帰国日。朝7時15分に起きた。ホテル一階のレストランに8時前に行くが、食事を取っているのは2組だけだった。朝食はバイキング形式だったが、肉っぽいものがなくて、昨夜のイスファールの残り物という感じだった。これで9ユーロは高すぎる。昨夜のうちにスーパーでなにか買って、部屋で食べていればよかったと後悔する。モロッコで食べた美味しかったものといえば、初日の夜にマラケシュで食べた牛肉とプルーン、アーモンドのタジンか。弓井さんの唐揚げとドリアも美味しかったが。あとはつい手を出してしまったマクドナルドのチーズバーガー。豚肉がないのは仕方ないとして、羊肉を出す店が案外ないのは意外だった。
閑人手帖 Blogger
2025年3月15日土曜日
2025/03/11(火)モロッコ第9日 帰国(3/12)
2025年3月11日火曜日
2025/03/10(月)モロッコ第8日
父の友人の画家がモロッコに何十年か前に旅行したとき、スケッチを始めたら人だかりができて、やいのやいの色々言われたり、ガキどもにちょっかい出されて大変だったという話を聞いたことを思い出す。
カサブランカ行きの列車は09時40分発だった。早めに駅に到着しておきたい。宿泊しているリヤドから駅までは3キロほどの距離がある。
チェックアウト前夜に、リヤドの若女将(?)のオマイマさんに「明日は0845には宿を出たい。朝飯を0815にできないか?」と聞くと、「調理の人の都合で0830にしか用意できない」と言う。「マジ?それじゃ、私は朝飯抜き?」と言うとすまなそうな顔をしていた。
「駅へのタクシーの手配はどうする?」と聞かれて、「ブルーゲート前に、プティタクシーがたくさん停まってるから、それを使えばいいだろ?」と言うと、「私にはわからない」との答え。ちょっと考えて、駅へのタクシーの手配を頼むことにした。
彼女はすぐに車の手配のため電話をしたが、150ディルハムだと言う。宿にタクシーの手配を頼むと割高になるのは仕方ないとは言え、ここにくる時は100ディルハムだった。
「高い。100ディルハムしか払わないと伝えてくれ」と言うと彼女はまた電話で先方と話し始めたが、何を言われたか知らないけどシクシクと泣き始めてしまった。
若い女性が目の前で泣いてしまうとこちらも狼狽えてしまう。
「いいよ、150で。その代わり9時きっかりにここに迎えに来ること、それから明日の朝は8時半きっかりに朝飯を出してくれ」と言った。
8時半に飯は出た。タクシーではないけど、駅まで私を届ける車も待機していた。
フェスからカサブランカまでは列車で4時間弱。カサブランカで一泊して、明日、日本行きの飛行機に乗る。
フェスからカサブランカへ移動。モロッコ国鉄の料金は謎でフェス→カサブランカは300キロ以上あって3時間50分なのに89ディルハム、だいたい9€なのに、ラバトからフェスに行ったときは3時間弱の行程で120ディルハム。そして明日、利用するカサブランカから空港までは30分で80ディルハムである。いずれも一等車の料金だ。座席が一番快適だったのは、一人独立席だった今日の列車だった。コンパートメントは知らない人と長時間、個室で向き合うことになるので、あまり快適ではない。
モロッコは概ね交通費はかなり安いと言っていい。 タクシーがどの町でも大量に走っていて、すぐにつかまる。料金は市内移動だとたいてい15ディルハム(1.5€)以内だ。タクシーが準公共交通機関として機能しているとも言える。
カサブランカには13時30分に到着した。ホテルは駅から500メートルほどの大型チェーンホテルを予約していた。モロッコ最終日はちょっとゆったり過ごしたかったのだ。清潔で、広くて、機能的で快適な部屋だった。これで50€は安く感じる。
カサブランカはモロッコ最大の都市だが、観光の見どころは乏しい。私の旅行ガイドブックのバイブル、Routardによると観光的には1993年に完成したハッサン2世モスクだけ押さえておけばいい。このモスクは非信者でも入場可能なモスクだが、ガイドブックを読んでも、モスクのページを見ても、開館時間がはっきりわからない。ラマダン中は開館時間が短くなっている可能性もある。ガイドツアーも探したのだが、私の列車の到着時間で申し込めるツアーはなかった。
ホテルの部屋に荷物を置くと、すぐにタクシーでモスクに向かった。モスクの敷地に入るには、モスクに併設されている博物館でチケットを購入しなくてはならないようだった。チケット売り場に着いたのは14時30分頃だった。
しかし今日は14時で最後の見学ツアーは終わりだと言われてしまう。ただ博物館のチケット売り場前のロビーにいれば、15時半になると無料で開放され、中に入れるとのこと。いったいどうなってるのかよくわからなかったがせっかく来たので、15時半までそこにいることにした。
ガイドに率いられた団体客が何組か、その後、モスクの敷地内に入場していったが、ロビーで待っている個人観光者は私だけ。そのうち博物館のチケット売り場スタッフがいなくなり、他のスタッフが博物館の出入り口を閉めて、入って来ようとしている個人観光客を追い返したりしている。
自分がここにいていいのか?、15時半になったら無料で入れると言うのは聞き間違えだったのか不安になった。
団体客のガイドが私の隣に座って、日本語で話しかけて来たのでびっくりした。日本に数年住んだことがあるという。トルコで日本語が巧みなトルコ人に絨毯を買わされそうになった経験があるので、多少、警戒しつつ、そのガイドと日仏語を交えて話をした。今日は日本人団体客をここに案内したそうだ。高齢の女性を中心とした団体だった。
アジア人の観光客をモロッコでは見かけないと何日か前に書いたが、昨夜のレストランと今日の列車の中には若い女性二人組の日本人観光客がいた。50後半のおっさんが話しかけるの警戒されて気まずい思いをするのではないかと思い、あえて話しかけなかったが。ガイドによると、コロナ前に比べると少なくなったが、ぼちぼち日本人観光客も増えているとのこと。流暢な日本語だった。単に暇つぶしで私と話をしたかったようだ。
15時半になると、博物館のスタッフが「今から中に入れるから」と私をモスクの敷地内に入れてくれた。いったいどういうシステムなのかさっぱりわからない。ただモスクのなかには入れなかった。外からなかを覗くだけ。ホテルに帰ってから調べてみると、1時間ごとにガイドツアーがあって、そのガイドと一緒でないとモスク内に入れないらしい。その最後のガイドツアーが今日は14時だったということのようだ。
モスクの敷地は9ヘクタール、ミナレットの高さは200メートルあってアフリカで最も高いらしい。現代の建造物だが、イスラム・モロッコの伝統的な工芸様式を取り入れた壮麗でスケールの大きい建造物だった。
とりあえずカサブランカで見るべきものは見た、モロッコ旅行の締めくくりにはなったと思い、満足する。
モスクから海岸沿いの道を30分ぐらい歩いて、カサブランカのメディナに向かった。今日は風の強い日だった。そのせいもあるのか、大西洋の海の波は荒々しかった。モスクのミナレットは大西洋のなかに突き出るように建っている。
カサブランカのメディナも面白かった。壁にさまざまなオブジェや絵を雑然と引っ付けた現代アート風の一角があった。
昼飯抜きだったので、早めの夕食を取りたかったけど、Routardで紹介されている良さげな店の多くはメディナにあり、Google MAPでは「営業中」になっているけど、実際はみんな休みだ。ラマダンの時期に、日が出ているあいだに、まともなレストランが営業しているわけではない。
いったんホテルに戻って、また日が暮れたあとに飯屋を探そうかと考えた。モロッコ最終日なので、ちょっと奮発して美味しいものを食べたかったのだ。しかしホテルに戻ると再び外に出かける気がなくなってしまった。
疲れているので面倒になって宿泊しているホテルのレストランのイフタール(ラマダンの断食明けの飯)定食というやつにした。バイキング形式で14€くらいだが全然美味しくない。激しく後悔。しかしフロアを一人で担当している黒人の青年は一所懸命サービスしているので、まあいいかと。 モロッコでは本場の最高に美味しいクスクスとかが食べられるのではないかと期待していたのだが、食に関しては、全般的に不味くはないんだけど、すごく美味しいと言うものもなかったな。味付けがみんなぼんやりという感じで。
2025/03/09(日)モロッコ第7日
2025/03/09(日)モロッコ第7日
フェズの西方、車で60分ほどのところにある古代ローマ遺跡ヴォルビリス、モロッコ最初のイスラム王朝が築かれた聖都ムーレイ・イドリス、そして17-18世紀の首都だったメクネスをマイクロバスでまわるツアーに参加した。18ユーロという格安のツアーだった。個人で公共交通機関を使って行くとなると日帰りでこの三カ所を回るのは難しいだろう。
圧巻だったのは、2-3世紀のものだという古代ローマ遺跡、ヴォルビリスだ。最盛期には2万人の人口があったと推定される。古代ローマ帝国はこんな遠方の西の果てにまで、このような文明都市を築いてしまうのだから驚くべきものである。1時間ぐらいしかいられなかったが、もう1時間ぐらいはいたかった。
モロッコ・イスラム王朝の最初の都市、ムーレイ・イドリスは見晴らしのいいところから写真を撮っただけ。斜面に形成された建物群が作り出す風景は見栄えがする。ムハンマドの血統である王朝の始祖イドリス一世(?-793)の墓所があり、モロッコでは聖都とされる町とのこと。ここに限らずモロッコの古い市街地はピトレスクで、インスタ映えする場所が至る所にある。都市景観の美学という点では、19世紀後半から20世紀初めにかけてのイタリアやフランスをも凌駕しているとさえ思える。むしろイスラム世界の都市が、地中海沿岸の南ヨーロッパの都市のモデルだったのかも知れない。モロッコは街歩きが楽しいところだ。
17-18世紀の王朝の首都メクネスはかなり大きな都市で見どころはいくつかあったのだが、昼飯を食べていると実質的な観光時間は1時間ちょっとになってしまい、結局さっとメディナの入り口付近を回っただけで終わってしまった。
ラマダン中なので、日中は観光客向けレストランしか開いてない。メクネスのレストランで、前菜はハリラ(豆のスープ)、メインはパスティーヤを頼む。パスティーヤは薄皮の肉まんみたいなもの。鶏肉のミンチが入っている。正直、不味くはないけど、美味しくもない。ミンチ肉はパサパサで、味はあんまりしない。ボリュームはある。 観光客向けレストランだからこんなものなのか、それともどこで食っても同じようなものなのか。 ハリラや付け合わせの野菜のほうが美味い。
朝9時半にフェズを出て、17時半に戻る。 ガイドの青年はフランス語があまり得意ではなく、けっこう一生懸命サービスはしていたのに、フランス人観光客に嫌味を言われていてちょっとかわいそうだった。いいやつだったけど。マイクロバスには12人くらい乗っていて、半分がフランス人、残りはスペイン人と英国人。アジア人は私一人だった。
フェズでの最後の飯は、宿泊先のリヤドの近くにあるレストランで、モロッコサラダと鶏肉のタジン、オリーブとレモンソースを食べた。ここのモロッコサラダは量が多くて、見栄えがいい。タジンも美味しかった。が、昨年からモロッコに住んでいる横田さんが言うように、モロッコで美味しいのは野菜と果物、料理では前菜に出てくるハリラ(ひよこ豆のスープ)かモロッコ・サラダというのは、確かにそうかもなあと思った。レストランといえばモロッコ料理店しかなくて、メニューも値段もそれほど変わらない。多分どこのレストランでも味もそんなに変わらないのではと思う。味付けはパンチに乏しく、ビックリするほど美味しいわけではない。クスクスとか本場モロッコだとさぞかし美味いに違いないと思っていたのだが、ニースのモロッコ料理店の方が私には美味しかった。あるいは江古田のモロッコ・スペイン料理店アランダルースのほうが美味しいとも。 店の雰囲気は確かにモロッコ現地ならではというのはあるが。
私が信頼するフランスのガイドブック、Le Guide du routardに掲載されていた店に行きたかったのだが、メディナの中の位置情報は、Google Mapはかなり頼りにはなるけれど、ちょくちょく不正確なところがあって、たった400メートルほどの距離なのにたどり着くことができなかった。 今夜行った店はGoogle Mapでは、4.9という高評価の店だった。うん、モロッコサラダは確かに他の店で出て来たのとは一線を画していた。
2025/03/08(土)モロッコ第6日
ラバトからフェスに移動する日。ホテルのチェックアウト時間が正午だったので、移動日の朝は時間の余裕が欲しくて、列車は11時27分発の列車を予約していた。フェス着は14時20分。フェスでは旧市街のリヤドに泊まる。マラケシュでの経験があったので、リヤドに迎車を要請していた。100dhmと高めだが、旧市街のリヤドまでの送迎だとこれくらいが相場のようだ。
朝起きるとちょっと吐き気がする。お腹の調子がおかしい。下痢だった。嘔吐はなかったものの、3回ほどトイレに。力も出ないし、眠い。出発時間を遅くしていてよかった。朝、シャワーのお湯が止まらないというトラブルもあった。これはホテルのスタッフがすぐに解決してくれたが。胃腸薬とあとむかつきがあったのでガスター10を飲んだ。下痢症状は治まったが、軽い吐き気と倦怠感はある。
フェス行きの列車はコンパートメントの窓側だった。スーツケースを頭上の棚に上げるのに苦労する。向かいに座ったイギリス人の観光客の男は足をこっちに伸ばしていて、感じが悪い。フェスに着くまでの3時間弱、体力回復のため、寝ていた。
フェスで迎えの車はすぐに見つけることができた。天候は雨。メディナの入り口にリヤドの人が迎えに来ていた。しかし案内されたのは、予約していたのとは別の宿だ。予約していた宿の施設で問題が起こったので、宿を変更して欲しいとのこと。私の予約していたリヤドはBooking.comでは高評価ではあったが、私の宿泊直前に宿名が変わり、またもとに戻るという不可解なことをしていた。そして急な宿変更。持ち主は同じらしい。いまさら違う宿を探せと言われても困る。受け入れるしかない。Google Mapでリヤドの評価を見ると、私の一週間前に泊まった人も、同じように到着後に宿を変更させられたと書いてあった。なんかきな臭い。
今回のリヤドはマラケシュのリヤドより狭かった。リヤドの若女将は若い女性で、感じのいい人であった。年齢を聞くと23歳だという。いとこが日本人女性と結婚して東京に住んでいるとか。
16時に町歩きガイドを予約していて、リヤドに迎えに来ることになっていたので、そのガイドの会社に電話してもらい、リヤドが変更になったことを伝えてもらった。16時5分ごろにガイド登場。もともとは日本語のガイドがいるということで関心を持ち、68ユーロというかなり高いガイドツアーに申し込んだのだが、ガイド会社からは昨日夜に、日本語ガイドが用意できない、英語ガイドでいいか?という連絡が入った。何と言うことだ。英語では困る、日本語ないしフランス語ができるガイドでない場合は返金を要求すると返事したところ、フランス語ガイドになった。私と同じ年くらいの男性である。
メディナ内の立派なリヤドや9世紀に設立された大学などに連れて行ってもらったが、あいにくけっこうな雨のなかの散策で、メディナの迷路のような町のなかも暗く、どこがどこか今ひとつつかめない。ガイドツアーの説明には他のガイドと違って、このツアーではお土産物屋に連れて行くようなことはせず、文化・芸術・歴史に絞ったツアーだと書いてあったが、このガイドはアルガンオイルなどの香料の店、スカーフなどの織物製品の店、そして革製品の店に連れて行った。
アルガンオイルは買わなかったが(けっこう高価だったし、そもそもどういうものか私は知らない)、スカーフを二つ、そして革製品の店で赤い皮のハーフコートを購入してしまう。赤い皮のコートはいいものがあれば買って帰りたいなとは漠然とは思っていた。値段はしかし550ユーロ、8万円近くする。これでもがんばって値切ったのだが。こんな高い服は買ったことがないのでかなり迷ったのだが。革製品の店の店員は、コソッと「ガイドには5000ディルハム(500ユーロ相当)で売ったことにしてくれ。クレジットカードは5000で請求する。そして俺に現金で300ディルハム払って欲しい」と言う。やはりガイドへのマージン支払いの契約があるのだ。それで了承すると、カードケースをおまけしてくれた。
けっこう疲れていたが、朝昼抜きのラマダン状態なのでお腹はペコペコだ。お腹の調子もどうやら大丈夫そうな感じである。宿のお姉さんに近くにあるモロッコ料理の店を予約してもらう。暗い路地の奥にある店で、大衆的な店かと思えば、中に入ると壮麗で巨大なリヤドを改装した店だった。その内装と空間の贅沢な使い方には圧倒される。料理はここでもクスクスを注文する。前菜はハリラ(ひよこ豆のスープ)。それに果物とデザート、ミントティがついて20ユーロ。モロッコ値段としてはちょっと高めかもしれない。場所はすごかったが味はふつうだった。
2025/03/07(金)モロッコ第5日
2025/03/07(金)モロッコ第5日
今日は日帰りでモロッコの北端、大西洋と地中海の境界、アフリカとヨーロッパの境界の町、タンジェに行った。ラバトからは新幹線で直通と聞いたのだが、ONCFのサイトで調べるとRabat-Ville駅からケニトラという駅まで鈍行、そこでTGVに乗り換えという切符しか出てこない。おかしいなと思いつつ乗り継ぎのチケットを購入したのだが、あとになってRabat-Villeではなく、Rabat-Agdalなら直行があるような気がしてきた。調べて見ると果たしてそうだった。Guide du routardにもRabatからとしか書いていなかったので気がつかなかったのだ。30分ほど時間を損したことになる。まあしかたない。
ケニトラで私の乗る新幹線の車両は11号車だったのだが、ホームのどのあたりで待っていればいいのかわからない。ホームにいた地元民っぽい女性に聞いてみると、彼女もわからないという。でもなんとかなるもんだと。まあなんとかなるんだろう。なんとかなったが、とりあえず乗車してから車両を移動して自分の座席にたどり着くのはけっこう大変だった。8時17分の列車でRabat-Villeを出て、Tanger-Villeに着いたのは10時過ぎだった。
駅から旧市街までは3キロほどの距離がある。駅前からタクシーに乗った。相乗りタクシーで、メーターは回さず30MAD請求された。Grand Soccoというメディナの入り口の広場に降ろしてもらう。この広場には、シネマ・リフという1938年に開業した映画館があり、タンジェのシネフィルの拠点として知られている。アニエスbが運営に協賛していて、洒落たデザインの赤いTシャツが売られているということで、そのTシャツを買う気満々だったのだが、ラマダン中で休みだった。
タンジェの歴史は紀元前1200年頃のフェニキア人の入植に始まるという。交易・軍事上の要衝として古代以来、現在に至るまでローマ、カルタゴ、モロッコ王朝、16世紀以降はヨーロッパ列強など様々な勢力がこの町を支配したが、1925年に永世中立の国際都市となり、1956年モロッコの独立によりモロッコ領となる。海岸を見下ろす斜面に形成された旧市街の規模は1キロ平方ぐらいではないだろうか。ラバトよりも小規模だ。
私が信頼するフランス語のガイドブック、Guide du routardの記述では旧市街の見所としては、カスバ美術館・博物館がまず挙げられていたので、まずそこに向かった。カスバ美術館・博物館は、土地の歴史や風俗に関わる事物を展示するいわゆる博物館と現代美術を展示する美術館の入り口が、隣り合った建物の別々にある。Routardでは博物館をより強力に推していたので、そちらから入ることにした。展示されている事物はまあふつうの博物館で、歴史的コンテクストなしで見てもどう見ていいのかわからないような感じではあったが、古いリヤドをリニューアルした内装の装飾は、どこも似たようなものだとはいえ、素晴らしい。
博物館・美術館の前には、メディナのなかの高所に建てられたSalon bleuという白と青の外観と内装の洒落たカフェがあって、そこで昼飯を食べようと思ったのだが、博物館を出てそのカフェのテラスを見ると誰もいない。まだ開いていないようだ。ホテルに朝飯はついていなかったので、チョコレートをかじったぐらいでほぼ朝飯抜きの状態なのでお腹が空いていた。ラマダン中はメディナのなかのレストランは休業のところが多い。とりあえず現代美術館のほうに入って時間を潰すことにした。現代美術館はキューバの現代作家の展覧会をやっていたが、お腹が空いていてちゃんと絵を見る気分ではなかった。現代美術館に入るときにもチケット代を払ったのだが、そのチケットで博物館のほうも見ることができるという記述があった。博物館で購入したチケットにもその記述はあったかもしれない。30ディルハム、500円弱、損をしてしまった。
現代美術館を出ると、Salon Bleuのテラス席に客がいるのが見えた。開いているようだ。ところがこのSalon Bleuの入り口がなかなか見つからない。入り口は美術館に向き合ったところではなく、裏手に回ったところにひっそりとあった。細長い建物で一階が調理場、二階がトイレと会計の場所、三階の細長い空間に3組ほどテーブルがあり、その上のテラス席にはテーブル席が3つぐらいと6人ぐらいが座れる長椅子のカウンター席があった。このテラスからメディナと海を一望できる。モロッコサラダ、オレンジジュース、チキンのクスクス、そしてミントティを注文した。味はまあふつうか。クスクスも味付けは薄めで、スパイスもそんなに効いていない。フランスだと唐辛子ペーストのアリッサがつくことが多いのだが、モロッコではアリッサは供されない。頼めば出てくるのだろうか? ミントティはミントの葉がいっぱい入っていて美味しかった。
モロッコはどこでも猫が多いのだが、このレストランのテラスにも猫が登ってきて、子猫は何度もおかずを取ろうとする。猫に引っ掻かれたり、噛まれたりして、ひどい病気になった人がいるという話を横田さんから聞いていたので、猫には触らないようにしているが、ここの子猫は追っ払うのがちょっと大変だった。
食事のあと、博物館の裏のカスバ地区を歩く。casbahは仏和辞典では「アラブ諸国の首長の住む城,またはその周囲の町.」(『ロベール仏和大辞典』)、「(北アフリカで君主の)城, 館; 城塞」(『ロワイヤル仏和中辞典』第2版)と定義されていて、これは間違いではないのだけど、現用ではLe Petit Robertで派生的な意味とされている「casbah(アラブ諸国で君主の城塞)の周囲に広がる旧市街」という意味で使われている。旧市街を指すmédinaは、仏和辞典では「メディナ⦅北アフリカのイスラム教徒居住地⦆」(プチ・ロワイヤル仏和辞典、第五版)となっているが、これは誤った定義といってよく、Le Petit Robertの「北アフリカにおける都市の古い部分(ヨーロッパ風都市 ville européenneに対して)」という定義が実態に沿ったものだ。メディナには実質的にイスラム教徒しか住んでいないにせよ、住民の属性によってメディナが定義されるわけではない。Wikitionnaireにはもっと簡潔に「Vieille ville des villes du monde arabe.アラブ世界における都市の旧市街」と定義されている。要は実態としては、médina旧市街の特に旧要塞の周辺部分をcasbahと呼んでいて、その一帯はメディナの他の地域とは異なる特徴的な住居の様相がみられる。カスバはメディナのなかでもより絵画的な面白さのあるところでもある。
タンジェのカスバはごく狭い区域なのですぐに通り過ぎてしまった。カスバの出口にはこの町出身の14世紀の偉大な旅行家、イブン・バットゥータの博物館があったが、Routardの評価は★一つだったので見送ることにした。今思えば見ておけばよかったと思ったが。タンジェのカスバから歩いて15分ほどのところにあるフェニキア人の墓地を見に行く。海を臨む岩のがけにいくつものくぼみがあり、そこに遺体が安置されていたらしい。
現在修復工事中の1913年にオープンしたセルバンテス劇場を外から眺めたあと、流しのタクシーを捕まえてラバトに戻った。ケニトラで鈍行に乗り換えだったが、帰宅ラッシュと重なってえらく混雑していた。Rabat-Ville駅の近くにはマクドナルドがあった。海外では現地の食べ物を食べる、マクドは食べないことを原則としていたが、モロッコ料理は食べたくない気分。マクドに引き寄せられてしまう。結局、マクドナルドでダブルチーズバーガーとフィレオフィッシュを購入して、ホテルの部屋で食べた。しびれるほど美味しかった。
2025/03/06(木)モロッコ第4日
2025/03/06(木)モロッコ第4日
今日はラバト観光の日とした。こちらの時間の午前11時に、観光演劇学の打ち合わせがZOOMであるので、それが終わってから出かけることにした。今、泊まっているホテルは朝食がついていない。ホテルは駅のすぐ近くで、レストランやカフェは何軒もあるので、ラマダン期間とはいえ観光客向けの店で朝食は取ることができるかなと考えていたのだったが甘かった。マラケシュとは全く状況が異なる。水や食料品を売っているキオスクは開いていたのでそこでポテトチップスを購入し、ポテチと水の朝食とした。ニースで買ったチョコレートも食べた。熱いコーヒーかお茶が飲めないのがちょっとつらい。
午前11時のZoom打ち合わせまで、終わっていない八老劇団についての原稿を書こうと思っていたのだが、気持ちがそっちに向かない。ラバトの観光コースなどを調べているうちに11時になる。打ち合わせは30分ほどで終わった。
ラバトの見所は町の北にあるウダイヤのカスバとそれに隣接して広がるメディナだ。カスバはアラビア語では城塞の意味だが、今では城塞とその周辺の古い住宅地域を指す名称だ。仏和辞典をひくと、kasbah < casbaで「(北アフリカで君主の)城, 館; 城塞」としか記されていない。メディナは仏和辞典ではmédina「メディナ⦅北アフリカのイスラム教徒居住地⦆」(『プチ・ロワイヤル仏和辞典』第5版)となっているが、そういった地域を指す用例もあるのだろうが、「旧市街」と訳すのが適切だろう。
カスバとメディナは隣接している、というよりメディナの一部の地域をカスバと呼んで区別するほうが正しいのかもしれない。しかし同じ旧市街でもその様相はかなり違う。ウダイヤのカスバまでは、私のホテルからは3キロほどあった。ラバトでは日常の足で、準公共交通機関となっているというタクシーを利用してみることにした。駅前に何台もタクシーが停まっている。そこをうろうろしているとタクシー運転手から声をかけられた。メーターは回さない運転手だったが、「メーターを回してくれ」とは言えなかった。20MAD請求されたが、まあそれくらいならかまわないかと思い、支払った。
カスバのなかはちょっと傾斜がある。白壁の低層住宅が重なり合うように建っていて、迷路のような町を形成していた。コートダジュールでは漆喰の壁はオレンジ系のパステルカラーに塗られるが、カスバの住宅の壁は太陽光が当たるとまばゆい白壁だ。そしてこの白さを保つため、定期的に塗り替えが行われているはずだ。白壁と窓の格子戸の青、そして空と海の青のコントラストが美しい。コートダジュールの旧市街もウダイヤのカスバもおよびメディナも、その都市構造や景観の構成の原理はおそらくそんなに変わらないだろう。どちらも城壁に囲まれ、建物を密集して建てることで数多くの路地が錯綜する。コートダジュールの町の旧市街の風景も美しいが、モロッコのカスバ・メディナの都市景観のセンスは19世紀のヨーロッパ人に十分比肩するものだ。むしろイスラムの都市が、コートダジュールの町のお手本になっているのかもしれない。
カスバの外側には広大な墓地が広がっている。カスバは海辺の高台に形成されていて、そこから見る海の景色がたまらない。人はあまりいなかった。静謐で美しいカスバの町歩きと海の眺望を堪能したあとは、カスバの坂道を下り、旧市街へ。食事を取ることができればと思ったが、あらかじめチェックしていたメディナのなかのレストランは開いていない。しかたない、昼飯抜きだ。メディナを抜けて、ハッサン塔とムハンマド五世の霊廟に向かおうとしたところで、メディナの中にある「世界の人形博物館」を見に行く予定だったことを思い出した。メディナのなかにまた入って、15分ほど歩かなければならないが、歩き疲れてはいたけれど戻って見に行くことにした。
「世界の人形博物館」はメディナの奥深くにひっそりとあった。伝統的な建築物が博物館になっている。人形は100ヶ国以上のものが3000体あるという。コレクションはマリオネットのような人形劇用の人形ではなく、1950年代から60年代にかけてフランスで人気だった高さ20センチほどのサイズのフィギュアというのだろうか、展示用の人形だ。人形の多くは民族衣装を着ている。切符を売っていたのは手が揺れているおじいさん。彼は私が見て回っているあいだにもいろいろ気になるらしく、時折説明してくれた。私が館内を回っている途中でそのおじいさんが何か私に言ったが、よくわからなかった。館内をゆっくり回って、入り口に戻ると30歳くらいの女性とその母親っぽいマダムが受付にいた。どうやらこのマダムが人形のコレクターらしい。この二人に人形博物館を見た感想を伝えた。人形の衣装にそれぞれの民族の特質が凝縮されている。それぞれの民族の美学、美意識がその衣装から感じ取ることができるのが素晴らしい。そしてこの素敵な古民家の空間でこれらの膨大なコレクションを見られることの楽しさ、ディスプレイの素晴らしさを称賛した。実際、これだけの数の人形がそろうと相当なものだし、それらの見せ方もしっかり計算されている。おじいさんにせよ、マダムとその娘にせよ、この私設博物館のスタッフの人形愛の深さを感じとることができた。
人形博物館のあとは、またメディナを抜けてハッサン塔とムハンマド五世の霊廟まで歩く。20分くらい。ハッサン塔は高さ40メートルくらいだが、80メートルの高さで完成のはずだったとのこと、途中で中断されたままになっているという。霊廟は近衛兵たちに守られていたが、中を見ることはできる。内装の装飾は見事ではあったが、新しいモニュメントにはそれほど惹かれない。
ラバトの見所として、Le Guide du routardの評価が高い、古代ローマ遺跡、シェラを見に行くことにした。ムハンマド五世の霊廟から歩けば40分ほどかかる。流しのタクシーをこの付近では走っているのを見かけないので、Careemという中東地域で普及しているUberのようなサービスを使ってみることにした。もう一つIn Driveというのがあるが、Careemはカードで決済できるのでより便利だ。5分ほどで車がやってきた。
シェラの遺跡は、古代ローマ遺跡がまずあって、さらに13−14世紀にその跡地にマリーン王朝が墓所を建設した。そのスケールは壮大ではあるが、14世紀以降はうち捨てられていた場所だ。ローマ遺跡には床に見事なモザイク画の装飾があったそうだが、それらは引き剥がされ、現在では博物館に展示されているという。観光客はここでも多くはなかった。巨大な鳥がこの遺跡内には多数いて、遺跡の上に巣を作っていた。調べて見るとcigogne(コウノトリ)だった。300羽ぐらいいるらしい。
Chellahの遺跡で1時間ほど過ごした後、いったんホテルに戻る。遺跡からホテルもCareemを使った。18時に横田/弓井さん宅に招かれている。ホテルから彼らの住んでいるところまではトラムで行ける。トラムの駅でチケットを購入しようとしていると、二人のガキどもがまとわりついてきた。「向こうへ行け!」と日本語で怒鳴ったが、ケラケラ笑っている。気分が悪い。
横田/弓井さん宅での食事には、日本大使館で横田さんの同僚で、この三月で退職する一等書記官、清水さんという方も招かれていた。私とはもちろん初対面。モロッコ大使館に勤務する前は、コートジボワール大使館に勤務されていたという。横田さんのような不器用そうな若者を優しく受け止める度量がある人なんだと思う。西アフリカとモロッコの言語事情など、いろいろ話を聞いた。オープンでほがらかで気持ちのいい人だった。
今回のモロッコ行きは、横田・弓井さん一家が、ラバトに昨年から住んでいたからこそ、実現した旅行である。海外に在住している方のところに、日本から知人がのこのこやって来るというのはしばしば迷惑な話だと思うが、仕事やまだ小さなお子さん2人の子育てがあるなか、私を温かく迎えてくれた横田・弓井さんにはとても感謝している。
フランス語教員をやっているのでフランス語圏のいろんな国や地域に行ってみたいと思っていて、モロッコにも漠然と行く機会があればなあ、とは思っていた。しかしモロッコは日本から遠いので単に「行ってみたいなあ」という気持ちだけでは、具体的な旅行計画に結びつかない。横田・弓井さんがモロッコにいる、モロッコで生活する彼らに会ってみたいというのが、今回の私のモロッコ行きを後押しした。
横田さん、弓井さんは、私とはたぶん20歳近く年が離れていて、日本にいるときも日常的な付き合いがあるというわけではないのだが、知り合ってからはかなり長い。二人とも演劇関係のつながりで、弓井さんとは彼女が座・高円寺アカデミーに所属し、大道芸のスタッフをやっていたときに知り合ったのだと思う。2010年くらいだ。この頃は娘や息子を連れてよく大道芸を見に行っていて、娘が高円寺大道芸のスタッフをやっていたこともあった。昨日、そのときの話になって「あの頃、弓井さんを見て『なんて可愛らしい人なんだろう!妖精みたいじゃないか!』と思ったよ」というようなことを言ったのだが、二人の子供の母親となった今ももちろん可愛く、美しい。私が編集スタッフをやっていた『観客発信メディアWL』で「弓井茉那のドイツ劇場研修日誌」という連載記事を書いてもらったこともあった。https://theatrum-wl.tumblr.com/.../%E3%83%89%E3%82%A4%E3...
横田さんは、特殊かつユニークな前衛的な演劇の作り手でもあり、彼を知ったのは、彼の演劇作品を板橋ビューネで見たのが最初のきっかけだったように思う。横田さんはフランス演劇の研究もしているので、私がお願いして日仏演劇協会の理事をやってもらったこともあった。横田さんはSPACで裏方の技術部門(間違っているかも)で何年か働いて、そのあと東京と京都の商業演劇関係の裏方をやったあと、在日本フランス大使館の海外アーティスト・レジデンスである京都のヴィラ九条山の施設管理者として何年か働いた。
そのあとに横田さんはモロッコで昨年から働くことになった。単身ではなく弓井さんと子供2人もモロッコで住むと知ったときは、かなり驚いた。フランス語圏とはいえ、モロッコは未知の国で、生活習慣などについては参照できる経験もなく、まだ小さい子どもを連れて暮らすなんて!すごいやつだなあと思った。それを受け入れる弓井さんもすごい。
モロッコにも前から何となくは行きたかったが、私としては2人からモロッコでの生活のリアルについて話を聞きたいというのも大きかった。
二人ともすごく不器用な生き方をしている人のように思える。あえていばらの道を突き進むというか、選んでしまうというか。こんな二人がモロッコという異国、異世界で格闘しながら生きていることに、ちょっと感動している。すごいなあと思う。
こうしてモロッコで二人に会えてよかった。