2025/02/18(火) 第4日
七時間ほど眠った。学生の一人から、「寒気がして喉が痛いので、今日は学校を休む」との連絡が入る。寒気と喉の痛みがあるなら発熱もあるだろうと思ったが、平熱だという。とりあえず葛根湯と大家からもらったのどシロップでしのぐと言う。昼頃、LINEが入ったときには「だいぶ楽になった」とのこと。一応、彼女と同室の学生には、イブプロフェン配合の総合感冒薬を学校で渡した。体調が悪い学生には、「もし夜になっても喉が痛くてつらいようなら飲むように」と伝えた。
昨日はレベル判定のためのテストだけだったので、今日から本格的に授業が始まる。しかし私は午前中は家にいることにした。月末締切の論文が2本あるのに、まだ手をつけていないのだ。昨年の夏、科研費の申請書を執筆してヘロヘロになったとき、「自分はマルチタスクが基本的にできない人間なのだ」と五七歳にしてようやく自覚した(それまではマルチタスクが可能だと思っていた)。だが、マルチタスクを今回は避けられない。せめて午前中は集中して論文に取り組まなければ、完成しそうにない。3月末には事典項目の執筆が2本あるため、これ以上先送りにはできない。ヘロヘロになって書き上げた科研費の採択結果は、今月末に発表される。
ちょうど授業が終わる頃、学校へ向かった。学生たちは、それぞれフランス語での授業を楽しんだ様子だった。昨夜引っ越しをした学生は、「同じ家に同年代のイタリア人女性が5人いて、食事のときにはフランス語・英語・イタリア語のチャンポンで会話が弾んだ」と言う。こちらの学生の一人が、イタリア語を一年半ほど学んでいたことも思いがけず役に立ったらしい。ニースにいる日本人がイタリア語を話すとは思っていなかっただろうから、向こうもかなり喜んだのではないか。
昼はAzurlinguaの校長・Jean-Lucと食事に行く予定だった。昨日の昼、学校で会ったときにそう言われたのだ。しかし、Jean-Lucの片腕であるエリックも交えて三人で行こうということになり、食事は金曜に延期された。エリックとは、2014年に初めてこの学校に学生を連れてきたときからの付き合いだ。校長のJean-Luc以外で、当時から変わらずAzurlinguaにいるのは、エリックと教育部門責任者のアントニオだけである。エリックは学校の管理部門を統括しており、私とほぼ同年代。最初の数年間は友達のように親しく付き合い、Facebookでもつながっているが、長く付き合ううちに、彼がなかなか一筋縄ではいかない人物だとわかってきた。エリックを交えた三人での食事となると、単なる楽しい会食では済まない予感がする。「何かあるだろうな」と。
昼は学生たちがそれぞれ食べに出たため、一人飯になってしまった。今日はかなり寒かったので、ケバブを買って学校の中庭で食べるのは避けたい。ニースの山側から海側までまっすぐ伸びるガンベッタ通りの線路を越えた北側には、安いレストランが並んでいる。この通りには、何度か行ったクスクス・レストランもあるが、3月にモロッコへ行けば一週間クスクスとタジン漬けになりそうなので、入るのをやめた。そのクスクス・レストランから50メートルほど行ったところに、カフェというかビストロというか、フランス版の大衆食堂のような店があった。中を覗くと、一人で寂しそうに食べている老人男性客が2組ほどいる。フランスでは、一人飯はファストフード以外ではなかなかハードルが高いが、ここなら問題なさそうだったので入店。
レストランというよりは「飯屋」といった感じの店で、今日の昼定食は、鶏肉(ささみのような脂の少ないパサパサの部位)の薄切りカツに、トマトソースのパスタを添えたものだった。15ユーロほど。味付けは薄く、全然おいしくはなかったが、店の雰囲気はよかった。近所の常連が利用する店で、カウンターには初老の愛想のいいマスター、フロアには若い黒人女性が一人。彼女も感じがよく、リラックスして働いているのが見ていてわかる。狭い店内で、私の隣の二人席には、近所に住んでいると思われる老夫妻がいて、私と同じ昼定食を食べていた。椅子一つ分をコート置き場として共有したこともあり、何気なく言葉を交わす。気さくでオープンな雰囲気がいかにも南仏ニースの下町らしく、料理はおいしくなかったが、居心地のいい店だった。
午後は、ニースから列車で10分ほどの小さな港町、ヴィルフランシュ=シュール=メールへ学生を連れて行った。細長い旧市街が海沿いに広がり、トンネル状の路地が特徴的な町だ。16世紀に建造された要塞から町を見下ろすことができる。観光地としてはそれほど知られていないが、その独特の景観美ゆえに私はこの町が好きだ。第二次世界大戦前期には、多くのユダヤ人芸術家がドイツの迫害を逃れ、この地にやってきた。ヴィシー政権は親ナチスではあったが、ドイツほどユダヤ人を迫害しなかった。しかし1942年以降はドイツが支配するようになり、多くのユダヤ人芸術家が収容所送りとなった。そのうちの一人が、女性画家のシャルロッテ・サロモンである。彼女の回顧展を7、8年前にニースのマセナ美術館で見て、大きな感銘を受けた。
ヴィルフランシュ=シュール=メールでは、町を2時間ほどかけて散策。駅から5分ほどの旧市街を歩き、海沿いの道を回って要塞に登り、また旧市街へ戻る。要塞近くの小さな広場では、老人たち(男性ばかり)がペタンクをしていた。フランスのローカルスポーツで、教科書にはよく載っているが、学生たちは知らなかった。見学していると、彼らもこちらに興味を持ち、話しかけてくる。こうした人懐っこさは南仏らしい。プレイヤーの一人は97歳だとのこと。老人たちのプレイに、学生たちが拍手すると、大喜びしていた。
16時前にニースへ戻る。
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