2024年2月29日木曜日

2024/2/28 ニース第12日

今日は午後に学校主催のイベントがない日だった。私の企画で午後はイタリアとの国境の町、マントンに行き、夜は旧市街のケバブ屋で飯を食べた後、カーニバルのCorso carnavalesque illuminé、イルミネーションされたパレードを見に行くことにした。
午前中、Azurlinguaに行く前にカーニバルチケットを購入する。立ち見席で7ユーロ。Azurlinguaに到着したら、事務所に寄って昨日ようやく受領したTGVのe-ticketを印刷してもらった。SNCFのe-ticketは送られて来たpdfを印刷することが前提となっているのだ。
カフェテリアの昼飯はコウイカの煮込み(フリカッセ)とパスタにした。コウイカの煮込み、見た目は美味しそうだったが味付けがしょっぱすぎる。あきらかに塩を入れすぎ。
ニースからマントンまでは鉄道で30分ほどである。地中海を臨む高台の斜面に形成されたマントンの旧市街は、私が訪れたことのあるコートダジュールの町のなかで、最も優雅で、ダイナミックで、美しいと思う。二月の後半はレモン祭の時期だが、平日水曜の今日の午後はパレードなどのイベントはない。マントンにはこれまでレモン祭のパレードのある日曜に行っていたので、いつもすごい人混みだった。今日はパレードがない平日午後なので、ほどよい賑わいだった。
マントン駅を降りてすぐのところにあるビオヴェス庭園ではレモン祭の時期には、大量のレモンとオレンジを使って作られたモニュメント像の展示が行われている。これまで私が行ったときにはこのレモンとオレンジのモニュメント像の見学は有料だったのだが、今年は無料開放されていた。30分ほど、モニュメント像が並ぶ公園を自由に散策する時間を作った。このモニュメント像の展示には毎年テーマが設定され、それに沿った像が造られるのだが、今年のテーマはオリンピックだった。
今年の七月末から八月はじめにかけてパリでオリンピックが開催される。このため夏のバカンス時期のフランスのホテル代は高騰していて、通常の数倍となっているところもあるらしい。ニースは夏にはバカンス客が殺到する都市だが、オリンピックの余波でこの夏はいつも以上に大量のバカンス客が訪れることが予想されている。Azurlinguaも夏のバカンス時期は近隣諸国からバカンスを兼ねて、語学研修をやりたいという人たちによるかき入れ時なのだが、今年の夏はすでに各ホームステイ先に受入可能かどうかのアンケートが入っているそうだ。この夏は滞在費も航空運賃も高騰不可避のようで、フランスへの旅行はほぼ無理だろう。円安も今後どれくらい進行するのだろうか? 円安の進み具合では来年はこのニース研修も実行が難しくなるだろう。
平日午後にマントンに来たのは初めてだったので、今回ようやくマントン市役所にあるジャン・コクトーによって装飾された結婚式ホールを見学することができた。このホールは平日の16時までしか一般開放していないのだ。フランスでは市役所や区役所には必ず結婚式を行う部屋が用意されているらしい。https://info.ensemblefr.com/mariage.html
マントン市役所の結婚式ホールの見学は有料でひとりあたり1ユーロだった。普通に役所で執務している職員に見学を申し込む。ホール見学にあたって日本語の解説録音があったのには驚いた。ここを訪問する日本人観光客はこれまでどれくらいいたのだろう。マントンを訪れ、さらにこのホールにやって来る日本人観光客はそんなに多くないはずだが。私たちがホールを見学している最中に、ホール内にあるスピーカーから日本語による解説が流れた。10分ぐらいの充実した内容の解説だった。学生たちの大半はコクトーの名前も知らなかったと思うが、鑑賞のためのよいガイドになったと多う。
ジャン・コクトーの絵については、私はこれまで油絵の自画像ぐらいしか記憶がない。結婚式ホールの装飾画は壁面と天井一杯に描かれていて、オルフェウスとエウリディケなど神話的題材に基づく簡素にデザイン化された装飾性の高い、軽やかな画風の作品だった。コクトーは詩人、劇作家、小説家、映画監督、そして画家など、多領域でセンスのよい秀作を残した芸術家だが、あまりに才能が多領域過ぎたためか、器用ななんでも屋のアーティストみたいな感じで、一流ではあるけれど、「通」好みではないというか、軽んじられているような感じがある。来日したこともあり、そのときに見た相撲や歌舞伎について海外の芸術家らしい視点から面白いエッセイを残している。その圧倒的な多才ぶりと軽やかさで生涯の最後まで幸せに、面白おかしい人生を過ごした人なんだろうなと思った。
コクトーの結婚式ホールのあとは、コクトー美術館「防塁」館へ。海岸沿いの防塁を美術館として利用している。マントンにはコクトー美術館本館も「防塁」館から百メートルほど離れた場所にあるのだが、こちらは数年前に台風かなんか浸水してからずっと「臨時閉館」中だ。本館ははじめて私がマントンに来た8年前に一度だけ見たことがある。ディアギレフのロシア/バレエ団公演のためも舞台美術のスケッチなど私にとって興味深い展示が数多くある美術館なのだが。「防塁」館に入るのは今回がはじめてだった。80平米ほどの広さのフロアの小さな美術館だった。黒字の画用紙にパステルで、イタリアの伝統的仮面喜劇、コメディア・デラルテに登場する恋人を描いたシリーズ、《innamorati》「恋人たち」のシリーズが展示されていた。
コクトー美術館「要塞」館を30分ほどで出て、1時間ほど自由な散策時間を取った。このあいだにマントン旧市街を散策した。地中海を臨む斜面に形成されたマントンの旧市街は、コートダジュールの街の中で最もダイナミックで優雅で美しい地域だと私は思う。この時期のフランス/イタリアの都市景観美に対するセンスは驚くべきものだ。
鉄道でニースに戻ったのが18時半。それから旧市街でケバブを食べてから、ニースのカーニバルのメイン・プログラムの一つである「イルミネーション・パレード」Corso carnavalesque illuminéに向かった。
ケバブ屋は私の大家が先日絶賛していた店だ。レバノン人がやっていて、レバノン料理も出す。レストランというよりは軽食堂といった感じ。11人の学生を連れてきたが、外食のときの学生たちのモタモタぶりが気になってしまう。確かに外食は、実はこうしたローカル軽食堂ほど、独自の注文プロトコルがあって戸惑うことは多い。慣れの問題であり、ある程度場数を踏まないとスムーズにはいかないだろう。
女子グループ三人組が早めに食べ終わったのでいったん家に戻ってから、カーニバル会場で合流するのでもいいかと聞いてきた。カーニバル入場までの時間つぶしもかねてこの軽食堂にはいったのに、なんでまた20分ちかくかけて一度家に戻ったりするんかな、20分もすればカーニバル会場に行くのに、と思ったが、あとで聞くとトイレに行きたかったらしい。フランスでは清潔で誰でも使える公共トイレが日本よりはるかに少ないので、トイレ問題は重要ではあるが、飲食店には必ずトイレはあるし、そこの客は当然トイレを利用する権利がある。彼女たちはこのケバブ屋にトイレがあるとは思っていなかったとのことだった。このケバブ屋、町中の軽食堂ではあったが、トイレは広くて清潔だった。
ケバブが売りの店だが、レバノン人がやっているのでレバノン料理のメニューもあった。私はケバブではなく、レバノン料理の定食を食べた。野菜類のおかずが数種類入っているし、ボリュームもある。味もよかった。しかしワン・プレートのこの料理が、円安の今では2700円という値段になる!!!! 東京でこんな場所でこのクオリティの大衆飯がこの値段というはまるあり得ない。円換算するとフランス外食は「ぎゃっ!」と叫びたくなる。
「トイレ離脱」した3人とは、混雑している上に暗いカーニバル会場では再会できないのかと思ったら、奇跡的(でもないのか)に会場で落ち合うことができた。Corso illuminéは、大音響の音楽のなか、巨大でグロテスクな人形を乗せた山車がパレードするというもの。予定開始時刻は8時半だったが、実際には8時50分ぐらいから山車が動き始めた。
明日は学生たちは朝から授業があるので、夜10時頃に切り上げる。野外で立ったままのパレード見物だったが、幸い、夜も気温が下がらず、寒い思いをしなくてすんだ。学生一人がパレード最中に体調不良になる。ガンガン響く低音に気持が悪くなったとのこと。ちょっと心配だったので、家近くまで送り、そこからUberを呼んで自分の滞在先に戻った。Uberは便利。呼び出して一分ほどでやって来た。




2024年2月28日水曜日

2024/2/27 ニース第11日

 例年、学生を連れてのこの語学研修では滞在先はニースだけにしていた。参加する大半の学生たちにとって初めてのフランス滞在なのでパリに行きたいという思いはあるとは思うのだが、パリでの日程を加えると費用が高くなってしまうし、パリへの移動や滞在先の手配を私がやることが大きな負担になるからだ。ニース滞在だけなら、滞在先は学校が確保してくれる。週日の午前中は学校でフランス語の勉強、午後と週末は遠足と観光で、滞在時間を有効に使うことができる。

前回夏にニース研修を実施したときにパリ滞在を希望する学生が何人かいて、それで今回は「お試し」みたいな感じでパリ滞在を入れてみた。パリを入れたほうが学生が集まりやすいかなと思ったというのもある。しかしパリでの宿舎の確保と予約、そしてニースからパリへの移動手段の確保は、私個人でやるのはやはり予想したとおり、けっこう大変な作業となった。

ニースからパリは国内線を利用するという手もある。LCCなら安い値段の航空券があるのだけど、荷物の重量やキャンセル・変更などの条件が厳しくなる。毎回ニース行きで使っているエミレーツ航空はエコノミーの受託荷物の重量制限が30キロと緩いのだが、それでも例年、荷物が重すぎる学生が必ず出る。そういうことを考えると、航空機でのパリ移動は回避したほうがいいかなというような気がした。また軽めの乗り鉄である私は、TGVに乗ってパリに移動してみたかったというのもある。TGVには私は長らく乗っていない。

フランス国鉄SNCFのサイトを調べたところ、10名以上なら団体料金ということで、思ったより安くニースからパリにTGVで行くことができることがわかった。それで昨年12月のはじめに13名分のパリ行きのTGVのチケットを予約して、これでパリまで移動できるか、とホッとしていたのだった。

SNCFの団体旅行予約サイトからは、乗車の一週間前に乗客の人数分のe-ticketsがメールで送られてくるということだった。今週末、3/2(土)にニースを発つので、本来なら2/24(土)にはe-ticketが私のメールアドレスに届くはずだ。それが届いていない。問い合わせ先アドレスに土曜夜に問い合わせメールを送ったところ、「問い合わせ、確かに受領しました」という自動返信メールしか返ってこない。「週末だから、担当者が休み?」(よく考えたら鉄道会社でそんなことないだろとは思うが)と思い、週明けの月曜になったがやはり返事もないし、e-ticketsも届かない。そして今日、火曜日の午前10時を過ぎてもSNCFからの返信はなかった。

これはメールを出しても無駄だと思い、ニース駅に直接出向いて問い合わせることにした。予約票・領収書はメールで受領済みであり、プリントアウトしていたので、それを見せたらすんなりチケットが発券されると思っていたのだが....

駅の問い合わせカウンターで予約票を示して事情を説明すると、スタッフが端末に予約番号と私の名前、電子メールアドレスなどを入力したが、なぜか私の団体チケットの予約状況は検出されない。たぶん、なんかの情報が間違って登録されているのだと思う。するとそのSNCFスタッフは、私が示した予約完了メールに記載されてある問い合わせメールアドレスに問い合わせろと言うのだ。それは先週土曜にやっているが、返事がないと既に伝えているのに。このSNCFスタッフは、それなら問い合わせ電話番号に電話して聞け、と言う。

それじゃあ、いったいなんのために私が駅の案内所まで出向いているのかわからんじゃないか! だいたい目の前にいるSNCFの顧客対応係と話しているのに、自分じゃどうしようもないから、SNCFからの予約票に記されている問い合わせ番号に電話しろとは。

「すでに状況はややこしいことになってるし、私の拙いフランス語で電話でやり取りは無理だ、そっちが電話かけて確認してくれないか?」と言うと、「うーん、ここは個人の旅行の案内はできるけど、団体チケットの対応は別だから」と言う。なんなんだよ、この使えなさは!?

ここで放り出されては、チケット問題は解決するような気がしないので、「頼むからなんとかしてくれ、12人の子供を日本から連れて来てるんだ」と言うと、別のスタッフを呼んでくれた。

その別のスタッフも、予約完了メールにある問い合わせ電話番号に電話をかけて聞いてくれと言う。「いや、お願いだからあなたが電話してくれないか?」と頼むと、しぶしぶという感じで彼が持っていた携帯電話から問い合わせ番号に電話してくれた。

しかし彼がかけた問い合わせ番号からは「このまましばらくお待ち下さい」という自動応答と音楽が10分以上にわたって流れるだけ。彼も自分の勤務先であるSNCFのカスタマーサービスのひどさがわかったはずだ。「自分で電話しろ」と言われた時点であっさり引き下がらなくて正解だった。

結局、そのスタッフは一回事務所に戻り、別の連絡番号を聞いて、そこに電話したらようやく担当者と繋がった。ハラハラしながらやり取りを聞いていたが、駅の案内所に到着してから1時間後にようやく、団体e-ticketが自分のメールアドレスに送られたのを確認できた。ちゃんと予約票などは持っているのに、まさかチケット引き取りに、こんなカフカ的状況を体験せねばならないとは、SNCF恐るべしである。まったく、フランスには鍛えられる。夜になってSNCFのカスタマサービスから、既に上記のやりとりで入手済みのe-ticketsと「SNCF 団体旅行は、お客様のご信頼に感謝します」という文言の入ったメールが届いた。さすがに反射的に「merde」と返事したくなった。

仮にe-ticketが発券されなかった場合はどうするかということも色々シミュレートしていた。神経がすり減った。

昼飯は学校そばのカフェテリアで学生たちと食べる。今日はモツのソーセージ、アンドゥイユがメニューにあったのでそれを選んだ。モツなのでクセが強く、日本ではあまり食べる機会がない。



午後はAzurlinga主催の遠足でモナコに行った。今回は20名ほどのイタリア人学生のグループと一緒である。人数が多いし、イタリア人は我々日本人より奔放なので、animatriceのユヴァはかなり大変だ。ニースからモナコまでは列車で20分ほど。モナコはバチカン市国に次いで世界で2番目に小さい主権国家だ。超お金持ちしか住んでいない場所である。領主として大公(プリンス)が国を統治し、高台に宮殿がある。カジノやF1の公道レースでも知られている。

モナコ行きの列車のなかで、ニースで美術館などを訪れる観光客がほぼ白人であり、黒人・アラブ人がいないのはなぜかと聞かれた。フランスでは、演劇も黒人の観客はジャンルを問わず、非常に少ない。パリなどの大都市では、黒人、アラブ人、東アジア人などの非白人があんなにたくさんいるのに、と思う。芸術の普遍性とはなにか、とか、この問いからいろいろ考えてしまう。

モナコは近隣のコートダジュールの都市たちと基本的に同じ地理文化圏にあるが、モナコに入るとすぐに、ここがフランスとは別の国であることを感じる。とにかく清潔で、道にゴミや犬の糞がほとんど落ちていないのである。監視カメラが多数設置され、警官も多く、町の治安は極めていい。居住している超お金持ちたちへのサービス業を担うのは近隣のフランスの都市からの労働者だ。海のすぐそばまで崖が迫り、その崖沿いに高層の建物がひしめき合うモナコの景観は独特の雰囲気がある。観光産業と金持ちの快適な生活のために形成されたテーマパーク的で人工的な町だ。

モナコはコート・ダジュール観光の定番中の定番なので、私はニースに来るたびにモナコに来ている。たぶん10回以上は。定番の観光コースは、まず高台の大公宮殿に行って写真を撮り、それから海洋博物学者でもあった20世紀初頭のモナコ大公、アルベール一世を記念して作られた水族館+海洋博物館の見学。そのあと港まで降りて、さらに上ってカジノやオペラ座、オテル・ド・フランス、高級ブティックなどの超ブルジョワのための歓楽施設が固まってあるモンテ・カルロ、というものだ。今回も雨のなか、このコースをめぐった。

十回ぐらい来ているのだが、正直なところ、私としてはモナコはその人工性ゆえに、一度来ればそれで十分、コートダジュールの都市のなかで最も魅力を感じない場所だ。現実のいびつなミニチュアともいえる演劇の《まがいもの》性を面白がっている私が、なぜモナコなどの「テーマパーク」的な場所の《まがいもの》性には関心を持てないのかについては、考えてみたほうがいいかもしれない。《まがいもの》性は観光性とも結びついている。私たちは本質的に、オリジナルではなく、その《まがいもの》を愛しがちであるということは、このところ考えているテーマの一つだ。

モナコ見物の最中、早稲田大学文学学術院の北村陽子先生の訃報を知った。65歳。フランス美術の専門家で、フランス語・フランス文学コースと深いつながりがあった先生だ。親しい付き合いがあったわけではないが、同じ場所で同じ分野で学んだ知人の死には心がうずく。

モナコにはニースから働きに来ている人も多い。帰りの列車はモナコからニースに帰る人たちとのラッシュにも重なったようだ。幸いバラバラにだが座ることはできた。


ユヴァが列車内を移動して、ちゃんとそろっているか確認作業をして私の座っている座席を通りかかるときに、私はみんなが下車するニース・ヴィル駅ではなく、その一つ手前のニース・リキエ駅で下車することを彼女に伝えた。私の滞在先はニース・リキエ駅から歩いて5分ほどのところにあるのだ。
すると私の隣に座っていた黒人の中年男性が全くの赤の他人なのだけど「うん、僕もニース・リキエ駅で降りるんだ。一緒に降りよう。あの駅ではたくさん人が降りるから大丈夫だ」と話しかけてきた。

フランスでは見知らぬ人に話しかけられることが、日本よりはるかに多い。面白いなあと思う。


2024年2月27日火曜日

2024/2/26 ニース第10日目

 今日の午後は学校主催の遠足などはない。天気があまりよくないという予報だったので、この日の午後は国立シャガール美術館に行くことに昨夜決めた。シャガール美術館はニースに数ある美術館のなかでも最もメジャーな美術館で、シャガール晩年の傑作がそろっている。しかしこの美術館の訪問はなぜか学校の遠足プログラムには組み込まれない。おそらく他のニースの美術館と違い「国立」ということで、費用の点で何らかの負担が学校に生じるからではないかと私は思っている。ニースの他の主たる美術館でAzurlinguaが遠足に組み込んでいるのは、「国立」ではなく、ニースや他の都市の「市立」のものが多い。「国立」施設と「市立」施設では、入場者の割引きなどの条件が異なるのだ。しかしせっかくニースに二週間滞在しているのに、シャガール美術館に行かないのはもったいなという気がして、私個人の企画として毎回、シャガール美術館には学生たちをこれまで連れて行っていた。

 シャガール美術館のウェブページを確認すると、団体訪問の場合はメールか電話で事前予約が必須とあった。作品解説のガイドなしの訪問でも予約が必要とある。それで昨夜、シャガール美術館にメールで予約を問い合わせていたのだけど、当日の午前10時を過ぎても返事はなかった。Azurlinguaに行ってanimatriceのユヴァにシャガール美術館に電話して貰ったのだが、今日の午後は満員で団体予約は不可能だと言う。われわれがシャガール美術館に行ける日は、今日以外だと水曜か金曜の午後だが、そのいずれも満員で団体予約は不可能との返事だった。ガイド付きならともかく、作品解説ガイドなしで見て回るのに団体予約はすでに満員というのがよくわからない。「団体」扱いで入場が不可能というなら、「個人」でそれぞれ入場料を払って入場するとユヴァに言うと、「美術館が満員と言っているのだから、《個人》で行行っても追い払われるだけだ」と言う。

 美術館のウェブページでは団体は予約必須とあるが、個人の入場については予約が必要などとは書いていない。ユヴァの言っていることはわけがわからない。

「なんでそんな奇妙なことになるんだ?美術館のページには、個人で行くのに予約は必要なんて書いていない。それぞれが入館料を払えばいいだけのはなしじゃないか?」と言うと、

「あなたがたが今日は3人、水曜は別の4人みたいな感じで分散して行くのならともかく、13人そろって美術館に行って《個人》でと言っても通じない。追い払われる。私は仕事があって忙しいから、これでいい?」とかやはり理不尽なことをユヴァが言い、しかも「仕事の邪魔」みたいな言い方をされたので、頭に血が上った。フランスに限らないが、こういう理不尽なルールや思い込みに振り回されるのは、私はがまんならない。

結局、「個人」でそれぞれが行くということで今日の午後行くのが最良だと判断した。それで入場時に「お前たちは、《団体》だから予約がないと入れない」などと言われ入場拒否されるようなことがあれば、「何の根拠で我々の入場を拒否するのか説明してくれ。美術館のページにはそんな記述は一切ない」と戦ってやろうと思った。

今の時期、シャガール美術館は昼休みがあり、午後の開館時間は14時から17時までである。カフェテリアで夕食を食べた後、シャガール美術館に向かった。シャガール美術館はAzurlinguaから歩いて30分ほどのところにある。美術館に到着したのは14時15分ぐらいだったと思うが、入場待ちで長蛇の列ができていたのは、予想外だった。これまで何度もシャガール美術館に行ったが、入場待ちでこんな行列になっていたのは記憶がない。マチス美術館が休館中なのが影響しているのではないかと学生の一人が言っていたが、まさかシャガール美術館がこんな大人気スポットになっているとは。入館者の数の上限があるようで、私たちは入場まで90分ぐらい並ぶはめになった。入場したのが16時ちょっと前。閉館時間が17時なので、1時間ちょっとしかいられない。それでもこの行列を思うと、入場できただけでもラッキーだった。おそらく14時半以降に美術館にやってきた観光客は90分以上並んだ挙げ句、入場できなかったのではないかと思う。

入場はしたものの、シャガール美術館はニースに来るたびに私は来ているし、入ってしまうとあえて見てみたい作品はないなという気分になってしまった。今回の展示は聖書題材の作品が多かった。中世のハープについての研究論文を書いているので、ハープ(ないし竪琴)を属性とするダヴィデ王を主題とする絵画数点だけはちょっと時間をかけて見た。

本当はシャガール美術館のあと、ニース高台のシミエまで上り、シミエ修道院に学生たちを連れて行くつもりだったが、美術館を出るのが17時前になってしまうので、このまま流れ解散とした。しかし17時前に美術館を出ると、すぐにバスに乗ればシミエ修道院をさっと見物する時間がありそうだった。美術館を一緒に出た女子学生数名に声をかけて、シミエ修道院まで行くことにした。

シミエはニース市街を見下ろす高台の地域で、ニースの中心からは離れているけれど、景色がいい高級住宅地だ。この地には古代ローマ時代から町が築かれていて、古代ローマの遺跡が残っている。半径50メートルほどの小型の円形競技場と広大な公衆浴場の遺跡がある。残念ながら今はこの二つの古代ローマ遺跡は修復工事中でなかに入ることができなかった。公衆浴場遺跡に隣接するマティス美術館も休館中で、この美術館に主要な収蔵品は現在、東京のマティス展で展示されている。

古代ローマには『テルマエ・ロマエ』にあるように入浴を楽しむ文化があり、ローマの公衆浴場の遺跡はヨーロッパ各地に残っているが、西ローマ帝国が滅亡し、ヨーロッパがキリスト教世界になると、このローマの入浴文化は継承されなかった。フランス人には今も、日本人のような入浴を楽しむ文化は乏しい。そのせいかわからないが、野球場が数個分ぐらいありそうな広大な規模のニースの古代浴場跡遺跡を訪れる観光客は多くない。私はニースに来るたびに、シミエに来て、この古代浴場跡遺跡を学生たちに案内するのだけど。

休館中のマティス美術館の前で写真を撮り(たしかマティス美術館の建物は旧マティス邸はずだ)、そのあと、シミエ修道院に行った。この地での修道院の存在は11世紀まで遡ることができるようだ。現在はフランチェスコ会がこの修道院を管理している。修道院に隣接する薄いオレンジ色の漆喰の教会の建造は19世紀初頭と比較的新しい。19世紀ロマン派の中世趣味を反映したネオ・ゴシック様式の建築で、内装はイタリア的なバロック様式の装飾が施されている。12、13世紀のロマネスク、ゴシックの教会・修道院が数多く残るフランスでは、この教会はごく新しいものではあるが、ニースの高台に静かにたたずむその外観には味わいがある。教会内に入ったが、私たちしかいなかった。修道院には庭園も併設されている。薬草や果実が栽培されている修道院庭園は、王侯貴族の城館や大ブルジョワの邸宅の庭園とは違った趣がある。華やかさはないけれど、しっとりとした落ち着きがある。シミエ修道院の庭園から見下ろすニースの景観は素晴らしい。結局30分ほどしかシミエにはいなかったが、足を運んでよかったと思った。


2024年2月26日月曜日

2024/2/25 ニース第9日目

  日曜日で学校主催の行事はない。

 夕方から天気が崩れるという予報だったので、野外の町歩きは避けたほうがいいと思った。

 ニースから鉄道で15分ほど東側にあるボーリュ=シュール=メールにあるヴィラ・ケリロスとそこから歩いて30分ほどのサン=ジャン=フェラ岬の高台にあるユフリュシ・ド・ロットシルド邸を見に行くことにした。本当はニース到着の翌日、先週の日曜日にここを訪れる予定だったのだが、私の体調不良のため、行けなかった場所だ。

 20世紀初頭に建築されたこの二つの別荘建築は、ニース近郊の観光ポイントのなかでも出色のものではないかと私は思っている。通常は学校主催の遠足プランにヴィラ・ケリロスが組み込まれているのだが、今回の研修ではなぜか組み込まれていなかった。

 ヴィラ・ケリロスは、ボーリュ=シュール=メールの鉄道駅から歩いて10分ほどの海岸沿いにある。1902年から1908年にかけて、建築家エマニュエル・ポントレモリによって、考古学者でヘレニズム時代の専門家であったテオドール・レナク(1860-1928)のために建てられたこのヴィラは、紀元前1~2世紀の古代ギリシャのヴィラを模して建築・内装されている。

 もう10年近く前になるが、Azurlinguaの遠足で最初にこのヴィラに行ったときには、「古代建築」を20世紀になって複製した《まがいもの》なんてわざわざ見に行ってどうするんだ、と思っていたのだが、実際に訪れてみて息をのんだ。その複製の精度、完成度、洗練ぶりが尋常ではないのだ。古代ギリシア・マニアであるレナクが、優れた建築家のポントレモリと緻密な協同作業を行い、膨大な富を投入して再現された《古代ギリシアの夢》ともいえる建造物である。床から壁面、天井に至るまで埋め尽くされた装飾は、専門家の時代考証を踏まえたものになっているはずだが、古代遺跡の断片資料や文献から、それを「あるべきすがた」に実体化している。装飾で埋め尽くされているのに、ヨーロッパの近代以降の建築様式にありがちな過剰さとは無縁だ。むしろ簡素にさえ感じる。そのユーモラスで装飾的な図案のセンスのよさは驚異的なものだ。この別荘は、別荘である以上に、レナクの情熱と莫大な金銭が注ぎ込まれた一つの芸術作品になっているのである。レナクの死後、この建築はフランス学士院に寄贈された。

 私としてはニース観光のなかでもとっておきの場所の一つであり、学生たちに「どやっ」と見せたかった場所の一つでもあった。ニースに来るたびにここは訪れているが、来るたびに当時のブルジョワの本気に圧倒される。いったいどんな指示を職人たちに与えて、この完成度に到達したのだろうか。学校の遠足では30分ほどしか滞在時間を設定しないのだが、今回はたっぷり1時間以上、ヴィラ・ケリロスの滞在時間を取った。昼頃までは天気がよくて、別荘から見る海が美しかった。

 十人を超える集団になると、悩ましいのが食事である。まともなレストランだとこのような大人数の予約はあまり歓迎されない雰囲気がある。4人のテーブルを3つ確保すればいいだけじゃないかと思うのだけど、グループならグループを同じタイミングでサービスしなくてはならない、みたいなことがしばりになっているのか。またフランスでまともな飯を食べようとなると、二時間ぐらいは見ておいたほうがいい。他にもフランスのレストランではフランス特有の食事に対する考え方や習慣があって、日本人旅行者にはハードルが案外高いように思う。日本は日本で飯のジャンルや地域によっていろいろあるので、これはフランスに限らないかもしれないが。

 昨夜のうちに何軒かの手頃な値段のレストランには目星をつけていた。駅からまず見晴らしのいい海沿いの公園に行き、そこからヴィラ・ケリロスに向かう道筋に目星をつけていたレストランの一つがあった。モロッコ料理のレストランである。開店準備中だったが、店に行って13時から13人で食事可能か聞いてみた。最初は他に予約があるから13人は難しいという返事だったが、最終的には店の奥の席を確保してくれることになった。ありがたい。ヴィラ・ケリロスの見学のあと、このレストランに向かった。

 いいレストランだった。前菜とメインで24ユーロと値段も手頃だ。私はクスクスを注文。そのボリュームと味はまさに私がいつも求めている「本場」フランスのクスクスだった。学生たちの多くは鶏肉のタジンを注文していた。メインが骨付き鶏肉なのだが、一緒に蒸し上げる野菜や果実が異なる。タジンにもクスクスがついていた。

 飯のあとは、海岸沿いの道を30分ほど歩いて、ユフリュシ・ド・ロットシルド邸へ。ここはヴィラ・ケリロスとほぼ同じ時期に、 サン=ジャン・カップ・フェラ半島の高台に、ベアトリス・エフルッシ・ロットシルド男爵夫人(1864~1934)によって建てられた別荘だ。ベアトリスは、16世紀以来ヨーロッパの金融界を中心に活動し、莫大な資産を築いたユダヤ系財閥、ロスチャイルド家の末裔である。Rothschildのフランス語読みが「ロットシルド」となる。ベアトリスは18世紀前半の優雅で軽やかな宮廷文化、ロココ美術のマニアだった。1905年にサン=ジャン・カップ・フェラ半島を知った彼女は、この地に彼女の趣味と夢想を凝縮させたユートピアを建設する。それがこの別荘と庭園だ。






 ヴィラ・ケリロスにせよ、ユフリュシ・ド・ロットシルド邸にせよ、ベル・エポックと呼ばれたブルジョワ文化が爛熟した時期のフランスの大ブルジョワが本気で趣味に投資したときのすさまじさを感じさせる代物だ。気候が温暖で、風光明媚なコート・ダジュールの地には、19世紀末から第二次世界大戦前まで、世界の大富豪が集まり、贅をこらした別荘を建築した。ケリロスやロットシルドのように公共のものとなり一般公開されている別荘はごく一部で、一般には公開されていない別荘建築がいくつもあるはずだ。これらの大ブルジョワ、貴族たちによる華やかな社交界がこの地で展開されていた。ケリロスとロットシルドの別荘は、そうした大ブルジョワたちが、その黄金時代の最後に、実体化した享楽のユートピアなのである。その壮麗さと趣味のよさには、驚嘆するしかない。
 ユフリュシ・ド・ロットシルド邸に到着した頃から、天気が崩れて、雨模様となった。ロットシルド邸からは15番のバスでニースに戻った。18時頃に解散。
 家に戻ると大家のAnnickがしんどそうだった。吐き気がするという。これは私を昨日苦しめていたウィルス性胃腸炎が彼女にうつってしまった可能性が極めて高い。申し訳ないことをしてしまった。「夕飯は私は適当になんとかするから、今夜は作らなくていいよ」と伝えたら、もう準備済みだという。レンズ豆とソーセージの煮込みだった。フランスの家庭料理の定番だ。
昼間のクスクスも大ボリュームだったが、レンズ豆も大ボリュームだった。
昨日は日本から持ってきたおかゆのレトルト二袋しか食べていないが、今日は過食。