後、市役所にあるジャン・コクトーが内装を手がけた結婚式ホールの見学を試みたが、今日は結婚式が入っており見学できず。フランスでは土曜日に結婚式が多いと聞いていたので油断していた。昨年、初めて見学して感銘を受けた場所だけに残念だった。
マントンの街には、元教会を改装した劇場や古い映画館、コロニアル様式の豪華ホテルなど、趣ある建物が点在している。
市街地を抜けて港近くにあるコクトー美術館へ。コロナ前から本館は老朽化で閉鎖されたままで、現在は旧城塞を改装した小さな別館のみが営業中。日本の二階建て一軒家ほどの広さで、こぢんまりとした美術館だ。
「18人で入れますか?」と尋ねると、「団体が入っているから15分ほど待って」とのこと。待ってから入場し、1時間の自由時間を取って、港から少し内陸に入った小さな広場で再集合することにした。




広場では大道芸人が「マントンの双子」という演目で、銅像のように静止するスタテュの芸を披露していた。
美術館には10分ほど滞在し、その後イザベルさんと旧市街を散策。丘の斜面に広がる旧市街の都市空間の美しさと眺望は、何度訪れても心から素晴らしいと思う。






マントンからニースに戻ったのは18時頃。夜はLGBTQ+の人々によるカーニバル「Lou Queernaval」を観に行く予定で、20時半にマセナ広場近くのマセナ食堂に集合していた。
夕食は部屋でスーパーで買ったサラミとポテチだけで済ませた。昼のサンドイッチがボリュームたっぷりで、空腹を感じなかったからだ。
会場に着くと、すでにLou Queernavalは始まっていた。初めて学生をニースに連れてきた2015年から欠かさず見物しているカーニバルで、当初はLGBTQコミュニティによる自主的なお祭りだったが、年々認知度が高まり、今では公式プログラムとして紹介されている。
巨大な山車や人形のパレードはなく、移動ステージや広場中央で踊るLGBTQ+の人々を眺める形式だが、次第に熱気が高まり、やがてマセナ広場全体が観客も巻き込んだダンス会場と化す。自由で緩やか、でもその解放感に満ちた熱狂は心地よい。
私は、型通りのスペクタクルになっている公式カーニバルより、ゆるくて自由でアナーキーな雰囲気のLou Queernavalの方が好みだ。




22時には切り上げて帰るつもりだったが、スマホをすられた学生がはぐれてしまった。スマホがないので連絡も取れず、会場は人でごった返し、しかも暗くて誰が誰だかわかりづらい。
彼一人を放置して解散するわけにはいかないし、もしすでに自力で帰宅していたとしても、それを確認するまでは動けない。ちゃんと集合場所を決めておくべきだったと後悔していたところ、幸いにも20分ほど探して無事に発見できた。
女子学生を送り届け、家に帰るとすでに深夜0時だった。